12 / 50
第二章 頭山満と明治維新と豪傑塾
十一 注目される転入生
しおりを挟む
高場乱の興志塾には「休日は毎月1日と15日」、「病気の時と夜中以外、寝転びながら読書してはならない」「当番の物は清掃や朝食の支度を行うこと」などの決まり事があり、全寮制学校のように生徒たちが住み込みで学んでいた。
眼科の方に患者が来ていない時に授業が行われ、「室内で暴れないこと。ただし庭先でならよろしい」などという塾則もあったので通院する患者は相撲などで盛り上がる塾生たちを横目に見ながら出入りすることもあっただろう。
「若い人が多いですが隣は塾か何かをやっておるのですか」
“片目が急に見えづらくなった”と訴えて医院を訪れた若い大柄な患者――頭山満は部屋の外を見ながら、目の前に座る小柄な医者――高場乱に尋ねた。
「ああ、こんな時代だからね。国士を目指すような大きな志を持った若者を育てたいと思ったのだが……気力の有り余ってるやつばっかり集まってしまって近所から“豪傑塾”だのと呼ばれておる」
「ほお。ところで私も入ってみたいのですが」
「やめとけ。他の塾生は人を殴り倒して牢獄にぶち込まれるぐらいはどうとも思わない腕白モノばかりじゃ。穏便には過ごせぬぞ」
興志塾の塾生が荒くれ者ばかりになってしまった理由は2つある。
一つは塾長高場乱の方針あるいは性格や精神性といったものが、他の塾ならばさじを投げられ集団組織から排除されかねないレベルの暴れん坊でも喜んで迎え入れたこと。
もう一つはそんな暴れん坊を歓迎しすぎて興志塾がむしろおとなしい人の入ってくる方が危ない集団になってしまったことである。なので温和そうな若者が入塾を希望した場合、この時の頭山満のように他所の塾に行くことなどを逆に高場の方から薦められていた。
「そういう風に言われると尚更面白そうに感じます」
まあ、今回の場合頭山満は興志塾のノリにめちゃくちゃ馴染むタイプの若者だったわけだが。
「ああ、君はそっちの手合いかあ……。なら試しに入ってみれば良い」
頷いた頭山満は意気揚々と塾生たちの集まる方へ踏み込んでいった。
「すみません。言ったら聞かない子で……。悪い子ではないんですがきっと面倒をたくさんかけると思います」
満に付き添ってきた義母の歌子が乱に頭を下げる。
「構いませぬ。既にいるやつらが大概ですからな。ところでつかぬことを伺いますが貴女は……」
「義理の母です。彼と歳はあまり変わりませんが男手がいなくなってしまって親類から婿養子に来てもらいました」
「それは失礼した。色々と大変でしょう」
「そちらこそ女手一つであんなたくさんの塾生たちを指導なされて」
「貴女はこの月代を剃った頭が女のものに見えるのか?」
「……いえ。あ、入塾の場合はお代って」
「先に言っておきますが、あまり多く持って来られても困りますからね。前に入塾してきた横田毒という奴は鯛を3尾も持ってきて……1尾は塾生にやるとして2尾もらいましたが残りは持ち帰らせました。その兄も饅頭を持ってきましたが結局半分は持ち帰らせました。食べ過ぎも毒ですから持ってくるなら多すぎないように頼みます」
「……そんな感じで大丈夫なのですか?」
「飯の種は父祖から受け継いだ眼医者の仕事であって、塾の方は私一人の道楽ですから。……そろそろ向こうの様子も見ておくとするか」
高場乱は立ち上がって塾へと向かった。
「もう良い頃だろうか」
「煮えたみたいだな」
義憤に燃える愛国志士といえども、常に藩閥政治打倒の権謀を巡らせていたわけでもない。この時塾生の何人かは鍋料理の完成を待っているところだったが、ちょうどそのタイミングで頭山が入ってきた。そしていつもの彼らしく入って早々に鍋を囲む席に混ざり、最初からいたみたいな面で出来上がった鍋料理を食い始めた。
「え、どちら様?」
「俺の分の箸……」
「皿も新しいのを出してこなくちゃならんぞ」
そこに高場が来ると、頭山の姿を見てにこにこと微笑んだ。
「結構なことだ。もうそんなにご馳走されて」
「勝手に食われたんですけど」
「先生、こいつは患者じゃなかったのですか」
「元患者、そして入塾希望者だ。仲良くしてやってくれ」
「えぇぇ……」
「俺たちが言うのもなんだが随分と濃ゆいのが来たな……」
マイペースな性格の頭山は気質的には興志塾の校風によく合っていたが、最初から他の塾生たちと馴染めたわけではなかった。むしろいじめに遭いかけたらしい。
「オイ、貴様は西新町のコチャポンドノ(与太侍)じゃげなね」
高場乱の塾に入ってきたばかりの時、頭山は箱田六輔か誰か先輩の塾生からこんな風にからかわれたという。
とある本では頭山がこれに対して「はい。武士の子です」とにこやかに返し、どんな嫌味や挑発に対しても年齢に見合わぬ落ち着いた振る舞いで対応して塾生たちから尊敬を集めていったのだという。
しかし、後に有名人になると言っても若い頃の話なので、資料によって記述にばらつきがある。(そもそも興志塾に入ったのが20歳の頃か16歳の頃かもはっきりしない)別の本によれば頭山はこの時こんな風に返したのだそうだ。
「うん。俺はさむらいの子じゃ。おまえたちは昔なら俺が通る時に土下座して頭を下げる人間じゃ。土下座して頭を下げるのはあんまり立派じゃ無いのう」
“年齢に見合わぬ落ち着いた振る舞い”どころではない。福岡藩の馬廻り役百石取りという筒井家に生まれた満は、その場の塾生たちについて「ほんとうの士族の子供といっては俺たった一人で、他は足軽の子供の中のしたたか者たち」とみなしたのだそうだ。
平岡や進藤らの家と比べてどれほどの違いか現代の我々にはわかりづらい(母方の頭山家は18石5人扶持の下級武士だったという)が、これは封建時代の身分意識の凄まじさ以外に「自分より強い奴が向こうから仕掛けてきた時は必ず逆襲してへこませる」という若い時の満の流儀もあったらしい。ちなみに頭山満が腕白な筒井乙次郎だった頃は母親に5回叩かれたら6回殴り返す子供だったという。
常人が真似すればまず間違いなく高校デビューとかに失敗する鮮烈な入塾を果たした後、満と興志塾の塾生たちはお互いを試し合った。
丁度その時授業では子供や初心者向けに要約された中国の歴史読本『十八史略』をやっていたが、塾生たちは新入生を試すために『左伝』(『春秋左氏伝』。孔子の歴史書『春秋』の注釈書)を輪講しようと言って真っ先に満を指名した。
しかし若い頭山満は他の塾生たちを「足軽の子」、越智彦四郎も「足軽の頭の中の豪傑」ぐらいに見ていた上に、塾の講師である高場乱と同じ亀井塾で漢学を修めているため内心“こやつらに『左伝』がやれるか”と笑いながら読んで見せた。
漢学ではうまく満をやり込められなかった塾生たちに対し、今度は満の方が追撃に出た。この時にターゲットにされたのは宮川太一郎である。
かつて武部小四郎らの「就義隊」と対立し、「併心隊」を組織していた宮川太一郎は松浦愚などの塾生を子分として引き連れていたリーダー格の一人であり、また体の方も鴨居に頭がつくというほど背が高い。その上に体重も140斤、これは1斤を600グラムで計算するなら84キログラムになるというとてつもない大男だった。
塾内でも特に図体が大きく子分を引き連れている者をねじ伏せることで満は先輩の塾生に対して優位な立場を確立しようと狙ったのだろう。
彼はまず宮川が高場先生への質問のため席を立った際に、空いた宮川の席に座ってやるという嫌がらせを行った。戻ってきた宮川は変な眼で満を見た。
「その机は俺のだ。なぜそこにおるか」
至極当然の苦情だが満は平然と言い返した。
“留守だったから座った。帰って来たら退くつもりだった。同じ塾の仲間になるのだから席ぐらい貸してくれ”
そう言われて文句を言いながらも席についた宮川は、『十八史略』の続きを読み始めた。日本人が本を読む際のやり方で黙読が主流になったのは明治以後のことと言われ、江戸時代までは読書とは声に出して行う行為というのが一般的であったらしい。(ちなみに古代ローマの大政治家キケロも息子が黙読を行っているのを見て驚いたと書き残しており、西洋にもかつてはそういう習慣があったようだ)おそらくこの時の宮川も漢文を見て、頭の中で書き下し文を作り声に出していた。
満はそこを狙って追撃した。「そこは読みが違う、こう読むんだ。そこも解釈が間違っている。こういう意味だ」と横から口やかましく逐一訂正していったのである。「先生からこのように教わった」と言い返されても満はまったくたじろがなかった。
「先生も、間違いをばしなさる」
宿題は真面目にやっていなかったとはいえ、かつて亀井塾で“筒井の地獄耳”と言われた彼である。昔取った杵柄として漢文読解には絶大の自信を保持していた。その様子を見た宮川は加えて『十八史略』の内容や読み方についての質問を投げかけ、満の方もそれに一つ一つ答えていった。宮川は最初奥歯を軋ませるようなすごい顔で満を見ていたが、やがて静かに本を伏せた。
「こういう風にいつも教えてもらえたなら勉強の進みが非常に速い。これからどうかそういう風にしてもらいたい」
そう言ってとうとう宮川は挑発に来た満を殴ることもしなかった。
頭山満が学問で秀でていたのは事実だろうが、満が大人な態度で他の塾生の尊敬を集めたというよりこのようにお互いを試し合って性格を理解し、尊敬すべきところを認め合っていったのかもしれない。
眼科の方に患者が来ていない時に授業が行われ、「室内で暴れないこと。ただし庭先でならよろしい」などという塾則もあったので通院する患者は相撲などで盛り上がる塾生たちを横目に見ながら出入りすることもあっただろう。
「若い人が多いですが隣は塾か何かをやっておるのですか」
“片目が急に見えづらくなった”と訴えて医院を訪れた若い大柄な患者――頭山満は部屋の外を見ながら、目の前に座る小柄な医者――高場乱に尋ねた。
「ああ、こんな時代だからね。国士を目指すような大きな志を持った若者を育てたいと思ったのだが……気力の有り余ってるやつばっかり集まってしまって近所から“豪傑塾”だのと呼ばれておる」
「ほお。ところで私も入ってみたいのですが」
「やめとけ。他の塾生は人を殴り倒して牢獄にぶち込まれるぐらいはどうとも思わない腕白モノばかりじゃ。穏便には過ごせぬぞ」
興志塾の塾生が荒くれ者ばかりになってしまった理由は2つある。
一つは塾長高場乱の方針あるいは性格や精神性といったものが、他の塾ならばさじを投げられ集団組織から排除されかねないレベルの暴れん坊でも喜んで迎え入れたこと。
もう一つはそんな暴れん坊を歓迎しすぎて興志塾がむしろおとなしい人の入ってくる方が危ない集団になってしまったことである。なので温和そうな若者が入塾を希望した場合、この時の頭山満のように他所の塾に行くことなどを逆に高場の方から薦められていた。
「そういう風に言われると尚更面白そうに感じます」
まあ、今回の場合頭山満は興志塾のノリにめちゃくちゃ馴染むタイプの若者だったわけだが。
「ああ、君はそっちの手合いかあ……。なら試しに入ってみれば良い」
頷いた頭山満は意気揚々と塾生たちの集まる方へ踏み込んでいった。
「すみません。言ったら聞かない子で……。悪い子ではないんですがきっと面倒をたくさんかけると思います」
満に付き添ってきた義母の歌子が乱に頭を下げる。
「構いませぬ。既にいるやつらが大概ですからな。ところでつかぬことを伺いますが貴女は……」
「義理の母です。彼と歳はあまり変わりませんが男手がいなくなってしまって親類から婿養子に来てもらいました」
「それは失礼した。色々と大変でしょう」
「そちらこそ女手一つであんなたくさんの塾生たちを指導なされて」
「貴女はこの月代を剃った頭が女のものに見えるのか?」
「……いえ。あ、入塾の場合はお代って」
「先に言っておきますが、あまり多く持って来られても困りますからね。前に入塾してきた横田毒という奴は鯛を3尾も持ってきて……1尾は塾生にやるとして2尾もらいましたが残りは持ち帰らせました。その兄も饅頭を持ってきましたが結局半分は持ち帰らせました。食べ過ぎも毒ですから持ってくるなら多すぎないように頼みます」
「……そんな感じで大丈夫なのですか?」
「飯の種は父祖から受け継いだ眼医者の仕事であって、塾の方は私一人の道楽ですから。……そろそろ向こうの様子も見ておくとするか」
高場乱は立ち上がって塾へと向かった。
「もう良い頃だろうか」
「煮えたみたいだな」
義憤に燃える愛国志士といえども、常に藩閥政治打倒の権謀を巡らせていたわけでもない。この時塾生の何人かは鍋料理の完成を待っているところだったが、ちょうどそのタイミングで頭山が入ってきた。そしていつもの彼らしく入って早々に鍋を囲む席に混ざり、最初からいたみたいな面で出来上がった鍋料理を食い始めた。
「え、どちら様?」
「俺の分の箸……」
「皿も新しいのを出してこなくちゃならんぞ」
そこに高場が来ると、頭山の姿を見てにこにこと微笑んだ。
「結構なことだ。もうそんなにご馳走されて」
「勝手に食われたんですけど」
「先生、こいつは患者じゃなかったのですか」
「元患者、そして入塾希望者だ。仲良くしてやってくれ」
「えぇぇ……」
「俺たちが言うのもなんだが随分と濃ゆいのが来たな……」
マイペースな性格の頭山は気質的には興志塾の校風によく合っていたが、最初から他の塾生たちと馴染めたわけではなかった。むしろいじめに遭いかけたらしい。
「オイ、貴様は西新町のコチャポンドノ(与太侍)じゃげなね」
高場乱の塾に入ってきたばかりの時、頭山は箱田六輔か誰か先輩の塾生からこんな風にからかわれたという。
とある本では頭山がこれに対して「はい。武士の子です」とにこやかに返し、どんな嫌味や挑発に対しても年齢に見合わぬ落ち着いた振る舞いで対応して塾生たちから尊敬を集めていったのだという。
しかし、後に有名人になると言っても若い頃の話なので、資料によって記述にばらつきがある。(そもそも興志塾に入ったのが20歳の頃か16歳の頃かもはっきりしない)別の本によれば頭山はこの時こんな風に返したのだそうだ。
「うん。俺はさむらいの子じゃ。おまえたちは昔なら俺が通る時に土下座して頭を下げる人間じゃ。土下座して頭を下げるのはあんまり立派じゃ無いのう」
“年齢に見合わぬ落ち着いた振る舞い”どころではない。福岡藩の馬廻り役百石取りという筒井家に生まれた満は、その場の塾生たちについて「ほんとうの士族の子供といっては俺たった一人で、他は足軽の子供の中のしたたか者たち」とみなしたのだそうだ。
平岡や進藤らの家と比べてどれほどの違いか現代の我々にはわかりづらい(母方の頭山家は18石5人扶持の下級武士だったという)が、これは封建時代の身分意識の凄まじさ以外に「自分より強い奴が向こうから仕掛けてきた時は必ず逆襲してへこませる」という若い時の満の流儀もあったらしい。ちなみに頭山満が腕白な筒井乙次郎だった頃は母親に5回叩かれたら6回殴り返す子供だったという。
常人が真似すればまず間違いなく高校デビューとかに失敗する鮮烈な入塾を果たした後、満と興志塾の塾生たちはお互いを試し合った。
丁度その時授業では子供や初心者向けに要約された中国の歴史読本『十八史略』をやっていたが、塾生たちは新入生を試すために『左伝』(『春秋左氏伝』。孔子の歴史書『春秋』の注釈書)を輪講しようと言って真っ先に満を指名した。
しかし若い頭山満は他の塾生たちを「足軽の子」、越智彦四郎も「足軽の頭の中の豪傑」ぐらいに見ていた上に、塾の講師である高場乱と同じ亀井塾で漢学を修めているため内心“こやつらに『左伝』がやれるか”と笑いながら読んで見せた。
漢学ではうまく満をやり込められなかった塾生たちに対し、今度は満の方が追撃に出た。この時にターゲットにされたのは宮川太一郎である。
かつて武部小四郎らの「就義隊」と対立し、「併心隊」を組織していた宮川太一郎は松浦愚などの塾生を子分として引き連れていたリーダー格の一人であり、また体の方も鴨居に頭がつくというほど背が高い。その上に体重も140斤、これは1斤を600グラムで計算するなら84キログラムになるというとてつもない大男だった。
塾内でも特に図体が大きく子分を引き連れている者をねじ伏せることで満は先輩の塾生に対して優位な立場を確立しようと狙ったのだろう。
彼はまず宮川が高場先生への質問のため席を立った際に、空いた宮川の席に座ってやるという嫌がらせを行った。戻ってきた宮川は変な眼で満を見た。
「その机は俺のだ。なぜそこにおるか」
至極当然の苦情だが満は平然と言い返した。
“留守だったから座った。帰って来たら退くつもりだった。同じ塾の仲間になるのだから席ぐらい貸してくれ”
そう言われて文句を言いながらも席についた宮川は、『十八史略』の続きを読み始めた。日本人が本を読む際のやり方で黙読が主流になったのは明治以後のことと言われ、江戸時代までは読書とは声に出して行う行為というのが一般的であったらしい。(ちなみに古代ローマの大政治家キケロも息子が黙読を行っているのを見て驚いたと書き残しており、西洋にもかつてはそういう習慣があったようだ)おそらくこの時の宮川も漢文を見て、頭の中で書き下し文を作り声に出していた。
満はそこを狙って追撃した。「そこは読みが違う、こう読むんだ。そこも解釈が間違っている。こういう意味だ」と横から口やかましく逐一訂正していったのである。「先生からこのように教わった」と言い返されても満はまったくたじろがなかった。
「先生も、間違いをばしなさる」
宿題は真面目にやっていなかったとはいえ、かつて亀井塾で“筒井の地獄耳”と言われた彼である。昔取った杵柄として漢文読解には絶大の自信を保持していた。その様子を見た宮川は加えて『十八史略』の内容や読み方についての質問を投げかけ、満の方もそれに一つ一つ答えていった。宮川は最初奥歯を軋ませるようなすごい顔で満を見ていたが、やがて静かに本を伏せた。
「こういう風にいつも教えてもらえたなら勉強の進みが非常に速い。これからどうかそういう風にしてもらいたい」
そう言ってとうとう宮川は挑発に来た満を殴ることもしなかった。
頭山満が学問で秀でていたのは事実だろうが、満が大人な態度で他の塾生の尊敬を集めたというよりこのようにお互いを試し合って性格を理解し、尊敬すべきところを認め合っていったのかもしれない。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
黄金の檻の高貴な囚人
せりもも
歴史・時代
短編集。ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを囲む人々の、群像劇。
ナポレオンと、敗戦国オーストリアの皇女マリー・ルイーゼの間に生まれた、少年。彼は、父ナポレオンが没落すると、母の実家であるハプスブルク宮廷に引き取られた。やがて、母とも引き離され、一人、ウィーンに幽閉される。
仇敵ナポレオンの息子(だが彼は、オーストリア皇帝の孫だった)に戸惑う、周囲の人々。父への敵意から、懸命に自我を守ろうとする、幼いフランツ。しかしオーストリアには、敵ばかりではなかった……。
ナポレオンの絶頂期から、ウィーン3月革命までを描く。
※カクヨムさんで完結している「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」のスピンオフ短編集です
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129
※星海社さんの座談会(2023.冬)で取り上げて頂いた作品は、こちらではありません。本編に含まれるミステリのひとつを抽出してまとめたもので、公開はしていません
https://sai-zen-sen.jp/works/extras/sfa037/01/01.html
※断りのない画像は、全て、wikiからのパブリック・ドメイン作品です
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる