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フローレインは、王宮の重々しい大理石の廊下の中央階段を3階から1階へ、人並みをかき分け、スカートの裾を持ち上げながら小走りに駆けていく。
本来の淑女であったなら、廊下を走るなど、あるまじき行為だとは重々承知している。
(でも、もうわたくしは王妃としての役割はないんだわ。わたくしのこれまでの教育も、習い事も、礼儀も何もかも無駄だった! わたくし自身さえ)
エントランスを出ると、夜空に星はなく、ポツリポツリと雨の雫が落ちてきていた。
(もう、おしまい……)
迎えの馬車が待っていたが、フローレインは首を振って振り切り、雨の中、宮殿の広大な庭園をぼんやりと歩き出した。
びしょ濡れになりながら、池の桟橋から水面の波紋を眺めていた時だった。
背後から傘を差されて、虚ろ顔で振りかえると、
「フローレイン嬢。風邪をひきますよ」
中等部から知っているグレッグ公爵子息がいつもの笑顔で立っていた。
グレッグは、12歳の頃、中等部の途中から転入してきた同級だった。
地方の田舎の男爵家から、由緒ある公爵家の跡取りとして、養子で迎えられた。と、女子友だちから聞いてはいたが、その程度くらいしか、興味はなかった。
これまでも、礼儀として挨拶程度くらいしか、彼とは付き合いはない。いつも笑顔で女の子には囲まれていた。とても温和で親切、成績も上位にいた。
そんな人気の彼なのに、どこかに秘めた陰があり、あまり胸の内を明かすようなことはしない。積極的に他人と関わるタイプでもない。
「グレッグ様、何の真似でしょうか? わたくしにご同情なさっても無駄ですわよ……」
フローレインは、ぶっきらぼうに返答して、傘を突き返す。そして、とがらせた唇で、さらに言い放った。
「わたくしに構わないでください。あなたには関係ないのです」
グレッグは笑顔をやめて、真剣な眼差しを向けた。
「関係なくはないですよ。ぼくは、中等部からこれまでいつも頑張っているあなたを見てきた。そして、今ほど、悲しそうな顔を見たこともありません」
「ご冗談を! わたくしの顔をご覧になって。一粒も涙なんか流してません。ほら、ご覧になってよ!」
フローレインは、平然を装いながら、グレッグに顔をつき出して見せた。口元を無理矢理、ほころばせたりもした。
「やっぱり、君は泣いている。あなたは、不幸なのです。同じ瞳だった、あの方と同じ目ですから」
グレッグの視線は、偽りの仮面ではなく、真っ直ぐにフローレインの瞳から彼女の心を射貫いていた。
(なぜ、わたくしの本心を……。同じ目の彼女って、どなた? わたくしは不幸?)
そう思った瞬間だった。彼女の目の縁からポロッと押し寄せた白波が頬を伝って、ふきこぼれ落ちたのだ。
(まさか。泣いたりするはずない……)
婚約が決まってから、フローレインは泣いたことがない。泣いたりするのは、王妃としてあるまじき行為だと、何度も家庭教師から指導されてきた。
他人に弱みを見せれば、相手はその隙を突いてくる。敵に背中を向ければ、威厳をなくして、あざけりを受ける。王妃たるもの、他国の要人たちにそんな付け入る機会は与えてはならない。と、あんなに口やかましく養育されてきたはずだ。
(でも、な、なぜなの……。ありえないわ、こんな他人に弱みを)
急に目まいがして、フローレインはふらっとよろめき、グレッグの胸にしがみついていた。
見た目はほっそり、頼りなげに見える細身なのに、予想以上に頑強でしなやかなのだ。
(……なんて、たくましいのかしら。そういえば、わたくしは異性に触れたこともなかったのだわ。婚約しておきながら)
そう思う心とは、弱みを握らせまいと、フローレインは、グレッグを見あげて、威嚇の声を上げる。
「……わたくし、すぐにしゃんとします。調子になど、乗らないことね。わたくし、あなたなんか、どうでもいい存在。あなたは田舎男爵の、ただの養子なのですってね。身分は、わたくしの方が上。あなたなど大嫌いなのです。わたくし、ただ、疲れているだけです。あなたなど、ただの椅子同然ですから!」
自衛のための、本音ではない冷たい暴言。吐くたびに、フローレインの胸にトゲが刺さるような痛みを覚える。
(……わたくしは歪んでいるわ。殿下に捨てられて当然なのですね。だから、殿下は息が詰まると……。わたくしは、わたくし自身が、嫌い)
立場の低い者を無視をしたり馬鹿にしたりして、それでどれほど大切な親友を失ったのだろう。気づいたら、周りにはフローレインに取り入ろうとする、気の置けない、利害関係者ばかりの、公爵家や騎士団長の侯爵家の取り巻きばかりになっていた。
グレッグは、怒らない。何も言わない。添え木のように、フローレインがすがりついているのを、ただそっと見守っているだけだ。
(彼は、本当に、わたくしの心中を察して……。わたくし、彼の前では自分自身のままでいたい。彼に甘えたい。悲しみを受け止めてほしい)
その瞬間、フローレインの喉奥から激しい嗚咽が突き上げてきた。彼女は赤子のように、むせび泣きながら、グレッグの胸に顔を押しつけていた。
本来の淑女であったなら、廊下を走るなど、あるまじき行為だとは重々承知している。
(でも、もうわたくしは王妃としての役割はないんだわ。わたくしのこれまでの教育も、習い事も、礼儀も何もかも無駄だった! わたくし自身さえ)
エントランスを出ると、夜空に星はなく、ポツリポツリと雨の雫が落ちてきていた。
(もう、おしまい……)
迎えの馬車が待っていたが、フローレインは首を振って振り切り、雨の中、宮殿の広大な庭園をぼんやりと歩き出した。
びしょ濡れになりながら、池の桟橋から水面の波紋を眺めていた時だった。
背後から傘を差されて、虚ろ顔で振りかえると、
「フローレイン嬢。風邪をひきますよ」
中等部から知っているグレッグ公爵子息がいつもの笑顔で立っていた。
グレッグは、12歳の頃、中等部の途中から転入してきた同級だった。
地方の田舎の男爵家から、由緒ある公爵家の跡取りとして、養子で迎えられた。と、女子友だちから聞いてはいたが、その程度くらいしか、興味はなかった。
これまでも、礼儀として挨拶程度くらいしか、彼とは付き合いはない。いつも笑顔で女の子には囲まれていた。とても温和で親切、成績も上位にいた。
そんな人気の彼なのに、どこかに秘めた陰があり、あまり胸の内を明かすようなことはしない。積極的に他人と関わるタイプでもない。
「グレッグ様、何の真似でしょうか? わたくしにご同情なさっても無駄ですわよ……」
フローレインは、ぶっきらぼうに返答して、傘を突き返す。そして、とがらせた唇で、さらに言い放った。
「わたくしに構わないでください。あなたには関係ないのです」
グレッグは笑顔をやめて、真剣な眼差しを向けた。
「関係なくはないですよ。ぼくは、中等部からこれまでいつも頑張っているあなたを見てきた。そして、今ほど、悲しそうな顔を見たこともありません」
「ご冗談を! わたくしの顔をご覧になって。一粒も涙なんか流してません。ほら、ご覧になってよ!」
フローレインは、平然を装いながら、グレッグに顔をつき出して見せた。口元を無理矢理、ほころばせたりもした。
「やっぱり、君は泣いている。あなたは、不幸なのです。同じ瞳だった、あの方と同じ目ですから」
グレッグの視線は、偽りの仮面ではなく、真っ直ぐにフローレインの瞳から彼女の心を射貫いていた。
(なぜ、わたくしの本心を……。同じ目の彼女って、どなた? わたくしは不幸?)
そう思った瞬間だった。彼女の目の縁からポロッと押し寄せた白波が頬を伝って、ふきこぼれ落ちたのだ。
(まさか。泣いたりするはずない……)
婚約が決まってから、フローレインは泣いたことがない。泣いたりするのは、王妃としてあるまじき行為だと、何度も家庭教師から指導されてきた。
他人に弱みを見せれば、相手はその隙を突いてくる。敵に背中を向ければ、威厳をなくして、あざけりを受ける。王妃たるもの、他国の要人たちにそんな付け入る機会は与えてはならない。と、あんなに口やかましく養育されてきたはずだ。
(でも、な、なぜなの……。ありえないわ、こんな他人に弱みを)
急に目まいがして、フローレインはふらっとよろめき、グレッグの胸にしがみついていた。
見た目はほっそり、頼りなげに見える細身なのに、予想以上に頑強でしなやかなのだ。
(……なんて、たくましいのかしら。そういえば、わたくしは異性に触れたこともなかったのだわ。婚約しておきながら)
そう思う心とは、弱みを握らせまいと、フローレインは、グレッグを見あげて、威嚇の声を上げる。
「……わたくし、すぐにしゃんとします。調子になど、乗らないことね。わたくし、あなたなんか、どうでもいい存在。あなたは田舎男爵の、ただの養子なのですってね。身分は、わたくしの方が上。あなたなど大嫌いなのです。わたくし、ただ、疲れているだけです。あなたなど、ただの椅子同然ですから!」
自衛のための、本音ではない冷たい暴言。吐くたびに、フローレインの胸にトゲが刺さるような痛みを覚える。
(……わたくしは歪んでいるわ。殿下に捨てられて当然なのですね。だから、殿下は息が詰まると……。わたくしは、わたくし自身が、嫌い)
立場の低い者を無視をしたり馬鹿にしたりして、それでどれほど大切な親友を失ったのだろう。気づいたら、周りにはフローレインに取り入ろうとする、気の置けない、利害関係者ばかりの、公爵家や騎士団長の侯爵家の取り巻きばかりになっていた。
グレッグは、怒らない。何も言わない。添え木のように、フローレインがすがりついているのを、ただそっと見守っているだけだ。
(彼は、本当に、わたくしの心中を察して……。わたくし、彼の前では自分自身のままでいたい。彼に甘えたい。悲しみを受け止めてほしい)
その瞬間、フローレインの喉奥から激しい嗚咽が突き上げてきた。彼女は赤子のように、むせび泣きながら、グレッグの胸に顔を押しつけていた。
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