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 振り返った先生は、驚いたように目を見開いている。

 当然だ。

 患者にこんなことを言われても困るだけ。きっと迷惑でしかない。

 もういい。どうせ無理なんだ。叶うはずがない。

 最初からわかっていたのに馬鹿みたい。恥ずかしくて悲しくて、ひどく惨めだ。

 涙が出てくる。あきらめるしかない。その前に、最後にひとつだけお願いをさせてほしい。

「分かっています。おとなしく退院します。だから、最後に、抱きしめて」

 一度その腕に抱きしめてもらえたら、それで満足。思い残すことはない。きっとあきらめられるから。

 でも、もしかしたらそれすらも叶えてもらえないかもしれない。

 それほどにアネットと医師としてのこの人の壁は高くて分厚いと思った。

 ゆっくりとフェリックスが近づいてくる。その口から聞かされるんだ。現実を受け入れざるを得ない、拒絶の言葉を。

 アネットの腕に彼の手が伸びる。

 このまま連れ戻される――思わず体をこわばらせた瞬間、唇に柔らかい感触が押し当てられた。

 あったかい口づけだった。蕩けそうに柔らかい。キスだ。

「大丈夫ですよ、アネット。私が幸せを教えてあげるから」

 フェリックスは彼女の手を握り、安心させようとした。

 フェリックスの手が優しく彼女の脈を取るたびに、彼女の心は不規則に高鳴った。

「だからアネット、落ち着いて」

 フェリックスは心配そうに尋ねた。

 アネットは照れくさそうに微笑みながら答えた。

「先生がそばにいると、なぜか心臓が早くなるわね」

 フェリックスは彼女の額に手を当て、温かい眼差しで見つめた。

「わたしの書斎に来なさい」



 フェリックスの書斎は、暖炉の火が揺らめいていた。

 アネットは緊張した面持ちで、フェリックスの前に立っていた。

「アネット。心臓の鼓動の高まりは、異性を本能的に求めているからに過ぎないんだよ。わたしはきみを患者として見ている。それが医師としての私の義務だから。分かってくれるね」

 アネットの目には不安が浮かぶが、フェリックスは静かに続けた。

「しかし、君の心の傷を癒すために必要な処置なら、わたしはどんなことも厭わないつもりだよ」

「それは…どういう?」

「それは緊張やストレスを解すリハビリ療法だ。安心してくれ。非常識だし、デリケートな行為だが心配はいらない。わたしが優しくするから」

「優しく…」

「さあ、わたしに体をゆだねてくれ」

 フェリックスにうながされ、アネットはゆっくりベッドに寝かされた。
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