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四章 運命の一夜 (side大智)
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――弁護士になり一年半が経とうとしていた。
就職したのは大手と言われる弁護士法人だ。大学の教授を介し知り合ったOBが縁を繋いでくれ、その人の下につき、主に企業の法務を担当している。
日々勉強で、覚えることは山とある。けれど仕事に打ち込んでいるほうが気が楽だった。
阿佐永の家からはいまだに出ることはできず縛られていた。祖母に強く出ることもできず、仕事にかこつけて帰宅時間を遅くしていた。実際のところ、職場から家まで車で一時間ほど掛かる。帰るにしても寝に帰るようなものだった。
その日も家に帰り着いたのは午前零時を回っていた。玄関先にだけ明かりのつく家に静かに入り、自分の部屋に向かおうとしたときだった。
「お帰りなさい、大智さん」
廊下の奥から出てきたのは祖母だった。車が止まる気配を感じたのか、部屋から出てきたようだ。寝巻の上にガウンを羽織っていて、もう休もうとしていたらしい。
「ただいま帰りました」
淡々とした口調で返すと、祖母は自分の元へ歩みを寄せた。
「毎日遅いわね。そんなに忙しいのかしら」
チクチクとした棘が言葉の端々に刺さっている。それはいつものことで、受け流す術も身につけていた。
「えぇ。ありがたいことに、仕事はたくさんいただけています。まだまだ精進しなければなりませんので」
「そう」
興味がなさそうに素っ気なく言うと、祖母は話題を変えた。
「ところで大智さん。今週の土曜、一緒に昼食でもと思っているの。予定しておいてちょうだい」
有無を言わさぬ物言いもいつものこと。よほどでない限り、自分が断ることがないだろうと高を括っているのだ。
「前日の金曜日は所用がありますので、帰宅は土曜になります。昼食には間に合うようにいたしますので」
その答えに満足したのか、祖母は微笑みを浮かべた。
「楽しみにしているわね。じゃあ私はこれで。おやすみなさい、大智さん」
自分の用だけ済ますと祖母は踵を返す。その背中に「おやすみなさい」と声を掛け、部屋に戻るその姿を目で追った。
ドアが小さくパタンと音と立て閉まると同時に息を吐いた。
(また……誰かに会わせようとしているのか)
祖母の魂胆など見え見えだ。そこまでしてどうして自分を結婚させようとするのか、いまだに真意は掴めない。無意識にまた深い息が漏れた。
(金曜日、少しは気も晴れるか……)
一番自由でいられた、高校時代の友人たちに久しぶりに会うのを、心待ちにしている自分がいた。
そしてその日、信じられないことが起こった。
仕事が押し一時間ほど遅れて行った店で、待っていたのは高校時代の友人たち……だけのはずだった。
店のスタッフに案内され、部屋を仕切っていた引き戸を入ると真っ先に目に飛び込んできたのは、彼女の顔だった。
他人の空似かと思った。けれどなぜか"間違いない、彼女だ"と心のどこかで声がした。
「――瀬奈由依です」
電車の中で聞いたあの声で、自分が知っている名前を告げる。あの時盗み見していた彼女より大人びているが、何も変わっていない。自分が恋焦がれていた彼女が目の前にいた。
そこからは柄にもなく緊張していた。みっともない姿を晒したくなくて、平静を装っていたが、本当は司法試験に臨むときよりも鼓動は早く感じた。
少し話しただけで、彼女が自分の想像していた通りの人柄だとわかった。電車の中で席を譲る姿、たくさんの荷物と子どもを抱え困っている女性に、自分が降りる駅でもないのに一緒に降りていく姿。一年近く見ていた、彼女の優しい性格そのままに大人になったのだと思った。
けれど時折覗かせる暗い表情。それが気になっていた。天真爛漫という言葉が似合っていた彼女に、何があったのだろうかと。
運良く彼女と二人きりになった。
昔のように話しかけられないままで終わり、後悔などしたくなかった。けれど付き合いたい、なんて自分が言う資格はない。自分が家に縛られている限り、誰も幸せになどできない。そう思っていたから。それでも、友人としてでも彼女と繋がっていたい。そんなことを願いながら歩いた。
少しでも長い間一緒にいたくて、理由を付けて引き留めて彼女の話しを聞いた。そして、彼女に暗い影が落ちている理由を知った。
「私……。血の繋がった家族が……子どもが欲しいんです」
星すら見えない真っ暗な空に、願うように呟く彼女の声は吸い込まれていった。
ドクリと心臓が大きく音を立てる。また会えたのに、もう彼女にはそんな相手がいたのかと、苦いものが迫り上がってくるようだった。けれどそうではなかった。安堵しながらも、彼女を誰にも渡したくないと醜い欲望が芽生えた。
自分は彼女を真っ当に幸せにすることなどできない。頭ではわかっている。結婚までは考えていないと彼女は言うが、それは今だけでいずれそれを望む日がくるかも知れない。
けれど自分には、あの祖母がいる。彼女を近づけたくなどなかった。
それでも……彼女を諦めたくなどなかった。
就職したのは大手と言われる弁護士法人だ。大学の教授を介し知り合ったOBが縁を繋いでくれ、その人の下につき、主に企業の法務を担当している。
日々勉強で、覚えることは山とある。けれど仕事に打ち込んでいるほうが気が楽だった。
阿佐永の家からはいまだに出ることはできず縛られていた。祖母に強く出ることもできず、仕事にかこつけて帰宅時間を遅くしていた。実際のところ、職場から家まで車で一時間ほど掛かる。帰るにしても寝に帰るようなものだった。
その日も家に帰り着いたのは午前零時を回っていた。玄関先にだけ明かりのつく家に静かに入り、自分の部屋に向かおうとしたときだった。
「お帰りなさい、大智さん」
廊下の奥から出てきたのは祖母だった。車が止まる気配を感じたのか、部屋から出てきたようだ。寝巻の上にガウンを羽織っていて、もう休もうとしていたらしい。
「ただいま帰りました」
淡々とした口調で返すと、祖母は自分の元へ歩みを寄せた。
「毎日遅いわね。そんなに忙しいのかしら」
チクチクとした棘が言葉の端々に刺さっている。それはいつものことで、受け流す術も身につけていた。
「えぇ。ありがたいことに、仕事はたくさんいただけています。まだまだ精進しなければなりませんので」
「そう」
興味がなさそうに素っ気なく言うと、祖母は話題を変えた。
「ところで大智さん。今週の土曜、一緒に昼食でもと思っているの。予定しておいてちょうだい」
有無を言わさぬ物言いもいつものこと。よほどでない限り、自分が断ることがないだろうと高を括っているのだ。
「前日の金曜日は所用がありますので、帰宅は土曜になります。昼食には間に合うようにいたしますので」
その答えに満足したのか、祖母は微笑みを浮かべた。
「楽しみにしているわね。じゃあ私はこれで。おやすみなさい、大智さん」
自分の用だけ済ますと祖母は踵を返す。その背中に「おやすみなさい」と声を掛け、部屋に戻るその姿を目で追った。
ドアが小さくパタンと音と立て閉まると同時に息を吐いた。
(また……誰かに会わせようとしているのか)
祖母の魂胆など見え見えだ。そこまでしてどうして自分を結婚させようとするのか、いまだに真意は掴めない。無意識にまた深い息が漏れた。
(金曜日、少しは気も晴れるか……)
一番自由でいられた、高校時代の友人たちに久しぶりに会うのを、心待ちにしている自分がいた。
そしてその日、信じられないことが起こった。
仕事が押し一時間ほど遅れて行った店で、待っていたのは高校時代の友人たち……だけのはずだった。
店のスタッフに案内され、部屋を仕切っていた引き戸を入ると真っ先に目に飛び込んできたのは、彼女の顔だった。
他人の空似かと思った。けれどなぜか"間違いない、彼女だ"と心のどこかで声がした。
「――瀬奈由依です」
電車の中で聞いたあの声で、自分が知っている名前を告げる。あの時盗み見していた彼女より大人びているが、何も変わっていない。自分が恋焦がれていた彼女が目の前にいた。
そこからは柄にもなく緊張していた。みっともない姿を晒したくなくて、平静を装っていたが、本当は司法試験に臨むときよりも鼓動は早く感じた。
少し話しただけで、彼女が自分の想像していた通りの人柄だとわかった。電車の中で席を譲る姿、たくさんの荷物と子どもを抱え困っている女性に、自分が降りる駅でもないのに一緒に降りていく姿。一年近く見ていた、彼女の優しい性格そのままに大人になったのだと思った。
けれど時折覗かせる暗い表情。それが気になっていた。天真爛漫という言葉が似合っていた彼女に、何があったのだろうかと。
運良く彼女と二人きりになった。
昔のように話しかけられないままで終わり、後悔などしたくなかった。けれど付き合いたい、なんて自分が言う資格はない。自分が家に縛られている限り、誰も幸せになどできない。そう思っていたから。それでも、友人としてでも彼女と繋がっていたい。そんなことを願いながら歩いた。
少しでも長い間一緒にいたくて、理由を付けて引き留めて彼女の話しを聞いた。そして、彼女に暗い影が落ちている理由を知った。
「私……。血の繋がった家族が……子どもが欲しいんです」
星すら見えない真っ暗な空に、願うように呟く彼女の声は吸い込まれていった。
ドクリと心臓が大きく音を立てる。また会えたのに、もう彼女にはそんな相手がいたのかと、苦いものが迫り上がってくるようだった。けれどそうではなかった。安堵しながらも、彼女を誰にも渡したくないと醜い欲望が芽生えた。
自分は彼女を真っ当に幸せにすることなどできない。頭ではわかっている。結婚までは考えていないと彼女は言うが、それは今だけでいずれそれを望む日がくるかも知れない。
けれど自分には、あの祖母がいる。彼女を近づけたくなどなかった。
それでも……彼女を諦めたくなどなかった。
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