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刻まれた記憶

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 光子はジャージに着替えると、膝を抱えて座り込んでいた。

「光子さん、ちょっと散歩でもどうですか?」

 見上げると、登が微笑んで立っている。
 2人は近所を歩いた。
 相変わらずドンドンと、工場から単調な音が響く。

 青白い顔をした作業員が数人、戸口でタバコの煙を吐き出している。

「彼らはこうやって日々を過ごしています。わずかな報酬で、団地の家族を養うために。あるいは、自分のために」
 登は辺りを見回した。

「ここは自動車の部品を作っている中小企業です。新興国の台頭で、日本の企業は厳しい競争に追い込まれています。だから親会社からは安い部品を作れと急かされているわけです。それが出来なければ、他の工場に発注を回されてしまいます」

「厳しいのね…」

「稽古場は、元はそういう工場で、厳しいコスト削減で潰れたのです。夜逃げ同然で撤退した場所を、僕たちは文化の拠点として蘇らせました。僕は、そんな不幸の原因が人間のもつ欲望にあることを実感しました」
「欲望、ですか?」

「そうです。わずかな1つの椅子を求めて、数百人が惨めなゲームを繰り広げている。そこで弱肉強食のサバイバルが繰り広げられている。そして、わずかな勝者と多数の犠牲者が現れる。僕の父親のように」
 光子は立ち止まった。

「どうしました?」
 登は振り向いて微笑む。

「そんなに怖い顔しないで。ただ、ちゃんと話しておきたいのです。あなたに対しては正直でいたいですからね」
「ええ…」

 光子が歩き出すと、彼は続けた。
「父は、ある企業の弁護士をしていました。
 当時、その会社は急成長していました。ろくに知識もないのに研究所や工場を建てました。
 しかし、作った薬は欠陥があったのです。服用した患者はめまいや吐き気、深刻な場合呼吸困難になりました。
 それを承知で、父親は嘘をつき続けました。患者の方が悪いのだ、とね。
 けれども、これ以上自分を欺くことができなくなった父は、社長に全てを公にすると告げたのです。
 その翌日、父の運転する車が崖から転落しました」

「ひどい…。ひどすぎる」

「その頃、母は麗子をみごもっていました。それから半年後、籠を抱えた7才の僕は孤児院の前にいました。
 籠には、赤ん坊の麗子が入れられていたそうです。それ以来、母とは音信不通なのです。
 それから僕らは施設の子供達にいじめられながら育ちました。自分が不幸で惨めであるほど、人はそのはけ口を弱いものに向けるものです。
 僕は誓いました。大きくなったら、妹を連れて出ていこうと。中学を卒業して、すぐに小さな建築会社に住み込みで働きました。出来るだけ貯金して、アパートを借りて妹を迎えに行こうと思って。
 そんな頃、塩崎君が入社してきました」

「守さんが…」

 塩崎の沈痛な顔が頭をよぎる。

 登は表情は変えずに、淡々と話し続ける。
「ちょうど同い年で意気投合した僕らは、共同で安いアパートに住むことにしたのです。
 そして、麗子を呼びました。けれども、3人の生活は彼の死で終わりました。
 けれど彼には夢がありました。欲望に惑わされずに自由に生きること、そして自由に自分を表現すること。
 今の劇団があるのは彼のお陰なのです」
 そう言ってほほ笑む。

「もしかして…」
 光子は、胸騒ぎを覚えた。

「その会社というのは大門薬品なのですか?父があなたのお父様を殺したのですか?」
 光子は食い入るように見つめた。

 登は、穏やかな視線で見つめ返す。
「もし、そうであって、何か問題でもありますか?父が殺されたとしても、それはあなたのせいではないですよね」

「そうかもしれないけれど。登さんがたとえ良くても、彼女が…。麗子さんが、もしそう思っているのだとしたら。このまま続けるわけにはいかないわ。私は人殺しの娘、敵ということになるでしょう?」
 彼女は興奮で震えていた。

 その手を、彼は固く握った。
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