砂漠の剣闘士

七海琴音

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砂漠の漂流者

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 灼熱の太陽が照りつけるシリア砂漠。砂塵が舞い、どこまでも続く地平線には蜃気楼が揺らめく。そこには、一人の男が倒れていた。ローマの剣闘士として名を馳せたレオニウス、本名はハイダル。かつての栄光は影を潜め、彼は砂漠の孤独な漂流者と化していた。

 そこへ駱駝に乗った一人の若者が通りかかった。
 砂漠の遊牧民ラムル族であるナディムは市場の帰り、砂漠の真ん中で倒れていた男の姿を見て、心臓が止まりそうになった。彼は駱駝から降りゆっくりと男に近づき、かすかに息をしていることを確認すると、安堵のため息をついた。

 ナディムは、ハイダルの傷跡に視線をやった。かつては栄光を掴んだであろう男の体は、砂漠の太陽に焼かれ、傷だらけだった。男はゆっくりと目を開け、ナディムを見つめた。彼の瞳には、闘士の輝きは影を潜め、深い悲しみが宿っていた。
「幻なのか…」
「幻ではない。しっかりしろ。」
 男は安堵した表情を見せると、そのまま意識を失った。
 砂を乗せた風が吹き抜けていく。

 ハイダルは目を覚ますと小さな天幕の中にいた。
「どのくらい眠っていた…?」
「三日だ。」
 天幕に杯を持った若者が入ってきた。
 若者は星空を背負っていた。
「私の名はナディム。この砂漠で暮らしている。」
「俺は……ハイダルだ。」
 ナディムは、ハイダルに駱駝の乳が入った杯を差し出した。
「ハイダル、飲みなさい。力が戻るだろう。」
 ハイダルは、震える手で杯を受け取った。彼は一口飲むたびに、かすかに微笑んだ。
「ありがとう、ナディム。お前のおかげで、俺はまた生きられるかもしれない。」
 ハイダルは、天幕から見える景色を見つめながら、こう続けた。
「ローマで戦っていた頃、こんなにも美しい星空を見たことがない。」
「ローマ?あなたはローマから来たのか?」
「あぁ。剣闘士だった。だが故郷はシリアだ。何処とも知れぬ故郷の村を探しにきた。奴隷の身から解放されたのだ。」
「さぞ、長旅だっただろう……。」
「長い船旅だった。持たされた資金は底を尽きた。だが郷愁から、この砂漠を身一つで越えようとしてしまった。」
 ナディムは、ハイダルの話を聞きながら、彼の目に同情の光を宿した。
「故郷に帰りたいという気持ち、よくわかる。私も子供の頃からこの砂漠で暮らしてきたが、故郷を思う気持ちは強いものだ。」
 ハイダルは、ナディムの言葉に安堵した。
「ありがとう。お前と出会えて本当に良かった。」
 二人は、夜空の下、静かに語り合った。砂漠の静寂の中で、彼らの言葉が響き渡る。

 灼熱の太陽が地平線から再び昇る。朝が来たのだ。
「さぁ、私の家へ案内しよう。そこならば身も心も癒されるだろう。」
 ナディムはそう言うとハイダルを駱駝に乗せた。ハイダルは弱りきった身体で乗る駱駝に四苦八苦し、前に乗るナディムにしがみついた。
 駱駝は砂漠の中懸命に二人を運んだ。
 
 日が傾いた頃、小さな集落に到着した。
 駱駝の一鳴きに気づいた女性が駆け寄ってきた。
「おぉ、息子よ。心配したのですよ。こんなに遅く…。」
「母よ、客人だ。砂漠で倒れていた。私がもてなす。」
 ナディムは駱駝に乗ったハイダルに振り向きながら母親に言った。ナディムの母ニスリーンは目を見開いたが、すぐに温かい眼差しになった。
「ようこそ、いらっしゃいました。どうかごゆるりとお寛ぎくださいますように。」
 そしてニスリーンはすぐに家族を呼びに行った。
 
「こちらで休みなさい。」
 ナディムはハイダルを天幕に案内した。
 中に入ると絨毯が敷いており、横になるように促された。
 横になり目を閉じる。自覚していたよりも疲れがでていたようだった。意識はすぐに落ち、穏やかに寝息を立てた。

 ハイダルはゆっくりと瞼を開いた。太陽は再び姿を消し、月が昇っていた。
「よく眠れたか?」
 ナディムはハイダルが眠っている間、傍にいたようだった。
「これは母の料理だ。」
 ハイダルは、ナディムが差し出した温かいスープを飲んだ。羊の乳とひよこ豆のスープだ。一口飲むたびに、体中に温かさが広がる。ローマでは、こんなにも温かい食事にありつけることはなかった。彼は、遠くを見つめながらこう呟いた。
「こんなにも穏やかな時間が、どれほど長く続くだろうか。」
「好きなだけここにいると良い。そしてまた聞かせてくれ…あなたの過去を。」
 ハイダルはナディムの真剣な眼差しを受け取った。
 二人の間に、何かが生まれるようなそんな予感がした。

 集落付近に不審な男達の姿があった。彼らはハイダルのいる天幕に視線を投げかけ、頷き合うと程なくして去っていった。
 
 朝、ハイダルは天幕の外に出た。砂漠に昇る朝日が、彼の顔を温かく照らしていた。深呼吸をすると、体中に新鮮な空気が巡る。彼は、数日前までの孤独感が嘘のように、心が安らかになっていることに気づいた。
 すると一羽の鷹が飛翔し、ハイダルの肩に乗った。
 一鳴きすると、すぐさま鷹は主人の元へ飛んで行った。
「怪我は癒やされたか?旅人よ。」
 鷹を腕に乗せた一人の男に声をかけられた。
 ナディムの兄であり、ラムル族の族長アミールだった。
 ハイダルはアミールに感謝の意を表した。
「心温かい歓迎を感謝する。あなた方の助けがなければ生きることはできなかった。」
 アミールは、温和な笑顔を見せながら言った。
「この地では、互いを助け合うのが当たり前だ。それにラムルの糧を食べた君はもう私たちの一員だ。遠慮なく何でも言ってくれ。」

 旅の傷が癒やされたハイダルは、ナディムやアミール達の為に懸命に働いた。駱駝や羊の乳搾りや誘導、天幕の修繕、アミールや一族の子ども達の世話も。
 
 夕暮れ時、子供達はハイダルにローマの話をせがんだ。ハイダルは、剣闘士としての華やかな一面だけでなく、奴隷として苦しんだ過去についても正直に話した。子ども達はハイダルの話を素直に受け入れ、温かな時間が流れた。

 篝火の炎が、砂漠の夜空に大きく揺らめく。ラムル族の人々は、ナツメヤシの実を使った料理や駱駝の肉を焼いたり、羊の乳を温めたりと、忙しそうに動き回っていた。ハイダルも、ナイフを手に、肉の塊を焼いていた。空には無数の星が輝き、まるで宝石箱をひっくり返したようだった。ナディムが竪琴を奏で始めると、人々は自然とリズムに乗り、体を揺らした。ハイダルも、ナディムの奏でる音楽に心を躍らせ、一緒に歌い踊った。砂漠の夜空の下、人々の笑い声が響き渡り、それはまるで一つの家族のようだ。
 ハイダルにとって心躍る素晴らしい夜になった。
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