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第三章 不平士族と西南戦争
十五 不平士族のネットワーク
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越智彦四郎・武部小四郎ら福岡の青年士族たちは佐賀の乱直後から各地の有志たちとの連携を模索して連絡を取り合った。
越智の強忍社に属する久光忍太郎は佐賀の乱の連携失敗で互いに恨みを抱く間柄になってしまった佐賀の不平士族グループの誤解を解くために奔走し、武部・越智と強忍社の舌間慎吾は鹿児島を訪ねて西郷隆盛の側近といわれた桐野利秋や篠原国幹らと接触、筑前から若手士族数名を派遣・留学させて連携を図った。
また長州・萩の有力者である前原一誠とも文通し、明治9年の夏には矯志社から箱田六輔・進藤喜平太・頭山満らが前原の邸宅を訪問した。
前原は吉田松陰の門下生で「維新十傑」に数えられ、師匠の松陰から「誠実さは門徒中第一」と評された人物である。大村益次郎や広沢兵助を喪った長州においては木戸孝允に次ぐ維新の功労者と言われた逸材だが木戸とはことごとく意見が対立してしまい、明治4年には参議と兵部卿の職を辞して里に帰ってしまっていた。
五参議の下野によって一気に求心力の重みを失った明治政府からは勅旨をもって復帰を求められたが、体調が良くないという理由で固辞している。前原の辞任に前後して海外留学から帰国し、兵部省に入った山県有朋は同郷の友人であったが、西洋式近代国民軍の整備を進める山県の方針にも前原は反対だった。
地元からの信頼は非常に厚く、周防・長門の一部不平士族が佐賀の乱に呼応しようと不穏な動きを見せた際には山口県権令から頼まれて動乱を鎮める檄文を書いている。
「佐賀に紛擾を起こした不逞の徒が仮に勢を得て防長二州に及ぶことがあっても、一歩も踏み入れしめるな。丙寅、戊辰の役で天下に示した長州精鋭の名声を墜し、九州烏合の衆の笑となる勿れ」
この檄に三千もの兵力が即座に応え、“長州防衛隊”として集結した。諫早作次郎という男が「この三千の兵で佐賀に呼応すれば、四国、九州も必ず呼応し一挙に政府を転覆できる」とすすめても前原は動かず、一方でその言動が不穏とされた諫早が投獄されるとこれを哀れみ、自ら保証人になって救い出すという慈愛の深さを示した。
明治9年夏、矯志社から前原を訪ねた箱田らは大いに歓迎され長時間の歓談の後、共に事を挙げようと固く誓い合ったという。
「維新の大業にあたり、私心なく、身を捨て草にした無名の牢人がどれほどあったか。我らは、彼ら救国牢人の志を継ぎ今次国難にあたらねばならぬ」
その少し後の9年晩夏、薩摩人だという石塚清武、指宿辰次、と新潟人だという渋谷正雄の三人も前原のもとを訪れ、西郷の密使を名乗り“西郷自筆の密書”を前原に手渡した。
前原は国事を嘆く密書の文面に大いに感激し、「長州の賊(木戸孝允のことだろうか)を払うのは西郷君の手を借りぬでもよい。しかし兵器弾薬がないので西郷君に依頼して小銃を三千挺貸与してもらいたいと思う」といったことを三人に話す。
石塚たち三人は密書に対する返書にその要望を記してもらうと一週間ほど滞在した後、萩を去った。その際に前原の門下である横山俊彦を帯同して、ついでとばかりに前原の密使として福岡の矯志社へ箱田六輔と宮川太一郎を訪ねて前原との呼応を語り合った。
前原の門下である横山と、新たな同志である石塚・指宿の来訪は大いに喜ばれ、特に箱田はやる気が燃え上がった。矯志社や堅志社の社員を集め、「兎狩り」と称して福岡郊外の山野で武闘訓練を始めた。
宮川はどこで政府に監視されているかわからぬ中で無警戒が過ぎないか、と忠告するが箱田には聞き入れられない。箱田と宮川はかつての就義隊と併心隊で対立した仲であり、宮川からそういった言葉を受けること自体に箱田の中で反発があったのかもしれない。
そしてついに各地で反乱が起こる。10月24日、国学者林櫻園の門下である熊本新開太神宮の神官大田黒伴雄と錦山神社の神官加屋霽堅ら敬神党170人以上が3月に出された廃刀令に反対して熊本鎮台、県庁などを襲撃する神風連の乱が発生。これに応じた筑前秋月の士族200人が27日挙兵。秋月党は海峡を越えて萩にいる前原一誠の軍と連携しており、翌28日には前原も兵を挙げて萩の乱を起こす。さらに29日には思案橋事件で千葉県庁が襲撃された。
秋月党の益田静方らは挙兵に先立ち福岡の志士たちに策応を求める書を送ってきたものの、武部・越智の二人は薩摩の西郷たちが挙兵するまでは耐え忍ぶように社員たちに指示していた。連携を取り合うことについて西郷の側近と深く盟約を交わしていたし、西郷が動かなければどれほどの実力者が挙兵しようとも現体制を崩すことはできないとも考えていたからである。
しかし萩へ行って前原らと救国や世直しを熱く語り合った箱田・進藤・頭山らにしてみると、それは既に動いている同志たちを見捨てて無駄死にさせる許し難い方針であり、武部・越智が隠忍自重ばかりなのも西郷軍がまったく動く気配を見せないのも「因循姑息」と見えた。いや、むしろ今自分たち福岡の士族が動けば西郷側も重い腰を上げ、皆で力を合わせて世の中を変えることができるのではないか。
そこへ萩の前原のもとから挙兵に際して反政府の義軍を呼び集めるための使者として、同志の奥平謙輔といつぞやぶりの指宿辰次が矯志社を訪ねてくる。
箱田・進藤・頭山がこれを迎えると挙兵に関して熱弁が交わされ、日時・兵器弾薬・兵力・作戦、と充分な打ち合わせがなされた。
また、武部に慰撫されつつも鬱憤を溜めている矯志社の社員たちは近隣の同志を集め、「山狩り」と称し大休山などに盛んに寄り集まっては萩の決起軍応援について協議したり大久保利通暗殺に関する画策も行っていた。
一方の前原一誠は鹿児島の西郷隆盛にも使者として横山俊彦と大橋清贇を送っていた。石塚・指宿たちを通じて以前受け取った密書の文面からも西郷たちの挙兵には大いに期待していたし、密書で頼んでおいた小銃三千挺なども含めて向こうの状況を確認しておきたかった。しかし西郷からは全く予想外の答えが返ってくる。
「その2人は薩摩人だというが、こちらは石塚も指宿も知らない。自分はそちらに書簡など送っていない。政府のスパイと思われるので充分に注意してほしい」
さらに、かつて「この長州防衛隊三千人がいれば世の中ひっくり返せるじゃないですか」などと調子のいいことを言って逮捕投獄され、前原に救われたあの諫早作次郎までもが政府の放った工作員であると判明する。
吉田松陰から誠実さを評価されていた前原だが、人を疑うのが下手だという指導者として致命的な欠陥を抱えていた。政府軍に敗れて敗走した際、前原たちは父母に向けた手紙このような後悔の念を書き残したという。
「……実に此度の失策は何とも箇とも言葉に尽し難く、皆々姦人佐々木諫早等の謀に陥り、終身の残念此事に御座候。七たび人間に生れて、此賊を滅ぼし申す可し……」
どうやら佐々木というスパイも発見されたらしい。不平士族たちの周辺には夥しい数のスパイ網が張り巡らされ、前原らの行動も矯志社の動きもほとんどすべてが政府側に漏れていたのである。前原たちも大概迂闊ではあったが、それにしても謀略家としての大久保体制のなんとすさまじいことか。
越智の強忍社に属する久光忍太郎は佐賀の乱の連携失敗で互いに恨みを抱く間柄になってしまった佐賀の不平士族グループの誤解を解くために奔走し、武部・越智と強忍社の舌間慎吾は鹿児島を訪ねて西郷隆盛の側近といわれた桐野利秋や篠原国幹らと接触、筑前から若手士族数名を派遣・留学させて連携を図った。
また長州・萩の有力者である前原一誠とも文通し、明治9年の夏には矯志社から箱田六輔・進藤喜平太・頭山満らが前原の邸宅を訪問した。
前原は吉田松陰の門下生で「維新十傑」に数えられ、師匠の松陰から「誠実さは門徒中第一」と評された人物である。大村益次郎や広沢兵助を喪った長州においては木戸孝允に次ぐ維新の功労者と言われた逸材だが木戸とはことごとく意見が対立してしまい、明治4年には参議と兵部卿の職を辞して里に帰ってしまっていた。
五参議の下野によって一気に求心力の重みを失った明治政府からは勅旨をもって復帰を求められたが、体調が良くないという理由で固辞している。前原の辞任に前後して海外留学から帰国し、兵部省に入った山県有朋は同郷の友人であったが、西洋式近代国民軍の整備を進める山県の方針にも前原は反対だった。
地元からの信頼は非常に厚く、周防・長門の一部不平士族が佐賀の乱に呼応しようと不穏な動きを見せた際には山口県権令から頼まれて動乱を鎮める檄文を書いている。
「佐賀に紛擾を起こした不逞の徒が仮に勢を得て防長二州に及ぶことがあっても、一歩も踏み入れしめるな。丙寅、戊辰の役で天下に示した長州精鋭の名声を墜し、九州烏合の衆の笑となる勿れ」
この檄に三千もの兵力が即座に応え、“長州防衛隊”として集結した。諫早作次郎という男が「この三千の兵で佐賀に呼応すれば、四国、九州も必ず呼応し一挙に政府を転覆できる」とすすめても前原は動かず、一方でその言動が不穏とされた諫早が投獄されるとこれを哀れみ、自ら保証人になって救い出すという慈愛の深さを示した。
明治9年夏、矯志社から前原を訪ねた箱田らは大いに歓迎され長時間の歓談の後、共に事を挙げようと固く誓い合ったという。
「維新の大業にあたり、私心なく、身を捨て草にした無名の牢人がどれほどあったか。我らは、彼ら救国牢人の志を継ぎ今次国難にあたらねばならぬ」
その少し後の9年晩夏、薩摩人だという石塚清武、指宿辰次、と新潟人だという渋谷正雄の三人も前原のもとを訪れ、西郷の密使を名乗り“西郷自筆の密書”を前原に手渡した。
前原は国事を嘆く密書の文面に大いに感激し、「長州の賊(木戸孝允のことだろうか)を払うのは西郷君の手を借りぬでもよい。しかし兵器弾薬がないので西郷君に依頼して小銃を三千挺貸与してもらいたいと思う」といったことを三人に話す。
石塚たち三人は密書に対する返書にその要望を記してもらうと一週間ほど滞在した後、萩を去った。その際に前原の門下である横山俊彦を帯同して、ついでとばかりに前原の密使として福岡の矯志社へ箱田六輔と宮川太一郎を訪ねて前原との呼応を語り合った。
前原の門下である横山と、新たな同志である石塚・指宿の来訪は大いに喜ばれ、特に箱田はやる気が燃え上がった。矯志社や堅志社の社員を集め、「兎狩り」と称して福岡郊外の山野で武闘訓練を始めた。
宮川はどこで政府に監視されているかわからぬ中で無警戒が過ぎないか、と忠告するが箱田には聞き入れられない。箱田と宮川はかつての就義隊と併心隊で対立した仲であり、宮川からそういった言葉を受けること自体に箱田の中で反発があったのかもしれない。
そしてついに各地で反乱が起こる。10月24日、国学者林櫻園の門下である熊本新開太神宮の神官大田黒伴雄と錦山神社の神官加屋霽堅ら敬神党170人以上が3月に出された廃刀令に反対して熊本鎮台、県庁などを襲撃する神風連の乱が発生。これに応じた筑前秋月の士族200人が27日挙兵。秋月党は海峡を越えて萩にいる前原一誠の軍と連携しており、翌28日には前原も兵を挙げて萩の乱を起こす。さらに29日には思案橋事件で千葉県庁が襲撃された。
秋月党の益田静方らは挙兵に先立ち福岡の志士たちに策応を求める書を送ってきたものの、武部・越智の二人は薩摩の西郷たちが挙兵するまでは耐え忍ぶように社員たちに指示していた。連携を取り合うことについて西郷の側近と深く盟約を交わしていたし、西郷が動かなければどれほどの実力者が挙兵しようとも現体制を崩すことはできないとも考えていたからである。
しかし萩へ行って前原らと救国や世直しを熱く語り合った箱田・進藤・頭山らにしてみると、それは既に動いている同志たちを見捨てて無駄死にさせる許し難い方針であり、武部・越智が隠忍自重ばかりなのも西郷軍がまったく動く気配を見せないのも「因循姑息」と見えた。いや、むしろ今自分たち福岡の士族が動けば西郷側も重い腰を上げ、皆で力を合わせて世の中を変えることができるのではないか。
そこへ萩の前原のもとから挙兵に際して反政府の義軍を呼び集めるための使者として、同志の奥平謙輔といつぞやぶりの指宿辰次が矯志社を訪ねてくる。
箱田・進藤・頭山がこれを迎えると挙兵に関して熱弁が交わされ、日時・兵器弾薬・兵力・作戦、と充分な打ち合わせがなされた。
また、武部に慰撫されつつも鬱憤を溜めている矯志社の社員たちは近隣の同志を集め、「山狩り」と称し大休山などに盛んに寄り集まっては萩の決起軍応援について協議したり大久保利通暗殺に関する画策も行っていた。
一方の前原一誠は鹿児島の西郷隆盛にも使者として横山俊彦と大橋清贇を送っていた。石塚・指宿たちを通じて以前受け取った密書の文面からも西郷たちの挙兵には大いに期待していたし、密書で頼んでおいた小銃三千挺なども含めて向こうの状況を確認しておきたかった。しかし西郷からは全く予想外の答えが返ってくる。
「その2人は薩摩人だというが、こちらは石塚も指宿も知らない。自分はそちらに書簡など送っていない。政府のスパイと思われるので充分に注意してほしい」
さらに、かつて「この長州防衛隊三千人がいれば世の中ひっくり返せるじゃないですか」などと調子のいいことを言って逮捕投獄され、前原に救われたあの諫早作次郎までもが政府の放った工作員であると判明する。
吉田松陰から誠実さを評価されていた前原だが、人を疑うのが下手だという指導者として致命的な欠陥を抱えていた。政府軍に敗れて敗走した際、前原たちは父母に向けた手紙このような後悔の念を書き残したという。
「……実に此度の失策は何とも箇とも言葉に尽し難く、皆々姦人佐々木諫早等の謀に陥り、終身の残念此事に御座候。七たび人間に生れて、此賊を滅ぼし申す可し……」
どうやら佐々木というスパイも発見されたらしい。不平士族たちの周辺には夥しい数のスパイ網が張り巡らされ、前原らの行動も矯志社の動きもほとんどすべてが政府側に漏れていたのである。前原たちも大概迂闊ではあったが、それにしても謀略家としての大久保体制のなんとすさまじいことか。
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