東洋大快人伝

三文山而

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第四章 玄洋社の発足と筑前民権運動の雄飛

二十五 当時の各国憲法と板垣退助の民権論

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 板垣邸は高知市南端にあって浦戸湾に面し、心地良い海風が吹き込む屋敷だったという。その一室で頭山たちはとうとう板垣に会談する場を得た。
「天下の大事を相談に来ました」
 そう切り出した頭山に板垣はウン、と頷いて続きを促す。
「義憤の志士たちにより大久保内務卿が刺された今、薩長の専制体制を倒壊させる絶好の機と思われます。単刀直入に尋ねますが、先生に挙兵の意思は」
「無いよ」
 サラリと言う板垣に、何を言っているのかと反感を持って頭山は詰め寄った。
「政府が動揺している今を見過ごし、いったい何時動くつもりだというのです」
 しかし板垣は冷静に続ける。
「西郷でさえ武力蜂起には失敗した。もはや兵をもって志を遂げるのは無理だろう。“挙兵”という動き方について言うなら自分にそのつもりはない。別のやり方を下野した時からずっと目指している」
 土佐立志社では、むしろ血気盛んな多くの社員たちが武力による手っ取り早い運動に向かうのを指導者層である板垣退助や植木枝盛らが力の限り押しとどめているところだった。
「別のやり方と言いますと」
「国民の議会を開き、国家の指針として有司専制を封じる憲法を定めるというのが、これからの日本がしなければならないことだと考えている。この憲法は複雑化した近代国家の芯を成すものとして、聖徳太子の十七条憲法や御維新における誓文五箇条よりも詳細にわたる数多くの条文をまとめたものになるだろう」

 さて、憲法を定め議会政治を行うというのは大変難しい作業である。ここから69年後の1947年5月3日は戦後日本の新憲法が施行された日で5月3日は憲法記念日となっているが、その日付は奇しくもポーランド・リトアニア連合王国でヨーロッパ初の近代的成文憲法と呼ばれた通称“五月三日憲法”が1791年にポーランド議会で採択された日でもある。
 同時期の1787年アメリカ合衆国憲法やフランスの1791年憲法と共に世界史上の先進的な憲法として並べられ、立憲君主制や三権分立、国民皆兵などの原則に基づいて上層市民の参政権や騎士階級(士族)との同権化、国家行政の近代化などが図られたが、民主主義の伸張を絶対王政に対する脅威と見た近隣のロシア帝国女帝エカチェリーナ2世が介入して1年で廃止されてしまった。

 また、中近東の西アジアから極東の北東アジアまで広大な範囲を包括する「アジア諸国」という範囲内では、日本の元号で言うと明治9年にあたる1876年に発布されたオスマントルコ帝国基本法の通称“ミドハト憲法”が近代憲法典として最初のものだと授業で習った人も多いだろう。
 一説にはベルギー王国の憲法を参考にしたとも言われ、オスマン帝国の近代化を内外に示すものであったというが、ポーランドの五月三日憲法制定がポーランド国王の主導によるものであったのに対して、オスマン帝国は当時の皇帝カリフであるアブデュルハミト2世が革新的な立憲制への理解を示さなかった。
 オスマン皇帝は基本法の中に戒厳令の発令など強い君主大権を残させておいたのを利用して、露土戦争を口実に「非常事態」として議会を閉鎖。発布後1年少々しか経っていなかった憲法も停止し専制体制に戻してしまった。

 ポーランドより西の西欧列強でも立憲制はなかなか安定していない。
 ミドハト憲法が参考にしたと言われるベルギー憲法は不文憲法と呼ばれる英国憲法の内容を研究して成文化し、フランス憲法の要素を一部加えて完成させたものとして多くの国々が自国の憲法起草の際に参考にしたと言われる。ベルギーの東にあったプロイセン王国もその一つだった。
 プロイセン王国は憲法ではベルギー憲法を通じて英国型憲法の系譜を受け継ぎ、プロイセン国王の下で統一された強大な王国として発展して普仏戦争ではフランス第2帝政の皇帝ナポレオン3世まで捕虜にしてしまう大勝利をおさめた。
 しかしそのすぐ後、日本の元号では明治4年となる1871年にプロイセン王国は宰相ビスマルクの主導でドイツ地域内の様々な王国を国内に持った連邦国家ドイツ帝国へと変貌。統一されたドイツは連邦国家の憲法として、“ドイツ型”と呼び表される皇帝の権限を強化したドイツ帝国憲法を制定する。皮肉にもビスマルク主導の帝国化に反感を持っていたドイツ皇帝(兼プロイセン国王)ヴィルヘルムの君主大権が強化される新体制が発足することとなり一部に混乱の種を残すこととなる。

 革命によって国王を排除したフランスでは国家体制の不安定なことドイツの比ではなく、第一共和政、第一帝政、王政復古、第二共和政、第二帝政、第三共和政と国のかたち自体が定まらずに目まぐるしく変わり、第三共和政におさまってからもおよそ1年ごとに首相交代を繰り返すなどした。(これについては日本も他国のことを言えないが)フランスの国家体制がよりしっかりと固まるのは第四共和政を経てシャルル・ド・ゴールが第五共和政を発足させてからのことである。

 立憲体制が割と安定していたのは英米のアングロサクソン系国家だが、アメリカ合衆国は共和制であったが憲法起草者たちが憲法解説書『ザ・フェデラリスト』内で
「直接民主制はこれまで常に混乱と議論との光景を繰り広げてきた」
「民主制(※直接民主制)国家では、人民の多数が直接自分で立法機能を行使するが、彼らは規則に従って正しく審議する能力も、共同して行動する能力も欠いている」
等々デモクラシー、特に直接民主主義への不信感を露わにし、上院を疑似的な貴族院として“国王と貴族抜きで再構築された大英帝国”の様相を成した。
 当の英国の憲法は、当時の覇権国家とも言える国が長い歴史の中で国内の慣習法を積み重ねて憲法とした不文憲法なのは周知の通りで、他国がおいそれと真似できるものではない。
 当時の大日本帝国にとって憲法とは、どこの国を参考にどこから手をつければ良いものかという代物だった。

「……有司専制を封じるのはわかりますが、その憲法というのは絶対に作らなくてはなりませんか」
「難しい仕事ではあるが、我が国を対等の文明国として西洋列強に認めさせるためならぜひとも」
 しかしこの時の頭山には、有司専制を排した後の日本の国家体制として入ってしかるべきと思われた重要なキーワードが板垣の構想から出てこないのが不思議でならなかった。
「国内においては第一に、天皇陛下が政府を主導する“御親政”を行うことが出来れば憲法など無くても陛下が国の芯として政治を動かせるのではありませんか」
「いや、“天皇親政”ではダメだ。陛下を政治の中心に置けばやがて殷の紂王が如く天皇陛下が国民の怨恨の中心となってしまう」
「今の言葉はどういうつもりか、もう一度聞きましょう。妲己に惑わされるような暗君と金甌無欠の天皇陛下を同列に扱うつもりでしょうか?」
 部屋の空気が殺気立った。殷の紂王は本来才色兼備、文武両道を兼ね備えた名君であったが、後の世には「酒池肉林」の四字熟語の由来となり、家臣を虐殺するなど悪逆非道の暴君の代名詞として伝えられるようになった人物である。漢籍に造詣の深い頭山は当然知っていたし、奈良原もまた“こいつも何時ぞやのヒゲ神主と同じか”と体に力を込めだした。
「君主の英邁さより臣下の質を上げて、悪いものを国政から取り除いていく仕組みが必要だ」
 板垣は平静を保って例を挙げ説明を補う。
「大久保ら帰国してきた欧米視察組に征韓論が止められた時、岩倉具視は“詔を矯正してでも己の意見を行う”とまで断言しておった。それは成功した時の功を自己におさめながら失敗した時の過失は上御一人に帰せしめまつるとんでもない考えだ。むしろ憲法を決め責任内閣を造ることで天子様を神聖で侵すべからざる安泰の、絶対無責任の地位にお据えせねばならないし、それこそ我々の目指す議会政治の妙諦なのだ」

 成程、と納得のいくものがある。世界の中で日本という国の特質に一系不倒と言われながらも権力の中枢から度々外れた皇室の歴史が挙げられる。日本の皇統は神代と結び付けて話せるほど古くから日本列島にあり続け、政治の中心から外れたとしてもオリバー・クロムウェルによるイングランド共和国のように国から排除された時代は無い。権力の移り変わりは多々あれど、皇室と日本人はカインとアベルのような殺し合いではなく海幸彦と山幸彦の住み分けという独特な暢気さとしたたかさで天皇という存在を保持し続けた。
 日本の歴史の始まりから今まで存在しなかったことが無い天皇を無くして国家展望の統一と安定は考えられず、日本という国が世界の中で生き残り発展と繁栄を図るには天皇の下での国家と国民の統一は必要不可欠である。
 その天皇の権威が皇統の世襲継続に基づく以上、天皇が政治的責任を追及されることになる事態はあってはならないものであって、それを防ぐためにも皇室からは政治的実権の大部分が剥奪されている必要があった。“天皇中心の政治”を掲げて幕府を倒したのに皮肉な話ではあるが、日本は権威と権力の分離を明文化しなければならなくなっていた。

 そして板垣は天皇親政の否定に続けて四民平等の国民政治についても自分の体験から語った。
「戊辰戦争の折、私は東北征討参謀として会津での戦いに参戦していた。すると地元のとある百姓がいよいよ会津落城も間近という時に、数百年にわたる藩の恩に報いるべきは今であると一門の者たちを集めて城中に食糧を運び入れ、懸命に奉公しておった。官軍の者が問い詰めても堂々たる態度で、敵方を利する者だが百姓ながら天晴れと放任し、我々は農民の義心に大いに感じ入って、感心し、褒め称えていた」
 しかしだ、と板垣は問題を提起する。
「よくよく考えてみれば、これからの時代には国民全体がそのような義心を当然のものとして持っていなければ、帝国主義の世界の間に伍して日本の独立を全うすることができない。これまでのように国家、政治、戦争の問題を武家で独占し、それ以外の民は無関心で当然、偶にああいった義心で奉公する者が現れたら驚き感心するなどという有様では生き残っていけない。百姓でも町人でも、全ての国民誰もがあの会津の百姓の心がけを持たねばならぬ。大いに民権を伸張し、立憲制を樹立し、武家のみで政治を独占せず全国民が参加する国民政治を実現し、武家のみで軍事を行わず国民皆兵の世こそ当然としなければならない。これは我々の民権論の根底である」

 国民国家、国民議会、国民皆兵という板垣の考えは頭山たちにとって大いに衝撃的だった。頭山満の生家である筒井家は家禄百石取りで、これまでの満は興志塾の塾生たちに対して「俺はさむらいの子、おまえたちは昔なら俺が通る時に土下座して頭を下げる人間」「ほんとうの士族の子供といっては俺たった一人で、他は足軽の子供の中のしたたか者たち」、越智彦四郎のことも「足軽の頭の中の豪傑」と見なし、封建時代の身分意識丸出しでいた。思い返せば、頭山や奈良原が逮捕された切っ掛けも、松浦愚らが士族でない若者たちで編成された鎮台兵を侮蔑して喧嘩騒動を起こしたことに端を発するものだった。
 しかし列強と渡り合っていかねばならぬこれからの時代、士農工商の別だの足軽の家と本当の武家だのという細かい違いにこだわるべきではない。今後は四民すべてが武士のようになっていくのだ。

 頭山たちにとって、自由民権運動との出会いは同時に「国民」という近代的概念との出会いだった。
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