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2 花梨の事情
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水落花梨は生まれながらにして、類稀なる美貌の持ち主だった。鄙には稀な美少女と評したのは誰であったか。良くも悪くもその美しさは、行き過ぎた好意と悪意でもって、長年にわたって花梨を傷つけてきた。
花梨が中学の教室に入ると、彼女の机にはむごい落書きがされていた。
お前なんていらない。
もう学校に来ないでくださーい。
心ない落書きに、花梨はひどく落ち込みながら机の上を拭いた。
すると、後ろの女子たちから声が飛んできた。
「水落、今度は望月に告白されたらしいよ」
「ホント!? まったく、アイツはどれだけ男を誑かせば気が済むんだろうね」
「調子乗ってるよね、アイツ」
「言えてるー」
花梨の耳に届くような大声に、彼女は泣きそうになりながらも耐えた。
花梨自身、男子を誑かす意図などまるでなかったのだが、彼女のあり得ない美貌に惹かれ、毎日のように誰かが言い寄ってきた。
だが、花梨は恋愛感情というものをいまいち理解できずにいたので、男子生徒の告白を都度断ってきたのだ。
そうしたことが、クラスメイトの女子たちの気に障ったのだろう。花梨に対し、いじめへの導火線に火がついてしまった。そうしていじめは日々エスカレートしていった。
花梨にはなんら罪はない。あるとすれば、反則的なまでの美貌である。ただそれだけのことが仇となり、女子の嫉妬心を駆り立てていったのだ。
そんなやりきれない日々が続く中、花梨は男子生徒から呼び出された。
下駄箱に手紙が入っていた。封を開けると「放課後、屋上に来てください。待っています。好きです」と書かれていた。
それを読んだ花梨は、憂鬱な気分になって嘆息する。彼女は、恋愛感情というものを未だ持ったことがないのだから、そんなラブレターなど捨て置けばよかったのだが、そうはしなかった。
男子からの告白は日常茶飯事であるのだが、気の優しい彼女は誰に対しても、律儀に会って断り、お詫びをしていた。
授業が終わり、花梨は屋上へ向かう。到着すると、黒縁眼鏡をかけた冴えない男子生徒がいた。
「ぼ、僕の手紙を読んでくれたんだね?」
男子生徒はにじり寄ってくる。
「はい……」
「じゃ、じゃあ。その……水落さんの答えは……」
男子生徒は喉を鳴らして花梨を見据えた。
「ごめんなさい。あなたのことは……よく知らなくて」
花梨は深々と頭を下げた。
実際、彼女の言葉は正しい。花梨とその男子生徒とは学年からして違っていた。彼女からして見れば、接点のない相手だった。
「そ、そんな……。僕に応えてくれないだなんて……」
男子は黒縁眼鏡のブリッジに手をやった。その手はわなわなと震えていた。
「申し訳ありません……失礼します」
花梨は再度謝り、踵を返そうとした。
「ぼ、僕を選ばないなんて……おい、水落。お前、誰か他に気があるのか!?」
男子の狂気が滲んだ怒声が屋上に響く。ヒステリックな叫びに、花梨はびくりと身を縮こませた。
「ちくしょう! 僕が振られるなんてあり得ない! ちくしょう!」
男子は地団駄を踏む。血走った目を花梨に向けた。
「別の奴に取られるくらいなら、いっそ──」
「きゃっ!」
男子は突如、花梨に猛突進してくる。花梨は悲鳴を上げた。
男子の体当たりを食らい、勢い突き飛ばされた。彼女の後ろには、屋上の鉄柵があるだけだ。その鉄柵を越えれば、あとは屋上からグラウンドまで真っ逆さまに落ちていくのみである。
男子は鉄柵に力なく背をつけている花梨の細い首を絞めた。
「なあ、水落。お前に振られるくらいなら、一緒に落ちようぜ。固い固いグラウンドまでな! 心中しようぜ」
男子の心は真っ黒であった。美しすぎる花梨への未練から、その身を暗黒の中に置いていた。失恋からの負の感情に、彼は全身浸かっていたのだ。
「い、いや……やめて……ください」
花梨は首を絞められ、弱々しく懇願した。彼女の華奢な上半身が鉄柵を越えようとしている。もはや、絶体絶命の危機に瀕していた。
そのとき、屋上の鉄扉が開いた。体格の良い、風紀担当の体育教師が放課後の校内見回りにやってきたのだ。
「な、何をやっているんだ、下嶋! 女子の首から手を離せ!」
体育教師が男子を羽交い締めにして、花梨からどうにか引き剥がした。
花梨に執着していた男子は、下嶋という姓であった。この体育教師が下嶋の担任だった。
「ち、ちくしょー! 放せ! 放せよ!」
下嶋は教師に身を捕らわれ、みっともないまでに喚いていた。
ようやっと身体が自由になった花梨は力なく床に白い膝を崩し、ごほごほと咳き込んだ。それも無理のない話である。つい先程まで下嶋に首を絞められていたのだから。
花梨が後ろを見ると、そこには屋上の鉄柵があった。もし、あそこから落下していたら、重傷か、打ちどころが悪ければ命はなかった。そう思い至り、彼女の全身から血の気が引いた。
その日以来、花梨は対人恐怖症に苛まれることになった。周囲の意識が彼女に向くたび、竦み上がる気分になる。
塞ぎ込みがちになり、やがて登校拒否をするようになった。心配した母親が心療内科に花梨を連れて行った。
「娘さんは、その……大変な目に遭いました。そのトラウマはちょっとやそっとでは解消されないでしょう」
白衣を着た医師がそう告げる。動揺した母親が上擦った声で病状を尋ねた。
「娘は……娘はどうなったのですか!?」
「対人恐怖症。それに極度の鬱病です。抗鬱剤を服用し、当分は外に出ず、自宅療養されたほうがいいですね」
医師は厳しい顔をして、そう診断した。
それから、自宅療養の日々が始まった。花梨は部屋の中に籠もり、心にまでも鍵を掛けてしまった。
もう人とは会えない。
そのように思う日々を過ごしていった。引き籠もり、ただ鬱々と部屋で過ごす日々が続いたのである。
それから数年の月日が経った。
母親の献身的な介護と、適切な薬の処方、自宅療養のおかげで鬱病自体は回復傾向にあった。
しかし、それとは別の問題が持ち上がった。
花梨の行き先がないのだ。
地元中学はなんとか卒業し、通信制の高校を利用して卒業資格を得たが、そのあと就職先をどうするか、花梨は長い間考えた。献身的に付き添ってくれる母親にいつまでも甘えていては申し訳がないと感じていた。それと同時に、この家からも出るべきだと思案した。
両親や地元の保健師たちとも話し合いを続けた。そうして出した答えが、田舎を出て、就労移行支援サービスを受けることだったのである。
就労移行支援は障害者総合支援法に基づいた障害福祉サービスである。就労を希望している障害・難病のある人に対して、働くために必要な知識・能力を身につけるトレーニングや、その人に合った職場探しのサポート、就労後の職場定着までのアフターケアを行う。
一人暮らしをして、就労移行支援の事業所に通うことを決め、花梨は鬱病という障害と折り合いをつけながら、職業訓練などに励んでいた。
「水落さん、頑張っているね」
「今日の訓練の回答、よかったよ」
花梨が顔を隠すことになんら疑問を呈さない支援員や、同じ利用者たちの反応は嬉しかった。これならいつか、顔を出さないで済む、企業の裏方に就職できるだろう。花梨は前向きに物事を考えられるようになっていた。
♦ ♦ ♦
「というわけで、もうすぐ企業に就職活動なの」
「うーんと……僕は鬱とかの感情がないから、なんとも言えないけれど」
花梨の懺悔のような告白を真摯に聞いたセシルは、そこで言葉を切り、花梨の側まで歩み寄った。
そして。
「色々大変だったんだね、カリン」
セシルは彼女の肩を優しく抱いた。
ただそれだけのことだったが、花梨は救いを得たように感じた。私は許されたのだと、実感した。
それから、彼女の大きな瞳から真珠のような涙が零れ落ちた。さり気ないセシルの優しさが、頑なだった花梨のコンプレックスで固まった心の岩盤に水のように浸透してきたのだ。
セシルに抱かれながら、気がつけば花梨は嗚咽を漏らしていた。
ひとしきり泣いた後、花梨は落ち着きを取り戻した。自分の半生をセシルに話してみると、彼女は自分でもびっくりするくらい気分が晴れやかなことに気づいた。まるで、夏の澄んだ青空のように。
支援員も一通りの事情は知っているが、花梨からは自身の思いを打ち明けたことがなかった。こうしてみると、誰かにしみじみ話したかったのかもしれない。そのように彼女は思った。
セシルはずっと真剣な表情で耳を傾けてくれた。そして「お疲れ様」と花梨の髪を撫でてくれる。年下の少年に気遣ってもらうのは心苦しいが、反面セシルの天使のような笑顔と仕草に、花梨は身も心も癒やされていた。
花梨が中学の教室に入ると、彼女の机にはむごい落書きがされていた。
お前なんていらない。
もう学校に来ないでくださーい。
心ない落書きに、花梨はひどく落ち込みながら机の上を拭いた。
すると、後ろの女子たちから声が飛んできた。
「水落、今度は望月に告白されたらしいよ」
「ホント!? まったく、アイツはどれだけ男を誑かせば気が済むんだろうね」
「調子乗ってるよね、アイツ」
「言えてるー」
花梨の耳に届くような大声に、彼女は泣きそうになりながらも耐えた。
花梨自身、男子を誑かす意図などまるでなかったのだが、彼女のあり得ない美貌に惹かれ、毎日のように誰かが言い寄ってきた。
だが、花梨は恋愛感情というものをいまいち理解できずにいたので、男子生徒の告白を都度断ってきたのだ。
そうしたことが、クラスメイトの女子たちの気に障ったのだろう。花梨に対し、いじめへの導火線に火がついてしまった。そうしていじめは日々エスカレートしていった。
花梨にはなんら罪はない。あるとすれば、反則的なまでの美貌である。ただそれだけのことが仇となり、女子の嫉妬心を駆り立てていったのだ。
そんなやりきれない日々が続く中、花梨は男子生徒から呼び出された。
下駄箱に手紙が入っていた。封を開けると「放課後、屋上に来てください。待っています。好きです」と書かれていた。
それを読んだ花梨は、憂鬱な気分になって嘆息する。彼女は、恋愛感情というものを未だ持ったことがないのだから、そんなラブレターなど捨て置けばよかったのだが、そうはしなかった。
男子からの告白は日常茶飯事であるのだが、気の優しい彼女は誰に対しても、律儀に会って断り、お詫びをしていた。
授業が終わり、花梨は屋上へ向かう。到着すると、黒縁眼鏡をかけた冴えない男子生徒がいた。
「ぼ、僕の手紙を読んでくれたんだね?」
男子生徒はにじり寄ってくる。
「はい……」
「じゃ、じゃあ。その……水落さんの答えは……」
男子生徒は喉を鳴らして花梨を見据えた。
「ごめんなさい。あなたのことは……よく知らなくて」
花梨は深々と頭を下げた。
実際、彼女の言葉は正しい。花梨とその男子生徒とは学年からして違っていた。彼女からして見れば、接点のない相手だった。
「そ、そんな……。僕に応えてくれないだなんて……」
男子は黒縁眼鏡のブリッジに手をやった。その手はわなわなと震えていた。
「申し訳ありません……失礼します」
花梨は再度謝り、踵を返そうとした。
「ぼ、僕を選ばないなんて……おい、水落。お前、誰か他に気があるのか!?」
男子の狂気が滲んだ怒声が屋上に響く。ヒステリックな叫びに、花梨はびくりと身を縮こませた。
「ちくしょう! 僕が振られるなんてあり得ない! ちくしょう!」
男子は地団駄を踏む。血走った目を花梨に向けた。
「別の奴に取られるくらいなら、いっそ──」
「きゃっ!」
男子は突如、花梨に猛突進してくる。花梨は悲鳴を上げた。
男子の体当たりを食らい、勢い突き飛ばされた。彼女の後ろには、屋上の鉄柵があるだけだ。その鉄柵を越えれば、あとは屋上からグラウンドまで真っ逆さまに落ちていくのみである。
男子は鉄柵に力なく背をつけている花梨の細い首を絞めた。
「なあ、水落。お前に振られるくらいなら、一緒に落ちようぜ。固い固いグラウンドまでな! 心中しようぜ」
男子の心は真っ黒であった。美しすぎる花梨への未練から、その身を暗黒の中に置いていた。失恋からの負の感情に、彼は全身浸かっていたのだ。
「い、いや……やめて……ください」
花梨は首を絞められ、弱々しく懇願した。彼女の華奢な上半身が鉄柵を越えようとしている。もはや、絶体絶命の危機に瀕していた。
そのとき、屋上の鉄扉が開いた。体格の良い、風紀担当の体育教師が放課後の校内見回りにやってきたのだ。
「な、何をやっているんだ、下嶋! 女子の首から手を離せ!」
体育教師が男子を羽交い締めにして、花梨からどうにか引き剥がした。
花梨に執着していた男子は、下嶋という姓であった。この体育教師が下嶋の担任だった。
「ち、ちくしょー! 放せ! 放せよ!」
下嶋は教師に身を捕らわれ、みっともないまでに喚いていた。
ようやっと身体が自由になった花梨は力なく床に白い膝を崩し、ごほごほと咳き込んだ。それも無理のない話である。つい先程まで下嶋に首を絞められていたのだから。
花梨が後ろを見ると、そこには屋上の鉄柵があった。もし、あそこから落下していたら、重傷か、打ちどころが悪ければ命はなかった。そう思い至り、彼女の全身から血の気が引いた。
その日以来、花梨は対人恐怖症に苛まれることになった。周囲の意識が彼女に向くたび、竦み上がる気分になる。
塞ぎ込みがちになり、やがて登校拒否をするようになった。心配した母親が心療内科に花梨を連れて行った。
「娘さんは、その……大変な目に遭いました。そのトラウマはちょっとやそっとでは解消されないでしょう」
白衣を着た医師がそう告げる。動揺した母親が上擦った声で病状を尋ねた。
「娘は……娘はどうなったのですか!?」
「対人恐怖症。それに極度の鬱病です。抗鬱剤を服用し、当分は外に出ず、自宅療養されたほうがいいですね」
医師は厳しい顔をして、そう診断した。
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もう人とは会えない。
そのように思う日々を過ごしていった。引き籠もり、ただ鬱々と部屋で過ごす日々が続いたのである。
それから数年の月日が経った。
母親の献身的な介護と、適切な薬の処方、自宅療養のおかげで鬱病自体は回復傾向にあった。
しかし、それとは別の問題が持ち上がった。
花梨の行き先がないのだ。
地元中学はなんとか卒業し、通信制の高校を利用して卒業資格を得たが、そのあと就職先をどうするか、花梨は長い間考えた。献身的に付き添ってくれる母親にいつまでも甘えていては申し訳がないと感じていた。それと同時に、この家からも出るべきだと思案した。
両親や地元の保健師たちとも話し合いを続けた。そうして出した答えが、田舎を出て、就労移行支援サービスを受けることだったのである。
就労移行支援は障害者総合支援法に基づいた障害福祉サービスである。就労を希望している障害・難病のある人に対して、働くために必要な知識・能力を身につけるトレーニングや、その人に合った職場探しのサポート、就労後の職場定着までのアフターケアを行う。
一人暮らしをして、就労移行支援の事業所に通うことを決め、花梨は鬱病という障害と折り合いをつけながら、職業訓練などに励んでいた。
「水落さん、頑張っているね」
「今日の訓練の回答、よかったよ」
花梨が顔を隠すことになんら疑問を呈さない支援員や、同じ利用者たちの反応は嬉しかった。これならいつか、顔を出さないで済む、企業の裏方に就職できるだろう。花梨は前向きに物事を考えられるようになっていた。
♦ ♦ ♦
「というわけで、もうすぐ企業に就職活動なの」
「うーんと……僕は鬱とかの感情がないから、なんとも言えないけれど」
花梨の懺悔のような告白を真摯に聞いたセシルは、そこで言葉を切り、花梨の側まで歩み寄った。
そして。
「色々大変だったんだね、カリン」
セシルは彼女の肩を優しく抱いた。
ただそれだけのことだったが、花梨は救いを得たように感じた。私は許されたのだと、実感した。
それから、彼女の大きな瞳から真珠のような涙が零れ落ちた。さり気ないセシルの優しさが、頑なだった花梨のコンプレックスで固まった心の岩盤に水のように浸透してきたのだ。
セシルに抱かれながら、気がつけば花梨は嗚咽を漏らしていた。
ひとしきり泣いた後、花梨は落ち着きを取り戻した。自分の半生をセシルに話してみると、彼女は自分でもびっくりするくらい気分が晴れやかなことに気づいた。まるで、夏の澄んだ青空のように。
支援員も一通りの事情は知っているが、花梨からは自身の思いを打ち明けたことがなかった。こうしてみると、誰かにしみじみ話したかったのかもしれない。そのように彼女は思った。
セシルはずっと真剣な表情で耳を傾けてくれた。そして「お疲れ様」と花梨の髪を撫でてくれる。年下の少年に気遣ってもらうのは心苦しいが、反面セシルの天使のような笑顔と仕草に、花梨は身も心も癒やされていた。
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