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「あっつ……」

 もう宵だと言うのに、体に纏わりつく湿り気を帯びた不快な空気は昼間となんら変わらない。ネクタイを無意識に緩めるとボソリと呟いた。

(変わんねえな……)

 ビジネス街の外れの細い路地。そこには昔から画廊が並んでいた。その中の一つの前で立つと懐かしくなった。
 外側に飾られている写真こそ変わっているが、店構えはもう二十年以上変わっていない。そのガラス戸を引くと俺は中に入った。

「やあ。いらっしゃい、司君」

 定位置と言っていい奥のカウンターにいたオーナーは持っていた額を置くと笑みを浮かべた。もう年齢は七十を超えるだろう。出会ったばかりの頃は白髪がチラホラあっただけの頭髪も今では真っ白だ。その顔には年齢を重ねたシワが刻まれていた。

「悪いな、急に」
「おや。司君からそんな殊勝な言葉が聞けるとは」
「……うるせえ」
 
 決まりが悪くなり顔を顰めると、中央に置かれた応接ソファに断りなく座った。

「コーヒーを淹れてこよう。少し待っていてくれ」

 オーナーは穏やかに言うと奥に消えていった。

 室内をグルリと取り囲むのは大小様々な写真。画廊ではあるが、オーナーの趣味で取り扱うのは写真ばかりだ。普段は閉じている壁の向こう側にはホールがあり、定期的に展示会が行われている。オーナーのお眼鏡にかなったものがその後花開くことは珍しくなく、業界内ではここで個展を開くのが一種のステータスのように言われていた。
 そんなこの画廊で、俺が個展を開いたのは大学卒業後すぐだった。

「待たせたね」

 オーナーはアンティークのコーヒーカップに注がれたコーヒーを二つ、テーブルに置く。年中ホットなのも変わっていないようだ。

「どうだったかい? ニューヨークは。活躍は耳にしていたよ」
「まぁ……。それなりに」
「そうか。実りはあったようだね」

 ニコニコと笑うとオーナーはカップに口を付けた。
 こうしていると、ニューヨークへ行く前のことを思い出す。順調に見えた仕事で壁にぶつかり、ここで柄にもなく弱音を吐いたことを。

『もっと広い世界を見てくればいい。君はまだ若い。捨てるものなどまだないだろう?』

 そう言ってこの人に背中を押されなければ、今の俺はいなかっただろう。

 俺をこの画廊に最初に連れて来たのは七つ上の姉だ。

『写真撮るの好きでしょ? 人の撮るものを見るのもいい刺激になるわよ』

 そう言われたのは小学六年生の頃だった。この頃の俺が暇つぶしに写真を撮っていたのを知っているのはこの姉だけ。家の物置にひっそりとあったカメラになんとなく興味が出て、見よう見真似で撮ってみたのが始まりだ。
 最初は目についたものを手当たり次第に撮った。デジタルカメラなんて存在しなかったから、現像するまで出来上がりなんてわからない。初めて撮ったものがなんだったかなんて覚えちゃいないが、現像されたものを眺めて笑ったことは覚えている。ピンボケにブレブレ。訳わかんねぇと思いながらも、時々奇跡のような一枚が混ざるのが面白いと思った。
 すでに、生きることに面白味なんて感じていなかったこの俺が。

 俺が生まれたのは、都内に昔からある、地元では名士と呼ばれるような家だった。代々不動産業を営み、それを長男が継ぐのは必然。周りからの期待と重圧を長男の俺は幼い頃から感じていた。
 俺の人生に選択肢など存在しない。ただ、敷かれたレールの上を走るだけの人生。なんの興味も湧かないゴールに向かって。

 けれど、俺は出会ってしまった。この画廊で。

『おや。君はこの写真が気に入ったのかい? とても見る目があるようだね』

 複数のカメラマンが撮ったポートレイト、いわゆる人物写真ばかりを集めた展示会だった。
 俺はその中の一つに魅入られ、時間を忘れて眺めていた。なんの変哲もない、一人の女の日常を切り取った写真。けれど、その表情と構図の美しさから目が離せないでいた。

『俺も……こんな写真が撮ってみたい! どうやったら撮れる?』

 姉からはのちまで揶揄われるほど、俺は目を輝かせていたらしい。
 オーナーは子どもの戯言と流すことなく、それからちょくちょく画廊に通うようになった俺に撮影の基本を教えてくれた。

 それから数年後、俺はここに一枚の写真を持ち込んだ。

『やっとこれってやつ撮れた。見て!』

 その写真は、今でもこの場所に飾られたままだ。
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