東洋大快人伝

三文山而

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第四章 玄洋社の発足と筑前民権運動の雄飛

三十九 土佐士族たちの野心

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 共愛会が私擬憲法の甲号案を起草した翌月――明治13年3月15日には大阪で第四回目の愛国社再興大会が開かれた。国会開設請願の署名も全国遊説の甲斐あってかおよそ8万7千人分が集まったという。

 この第四回愛国社再興大会で“国会期成同盟”が発足するわけである。一応公式には国会期成同盟と愛国社再興大会は別個の存在として扱われ、期成同盟成立後も愛国社大会は存続していくのだが、そもそも愛国社大会が不平等条約改正の要求を一旦置いて国会開設要求に専念するものと決めていた以上、自由民権の運動や議論の中心はほとんど期成同盟に引き継がれただろう。
 おそらく一般的な認識としても国会期成同盟は愛国社大会が改称したもので、その成立時点で愛国社大会はほぼ発展解消されたと見なされているのではないだろうか。


 それはそうと、その第四回愛国社再興大会の直前に奇妙な動きがあった。愛国社――つまりは愛国社大会の機関紙として『愛国志林』という冊子が発行されたのだ。そのタイミングはなんと明治13年3月13日。第四回愛国社再興大会の直前も直前である。

 実に奇妙な話だった。

 第三回愛国社再興大会において、九州の5つの政社と杉田定一の福井自郷社などがコストカットの徹底による愛国社の財政改革を要求していた。

 その財政改革の一環が、愛国社で発行する新聞・機関紙についてであり、前々から検討されていた事業ではあったが、費用がかかり過ぎるとして中止されることとなった。ただこれは民権運動拡大の手段としての新聞発行自体が否定されたのではなく、費用面をどう解決するか、どのように発行するのかは今後評議することとされていた。

 この財政改革は、愛国社に参加している各政社の中でも特に士族中心の政社の多くが経営難に陥っていること、愛国社の中心として土佐立志社が一社でその面倒を見ていることにより愛国社自体の活動にも支障をきたしていることを鑑みたものであった。


 ……というのが、前回の大会で建議された内容であり、ちゃんと出席者たちの賛成を得て取り決められたことのはずだった。
 ところがその次の大会の2日前という何やら変な時期に、相当大変だっただろうに土佐立志社はほとんど独力で資金を工面し愛国社の機関紙を発行にこぎつけた。そしてその巻頭には「愛国社再興趣意書」という文書が大きく掲げられていた。

 すなわち、第三回大会で非土佐派の勢力が土佐派に対抗してきたことや、立志社中心で行われてきた愛国社の運営に不満を表明し、その方針を転換させたこと、愛国社の活動の主導権を土佐派に独占させず、非土佐派も共有せんという意志を示したこと……このような非土佐派の政社の動きが、土佐立志社にとってはよっぽど我慢できない事態であったらしい。

 愛国社の機関紙を立志社単独の動きとして発行し、その巻頭で「愛国社再興趣意書」を掲げたのはつまり、愛国社運動の主導権は自分たち土佐立志社の物であり他国人・他県民に渡すつもりはないと広く世間に向けて宣言した行動である。


 土佐派の、というか立志社の反撃の意志は『愛国志林』発行2日後の第四回愛国社再興大会でも露骨に出た。この第四回大会において立志社は40名もの社員を“大量動員”し、各地から集まった政社の代表であるはずの大会出席者114名の中で3分の1を超える人数が土佐の、それも立志社一社の人間で占められる様相が出来上がってしまった。
 立志社のあまりにもあからさまなやり方に議場は騒然とし、非土佐派の出席者からは「土佐人を除くべし」という批判まで出る騒ぎだ。

 そんな大騒動の中、参会した人々の要求で“国会期成同盟”が別個に結成され、国会開設請願書は同盟として提出されることになる。
 この時会場には共愛会からも林斧介が大阪出張委員として来ていたが、委任がないとして請願署名には参加せず、代わりに筑前からは怡土郡二十五ヶ村総代として前田貢、大和柳本村総代として木下日出十、そして向陽社総代として玄洋社員でもある松本俊之輔が署名を行った。

 しかしながら、この時は土佐派の巻き返しのみならず、国会開設要求に対して時間を稼ごうとする明治政府も反撃を図っており、集会条例の発令で第一回国会期成同盟は解散させられ、請願書も受理されなかったという。

 ところで、第四回愛国社再興大会並びに第一回国会期成同盟は翌月7日まで続いたが、その明治13年4月にはまた別のトラブルが発生し、北陸の地で立志社批判の声が上がった。
 福井に杉田定一が建てた自郷社及び自郷学舎は発足時から福岡の向陽社と結び付きが深く、開校時の生徒24名中9名が福岡の人間だった。さらには向陽社発足の中心的人物にして向陽社の監事、後には玄洋社社長にもなる進藤喜平太を含めて20数名の福岡士族が度々自郷学舎に滞在している。
 杉田定一は地租改正反対運動を基盤とする形で国会開設請願署名の獲得を目指していくが、自郷社の社員たちは地元である坂井郡内での活動でほとんど忙殺されてしまう。そのため郡外の各村へは寺田寛や楠目伊奈伎ら立志社から派遣されて来た者たちと、後に玄洋社の社員となる岡喬や宮原篤三郎、白水為夫ら福岡の士族たちが署名集めに奔走していた。

 ところが立志社から来た社員たちがおかしなことをやり始め、岡喬ら向陽社員三人は連記で杉田定一に書簡を送り立志社の社員たちを非難するという事件が起こる。
 曰く、立志社の人々は村員の増加するに従い、月給も百二十円に上がったという。参考なまでに、24歳の若き後藤新平(後にボーイスカウト連盟初代総長や満鉄初代総裁、東京放送局(NHK)初代総裁、内務大臣、外務大臣、逓信大臣その他様々な要職を歴任する人物)は明治13年5月8日に公立愛知病院長兼医学校長心得という職に就き、月給が60円になったらしい。

 この収入に加えてさらに立志社の社員は演説会に招待されるなど村々を訪ねる時も「道程一里に付十銭の車代を受る様種々の醜聞あり」といい、地税に苦しみながら運動に協力している農村の人々に人力車代を要求するような「卑劣野心の事業は我正論党の深く忌悪する処」で、「小生等者実に彼の商法有志者と共にするを欲せず」と痛烈に非難している。
 国会開設請願にかこつけておかしな金の稼ぎ方をしているような連中と一緒にされたくないというのは当然だろう。

 奇しくも明治13年3月~4月頃の同時期に立志社社員が妙な動きを見せ、向陽社社員をはじめ非土佐派の民権運動家たちがそれに対立するという騒動が大阪と福井でそれぞれ起こったわけだが、この頃の立志社社員らについて語るついでに、後に『自由党史』に書かれる愛国社再興大会の描写にも触れさせてもらいたい。

 『自由党史』の執筆は憲政党が解党された西暦1900年に着手され、1910年に完成したとのことで、明治13年(西暦1880年)からちょうど20年~30年後の代物になる。その内容は自由党のいわば前史ということで1868年の王政復古から始まり、立志社を中心に愛国社大会や、その他各地の民権運動、自由党の他にライバルである立憲改進党やその他諸政党の結党などについてもいくらか触れられている。ただし、自由党主流派として立志社ら土佐派の視点が非常に強いのが難点とされる。

 ……という書物なのだが、『自由党史』内でその土佐派中心の史観が特に強い箇所の一つに、非土佐派の巻き返しが非常に強烈だった第三回愛国社再興大会の描写がある。
 まず大会の一番議員となった平岡浩太郎の立場を「福岡共愛会」の代表と間違い、さらに発言内容までも“大会の開かるゝや、福岡共愛会は、其持論として果して条約改正建白の議を提出し、国権拡張の事に従うべきを唱えたり”と捏造した。
 (愛国社再興大会の方針と正倫社・正論党の分裂や共愛会の成立経緯からしても、ここで平岡があえてまた条約改正の要求について言い出す理由はない)

 そして本来の平岡の提案である“国会開設要求を愛国社のみならず広く天下の有志と俱にする”という主張は立志社社長片岡健吉らの返答としてすり替えられ、さらに平岡の後に続いて「願望の主体を愛国社だけに限るのは偏頗なり」と土佐派を批判した杉田定一の提案である全国遊説までも立志社社員島地正存の提案として功績を奪ってしまっている。

 昨今話題の歴史修正主義でもここまでえげつない捏造はどれほどあるだろうか。また、『自由党史』ではこの第三回大会の出席者に片岡健吉の他、植木枝盛も参加していたと記すが、実際にはどちらも会場にいなかった。『自由党史』で“運動を広く天下の有志と俱にする”と主張したことになっている片岡健吉に至っては、そもそもそういうキャラですらなかった。

 実際のところこの頃の片岡健吉とはどういった性格の人物だったのか。“土佐州会”についての話とからめ、少し時を遡って話すと明治10年8月に、立志社の過激派だったという林有造らが西南戦争に呼応した挙兵を企み、それが露見して首謀者の林有造や大江卓、それから片岡健吉ら立志社の幹部メンバーも逮捕される“立志社の獄”という事件が起きる。
 『自由党史』は片岡健吉について巻き添えを食って投獄されたと見做しているようだが、別の資料では密かに行われた挙兵計画に関する作戦会議に片岡健吉が島地正存らと共に参加していたとする話もあり、この事件に片岡がどこまで関わっていたかはわからない。
 この時、逮捕を免れた板垣退助は後に頭山満に語った時と同様に立志社社員たちの武装蜂起路線を戒め、「先づ我が立志の民権を一町より一区に及し、一区より一県に及し、各県全国に及し、衆力一致の上、大政府に向て為す所あるに如かず」と民権運動の方針を改めて示した。

 土佐では既に前年の明治9年5月、全国の府県議会設置に先駆けて小区民会・大区会・県会という三段重ねの地方議会組織を作り上げられており、立志社はこれに“土佐州会”を加える。
 この頃廃藩置県によって四国は5つの県に分かれたり、3つの県になったり、4つに戻ったり、2つの県に分かれたり、4つに戻ったりしていてこの当時の高知県内には現在の徳島県に当たる地域が併合されていた。
 しかしながら同じ地方とはいえ、歴史と文化が異なる地域がひとつの県になるのは現地住民にとって違和感が大きかったらしく、県会と別に土佐州会が作られたのは土佐国地域のことを土佐人だけで議論したいという思いがあったのではないかとも語られる。

 植木枝盛らは土佐州会の議員としても活躍するが、まもなく明治政府が全国に府県会規則というものを発令し、既に県会を作っていた土佐州の地方議会も再編されることとなる。
 大区会は廃止し、小区会は村会に変わった。私設民会である土佐州会は“立志社の影響が大きすぎる”、“県会と役割が被る”といった理由で内務省の州会設立不認可の指令により解散させられ、既にあった高知県会も府県会規則に従って作り直され、土佐地域の議員27名、阿波国(旧徳島県)地域の議員31名によって成る新しい県会として再スタートする。

 この新しい県会に立志社社員は4名が当選し、片岡健吉は初代議長の栄誉に預かった。ここで立志社系の議員は土佐州会が解散直前に掲げた「府県会規則改正の願望書」を再び議論の俎上に上げ議場は混乱、公に語られる記述では、片岡健吉らは制限選挙制に異を唱えるも受け入れられず、由比直枝や尾崎要・小谷正元と共に失意の内に県会議員を辞職したと書かれる。
(県会議長は副議長だった阿波国の磯部為吉が後を継いで2代目議長となった)

 ではこの時、具体的に片岡健吉らは具体的に制限選挙制のどこに反対だったかというと、例えば“田地を所有しない士族の除外について”である。士族こそ政治知識を持った階級であり、これを排除して富豪農民を議会に入れる意味は何かというのだ。「愚論の府たるは其好む所に非ざるを如何せんや」とのこと。
 そこまで言ってしまうともはや“貧民に選挙権を与えられないのでは公正な政治とはいえない”というよりも“賢い下級士族が選挙にも行けないのに金を持ってるだけで商売人や百姓風情が議員になれるのは気に食わない。制限選挙じゃなければこいつらみんな落選して士族ばかりの議会ができるのに”と言っているのに近い。

 制限選挙制で豪農だの商人だのといった人々が議員になった県会は「愚論の府」であると、よりにもよって豪農だの商人だのといった人々が議員として出席している県会の議場ド真ん中で主張してしまったのだ。議場が混乱したというのも当たり前だろう。
 そして当然ながら「府県会規則改正の願望書」は否決され、辞職して県会を去るついでに県会など所詮は“地主会”で、“県令の諮問会”に過ぎなかったというようなことを言い捨てていったという。
“地主会”“首長の諮問会に過ぎない”という言葉自体は現代日本の都道府県や市区町村の地方議会批判に置き換えても通用するかもしれないが、そのタイミングで言ってもただの負け惜しみでしかない。

 にしても、頭山満も自分が入った興志塾の塾生たちに「本当の武士の子といったら俺たった一人で、こいつらは皆足軽の子」と見るぐらいの身分意識があったが、片岡健吉ら立志社の議員たちも県会議員になれるだけの資産や収入を持ちながら士族以外の県会議員を面と向かってこき下ろし愚民扱いしつつ下級士族を持ち上げるというエリート意識の凄まじさたるや随分なものである。

 片岡本人も語るところでは、「余等は封建制度に養成せられたる純粋の武士にして……百姓町人等と俱に国事を共にすべしとの言は心中密かに不快の感あり」とのことで、当人にも自覚のようなものはあったというか、後年には最早諦めの境地とか開き直りじみた心情になるほどこの身分意識はどうしようもなかったのかもしれない。
 職業選択の自由がある現代でもエスタブリッシュメント批判のようなものはあるが、ましてや個々人の資質ではなく家柄によって完全に職分が決定される時代に幼少期を過ごして培われた世界観は、特に上層に近いものにとって拭い去るのがよほど困難なものなのだろう。


 ところで、福井の立志社社員たちの金の巻き上げ方や、第四回愛国社再興大会での立志社と非土佐派の衝突等は身分意識だけで説明できるものだろうか。
 民権運動に参加していた下級士族たちは秩禄処分等で貧しくなった者も多く、愛国社の基盤であった多数の政社が解体消滅や衰退の危機に追いやられて活動を縮小させ、それらの面倒を見ていた立志社も大いに悩まされたようで金に汚くなることまではそれらの事情を加味すれば多少同情の余地は生まれるかもしれない。

 一方で愛国社にも属さなかった反主流派ともいわれる政社にはむしろ組織の拡大にすら成功する団体があった。国会開設の建白書を全国トップの早さで提出することとなった岡山の両備作三国親睦会と福岡の筑前共愛公衆会、そして愛国交親社三河組などの名前が挙がる。
 これらの共通点は士族以外の取り込みに成功したことで共愛会は言わずもがな、両備作三国親睦会については、これは県議を委員とした有志連合の形で10万人の会員を抱えた大衆組織だといい、県議を中心とした大衆組織である以上は豪農等も所属したのだろう。

 では士族以外を受け入れられたそれらの組織、例えば福岡の共愛会や向陽社に所属した士族と立志社の士族には何か違いがあったのだろうか。また、自身も豪農の家系である杉田定一はともかく非土佐派の士族である河野広中と立志社社員の行動の違いはどこから来るのか。土佐派はなぜ第三回愛国社再興大会で非土佐派の提案に“全国の下級士族を運動に加える”などの考えで応じられず議論が長引いたのか。

 この頃の土佐立志社と非土佐派の動き方の違いについて、「薩長土肥」というキーワードから語ることができると思う。
 自由民権運動参加者たちが将来的に打倒すべきは薩長藩閥政治といわれる専制的政治体制であるが、一方で土佐は幕末の倒幕維新運動において薩長よりは少し出遅れつつも全国の中では比較的良い位置につき、一時期は新政府内でもそれなりのポジションを得ていた。

 つまり「薩長土肥」の「土」である土佐は今の政府で中心を占める薩摩閥と長州閥さえ退かせば日本の頂点に立つ見込みがあるとさえ見ることが可能だった。そうでなくとも、日本の立憲議会政治の礎を築き上げた人々の出身地として、土佐・高知が未来永劫の栄光を得られるかもしれない。
 福井における立志社社員たちのやり方にはゴールを目前にした者の驕りや油断が表れ、『愛国志林』の発行や第四回愛国社再興大会への立志社社員大量動員などには手が届く位置にあったように見えた勝利を脅かされたということに対してのなりふり構わない抵抗が表れたのではないか。

 一方、「薩長土肥」に入れた地域は日本全国の中でごく少数であり、当然のことながら「薩長土肥」に入れなかった地域の方がよっぽど多かった。筑前福岡藩は幕末には「薩長土“筑”肥」もしくは「薩長“筑”土肥」の位置に入れたかもしれない地位にいたが、維新まであと3年という時期にそれを逃がした。福井の杉田定一などは「第2の維新は東北から」といった考えを持っていたという。
 そのような「薩長土肥」に入れなかった地域の人々にとって、薩長閥を倒した後に土佐閥が継続して天下を取るのも、立憲政治や議会政治の礎と見做される栄冠を土佐一国が手に入れるのも全く我慢ならないことだっただろう。
 そして同時に、最早同郷の者たちで天下を取るのも、それに成功したところで他国人たちの恨み妬み妨害などといったものを一切受けずにいるのも不可能であるというのが実感として納得できたはずである。

 自分たち単独での勝利の栄光がすぐに手の届く場所に無いと自覚していたことで、非土佐派にはもう少し先の将来図を思う余裕ができた、もしくは必然的に遠い未来まで視野に入れざるを得なかったのではないか。
 非土佐派は第一に薩長閥の専制的政府を倒し、第二に土佐一国だけがいい思いをするのを防げるなら地域や身分を超えて“広く天下の有志と俱にする”ことに抵抗は少なかったのだと考えられる。
 一方で土佐、特に立志社はなまじ大勝利が手の届く位置に見えたために、第一に薩長閥の専制的政府を倒し、第二に土佐一国での勝利を何が何でも確保し続けるような動きになったのではないだろうか。

 薩長閥を打倒するのに民撰議会の設立を目指すというところでは立志社の頭脳たる板垣退助や植木枝盛の言動は非常に先進的であり、広い地域の人々を惹きつける力があった。また、選択肢として良いのか悪いのかはさておき“ライバルとなる福沢諭吉や大隈重信がイギリス型の二院制議会を研究してるから自分たちはフランス式の一院制に切り替える”というところでは急進的なグループというイメージさえ付いている。

 だが維新後に出来た「薩長土肥」という枠組みの打破ということについては、立志社全体としてかなり保守的にならざるを得ず、非土佐派の方が“薩長土肥の打破”を否定する大きな理由はない分だけよほど革新的になれたと言えよう。

 後に『自由党史』内の記述で奇妙な改竄がなされたのもこれが後を引いたものと見て間違いあるまい。
 第三回愛国社再興大会での平岡浩太郎の所属を共愛会と間違えたのも、(矯志社・強忍社・堅志社の三政社以来、正論党・正倫社やら共愛会・玄洋社やら向陽社周辺の民権運動の分かれ方がややこしいのは否定しきれないとはいえ、)“立志社を中心とした土佐派が自由民権運動と帝国議会開設に向けた動きの礎だった”という夢を捨てきれなかった事に起因するものだろう。
 たとえ板垣退助や植木枝盛の影響を受けた団体であっても、他国人による組織が国会開設の建白提出で立志社や愛国社を追い抜かすとか、愛国社大会の主導権を土佐派から取り上げ掌握してしまうなどという事態は全国の民権運動を立志社の主導とする世界観や歴史観を諦められない人々には認めることができない事件だった。

 土佐派、もしくは立志社にとっては不幸中の幸いとでも言おうか、共愛会は国会期成同盟の方に参加している他、愛国社再興大会に参加する正倫社と人脈に重なる所も大きいというのもあって、意図的にか無意識のうちにか混同したまま、それ以上確認することなく筆を進めた。
 これによって共愛会を愛国社再興大会の関係者でもあるように見せかけ、本来愛国社と無関係の彼らの建白書提出があたかも愛国社における国会開設建白書についての討議の呼びかけに逆らったものであるかのように主張し「是れ実に国会願望の先駆たるの名を取るに急の余り、此挙に出でたるものにして、識者の眉を顰むる所」と貶めた。

 そして第三回愛国社再興大会の結果実行された提案内容について、後世から見れば非土佐派の主張にこそ道理があり、土佐派がそれに反対の立場をとってしまったというのは言い訳のしようもなかったので議論の結果については機関紙事業の中止等を隠してほぼそのままに、発言者と発言内容を完全に捏造した。
 幸か不幸か、この時大会の主導権を握った非土佐派の代表ともいえる平岡浩太郎は玄洋社の社長でもあり、『自由党史』執筆の頃には玄洋社は国権主義者の代表にして日本の右翼団体の始まりと見做されるようになっていたので平岡をわからず屋の国権主義者として書く仕事はだいぶやりやすかっただろう。

 “自分たちこそが新時代の始まりを主導するのだ”という野心には多少共感できないこともないし、その気概自体はある程度好感すら持てると言っても良いが、如何せん集団としてのそのやり方は傲慢で無慚無愧に過ぎる。
 筑前の民権運動関係者、殊に玄洋社を中心とした視点からだと、立志社や自由党の関係者には時に悪役として登場してもらわねばならないという歴史上の出来事が、実はこの後も度々存在する。

 もしこの文章の読者の中に、立志社社員の関係者もしくは現在高知県民の方や高知県にルーツを持つ方などいらっしゃいましたら、これは史料や視点の違いによる歴史観の多様性の一つとしてどうかご容赦いただきたい。


 ……ところで言及し忘れていたが、府県会規則の発令前に設立された土佐州会が解散させられたのに対して、府県会規則に従って福岡県会ができた後に結成された筑前共愛公衆会は解散命令を受けなかった。
 これは福岡県令らと向陽社など筑前民権運動政社との微妙な距離感も要因の一つだろうが、何よりも土佐州会の方は話し合うべき内容を橋や堤防、学校や病院の建設などについてと『土佐州会章程』に定めてしまい、地方自治議会として高知県会と役割が完全に被っていたのに対して、共愛会の活動は私擬憲法起草や条約改正に向けた市民運動、国会開設要求等々、基本的に地方政治の議会というより“私設で造られた国会の地方支部”とでも言うべき動きに徹しており、公の福岡県会を形骸化させずに役割を分離して住み分けることに成功していたのも作用したのではないだろうか。
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