上 下
154 / 212
第六章

第154話 幸せ者です

しおりを挟む
 ——月曜日。
 前日に一軍に昇格した晴弘はるひろ蒼太そうたは、選手ではお互いが唯一の同級生であることも相まって、自然と二軍にいたときよりも話す機会が増えた。
 しかし、その内容は昨日からもっぱら変わらなかった。

「噂よりそこまでじゃね? なんかぎこちないし、今なら全然狙えそうなんだけど」

 蒼太の視線の先には、二、三言交わしてすぐに別々の行動を取ったたくみ香奈かながいた。
 昨日から蒼太がやたら彼らに視線を向けていたのは、仲良しコンビとして有名な二人に付け入る隙があるのかどうかを観察していたのだ。
 無論、隙あらば香奈を自分のモノにするために。

 彼らがぎこちないのは距離が遠くなったわけではなく、ただ外向きの距離感が掴めていないだけなのだが、それを蒼太が知らないのは仕方のないことだろう。

「やめとけ。絶対無理だから」
「いや、いけるでしょ」

 晴弘は冷めた瞳で呆れたように返し、それに対して蒼太が自信をのぞかせる。
 これも前日から繰り返されているものだ。

 しかし、今回はその先が違った。

「決めた。俺、白雪しらゆきにアタックするわ」
「えっ、マジで?」

 晴弘が正気かこいつ、という視線を向けた。
 しかし、蒼太は自信満々な表情で「あぁ」とうなずいた。

「……まあ、普通にアタックする分には止めはしねえけど」
「あとから悔しがんなよ」

 そう言い残して、蒼太は香奈に近づいていった。
 晴弘は去っていく友人の背中に向かって、小さくつぶやいた。

「……それはこっちのセリフなんだけどな」



 気になる異性に話しかけるのだ。口元がニヤけてしまうのは自然だろう。
 しかし、ニヤニヤしながら自分に近づいてくる蒼太を見て、香奈は恐怖を覚えた。

(えっ、なんか笑ってるんだけど。まさか、ラブホの一件を知ってて……⁉︎)

 心配は杞憂に終わった。

「白雪。昨日のシティの試合見たか?」
「えっ? あぁ、うん。見たよ」

 日常会話だと悟った香奈は、思わず安心したような笑みを浮かべた。

(おいおい、俺に話しかけられてめっちゃ笑顔じゃん)

 これはワンチャンどころか全然あるぞ——。
 蒼太は自信を深めた。

 よくよく観察していれば、香奈が何やら安堵しているだけなのは明白だった。
 事実として晴弘はそのことに気づいたが、恋愛フィルターとはえてしてその人に都合の良いように解釈させてしまうものだ。

 蒼太は、それからも事あるごとに香奈に話しかけるようになった。

(何? なんで毎回毎回話しかけてくんの?)

 香奈は表面上は普通に会話をしつつも、心のうちでは腹を立てていた。
 彼氏もいる場面でたいして仲良くもない男子に頻繁に話しかけられ、内容も別にさほど面白くもないというのはそれだけでストレスだったが、いかんせん今回はタイミングが悪かった。
 昨日あたりから、月経前症候群——PMSを発していたのだ。

 香奈の場合は生理の直前に現れ、イライラしたり不安になったりと精神面に影響が出ることが多い。
 今回は少し症状が重いようで、時間が進むにつれて体調にも異変が出始めた。

 ——香奈が具合悪そうにしているのを見て、蒼太は絶好のチャンスがやってきたと思った。

(ここで他のやつらとの差をつけてやる)

「大丈夫?」
「保健室行くか?」

 彼はしきりに香奈の体調を心配した。

 ——蒼太に決して悪意があるわけではないことは、香奈にもわかっていた。
 しかし、小さな親切大きなお世話であることは事実だったし、何よりPMSのときのイライラは自分でコントロールできるものではない。

「何なら俺が——」

 いい加減しつこくて声を荒げようとしたとき、

「香奈のことは私が見ておくから、姫野ひめの君は練習に戻りなさい」
「……うす」

 冬美ふゆみが助け舟を出してくれた。
 蒼太は不満そうな表情で去っていった。

「……ふうー」

 香奈は自分を落ち着かせるように息を吐き出した。

「アレかしら?」

 冬美の耳打ちに、香奈はこくんと首を縦に振った。

「保健室にはいかなくても大丈夫?」
「はい、今のところは」
「なら、ビブスとか軽いものをやってもらえるかしら。ドリンクとかは私たちがやるから。無理そうなら早めに保健室に行きなさい」
「すみません、ありがとうございます」

 優しさが沁みて、香奈は涙ぐんでしまった。
 巧が近づいてくる。

「大丈夫?」
「はい」
「そっか。無理しないでね」

 香奈があまり触れてほしがっていないことに気づいたのだろう。
 いたわるように一声かけた後、チームメイトの元に戻っていった。

(やっぱり優しいなぁ……それに、私のことをわかってくれてる)

 さりげない気遣いが嬉しくて、再び目尻が熱くなった。

「すみません、少し抜けます」
「はーい」

 香奈は近くにいたマネージャー長の愛美まなみに断りを入れ、水道に向かった。

 涙が完全に収まってから、練習に戻った。



 冬美や巧たちの息遣いは本当に嬉しかったし、心も軽くなった。
 しかし、それだけで収まるほどPMSは甘くない。

 症状がだんだんと重くなっていることに加えて、ラブホの一件に対する不安や蒼太へのストレスも積もっていたからだろうか。
 香奈は、普段ならほとんど気にもならないような些細なことでイラついてしまっていた。

「巧先輩、なんで本を積んだままにしておくんですか? 足元は危ないし埃は溜まるしでいいことないって前に言いましたよね?」
「あっ、ごめん」

 慌てて片付け始めた巧の背中を見て、香奈は大きくため息を吐いた。
 違う。こんなキツく言っちゃダメだ。

(巧先輩は、私が嫌だって言ったことはいつも直すように努力してくれているのにっ……)

 話を聞いてくれないのならともかく、巧はちゃんと聞いて改善しようとしてくれているのだ。
 ただ一言軽く注意すればいいのに、些細なことに苛立って口調が厳しくなってしまう。

 そのことに対して自己嫌悪に陥り、さらにイラついてしまうという負の連鎖にハマっていた。

「はあ……」

(理不尽に八つ当たりして……最悪だ、私……)

「——香奈」

 ソファーで膝を抱えていた香奈の前に、白いマグカップが置かれた。

「……これは?」
「カモミール。前に好きだって言ってたでしょ? スーパーにあったから買ってきたんだ。ちょっと採点してみてよ。通からしても美味しいのか」
「別に通っていうわけじゃありませんけど……」

 一口含んだ。ホッと息が漏れた。
 胸からお腹にかけてが温かくなるのと同時に、ささくれ立っていた気持ちも潮が引くように鎮まっていく。

「どう?」
「美味しい……です」
「よかった。じゃあ僕も」

 巧は香奈の隣に座ってマグカップを口につけた。美味しいね、と笑った。
 香奈の目の奥が熱くなる。堪えなきゃと思ったが、無理だった。

「ふぐっ……す、すみません……!」

 突然涙をこぼし始めた香奈に、巧は何も言葉をかけなかった。ただ黙って、頭を撫でていた。
 彼なりの気遣いが伝わってきて、余計に涙が溢れてしまった。

「……大丈夫? 落ち着いた?」

 香奈が泣き止んで少し経ってから、巧は尋ねてきた。

「はい……すみません。色々キツイこと言っちゃって」
「ううん、原因を作ったのは僕だから。それに、香奈が怒りたくて怒ってるわけじゃないのはわかってるよ」
「っ……」

 香奈は息を呑んだ。
 巧は理解しているのだろう。香奈が不安定なのは、生理のせいで起こるホルモンバランスの乱れが原因であることを。

「……私って幸せ者ですね。こんなに理解があって優しい彼氏がいて」
「一応勉強はしたんだ」

 巧がはにかんだ。

「けど、間違ってたりもするかもしれないから、こうしてほしいとかこれはやめてとか、要望があれば都度教えてくれると嬉しいな」
「ありがとうございます……じゃあ、一つだけわがまま言ってもいいですか?」
「もちろん。何?」
「頭、撫でてほしいです」
「香奈のわがままって可愛いよね」

 相合を崩し、巧が優しく頭を撫でてくる。
 大切に想ってくれているのが伝わってきて、香奈は再び涙ぐんでしまった。
 巧は大騒ぎすることなく、穏やかな表情のまま頭を撫で続けてくれていた。

 香奈はモゾモゾと動き、彼にぴたりと寄り添った。

「巧先輩に頭撫でてもらうの、好きです。胸がポカポカしてくるっていうか……これぞハピネスって感じで」
「走り出しちゃいそう?」

 嵐の名曲「Happiness」のサビになぞらえたものだろう。

「いえ、そしたら撫でてもらえなくなるのでここにいます」
「そっか」
「はい」

 顔を見合わせ、笑い合う。
 香奈は立ち上がり、正面から巧の膝の上にまたがった。首に腕を回して抱きついた。

 お尻のあたりに硬い感触がある。
 いつもなら多少なりとも欲が頭をもたげるのだが、今日はそういう気分にならなかった。ホルモンバランスが乱れているからだろう。

「巧先輩。すみません、今日はあんまりそういうのはなしでもいいですか?」
「もちろん。無理してやってもらっても、僕も罪悪感で楽しめないしね。香奈の体調が万全になったらまたお願いするよ」
「はい、ありがとうございます」

 巧は軽口を織り交ぜ、香奈が気を遣わなくて済むような言い方で了承してくれた。

(好きだなぁ……)

 幸せで胸がいっぱいになった。
 香奈は溢れ出る想いをぶつけるように、巧にぎゅっと体を密着させた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

冤罪をかけられ、彼女まで寝取られた俺。潔白が証明され、皆は後悔しても戻れない事を知ったらしい

一本橋
恋愛
痴漢という犯罪者のレッテルを張られた鈴木正俊は、周りの信用を失った。 しかし、その実態は私人逮捕による冤罪だった。 家族をはじめ、友人やクラスメイトまでもが見限り、ひとり孤独へとなってしまう。 そんな正俊を慰めようと現れた彼女だったが、そこへ私人逮捕の首謀者である“山本”の姿が。 そこで、唯一の頼みだった彼女にさえも裏切られていたことを知ることになる。 ……絶望し、身を投げようとする正俊だったが、そこに学校一の美少女と呼ばれている幼馴染みが現れて──

【完結】俺のセフレが幼なじみなんですが?

おもち
恋愛
アプリで知り合った女の子。初対面の彼女は予想より断然可愛かった。事前に取り決めていたとおり、2人は恋愛NGの都合の良い関係(セフレ)になる。何回か関係を続け、ある日、彼女の家まで送ると……、その家は、見覚えのある家だった。 『え、ここ、幼馴染の家なんだけど……?』 ※他サイトでも投稿しています。2サイト計60万PV作品です。

君と僕の一周年記念日に君がラブホテルで寝取らていた件について~ドロドロの日々~

ねんごろ
恋愛
一周年記念は地獄へと変わった。 僕はどうしていけばいいんだろう。 どうやってこの日々を生きていけばいいんだろう。

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

穏やかな田舎町。僕は親友に裏切られて幼馴染(彼女)を寝取られた。僕たちは自然豊かな場所で何をそんなに飢えているのだろうか。

ねんごろ
恋愛
 穏やかなのは、いつも自然だけで。  心穏やかでないのは、いつも心なわけで。  そんなふうな世界なようです。

俺は先輩に恋人を寝取られ、心が壊れる寸前。でも……。二人が自分たちの間違いを後で思っても間に合わない。俺は美少女で素敵な同級生と幸せになる。

のんびりとゆっくり
恋愛
俺は島森海定(しまもりうみさだ)。高校一年生。 俺は先輩に恋人を寝取られた。 ラブラブな二人。 小学校六年生から続いた恋が終わり、俺は心が壊れていく。 そして、雪が激しさを増す中、公園のベンチに座り、このまま雪に埋もれてもいいという気持ちになっていると……。 前世の記憶が俺の中に流れ込んできた。 前世でも俺は先輩に恋人を寝取られ、心が壊れる寸前になっていた。 その後、少しずつ立ち直っていき、高校二年生を迎える。 春の始業式の日、俺は素敵な女性に出会った。 俺は彼女のことが好きになる。 しかし、彼女とはつり合わないのでは、という意識が強く、想いを伝えることはできない。 つらくて苦しくて悲しい気持ちが俺の心の中であふれていく。 今世ではこのようなことは繰り返したくない。 今世に意識が戻ってくると、俺は強くそう思った。 既に前世と同じように、恋人を先輩に寝取られてしまっている。 しかし、その後は、前世とは違う人生にしていきたい。 俺はこれからの人生を幸せな人生にするべく、自分磨きを一生懸命行い始めた。 一方で、俺を寝取った先輩と、その相手で俺の恋人だった女性の仲は、少しずつ壊れていく。そして、今世での高校二年生の春の始業式の日、俺は今世でも素敵な女性に出会った。 その女性が好きになった俺は、想いを伝えて恋人どうしになり。結婚して幸せになりたい。 俺の新しい人生が始まろうとしている。 この作品は、「カクヨム」様でも投稿を行っております。 「カクヨム」様では。「俺は先輩に恋人を寝取られて心が壊れる寸前になる。でもその後、素敵な女性と同じクラスになった。間違っていたと、寝取った先輩とその相手が思っても間に合わない。俺は美少女で素敵な同級生と幸せになっていく。」という題名で投稿を行っております。

最愛の幼馴染みと親友に裏切られた俺を救ってくれたのはもう一人の幼馴染みだった

音の中
恋愛
山岸優李には、2人の幼馴染みと1人の親友がいる。 そして幼馴染みの内1人は、俺の大切で最愛の彼女だ。 4人で俺の部屋で遊んでいたときに、俺と彼女ではないもう一人の幼馴染み、美山 奏は限定ロールケーキを買いに出掛けた。ところが俺の凡ミスで急遽家に戻ると、俺の部屋から大きな音がしたので慌てて部屋に入った。するといつもと様子の違う2人が「虫が〜〜」などと言っている。能天気な俺は何も気付かなかったが、奏は敏感に違和感を感じ取っていた。 これは、俺のことを裏切った幼馴染みと親友、そして俺のことを救ってくれたもう一人の幼馴染みの物語だ。 -- 【登場人物】 山岸 優李:裏切られた主人公 美山 奏:救った幼馴染み 坂下 羽月:裏切った幼馴染みで彼女。 北島 光輝:裏切った親友 -- この物語は『NTR』と『復讐』をテーマにしています。 ですが、過激なことはしない予定なので、あまりスカッとする復讐劇にはならないかも知れません。あと、復讐はかなり後半になると思います。 人によっては不満に思うこともあるかもです。 そう感じさせてしまったら申し訳ありません。 また、ストーリー自体はテンプレだと思います。 -- 筆者はNTRが好きではなく、純愛が好きです。 なので純愛要素も盛り込んでいきたいと考えています。 小説自体描いたのはこちらが初めてなので、読みにくい箇所が散見するかも知れません。 生暖かい目で見守って頂けたら幸いです。 ちなみにNTR的な胸糞な展開は第1章で終わる予定。

処理中です...