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第四章 過去が呪いになる話
第9話 日和の過去
しおりを挟む「あなたの体は、自分の生命維持活動で手一杯の状態なのでしょう。もっと早く病院に来ていただければ良かったのですが……。正常な人の半分以下に縮小してしまった子宮では、子供は出来にくく、産めない可能性が高いです」
パワハラによって消化器官を壊した二十三歳の頃。
食べると内臓に痛みが出る為、食べる事が怖くなり、体重が大幅に減少した。仕事を辞めた後も、職場で受けた仕打ちを思い出し、頑張れなかった自分を責め続けた。徐々に回復していったが、食べる事が苦痛な為に体重は簡単には戻らなかった。必要な栄養素が取れないと、体の機能はおかしくなる。
月経が長い期間止まり、初めて産婦人科を受診した時に医師に言われた言葉。
それまで、女性は望めば子供を産めるものだと思っていた。
周囲も『女性は子供を産むのが当たり前』の様な風潮がある。
日和にとって、この時の医師の言葉は『女性としての終わり』を告げられた死刑宣告のように思えた。
(ああ、私は本当に『失敗作』だ。私は、誰にも愛される資格なんてないんだ)
***
臨月になった湖坂が仕事を辞めると、女性上司達は人が変わったように日和に優しくなった。
他の社員の話によれば、湖坂が男性社員に贔屓されているのが面白くなくて、日和に八つ当たりしていたらしい。
嫌な思いはあったが、努力した結果が少し報われたのだと、日和は嬉しかった。
一ヶ月後、後輩が出来た。
第一印象で『合わない』と感じていたが、せっかく出来た後輩だ。仲良くしたい。
日和は、後輩に自分と同じ様な苦労をさせないように気を遣った。後輩がミスをすれば一緒に謝り、カバーした。女性上司が不機嫌に声を荒げようとすれば庇った。自分が上司にして欲しかった事を、後輩にした。
数ヶ月後、日和は頭を抱える事になる。
後輩はいつまで経っても仕事を覚えようとしなかった。隙を見てサボる。そして、ミスをしても謝らず、知らない顔をしていた。
何度かやんわりと注意しても「あ、はい」で終わり。注意した直後にまた同じミスをした。
半年以上教えている事を一つも理解していない。書類を日付順に並べる事すら、後輩は出来なかった。
後輩に仕事を教えてカバーをし、自分の仕事をして、更に上司から新しい仕事を任される。
頑張れば報われると信じて、日和は人の何倍も働き続けた。
日和が積み上げてきたのは、仕事への努力だけではなかった。
心に積もった暗い淀みが決壊する日が、ついにやってきた。
自分の仕事を終えて帰宅しようとした日和の元に、別部署の男性上司が凄い剣幕でやってきた。
「おい! これはどういう事だ!! 誰がやった!!?」
一枚の資料。その書面を見て、後輩は「げっ」という顔をして目を逸らした。
その書類は、後輩が女性上司に頼まれて作った物だった。大事な物なので、日和が「確認しようか?」と後輩に尋ねた時には「もう提出しました」と言っていた。女性上司も何も言っていなかったので、問題なく出来たのだと思っていた。
「数字も内容も出鱈目じゃないか!! 取引先が大層御立腹だぞ!! 俺の責任じゃない!! お前らが悪いんだから! お前が責任とれ!!!」
男性上司が日和に資料を押し付けて去っていく。資料に目を通せば、確かに出鱈目と言える数字と文章が書かれていた。
「私、定時なんで帰りまーす」
後輩の言葉に、日和は絶句する。後輩は悪びれる様子も反省する事もなく、責任を丸投げして帰った。
後輩より、取引先への対処が大事だと思った日和は、女性上司に相談しようとした。女性上司は目を逸らす。
「赤間さん。後は頼むわ。私も帰って家族にご飯を作らないと」
「え?」
「私達には家庭がある。あなたは独り身で気楽じゃない」
一人置いていかれたオフィスで、日和は受話器を取る。
取引先に謝罪をしながら、日和の頭の中はグチャグチャだった。震える指先でパソコンに入力して資料を作り直した。
全てを終えて退社する頃には、すっかり暗くなっていた。
帰り道を一人歩く。空を見上げれば、金色に輝く月が浮かんでいた。
金色の光に、何処か懐かしさと恋しさを感じて手を伸ばす。
しかし、光はただそこにあるだけで、手に入る事は無い。
日和の携帯にメッセージが届く。開いてみると、湖坂が幸せそうに笑っている写真が送られてきた。
子供も産まれて、旦那さんと三人で笑い合っている。日和が思い描いていた幸せな光景だった。
日和は立ち止まって、携帯を強く握り締めた。
(どうして、私はこんなダメな人生なんだろう。どうして、私は湖坂さんみたいに手に入れられないの?)
日和の人生は何も無い。自分が何をしたいのかもわからない。夢を描いても手に入らない。
母親に『失敗作』だと思われたくなくて、凄い人になれば認めてもらえると思っていた。でも、なれなかった。人の目や評価が怖くて、いつも顔色を伺っている。
仕事だって続かなくて、体壊して、子供を産めない体になって。恋もした事が無いし、誰からも愛された事が無い。希望は、いつもこの手を擦り抜ける。誇れるものなんて何も無い。
(ずるい。ずるい。何で、あなたばかりが幸せなの!? どうしてよ!?)
日和の目に涙が滲む。
浮かんでくる醜い感情。
人の幸せを妬み、人の命が消える事を願った自分がドス黒くて汚くて、惨めで嫌いだ。こんな事を思わせる、この世界の全てが嫌いだ。
(こんな感情知りたくなかった! 綺麗な心で生きていたかった!! どうして、私に、こんな感情を抱かせるの!?)
日和は両手で髪を掻きむしる。怒りと憎しみと悲しみが一気に押し寄せて、自分の感情をコントロール出来ない。
(みんな、みんな大嫌い!! 私、頑張ったでしょ!? 優しくしたし、いい子でいたじゃない!! あなた達の事を大事にしてきたじゃない! それなのに、全然大事にしてくれない!! ふざけるな! みんな、みんな消えてよ!!)
日和は蹲る。
「もう嫌だ……死にたい……」
死んで、消えて、この世から逃げ出したい。
上手くいかない事ばかりの希望も無い人生。
こんなどうしようもない自分を、これからも生きなければいけないのか。
『消してしまおうよ』
突然聞こえた声に、日和は驚いて顔を上げる。
いつの間にか、辺りは一面の雪景色に変わっていた。
日和の視線の先に立っているのは、暗い目をした自分自身だった。
『私を傷つけた人達を全て消してしまおうよ。全部無かった事にしよう。汚い感情も自分の存在も消して。そうしたら、全部綺麗になる』
日和は戸惑い、目を見開く。
生まれてきた事も。苦しんだ事も。悲しい事も。辛かった事も。大嫌いな人達の事も。
私の存在全てを消してしまえたら。ずっと、そう思っていた。
(……思っていた?)
呆けた後、日和はフッと力なく笑った。
「……ああ、そうか。思っていたんだ。少し前まで」
呟いた言葉に、目の前の自分は不思議そうな顔をする。
「私、恨んでいたよ。憎んでいたよ。私が欲しくて、頑張っても手に入らなかったものを、簡単に手に入れる人がいる事。本当に悔しかった。世の中、不平等すぎてさ。頑張りが報われなくて酷い事を言われて。良い関係を築こうとしてもダメで。本当、人生こんなにうまくいかないなら、投げ出したいって思った」
日和は空を見上げる。白い雪の粒。何もかも埋め尽くすような白。
この雪のように、ずっと綺麗な心でいたかった。
「もう我慢したくないって一人で泣いて。生きているのが苦しくて、自殺しようとしても怖くて出来なくて。結局、また体調崩して仕事辞めちゃってさ。そこで、たくさん考えたの。今までの自分の事」
仕事を辞めた日和は、自分の思いを叫ぶように紙の束に書き殴った。
書いて、書いて、部屋中を紙だらけにして。怒り、悲しみ、憎しみも全て書きだした。今まで吐き出せずに溜め込んでいた淀みを言葉にした。
その中で、日和は気づいた。
「私は、誰かの作り出した理想通りになんて生きられない」
日和はずっと、誰かの作り出した『理想の生き方』を叶えようとしていた。
母親に『失敗作』と思われない様に。
会社に必要だと思われる社員として、良い部下、良い同僚、良い先輩に。人の幸せを喜べる良い人間に。結婚して、子供を産んで、普通の家庭を作る事を。
それを手に入れたら、『生きていいよ』と認められると思っていた。
「無理だもん。だって、私は結局、私にしかなれないよ。私は立派な人間にはなれない。不器用で、仕事も続かなくて、恋愛も出来ない。人を羨んで酷い事を思う。ダメダメかもしれない命だけどさ」
日和は自分の胸に手を当てる。心臓が鼓動を刻む。生きていると伝える音がした。
あの日、医者は言ったのだ。
私の体は、自分の生命を維持する為に、子孫を残す機能を削ったのだと。
「私の体は、私を生かそうとした。今まで私が頑張ってきたのも、幸せに生きたいからだよ。上手くいかなくても、私は、私を幸せにしたくて頑張ってたの。私は……そんな自分を”愛おしい”って思った」
日和は目の前の自分を真っ直ぐに見つめた。
「私は消さないよ。自分が大切だから。それに、私には大切な人達がいるから。不器用でも空回りしても受け入れてくれる人は、世界はあるから」
ボロボロになった日和を見て、大切な友人が泣いた。生きる事を願ってくれる人がいた。
日和は、一人きりで生きていたわけじゃなかった。その事に、気づくのが遅かっただけだ。
目の前の自分は、人生に絶望して泣いていた過去の自分だ。
「今は信じられないかもしれないけど、だいぶ生きやすくなってるから。そりゃ、仕事運は相変わらず絶望的だけど、なんとかなってるよ。あとね、お母さんは『失敗作』って言った事を覚えていなかったから。その場のノリみたいな軽いものだったよ。気にしてたのに、何それ畜生って感じ。湖坂さんの赤ちゃんが元気な事も、ちゃんと喜べるようになるから。恋愛は相変わらず出来ていないけどね」
穏やかに笑いかける日和に、過去の自分が目を見開く。
日和は、自分の過去が好きではなかった。恥ずかしくて惨めで。不器用で誰にも誇れない人生だと思っていた。今でも、過去の自分の全てを許せたわけではない。
けれど、過去を見せられて思う。
「黒歴史ばっかの恥ずかしい過去でも、私にとっては『生きてきた大事な時間』だよ。愛おしい自分が重ねてきた大切なもの。生きていてくれてありがとう。辛い時でも、あなたが生きてくれたから。今、私はここにいる」
綺麗な心でいたかった。
だけど、綺麗じゃなければ、生きていけないわけじゃない。
汚れた心でも、人は生きていける。
「私は、私を誇らしく思う!」
過去の自分の頬に、涙が伝う。
吹雪が過去と今の自分を隔てる様に視界を覆っていく。
薄れゆく意識の中で『ありがとう』と言ったのは、今の自分か、それとも過去の自分の言葉だったのだろうか。
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