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第四章 過去が呪いになる話
第1話 壮太郎からのお誘い
しおりを挟む無機質なコンクリートの壁に囲まれた暗い牢。
絶望を形にしたような空間に、ジャラリと鎖が揺れる音が響いた。
「うぅっ……」
鬼降魔幸恵は、思うように動かない足を引きずる。白く痩せ細った両足首には、頑強な黒の足枷が嵌められている。足枷から伸びる太い鎖は、石畳の床に固定されて幸恵の自由を奪っていた。
手首にも付けられている重たく冷たい枷を見つめて、幸恵はひび割れた唇を開く。
「どうして、こうなったの?」
虚ろな目から零れ落ちた涙が、痩せこけた頬の上を伝う。
鬼降魔家で禁呪を使用した者が入れられるという呪罰行きの牢。
幸恵は三ヶ月もの間、この場所に居た。
三方向を囲むコンクリートの壁には、夥しい量の術式が模様のように描かれ、不気味な雰囲気を醸し出している。光が入るような窓もなく、眼前には頑強な黒い鉄格子があるだけ。暗くジメジメとした空間では、気分も弱り果てる。閉じ込められる者に対して慈悲は無い。食事は出るが、一日に二回、最低限の物だ。
牢の中では呪術も加護も使えない。その上、許可の無い者が鉄格子に触れると、火傷を負う程の熱を持つ。
幸恵は掌に負った火傷の跡を見下ろした後、両手で顔を覆って泣いた。
幸せになりたかっただけなのに。
奪われたモノを取り返したかっただけなのに。
どうして、私だけがこんなに不幸なの?
幾度も繰り返した思考が、幸恵の心を掻き乱す。
幸恵にとって唯一の宝物である息子とも会えていない。
牢に閉じ込められてから、鬼降魔の当主は何度か幸恵の元を訪れた。
幸恵は禁呪を使った罰として、呪術や呪具の実験体にされる事が決まったらしい。
幼い頃に両親から聞いた話は、子供騙しの作り話ではなく、真実だったようだ。
幸恵は閉じ込められてから、検査や実験の為に何度も血を抜かれていた。
ひと月程前に結人間家の当主も呪罰牢を訪れ、幸恵を見て「良い材料だ」と口にしていた。幸恵の事を『人』ではなく、『物』として見る目と言葉。最早、幸恵に人権は無いのだろう。
六日後に、幸恵は解体される。
幸恵の元へ訪れた鬼降魔家当主の話によれば、息子は旦那に引き取られて元気に暮らしているらしい。
(あんな浮気者の父親の所にいて、幸せになれるわけがないのに!!)
幸恵は歯を食いしばり、怒りに震える。
(ここから出て、あの子に会わなくちゃ!! 私は、あの子と幸せになるのよ!!)
幸恵の決意を邪魔する頑強な枷。引っ張ったり殴りつけてみても、ビクともしない。
牢に近づく足音が聞こえて、幸恵は青ざめる。
また血を抜かれるのだろうかと怯えた幸恵は、鉄格子から離れ、部屋の隅に蹲って震えた。
足音が、幸恵のいる牢の前で止まる。
「迎えにきたよ。お母さん」
幸恵は驚いて顔を上げる。
牢の前にいる人物は、優しい笑みを浮かべて幸恵を見下ろしていた。
***
「お電話ありがとうございます。『自然庵 桃次』の赤間でございます。……はい。ご注文ですね! ありがとうございます」
電話を取った日和はパソコンに入力しながら注文を受ける。
日和は現在、ネット通販が主な小さな食料品店『自然庵 桃次』の店舗事務補佐として働いている。
勤め始めて二ヶ月目。ようやく、仕事にも少し慣れてきたところだ。
接客も事務も経験はあるが、やはり職場が違えば勝手が違う。慣れるまで混乱しっぱなしだったが、職場の人が優しいので、今まで体験したことが無い程に穏やかな気持ちで働けている。
鬼降魔家の当主である総一郎に雇われた日和にとって、一番優先されるのは呪い関連の仕事だ。出勤日数の割合が多い『桃次』でも、日和は臨時で手伝いに来てくれる『補佐』という位置づけである。
のんびりとした居心地の良い職場なので、日和としては『桃次』だけで働きたい。
「日和ちゃん。そろそろ休憩に行っておいで」
店長の奥さんであり、副店長である桃子が声を掛けてくれた。日和は笑顔で頷き、休憩室へ向かう。
休憩室には、職場の先輩である真矢がいた。真矢は日和より四つ年上の頼りになるお姉さんだ。
「日和ちゃん。お疲れー」
真矢はウェーブのかかった長い髪をかき上げながらニコリと笑った。
「お疲れ様です」
日和も笑顔で挨拶を返した後、テーブルの上に目を向ける。
テーブルの上には、おにぎり、煮物、漬物が並べられている。
桃子が従業員の為に毎日作っている賄い料理だ。休憩中は自由に食べて良いし、余った場合は持ち帰りしても良いので、一人暮らしの身にはとても助かる。
大皿にあった料理を取り皿の上に載せ、日和はニコニコしながら里芋の煮物を口に運んだ。
「おいし~。幸せ~」
日和は普段は自炊をしている。自分好みの味なので美味しく感じるが、毎食自分の料理だと飽きてしまう。他の人が作った料理を無性に食べたくなるし、誰かが自分の為に作ってくれた料理は幸せな美味しさを感じる。
幸せを噛み締めている日和を見て、真矢は笑った。
「日和ちゃんは、食べてる時が一番幸せそうだよね」
「確かに食べるのは好きですが‥……」
日和は職場では『よく食べる人』扱いをされる。賄い料理を幸せそうに頬張り、お菓子を貰った際には飛び跳ねて喜ぶからだろう。お店に来る常連客からも、よくお菓子を貰っていた。
(食べられる事は幸せだけど、そろそろ痩せないとヤバイよね……)
この前から思っていたが、最近腰まわりに謎のお肉が付いてきている。人に抱えられた事が黒歴史になるくらいには、危機感を感じる肉付きだ。
日和はお皿の上で輝く愛情たっぷりの賄い料理を見つめる。
(ダ、ダイエットは明日から!!)
幾度も思い、打ち破られた決意を胸に料理を口へ運んだ。
「お疲れでーす」
休憩室の扉が開き、羽矢太が入ってきた。羽矢太は日和と同い年の男性だ。
「「お疲れ様ー」」
真矢と日和は挨拶を返す。三人で談笑しながら昼食を食べ、和やかな休憩時間を過ごす。
「そういえば、ひよっちは本家の仕事の方はどう? 慣れた?」
羽矢太の問いに、日和の笑みが消える。
鬼降魔幸恵の禁呪の目撃から始まり、鬼降魔愛美の呪具探し。そして、先月の出張で起きた、とある村の守り神の邪神化。銃を持った人間と対峙した時は、死にそうな目に遭った。
日和は鬼降魔家の仕事から手を引きたかったが、結人間壮太郎との約束により、あと半年は継続しなければならなくなった。
「今の鬼降魔の人手不足は否めないけど、一般人の日和ちゃんを呪いの仕事に関わらせるなんて……。今代の当主は何を考えているのかしら?」
真矢は頬杖をつき、不愉快そうな表情を浮かべる。羽矢太は口に入れた煮物を咀嚼した後、眉を下げて溜め息を吐いた。
「鬼降魔の中で実力のある四つの家の内、三つもなくなっちゃいましたもんね。鬼降魔では、呪術を使える人間も段々と減ってきているのが現状ですし」
羽矢太の言葉に、日和は首を傾げる。
「四つの家?」
「鬼降魔家には、歴代の当主を支える四つの家があったの。鬼降魔の呪術に精通し、優れた術者がいる家。呪い関係の仕事に関わり、一族を管理していた。けれど、十七年前、十五年前と続けて二つの家がなくなって、五年前にも三つ目の家がなくなった。残っているのは、呪罰牢を管理している家のみね」
日和の疑問に答えた後、真矢は眉を寄せる。
「今の鬼降魔は、力の無い雛鳥のようなものよ。丈さんがいるからまだいいけど、今代の当主は経験も実力も人望も足りていない。一族内で問題が起きた場合、ちゃんと対処出来るかわからないわ」
真矢の言葉に、羽矢太も頷く。
「俺の家は末端だから、本家の事情は詳しく知らないですけど。丈さんがいなくなったら終わりだって、親父達も言ってますよ。天翔慈家の人達も、丈さんを引き抜きたいみたいですし」
羽矢太は料理を咀嚼しながら唸った後、日和に目を向けた。
「そういえば、ひよっちは天翔慈家の若様と会ったりするの?」
「若様?」
突然話を振られ、日和はキョトンとする。
「天翔慈家現当主の一人息子、天翔慈上総之介様よ」
「え゛っ!?」
真矢に言われて、日和は驚く。
丈から上総之介が天翔慈家の人間だという事は教えてもらっていたが、当主の息子だとは知らなかった。
(そういえば、最初に会った時も迎えに来た人に”若”って呼ばれてたよね……。丈さんも総一郎さんも敬う呼び方をしていたし……。すごく偉い人と呑気に一緒にゲームしてたってことか……)
「天翔慈家の若様の地位も微妙なところだから、丈さんを味方にして地位を盤石にしたい筈よ」
「ああ。前当主派ですか? 天翔慈家は、次期当主争いがありますからね」
(なんか面倒そうだな……。まあ、私には関係ない話だよね。上総之介さんとは一緒にゲームしただけで、私自身は天翔慈家とは関わりが無いし。鬼降魔家の仕事だって、碧真君についていくだけのオマケみたいなものだし)
羽矢太と真矢の話を他人事のように聞きながら、日和はおにぎりを食べる。おにぎりを食べ終えた時、日和の携帯が着信を知らせて振動した。
画面に映し出された名前を見て、日和は驚く。
通話する為に、店の外へ出た。
交通量の多い道路から離れ、なるべく静かな場所に移動して応答ボタンを押す。
『ヤッホー。ピヨ子ちゃん。元気にしてる?』
電話から聞こえる弾むような声。通話の相手は壮太郎だった。
「元気ですよ。どうしたんですか?」
『ピヨ子ちゃん、今週の金曜日はお休みって言ってたよね? 予定が無いなら、月人君の見送りとチビノスケのお見舞いに一緒に行かない?』
先月の出張で訪れた村で出会った青年、月人。
守り神の邪神化を企む人達に怪我を負わされて、月人と碧真は入院している。月人は今週退院し、碧真も来週には退院する予定になっていた。
月人は退院後は天翔慈家に行くようなので、今後会う機会があるかはわからない。
「月人さんの見送りはいいのですが、碧真君は私がお見舞いに行っても喜ばないんじゃないですか?」
不機嫌顔の碧真しか頭に思い浮かばず、日和は苦い表情をする。電話越しに壮太郎が笑った。
『それはどうだろうね。まあ、ピヨ子ちゃんが行きたいかだよ』
(……特に予定も無いし。月人さんのことも見送りたいし。月人さんと碧真君が元気か気になる……)
最後に二人を見た時は酷い怪我だった為、心配はしていた。日和は少し悩んだ後に口を開く。
「行きます」
『オッケー。じゃあ、金曜日に丈君と一緒に迎えに行くから、十時にマンションの外で待っていてね』
壮太郎との通話を終えた後、日和は空を見上げる。
あの夏の出張から、気づけばもう三週間も経っていた。
季節は変わり、空は夏の鮮やかな色から秋の柔らかな色に変わっている。
日和は、ふと思う。
「お土産……どうしよう?」
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