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第一章 呪いを見つけてしまった話
第11話 幸恵の人生
しおりを挟む幸恵の人生は、叫び出したくなる程に惨めなものだった。
両親はいた。暴力を受けていたわけでも、金銭的に苦労したわけでもない。平凡な日々。何も知らない他人は、『恵まれている』『他にも不幸な人は大勢いるんだぞ』という言葉を正義のように振りかざして、幸恵を責めるのだろう。
けれど、幸恵は幸せではなかった。
妹が生まれてから、「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と毎日言われる。妹が幸恵の大事な人形を欲しがって、渡す事を拒んでいたら、「お姉ちゃんなんだから、妹にあげなさい」と両親に怒られ、大事な人形は妹の物になった。
転んで怪我をして母親に泣きつけば、不機嫌な顔で睨まれるだけで何もしてくれなかった。妹が同じ目に遭えば、優しく頭を撫でて手当てをするのに。
(ああ、私は愛されていないんだ)
両親から注がれる愛情の大きさの違いに、幸恵は常に寂しさを感じていた。
母親の存在は、幸恵にとって世界の全てだった。
母親に嫌われてる自分は、世界の全てから嫌われている。
我慢しないといけない、迷惑をかけてはいけない。
そうしないと、嫌われて、存在する事も出来ない。私は、いらない存在だから。
学校では、幸恵は周囲の人達にとって『嫌な事を押し付られる便利な存在』となった。
嫌われる恐怖で何も言えなくて、愛想笑いで誤魔化して理不尽を受け入れる。それを何度繰り返しただろう。
就職しても学生時代と同じで、面倒で嫌な仕事を押し付けられて、手柄は他の人達の物になった。幸恵を評価する人間などいない。
存在しているのに、見えない亡霊のような毎日。
生きているのか、死んでいるのかわからなかった。
死を望んでいた。誰も悲しまないのなら、この命は不要なだけだろう。
自殺しようと、手に取った果物ナイフを自分に向けても、怖くて手が震えて出来なかった。
いらない人間なのに、死ぬ事も出来ない臆病者。
「……私の人生って、なんなの?」
部屋の中で、ひとり呟いた言葉に、答えなど無かった。
二十九歳の時、幸恵の人生に初めての光が訪れた。
職場の取引先の営業の男性から連絡先を聞かれて、交際する事になったのだ。
(こんな私を好きになってくれるなんて奇跡だ。精一杯、この人に尽くさないと)
幸恵は幸せだった。一年の交際期間の後、結婚した。疎遠だった母親も喜んでくれた。
(結婚出来たから、私は幸せになれる)
幸恵は、そう信じていた。
旦那は優しかった。幸恵は会社を退職して専業主婦になった。
幸恵にとって二回目の光は、息子が生まれた事だった。
結婚してから二年目に授かった子供。旦那も義理の両親も喜んでくれた。幸恵の両親は、同じ時期に出産予定の妹に付き添って来なかった。
(また、妹を優先するのね)
仄暗い思いが、幸恵の中に生まれる。
(けど、いいわ。こっちから捨ててやる)
幸恵は顔を見せない両親に見切りをつけた。もう二度と会わないだろうが、それでいい。
幸恵は幸せの象徴である我が子を抱きしめる。
(この子と一緒に、私は幸せになるの)
息子は、体の弱い子だった。
息子に母乳を与えようとしても、うまく飲めないのか、途中でやめる。無理して飲ませようとしても吐いてしまう。医者にミルクを十分に与えるように注意されるが、飲んでくれない。よくわからないことで泣き出す。
睡眠時間も息子の世話で削れて、幸恵は常に疲労困憊だった。
「僕がやるから、幸恵は寝なよ」
旦那の言葉に、幸恵は首を横に振って拒否した。
旦那は仕事で疲れているだろう。その上、家事や育児を押し付ければ、幸恵は存在する意味がない。
幼い頃に母親に甘えようとして、不機嫌な表情を向けられた事を思い出す。
(旦那に甘えて嫌われたら……。駄目。怖い!)
旦那が甘やかそうとするのを、幸恵は恐怖から断り続けた。
子供が生まれてから、義母が度々家に来るようになった。
「私がこの子の面倒を見るから、気晴らしにお出かけするといいわ」
義母が息子を抱き上げて、幸恵に笑顔で言う。その笑顔の裏を、幸恵は考える。
(子育ても満足に出来ないと思われているのね。このままじゃ、ダメ嫁扱いされて、一生嫌味を言われ続けてしまう!)
幸恵は首を横に振り、「大丈夫です」と言って、義母の申し出を断った。
息子が十歳になった時、旦那の帰りが遅い日が続いた。
幸恵が問い質すと、「大きな取引があるから忙しい」と答える。
(嘘だ。私に愛想を尽かして、浮気をしているに決まってる!!)
幸恵は旦那の浮気を調べ始めた。
幸恵が素人だからか、証拠が見つからない。探偵を使って調べたが、浮気に関する情報は手に入らなかった。探偵は「旦那さんは浮気していないと思われます。奥さんの勘違いですよ」と他人事のように笑っていた。
(旦那は巧妙な手口で浮気を隠しているのよ! あの人も私を裏切るんだ! 絶対に証拠を見つけてやる!!)
『今日も遅くなる』とメールしてきた旦那を、幸恵は駅で待ち伏せした。
「お母さん、お腹空いた。お父さんは、まだ来ないの?」
家族で外食すると言って息子を連れてきていた。時刻は二十時。駅に着いてから一時間は経っている。
「大人しくしていなさい」
息子の顔を見ずに、幸恵は駅から出てくる通行人達を睨みつける。
探偵の調べでは、旦那は自宅の最寄駅で会社の人達と別れていたらしい。駅を見張っていれば、浮気現場を抑える事が出来る筈だ。
旦那の姿が見えて、幸恵はカッと目を見開く。
(やっぱり、浮気してたのね!!)
旦那の隣には、スーツ姿の女性がいた。仲良さそうに話している二人を見て、幸恵の心に怒りが湧き上がる。怒りを込めて歩く靴音が、駅の構内に煩く響く。
「あなた!!」
声をかけると、旦那は驚いたように振り返り、幸恵に笑顔を見せた。
「幸恵。どうしたんだ? 迎えに来てくれたのか?」
浮気をしているというのに、旦那は嬉しそうな顔で幸恵を見ている。自分に罪が無いという態度に、幸恵は悔しくなった。
(あなたまで、私を踏みにじるのね!)
いつもいつも、幸恵は他人に踏みにじられてきた。旦那も、”幸恵は浮気されても仕方が無い女”だと思っているのだろう。
「浮気者! 信じてたのに!!」
「は!? う、浮気!? ま、待て、幸恵」
「お母さん!?」
旦那と息子が驚いた声を上げる。幸恵は泣きながら、走って一人で家に帰った。
時間を置いて、旦那と息子が一緒に帰ってきた。
息子を置き去りにしてしまったのだと、後になって気づいた。
(私はダメな母親だ。違う、浮気した旦那のせいよ!)
旦那は浮気を否定した。
「一緒にいたのは会社の後輩だよ。浮気なんかしていない。それに、あの時、男の同僚も上司も一緒にいただろう?」
「見てない! 裏切り者!! 嘘を吐かないでよ!!」
裏切り者の旦那の言葉を拒絶して、幸恵は手当たり次第に物を投げつけた。
「どうして、信じてくれないんだ? 僕は君の事を大事に想っているのに」
「悪いのはそっちでしょ!? 加害者のくせに、被害者ぶらないでよ!!」
傷ついた顔をする旦那に、幸恵は更に怒りが増した。
傷つけられたのは被害者は、幸恵なのだ。
息子が十一歳になる頃、幸恵は旦那と離婚した。親権は幸恵が勝ち取った。
旦那は養育費を払うと言ったが、裏切り者のお金なんて貰えないと突っぱねた。
幸恵は再び働き始めた。仕事は、残業が常にある建設会社の事務員だ。
今は独身時代に貯めた貯金があるからいいが、数年経てば生活は苦しくなるだろう。息子に惨めな思いをさせるわけにはいかないと、幸恵は我慢しながら毎日遅くまで働いた。
「力になれる事があったら言ってくださいね!」
職場の人達が声を掛けてくる。親切な言葉と笑顔の裏を、幸恵は考える。
(この人達は内心では私の事を「シングルマザーで惨めな女」って馬鹿にしているんだわ)
幸恵は悔しい思いを抱いた。
旦那と離婚してから、息子は悲しそうな顔をする事が多くなった。体が弱いせいで、学校も休みがちだ。幸恵は仕事がある為、息子を家で一人で留守番させなくてはいけない。可哀想な子だと、幸恵は涙した。
(馬鹿にされないように頑張らなくちゃ。あの子の為にも)
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