涙のキセキ

桜 偉村

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第二十八章

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「わっ⁉」
「おっと」
 一真は、横でよろけた友葉の腕を掴む。
「ありがと」
「時間はある。焦るな」
 友葉は頷き、先程よりも少しゆったりとしたペースで歩く。
 友葉の病気が発覚してから四ヶ月。友葉は精力的にリハビリに励んでいたが、それを嘲笑うかのように、症状は進行していた。主な症状は四肢に出ており、編集作業などの指先を使う動作が困難になっており、字も汚くなっている。歩行は、自力で歩けてはいるがその速度はゆっくりで、今のように躓く事が多々あるため、友葉の外出時はメンバー誰かが付き添う事にしていた。今はリハビリから帰っているところだ。
 友葉がリハビリをしている最中、一真は羽田にSCDの研究について尋ねた。どんなにお金がかかっても良いから、何か少しでも良い治療法や薬はないか、と。
 しかし、羽田の返答は期待したものではなかった。
「諸外国と比べても、日本の研究は劣っていません。お恥ずかしい話ですが、現状が我々が提供出来るベストなんです」
 その歪められた表情は、本当に打つ手がない事を物語っていた。
 車に着き、友葉が後部座席に座るのを見届けてから、一真は運転席に座った。
「出すぞ」
「うん。お願いします」
 車を発進させてすぐ、後ろから寝息が聞こえてくる。前からよく寝る子ではあったが、最近は特に隙間時間を見つけては眠っている。それ程精神的にも肉体的にも疲労が大きいのだろう。
 一真は携帯を取り出し、クラシックを流した。

「友葉」
 事務所の駐車場に車を入れ、声を掛ける。
「あっ、着いた?」
 友葉は即座に反応して身体を起こす。寝起きの良さは相変わらずだ。
「ああ。気を付けて降りろよ」
「はーい」
 友葉が無事に車を降り、二人で玄関に向かう。その扉を開ければ、中から複数の声が聞こえてくる。
「ただいまー」
 友葉がそう言えば、お帰り、という言葉と共に友梨奈が出てくる。
「帰ってたのか」
 一真の呟きに、さっき帰ってきたとこ、という返事が返ってくる。一真と友葉が事務所を出た時には、彼女は打ち合わせで外に出ていたのだ。
「首尾は?」
「まあまあかな」
「そうか」
 リビングでは、健介と悠馬、明美がパソコンに向かっていた。健介が真っ先に顔を上げる。
「おっ、帰ったか。お疲れー」
 健介の言葉で明美と悠馬も気付いたようで、お疲れ、と声を掛けてくる。それに返事をしてから、一真は友葉と洗面所に向かった。
 洗面所から二人が戻って席に座ると、健介が話しかけてくる。
「お前ら、今体力的には大丈夫か? これから昨日言ってた会議するけど、疲れているならお前らが休憩した後で良いから」
「うーん……」友葉が唸った。
「遠慮するな」
「じゃあ五分だけ仮眠撮らせて」
「十分後に起こす」
「はーい」
 友葉がソファーで布団にくるまった。
「お前は?」
「問題ない」
 一真は首を振ってみせた。

 友葉は七分後に自力で起きてきた。
「よーし、じゃあ皆、集まって。企画会議の時間だ」
 健介の号令で皆がリビングの机に集合する。
「今後の動画のスタイルについて話し合いたいと思う」
 一真はホワイトボードに向かい、ペンを持った。健介が続ける。
「ここ最近はトーク中心の企画をやってきたし、リスナーの皆もそれは理解してくれてる。けど、前のような身体を張った企画を見たいって意見があるのも事実だ」
 皆が頷く。今日、今後の動画のスタイルについて話し合う事は、事前に健介から伝えられていた。
「そこで、ちょっと提案があるんだ。俺ら五人が実行役で、友葉は実況や罰ゲームの決定とかに回るっていうのはどうだろう?」
「あっ、それ面白そう!」
 一番最初に賛成したのは、友葉だった。「皆がまた鬼ごっことかやってるの見たいし」
「良いのか?」健介が言葉少なに尋ねた。
「うん!」友葉は躊躇せずに頷いた。「私だってメンバーであると同時に一視聴者だもん。それに、ちょっと実況的なのもやってみたかったんだよね」
「そうか、分かった。他の皆は?」
「良いと思うっす!」悠馬は言った。「凡ミスとかこけたりとかしたら罵られそうだけど」
「罵らないもん」
「いや、俺がミスった時にめちゃくちゃ馬鹿にされたの忘れてねえかんな」明美が友葉の肩に腕を回した。
 そういえばそんな事もあった。明美がアスレチックか何かで水に落ちた時、友葉はメンバーの中で一番笑っていたのだ。友葉が慌てたように弁解する。
「い、いやっ! あれは普段卒なくこなす明美ちゃんが見事に落ちていったからっ……」
 その光景を思い出したのか、友葉の語尾が震える。勿論明美がそれを見逃す筈もなく、二人のじゃれ合いが始まった。
「俺も賛成だ」
 そんな二人は放っておいて、一真は自分の意見を述べた。
「私も」友梨奈が言った。「友葉が楽しんでくれるなら、やりたいかな。後で見るのも楽しそうだしね」
「じゃあ、決定って事で良いか?」
 健介の声に皆が頷いた。
「取り敢えずは週一本。反響と皆の体力次第で本数は調整するか」
 一真の提案は即決され、会議は終了となった。
「私は本当にやりたいから、気遣いとかなしに本数決めちゃってね」
「ああ。反響次第ではお前に一日中喋らせてやるよ」
「嬉しいんだか嬉しくないんだか」
 友葉が苦笑した。
 友葉から目を逸らし、一真は考えた。
 もし、彼女がもっと症状が進行して新たな症状――構音障害など――が現れ、生活が更に制限された時、自分達はこの笑顔を守れるだろうか、と。
 ――いや、違うな。
 健介は首を振った。健介と目が合う。どちらからともなく、二人は頷き合った。



「段差だからちょいと揺れるぜ」
「うん」
 明美はなるべく振動が伝わらないように注意しながら車椅子を押した。
「そんなに慎重に、なんなくても良いのに」
「俺の拘りだから気にすんな」
 苦笑する友葉の頭に手を置き、明美は歩を進めた。
 SCDを発症して四年。友葉の移動はほぼ全て車椅子で行われるようになっていた。今もリハビリは続けているが、回復の兆しは見られない。
「ほい、乗った乗った」
 友葉を後部座席に乗せ、車椅子をトランクに詰める。この動作も何回目になるのだろうか。
「飲み物いるか?」
 友葉の返事が遅れる。
「……ううん」
 明美は友葉を振り向いた。
「どうした?」
 明美が問えば、友葉は躊躇いがちに口を開いた。
「ねえ……明美ちゃん」
「ん?」
「ちょっと、聞いてもらって、良い? こんな事言っても、困らせるだけだって、分かっているんだけど……」
「良いぜ」明美は語気を強くして言った。「溜め込まれるより全然良いからな。遠慮すんな」
「うん、有難う……」友葉は唇を舐めた。「私、このまま色々な部位が、動かせなくなって、いっちゃうのかなって、最近よく考えるんだ。明美ちゃんも、気付いてるでしょ? 最近、話しづらいんだ」
 明美は黙って頷いた。
「身体が動かなくなって、いくのも怖いけど……でも、喋れなくなったら、会話が出来なくなったら、って考えたら、怖くなって……」友葉が声を震わせて俯く。「そしたら、私は何のために、生きるんだろう、って。皆の足枷になる、だけなんじゃないか、って……」
「友葉」
 明美は手を伸ばして、そっと友葉の肩に触れた。小刻みに振動している。
 友葉、ともう一度呼び掛ければ、友葉が顔を上げる。その潤んだ目を正面から見た。
「俺には友葉の苦しみや恐怖を完全に理解したり、共感したりする事は出来ない。けどな、これだけは言っておく。たとえお前がどんな状態になろうと、俺らの中でお前の立ち位置が変わる事はない。お前は一生、甘えん坊で毒舌で計算が苦手でおっちょこちょいな妹で、そして、大切仲間だ」
「明美ちゃん……」
「お前が喋れなくなっても、全身を動かせなくなっても、お前がそこにいる。何かを考え、何かを感じているだけで俺らはすげえ嬉しいよ。お前がずっと居てくれるなら、俺らは他に何も要らない。それに」明美はにやりと笑った。「お前がどうなろうと、俺らはお前の考えている事が分からないほど鈍くねえから」
 明美は友葉の目を見て言い切った。自分達が友葉に対して出来る事など殆どない。その恐怖を取り除く事も出来ない。それならば、せめて彼女に寂しい思いだけはさせない。それだけは決めていた。
 友葉が泣き笑いの表情を作る。
「うん……有難う……!」
 その目からは、既に大粒の雫が溢れ出していた。
「さっきの、泣き虫も追加しといてやるよ」
 明美はハンカチを友葉の目に押し付けた。
「殆ど褒めてない、じゃん……でも、ありがと」
「ああ」
 明美は視線を前に戻し、運転席に身体をもたれかけさせた。
 沈黙の中、友葉の鼻をすする音だけが響く。
 その音が収まってきた頃、友葉が、私、と声を上げた。
「ん?」明美は振り向いた。
「絶対、諦めないから。だからこれからも、支えて下さい」
「任せな」 
 友葉に親指を突き出し、車のエンジンを掛ける。
「じゃ、帰るぞ」
「うん、お願い!」
「よっしゃ!」
 明美は勢いよくアクセルを踏み込んだ。



「友葉。ただいまー」
 健介は三〇七と書かれた扉を開けた。視界に真っ白いベッドが飛び込んでくる。その上で、友葉は上体をもたれかけさせていた。
 その近くまで行って、友葉の目の前にあるベッドに備え付けられた机にある五十音表が書かれたアクリル板の角度を調節する。
 友葉の震える手が持ち上げられた。
「お、か、え、り」
 指でその文字を指すとともに、友葉はゆっくりと発音した。
「ただいま」
 健介は同じ言葉を繰り返した。彼女の顔が僅かに綻ぶ。
 今から三ヶ月前、SCDが発覚してから六年。友葉はとうとう入院する事になった。今では言葉を発する事が非常に困難で、五十音表を指差す事でコミュニケーションを取っている。もう今では、自力での移動や食事は不可能だ。
 友葉が入院してから、健介達はメンバーの誰かが必ず病院に通い、一日中寂しい思いをさせる事がないようにしていた。今日は健介一人だが、それが懐かしく感じられるくらい、メンバーは頻繁に通っていた。
「つ、か、れ、て、な、い?」
「昨日ちょっと詰め込んだから、疲れてないと言えば嘘になるな」
「なら、むり、し、て、こ、な、くて、も……」
「いや、単純に会いたいから来たんだ。友葉が寂しがっているように、俺らだって寂しんだぜ」
 これは本心だった。メンバーの誰も、友葉への同情心で通っている訳じゃない。ただ会いたいから来ているのである。
「や、っ、た」
 そう言って友葉が笑う。その姿はもはや可憐と言って良い筈だが、健介にはどうしても可愛く映ってしまう。妹という認識が先立っているからだろうか。
 それからも他愛のないやり取りをして、時間はあっという間に過ぎていった。
「ちょっと外の空気でも吸うか?」
 そう声を掛ければ、友葉は僅かに顔を綻ばせた。
 羽田に許可を取り、上着を着せて車椅子に移動させる。この動作にも慣れてきた。
「あの……すみません」
 病院の敷地内を出る時に、二人は横から声を掛けられた。
 振り向けば、車椅子に年配の女性が乗っており、それを若い男性が押していた。声を掛けてきたのは男性の方だ。
「何でしょう?」
「突然の事で申し訳ないのですが、貴方達とお話がしたいと思い、お声掛けをさせて頂きました」
「俺らと?」健介は男性を見た。「何故ですか?」
 瞬間的に躊躇う素振りを見せた男性の返答に、健介は衝撃を受けた。
「私達は、六年前の事件の黄色い仮面を被った女の家族です」
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