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第八章 執着する呪いの話
第8話 赤紫色の人外
しおりを挟む『寄越セ』
真っ暗闇の中。背後から、しわがれた声が聞こえた。
湿り気のあるブヨリとした感触のモノが、日和の背中を撫で回す。体に一気に嫌悪感と緊張が走り、日和は顔を歪める。
(嫌だ!)
気持ち悪い感触から逃げようとするが、ブヨブヨとしたモノが日和の体に覆い被さってきた。呼吸と体の自由が奪われる。追い討ちをかけるように、内臓が抜き取られるような感覚に襲われ、日和の体に戦慄が走った。
「やめて!!」
日和は悲鳴を上げて飛び起きた。
バクバクと騒ぐ心臓を両手で押さえながら、周囲を見回す。日和以外、部屋には誰もいない。カーテン越しに差し込んだ夕陽が、室内をオレンジ色に染めていた。
(いつの間にか、眠っちゃってたんだ……)
怖い夢を見ていた気がするが、何があったのかは思い出せない。冬も近いのに、背中に冷や汗が伝った。
寝ている最中に外したのであろう眼鏡とシュシュが、枕の近くに置いてあった。眼鏡を掛けて時計を確認すれば、四時を指している。
(流石に、好下さんも、こんな時間まではいないよね?)
恐怖で動きたくないという思いを無視して、足を前に進める。玄関のドアスコープを覗き込むと、赤紫色しか見えなかった。
(何? 何かで塞がれてる?)
日和が眉を寄せた時、赤紫色の景色の中に白い色が現れた。
「ひっ!?」
思わず悲鳴を上げ、日和は体を仰け反らせてドアスコープから離れる。
カタツムリのような赤紫色の二つの触角。その先には、剥き出しになった人の眼球があった。二つの眼球が、ドアスコープ越しに日和を真っ直ぐに見ている。
(何で!? 人外が見える術は解除してもらった筈なのに……)
前の仕事でかけてもらった怨霊や妖の類が見える術は、壮太郎の手で既に解除されている。呪術以外は、普通の物しか見えない筈だ。
(じゃあ、あれは呪術なの?)
日和は眼鏡を外し、改めてドアスコープを覗く。眼鏡を掛けている時と同じ物が、視力が悪い日和の目にも鮮明に見えてしまった。
(肉眼でも見える……。一体、あれは何なの!? 何が起きているの!?)
外には、得体の知れない人外と、危険人物である好下。
外への連絡手段である携帯は壊れた。
友人も家族も、半年か一年に一回くらいの頻度でしか連絡を取らない。
数日間も連絡が取れなかったら様子を見に来てくれそうな『桃次』の人達は、日和の事を「知らない」と言う。確認出来なかったが、恐らく羽矢太も同じだろう。
(あ、詰みだコレ)
日和は絶望的な状況に俯きかけて、ハッと顔を上げる。
(そうだ! 窓!)
日和の部屋は五階だが、ベランダには階下へ繋がる緊急用のハシゴが有ると、不動産屋から入居時の説明で聞いていた。
(下の階の人に迷惑をかけちゃうけど、事情を話したらわかってくれるかも。とりあえず、荷物を持って外へ出よう!)
日和は部屋に戻り、クローゼットの中を探る。
今日中に家に帰れない場合に備えて、宿泊施設に泊まれるように一泊分の荷物をリュックに詰めた。
意を決して、ベランダへ続く窓の鍵を開ける。
窓を開けた瞬間、日和の体にゾワリと悪寒が走った。
反射的に窓を閉めようとしたが、何かが引っかかる。見れば、窓の隙間に赤紫色の枝のような物が挟まっていた。
枝は先端を折り曲げ、日和に向かって伸びる。危険を感じた瞬間、日和の前で枝がバチンと音を立てて弾かれた。枝が外へ引っ込んだのを見て、日和は急いで窓を閉めて鍵をかける。
心臓が煩く暴れる。
日和が恐る恐る窓の外を見ると、複数の赤紫色の蔓がベランダの柵から這い上がり、窓の外を覆い尽くしていった。季節外れの葡萄が次々と実をつける。真っ黒な葡萄に、日和の目は惹きつけられた。
(……食べたい)
感じていなかった空腹感が、一気に湧き上がる。
たわわに実った葡萄が欲しくてたまらない。今まで味わったことのない極上で甘美な味がするという確信があった。
『葡萄は、縁結び・夫婦円満・子孫繁栄の意味がある。新しい夫婦の誕生祝いだ。思う存分、その身に取り込むがいい』
しわがれた老人の声が耳に響く。
祝いの言葉を笑顔で受け取った後、日和はベランダの鍵に手を掛けた。
『やめろ!』
『ダメ!!』
バチンと音がして、静電気に似た強い痛みが指先に走る。葡萄から視線が外れたことで、日和は正気を取り戻した。
(今、私は何をしようとして……)
明らかに異質な葡萄に魅入られていた自分が信じられなかった。
日和は勢いよくカーテンを閉める。
外へ誘い出そうとする声が窓越しに聞こえたが、耳鳴りが掻き消してくれた。
(明日になれば、きっと全部いなくなってる!! 今日は、もうお風呂に入って寝よう)
現実とも思えない現実から、日和は目を逸らした。
***
真っ暗闇の中、日和は見知らぬ立派な屋敷の門扉の前にいた。
開かれた扉の向こうから、何かがヒラヒラと飛んでくるのが見える。
(赤と白の蝶?)
日和の手に向かって飛んできた二匹の蝶が、突然切り裂かれて地面に落ちる。
驚いていると、日和の目の前に白い狛犬達がいた。
「狛犬さん達!!」
久しぶりに会えた事を喜ぶ日和とは対照的に、振り返った狛犬達の表情は険しかった。
『逃げるぞ! 日和!!』
『こっち!! 早く!!』
二匹の狛犬達が走り出す。日和は戸惑いながらも、狛犬達を追った。
一匹が先導して走り、もう一匹は日和の後ろを走る。日和は苦しさに歯を食いしばる。食事をとっていないせいか、いつも以上に体が動かなかった。
『もうすぐだ! 頑張れ!』
狛犬に言われて前を見れば、見覚えのあるお社があった。
(狛犬さん達がいる神社だ)
閉ざされていた格子状の扉が、ひとりでに開く。
日和は狛犬達と共に、お社の中に駆け込んだ。
背中越しに、扉が閉まる音が聞こえる。床の上に座り込んで乱れた息を整えていると、『ダンッ!』と大きな音がして、扉が揺れた。
扉の方へ振り返ろうとした時、日和の周囲を大きな岩が覆った。
(これ、前も……)
鬼降魔幸恵の禁呪を目撃した日の夜に見た夢の中で、日和を隠してくれた岩と同じだと感じた。
『大丈夫だ』
『守るから』
体に伝わる温かな温もりと優しい声に、岩の正体が狛犬達なのだと理解する。狛犬達に感謝を伝えたくて、日和は目の前にある二つの岩に両手で触れた。
開けろと催促するように、扉を叩く音が響き続ける。
(大丈夫。きっと、大丈夫)
日和はギュッと目を閉じて、恐怖に耐えた。
***
鳴り続ける着信音に起こされ、碧真は目を開ける。
ベッドボードに置いていた携帯を手に取る。半分しか開かない目で画面を睨み付けると、総一郎の名前が表示されていた。碧真は舌打ちして、応答ボタンを押す。
「……はい」
『こんにちわ。碧真君。もうお昼過ぎですよ』
元気な総一郎の声に、若干イラっとする。
「俺が朝型人間じゃないのは知っているでしょう?」
『知っていますが、碧真君は少々寝過ぎかと。寝過ぎも体に毒ですから』
「説教なら切ります」
『ああ、待ってください。ちゃんと用件はありますから』
「じゃあ、さっさと言ってください」
碧真はイライラしながら体を起こす。明日から十二月ということもあってか、布団から出るのが嫌になる寒さだった。
『碧真君。この前の仕事の後、日和さんと連絡を取っていますか?』
総一郎の真剣な声に、碧真は眉を寄せた。
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