涙のキセキ

桜 偉村

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第二十章

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「これでもくらえ!」
 健介は姿勢を低くしながら固まっている三体の前衛のうちの右側の二体の足元をすくった。二体は体勢を崩すが、その頭に木刀を振り下ろす前に後ろのゾンビの爪が伸びてくる。
「くっ……!」
 何とか回避したものの、その隙に折角転ばせた二体が体勢を立て直す。息つく暇もなく、そのうちの一体が迫ってくる。木刀で突いて、そのすぐ後方にいたゾンビごと転倒させ、飛び退いて距離を取った。
「っぶねえ!」
 明美の叫び声がする。
「明美、大丈夫か⁉」
「何とか! そっちは?」
「こっちも何とか平気だ!」
 大声で返事をしながら、健介はゾンビの爪を受け止めた。すぐに受け流して次のゾンビと対峙する。
 まずいな。健介は唇を噛んだ。今健介が攻撃を全て捌けているのは、三体の攻撃がてんでバラバラだからだ。これが一回でも波長が合ってしまえば、無傷ではいられないだろう。そしてそれは、明美も同様な筈だ。
「おわっ⁉」
 意識のいくらかが思考に持っていかれていたため、ゾンビへの対応が一瞬遅れる。間一髪で裂かれる事は避けたが、頬に新たに一本の傷が走る。
「大丈夫か⁉」
 明美の声が随分近くに聞こえる。
「ああ、悪い!」
 返事をしながら間接視野で明美を探せば、ちょうど健介と背中で向かい合っていた。その瞬間、健介の脳内で閃光が瞬いた。
 これなら、隙を作る事が出来るかもしれない。
「明美!」
「っ何⁉」
 明美の息もかなり乱れている。
「ゾンビの攻撃を跳ね返して、一気に後退して!」
「分かった!」
 相変わらず明美の返事には迷いがない。
 健介はゾンビを斜め方向に弾き返しつつ、明美の着地地点を予測して移動した。間もなくして予想通りの位置に明美が飛び退いて、十字路の真ん中で背中合わせになる。
 ここからだ。練習なんてしたは事ない。それでも、その信頼に応えるためにも、この先は一つのミスも許されない。
「それで⁉」
「次にゾンビの攻撃が来たら、合図しながら右に避けろ! あいつらを正面衝突させる!」
「了解!」
 明美の返事が聞こえたのと同時に、まず右側から一体、ゾンビが突っ込んでくる。健介はそれを木刀で受け止めた。
「あいつら起き上がった!」
 明美が叫んでいる。しかし、それに答えている余裕は、健介にはなかった。
 左側からもう一体のゾンビが突っ込んでくる。
 今だ。
 健介は左手で腰から日本刀を引き抜き、その攻撃を受け止めた。力が拮抗する。
「来るぜ! せーのっ!」
 明美が横に跳ぶのと同時に、健介はしゃがみ込みながらゾンビの攻撃を後ろに受け流すように力を抜いた。すかさずその後ろにいた三体目のゾンビが爪を伸ばしてくるが、健介は姿勢を低くしたままその足を木刀で払いながら振り返った。
 狙い通り、健介が相手にしていた二体と明美に攻撃してきた一体が正面衝突をしていた。
「天才か!」
 明美がそのうちの一体に木刀を振り下ろし、素早く飛び退いて迫っていた二体の攻撃を回避する。
 健介は振り返った勢いをそのままに、近くにいたゾンビの頭に日本刀を叩き付けようとした。その時だった。
「――健介!」
「うわっ⁉」
 腹部に衝撃を感じて仰け反る。そして、目の前を何かが高速で通り過ぎた。
 それは、服を着たゾンビの腕だった。完全に死角からの攻撃だ。明美が健介の身体を押してくれなければ、確実に頭にダメージを負っていただろう。
「元が何であろうと、健介に手出しするなら容赦はしねえよ!」
 明美がこちらに再度向かってこようとする服を着たゾンビに、振り向きざまに木刀で突きをくらわせる。ゾンビは後ろに鎧めいたが、今度は反動で明美がバランスを崩す。
「明美⁉」
 健介は手を貸そうとするが、背後に気配を感じる。振り返れば二対のゾンビの爪が目の前にあり、慌てて二刀流で防ぐ。
「ぐっ……!」
 完全でない体勢での慣れない二刀流では、受け止めるので精一杯だ。
 健介の視界の隅で体勢を立て直そうとしている明美の後ろには、既に別のゾンビが迫っていた。
「明美!」



「つぎにて……きたら……ずしな……けて! あいつ……めんしょ……る!」
「りょ……い!」
 徐々に二人の声が、断片的にではあるが聞こえるようになっている。そこから聞こえてくる声の波長は、二人に微塵の余裕もない事を顕著に表していた。
「お前ら」後ろで息を荒くしている二人に声を掛ける。「俺は先に行く。お前らは自分のペースで来い。ガス欠したんじゃ話にならねえからな」
「ええっ⁉」
 二人が揃って驚きの声を上げる。
「一人はっ、危ないよ!」友梨奈が息を切らせながら言う。
「分かってる。それでも、だ」
 一真にとっても二人にとってもリスクが高い事は分かっていた。それでも、今は走らなければならないと何かが告げていた。
「……分かったっす」
「仕方ないわね」
 二人も感じるところがあるのか、追及はなかった。
「済まない」一真は二人の目を見た。「不測の事態があったら俺を呼べ。どんなに小声でも良い」
「はいっす!」
「気を付けて!」
 仲間の返事を背に、一真はギアを上げた。行き止まりを右に折れ、すぐに左に折れる。
「せーのっ!」
 明美の声がかなりはっきりと聞こえる。もう一度右に曲がり、遂に一真の目は仲間の二人を捉えた。明美が健介の名を呼び、その腹を押す。
「何だあれは……⁉」
 その瞬間、今まで健介がいた場所を背後から接近していた『ソレ』の腕が通過した。『ソレ』は更に健介に襲い掛かろうとするが、明美に振り向きざまに木刀で突かれて体勢を崩す。
 服を着た『ソレ』はまた新種なのか。健介が左手に握っているものは何なのか。様々な疑問が脳裏をかすめるが、明美の後ろにゾンビが迫っている事が分かった瞬間、そんなものは全て頭から抜け落ちた。
「明美!」
 木刀を持った右手を精一杯伸ばして明美に一番近いゾンビを横から突く。
「一真⁉」
「早く立て直せ!」
「お、おう! サンキュー」
「健介!」背中側にいるリーダーに向かって呼び掛ける。「そいつはお前に任せて良いのか⁉」
「あ、ああ! 大丈夫だ!」
 健介の返事が固いが、それを気にしている余裕はなかった。一体は倒れているが、『ソレ』を含めなくともゾンビは新種が五体。どうやら悪い予感は当たっていたようだ。
「一真!」
 健介が何かを足元に寄越してくる。
「使え!」
 一真の足元に投げられたのは、木刀だった。
「助かる!」
 一真は躊躇う事なくその木刀を拾うと。二体の攻撃を同時に受け止めた。前にユーチューブの企画で剣術を習った際に二刀流もかじっていたのだ。
「おらっ!」
 横から声が聞こえ、組み合っていた二体のゾンビのうちの一体が視界から消える。誰が何をしたかなど、確認するまでもない。
「遅かったな」
 そう言いながら、一真は倒れたゾンビの頭に木刀を振り下ろす。
「かずさんが、速すぎるんすよっ」
 縄跳びを持った悠馬が、息を切らしながらにやりと笑った。

 一真に助けられたかと思えば、悠馬の声がする。瞬間的に振り返れば、その後ろに友梨奈もいた。
 明美は、身体の中心から力が湧き上がってくるのを感じた。まだ油断などとても出来る状況ではないが、五人で力を合わせれば十分勝機はある。たとえ、全員に何かしらの負傷の跡があったとしても、だ。
 一真から作戦が伝えられる。
「俺と明美中心でこの四体をやる。悠馬は俺の、友梨奈は明美の近くでサポートをしろ」
「オッケー!」
 返事をしながら、友梨奈の近くに飛び退く。
「悠馬、縄跳びで転がせ!」
 一真が悠馬に指示を出している。自分も友梨奈と連携しなければ。
「ゆりちゃん!」明美は先輩の名を呼んだ。「俺の目の前に、お手玉ばら撒いて!」
「分かった!」
 何個かは踏まれ過ぎて中身が飛び出していたりもするが、それでも充分だった。ゾンビは二体とも滑って前方に転倒する。
「ゆりちゃん、下がって!」
 自分の目の前に転倒した一体に木刀を振り下ろす。同時に飛び退くが、右足に痛みが走った。どうやらもう一体のゾンビの爪がかすめたようだ。
「明美ちゃん、大丈夫⁉」
「ああ、何とか! もう一体もさっさと――」
 ――やろう。
 最後の三文字は、明美の口の中で溶けて消えた。
 視線の先では、健介に服を着た『ゾンビ』が馬乗りになっていた。
「ゆりちゃん!」先輩に木刀を押し付ける。「これで何とか応戦してて!」
「ええっ! ちょっと⁉」
 友梨奈の困惑する声が聞こえるが、生憎それを気にしている暇はない。先程明美の足を引っ搔いたゾンビにスライディングをくらわせる。その傷が痛むが、明美はそのまま立ち上がって走った。
 何で『ゾンビ』が急に健介を攻撃したのか、明美には薄々分かっていた。健介の日本刀だ。それならば、急に健介達を敵対視した理由も分かる。今、健介がピンチに陥っているのも、恐らく明美と同様の結論に至ったからだ。
 色々な感情が入り乱れているのは明美も同じだ。それでも明美は、現状を見過ごすわけにはいかなかった。
「健介から離れろ!」
 今にも健介に噛み付こうとしていた『ゾンビ』に飛び蹴りをくらわせる。明美の足が届く直前に上体を逸らせた『ゾンビ』は、明美と健介から距離を取る。
 なるほど。これが回避能力か。
「明美、どうして――」
「健介」
 強い口調を意識して、健介の話を遮った。隣で健介が息を呑む気配がする。
「早紀さんとの約束だ。ここで俺らがやられたら、あの人は浮かばれない。ただの自己満足、エゴかもしれないけど、ちゃんとやり切ろうぜ」
「……ああ、そうだな」健介の口調に覇気が戻る。
 やり切るとは、目の前の、武田輝人が元になっている『ゾンビ』を殺すという事だ。それが良い事なのか、正しい事なのかは明美にも分からない。それでも、早紀との約束を反故にしてはいけない事だけは、明美にも分かった。
 問題は、それをどう実行するか、だ。
 明美は左足を引いた。『ゾンビ』こちらに向かって突進してくる。
「明美、下がれ!」
 健介の指示に従って後退する。武器を友梨奈に預けてしまっている状態では、対峙するにはあまりにも危険だ。
 しかし、危険なのは健介もそうだ。さっきのように馬乗りにされる事はないものの、防戦一方の展開だ
 まずいな。
 明美の中で焦りが大きくなる。『ゾンビ』の動きの凄みが増しているのだ。加えて健介の体力も少なくなってきている。他のゾンビを倒してから一真達と協力して倒す事も考えていたが、恐らくそれでは健介の体力が持たない。今ここで明美が有効な策を取れなければ、誰かが致命傷を負う事になるだろう。
 何か手はないか。一瞬でも、『ゾンビ』の意識を健介から、健介の日本刀から逸らせれば――。
「……あるじゃん」
 明美は自分の全身に視線を落とした。
 これなら、日本刀以上に染み付いている筈だ。
 頭の中で作戦を組み立てる。『ゾンビ』には他と異なり、回避などの戦闘に関する知恵がある。そこを上手く利用すれば、実行は不可能ではない筈だ。
 明美は『ゾンビ』の死角に入るように、静かに移動した。
 その機会はすぐにやってきた。健介と『ゾンビ』が組み合い、お互いがお互いを後方に弾き飛ばす。『ゾンビ』が地面に足を付いた瞬間、明美はその右斜め後方から飛び出した。
「明美⁉」
 健介の驚愕の声が聞こえるが、明美は足を止めなかった。
 牙が刺さらない事のみを注意しながら、後方から目隠しをするように『ゾンビ』の顔に自分の手を叩き付ける。そのまま『ゾンビ』が後方に倒れるように顔を自分の方へ引っ張り、同時に足を掛けて地面に押し倒す。『ゾンビ』が明美の手から逃れようとする隙に飛び退き、距離を取る。
 起き上がった『ゾンビ』の目は、健介ではなく明美に向いた。『ゾンビ』がこちらに向かってくるのと同時に、健介もこちらに向かって走り出す。
 明美と『ゾンビ』との距離が近くなり、遂にその爪を伸ばしてきた。
「健ちゃん!」
 幼馴染の名を叫びながら、明美は『ゾンビ』の腕を引っ張って、自分が下になるように倒れ込んだ。
 そのまま『ゾンビ』の両腕を自分の両手で掴む。途端に左腕に激痛が走るが、明美は歯を食いしばって耐えた。
「明美!」
 走ってきた健介と目が合った。
 健介が日本刀を『ゾンビ』の首に振り下ろす。
 その気配を察知した『ゾンビ』が、明美の左手を振り払い、そのまま右腕で日本刀を受け止める。
 次の瞬間、明美と健介は動いた。
 健介が日本刀で『ゾンビ』を引っ張る。その間に起き上がった明美は、突然腕を引っ張れて体勢を崩した『ゾンビ』の腹を蹴り、馬乗りになった。すかさず健介が両足をその両腕に乗せる。上体を明美、両腕を健介が押さえれば、『ゾンビ』はもがく事しか出来なかった。
 頭上から、健介の声が聞こえる。
「俺らがもっと強ければ、頭が良ければ、貴方をこんな姿にしなくて済んだかもしれない」
 その通りだ。元はと言えば、輝人を一人にしたのは健介と明美だ。
「ウイルスを打たれても俺らに攻撃する事を拒んでくれていた事、本当に嬉しかったです」
「その後、日本刀や俺に過剰に反応したのも、早紀さんへの深い愛が伝わってきました」
 健介に続いて、明美も自分が押さえ付けている『ゾンビ』、いや、『武田輝人』へと声を掛ける。
 視界が滲んだ。
「俺達はっ」健介の声も震えている。「あなた方に対して何を想えばいいのか分かりません。だから、余計な事はもう口には出さない。それでも、最後に一つだけ。これだけは言わせてください」
 最後の一言。それは、自然と明美の頭にも浮かんできた。
 打ち合わせなどしていない。それでも、明美と健介は、その『最後の一言』を、同時に口にした。
「――有難うございました」
 日本刀が横に滑る。
 早紀のように滑り落ちる事はなかったが、確実にその繋がりは断たれた。
 押さえ付けている上半身からの抵抗がなくなる。
「終わった、のか……」
 健介の声が遠くに聞こえる。
 ぼやけていた視界が、真っ暗に染まった。



 室内には長い沈黙が落ちていた。男の目に溜まっている涙が地面に落ちる。
 その静寂を破ったのは、黒仮面の拍手だった。
「素晴らしい……!」その手は狂ったようにぶつかり合う。「こんな解答をしてくれたのは初めてだ! これでやっとメインディッシュが出せる。ああ、それはどんな味だろうか。甘い? 辛い? 想像するだけで身体が震えそうだ!」
「……お前はまだ何かやるつもりなのか?」
 男は信じられないと言った様子で黒仮面を見る。
「勿論さ」黒仮面が立ち上がる。「とっておきの料理があるんだ」
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