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四章 運命の一夜 (side大智)

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 夕方に始まった手術は夜には終わり、叔母と二人会話もなく待っていた自分たちに意識も回復したことが告げられた。
 だが、まだ祖母は集中治療室で、会話するには時間がかかると明日出直すことになった。
 叔母には少しでも食事をとるように言われたが、そんな気持ちになれずシャワーだけ浴びると倒れるように自室のベッドに転がる。何日も睡眠を取っていなかったように、体は重くベッドに沈みこんだ。
 長い一日だった。由依と過ごした幸福な時間は、遠い昔の出来事のように思えた。

(声が、聞きたい……)

 瞼を閉じると由依の顔が浮かんでくる。少しでも声を聞けば、この暗い気持ちは癒されるかも知れない。けれどもう気軽に電話ができるような時間でもない。それに電話をしたところで、明るく会話などできそうにない。
 ゆるゆると腕を伸ばしスマホを持つ。ショートメッセージを開け、しばらく何と送ろうかと考えるが、当たり障りのない文面しか浮かばなかった。

"今日は付き合ってくれてありがとう。また会いたい。必ず連絡するから"

 今日登録したばかりの、"由依"を宛先にそのメッセージを送信する。
 途端に気が緩んだのか、意識は闇の中に引き摺られて行く。それに抗えるはずもなく、そのまま深い眠りについていた。

 翌日、目が覚めるとまだ早朝だった。皮肉なもので、久しぶりに夢さえ見ず眠っていた気がする。起き上がりスマホを確認するが、メッセージの一つも届いていなかった。

(さすがに……返事はすぐ来ないか……)

 それも仕方ないと溜め息を吐く。こんな時間ならまだメッセージ自体見ていないかも知れない。そう自分に言い聞かせた。

 午後には叔父から連絡が入り、叔母と二人で病院に向かう。祖母は午前中のうちに集中治療室から、一般病棟に移ったらしい。とはいえ、特別室と呼ばれる個室で、祖父も亡くなる前はその部屋に入っていた。

「悌志さん! お義母さまの容態は?」
「あ、あぁ。安定しているし、受け答えもできている。今は問題ない」

 元々夜勤だったのか、そうでなかったのかはわからないが、叔父はほとんど休んでいないのだろう。目の下に色濃く出ているクマがそれを物語っている。疲れた表情で答えている。

「ただ……。いや、なんでもない。顔だけでも見とくか?」

 叔父は、父には全く似ていない精悍な顔を歪めて言い淀んでから尋ねた。それに黙って頷くと、叔父に続いて部屋に入る。見覚えのある病室内のベッドには祖母が横たわっていた。
 自分たちの気配に気づいたのか、祖母はこちらにゆっくり顔を向けた。

「……礼、志……」

 薄らと目を開け自分を見ると、祖母は皺の増えた青白い手をヨロヨロと差し出した。

「礼、志……。貴方……だけよ。貴方は、私を、裏切ったりしない、わよね……」

 苦しそうに、途切れ途切れにそう言って祖母は手を伸ばす。
 それをただ、愕然としながら眺めていた。

 差し出された手をひしと握ったのは叔母だ。

「お義母さま。大智さんですよ、わかりますか?」

 祖母はその呼びかけに視線だけ動かすとまだ虚ろな表情で、「ああ……」と掠れた声を出した。

「……由紀子、さん……。家のことは……頼みますよ……」

 叔母の問いに答えることなく、祖母の返したその内容に耳を疑う。祖母ははっきりと叔母の名を呼んだ。では何故、自分のことはわからないのだ。

「母さん、家のことも峰永会のことも大丈夫だ。心配せずゆっくり休んでくれ」

 叔母の横から顔を出し叔父がそう言うと、祖母は天井に顔を動かした。

「そう……だね……」

 ちゃんと意思の疎通はできている。その様子を、言葉を発することもできず呆然と眺めていた。

 促され部屋を出ると、苦々しい表情の叔父と目が合った。

「悪い、大智。母さんは目が覚めてからずっと兄さんを呼べと言っていたんだ。混乱しているだけで一時的なものだとは思うんだが……」
「いえ……。悌志さんが謝ることでは……。咲子さんの心の拠り所はお父さんだけだったのでしょう。しかたありません」

 自分が幼い頃から、祖母はずっと父に執着していたのは知っていた。だが、これほどだとは想像もしていなかった。
 そしてこの執着は、相当根深いものだったと、その後知ることとなった。

 正直なところ、祖母の演技なのではと疑った。だが叔父はそれを否定し、一時的な認知能力の低下だと判断した。
 その日、再び目を覚ました祖母は、『礼志を呼べ』と騒ぎ立てた。叔父以外の医師や、看護師たちが落ち着くよう説得しても聞かなかったらしい。まだ病院に残っていた叔父から電話があったのは、叔母と入院に必要な買い物をし家に帰りついたばかりのときだった。

『大智は兄さんに似ているからな……。お前にばかり負担を掛けて悪いな……』

 疲れ切った声で謝られて、会いたくないなど言えるはずはない。会ったところで、自分はどう振る舞えばいいのかわからないでいたから。
 悶々としたまま病院にとんぼ返りで向かう。病室に入ると、祖母はベッドの背を上げてそこに凭れていた。

「礼志。やっと会えた。どこに行ってたの?」

 血色はかなり良くなり、口調もはっきりしている。けれどやはりまだ、自分を父だと認識しているようだ。
 曖昧な笑みを浮かべ「すみません」とだけ答えると、祖母は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「手術は礼志がしてくれたのでしょう? おかげで私はこうして生き永らえられたわ。ありがとう、礼志」

 見たこともない柔らかな表情で礼を述べる祖母に、『僕は礼志じゃない』なんて残酷な宣告などできなかった。
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