涙のキセキ

桜 偉村

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第十九章

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「……せめて、何か被せてあげよう」
 健介の言葉で明美が隣室から布団を引っ張ってくる。
「あっ、そうだ」
 横たわらせた早紀の身体に布団を掛けようとしていた明美が手を止めた。
「どうした?」
「早紀さんに、ポケットを見るよう言われてたんだ。椅子に座ってもらった時に」
 明美が早紀のズボンのポケットを探る。
 早紀のポケットに入っていたのはバッジだった。
「これで九個目?」
「一真達が見つけてなければ、ね」
 明美が無言で頷く。
 彼女は発熱していてもここまで静かではない。相当に落ち込んでいるのが伝わってくる。
 しかし、健介の脳内には、今この幼馴染に掛ける言葉は浮かんでこなかった。
「……よしっ!」
 不意に明美が右手で自分の頬を叩く。
「明美?」
「いつまでもうじうじしてても仕方ないや。早紀さんのためにも、必ずここから生きて出ようぜ、健介!」
 明美が明るい声で言う。笑顔の不自然さは否めなかったが、その瞳の意志は本物だと感じる。
「……ああ!」
 健介は明美に負けないように力強く返事をした。本当に、明美は強い。
 頷き合った二人は、並んで早紀の居る家を後にした。

 無視するには存在感が大きくなりすぎている空腹感を、ビタミン剤を下の上で転がす事で緩和しながら、二人は探索をしつつも徐々にショッピングセンターに近付いて行った。
「もうここには何もないよ」
「だな。次はあっちの家探すか」
「りょうか――」明美が口を閉じる。
 静寂の中に、ここ数時間で聞き慣れた音が微かに響く。
「いるな、どこかに」
「ああ。多分、進行方向だ」
「どうする?」
「三体以下なら戦おう」
「オッケー」
 二人で家の中に身を顰める。
 現れたゾンビの数は、果たして三体だった。
「行くぞ!」
「ああ!」
 ゾンビの死角から躍り出て、一気に斬りかかる。二体を同時に仕留め、残りは健介の近くにいる一体。
 健介は木刀でその爪による攻撃を受け流しつつ叫んだ。
「明美!」
「はいよ!」
 明美が猛然とこちらに向かってくる。ゾンビが明美の射程内に入った瞬間、健介はその爪を上に弾いた。バランスを崩したゾンビの頭に、明美が冷静に木刀を振り下ろす。
「三体って現実的な数字だな」
 一つ息を吐き、明美が言った。
「ああ。これ以上増えたらちょっと無事じゃ済まない可能性の方が高いぜ」
「確かに。四体になったら――」
 またしても明美が口を閉じた。
「また三体?」
「ああ……いや、待て」
 健介は聴覚に全ての意識を集中させた。
 耳が僅かな足音を拾う。しかもこれは――、
「後ろだ!」
「はっ?」
 振り向けば、三体がこちらに走り始めるところだった。
「……いくらなんでも多すぎやしませんか? リーダー」
「ああ……明らかな過剰摂取だよ」
 健介は明美と苦笑を交わし合った。もはや笑うしかない状況だった。
 道路のど真ん中にいる二人が今から隠れても間に合わない。何らかの奇跡でも起きない限り、ゾンビの集団とやり合う事は必至だ。
 そんな奇跡など起きる筈もなかった。
 曲がり角から姿を現したのは、三体ではなく四体だった。これで、全部で七体。しかも、健介達が足音を感知できなかった一体は――、
「……タチ悪すぎだろ」
 明美が舌打ちをした。
「ああ……」
 全くもって健介も同意見だった。
 その一体は、他のゾンビとは異なり、服を体にまとっていた。しかし、その動きはゆっくりしていたため、前の三体との差が開いていく。
「ぎこちない……」明美が呟く。
 彼女が今考えている事は、健介には痛いほど分かった。ただ、そちらにばかり気を取られている暇はない。その前にはゾンビが六体もいるのだ。それだけでも、全ての工程を完璧にこなしても、生き残れる保証はない。
 それでも、ここで死ぬには、心残りが多すぎる。健介は前を向いたまま明美に叫んだ。
「一撃離脱で隙を作るしかない。死んでも死ぬなよ!」
「そりゃ生霊だ!」
 どちらからともなく拳を交わした二人は、自らゾンビの集団に斬り込んでいった。



「ねえ。一つ思ったんだけど」
 友梨奈が声を上げる。一真は歩く速度を落とさぬまま聞き返した。
「何だ?」
「今までにもちょくちょく出ちゃってたし、もう活動名じゃなくて、本名で呼び合わない?」
「あっ、それ俺も思ってたっす」
 悠馬も同意する。
 本名で呼び合う事は、実は一真もずっと考えていた。二人が変に気にすると思って口に出さなかったが、どうやら二人の神経はこの『実験』を通して図太くなっているらしい。
「しんや君はどう思う?」
「お前らがそれが良いと思うなら、俺は構わねえ。悠馬、友梨奈」
「やった」
 悠馬と友梨奈が小さくハイタッチをする。
 一真は二人に気付かれないよう、小さく笑みを漏らした。

「来ないっすね……」悠馬が不安そうに呟く。
 ショッピングセンターの入り口に戻って五分ほど経つが、三人の話し声以外は物音一つしない。健介達もゾンビもその気配すら見せなかった。
「……一回この周囲を探索するぞ」
 熟考の末に、一真は言った。すれ違いになるリスクもあるが、彼らが困難な状況に陥っている可能性もあるからだ。
「うす」
「そうしましょう」
 悠馬と友梨奈の返事は早かった。
「行くぞ」
 一真達は病院の方角を中心に、僅かな気配も見落とさないように、慎重に捜索を行った。
 しかし、遭遇する事はおろか、人が居た痕跡すら見つける事が出来なかった。
 念のためにショッピングセンターに戻っても、依然として人の気配はない。
「どうする? 一真君」
 友梨奈が焦った口調で聞いてくる。その隣の悠馬は今にも走り出しそうだ。
 一真は少し迷ったが、捜索範囲を広げる事にした。栄養補給も治療も満足でない今の状況では相応のリスクはあるが、もし今探しに行かずに事が切れていたら、後悔してもしきれないと思ったからだ。
「捜索範囲を広げる。当然、ゾンビとの遭遇率も上がるだろう。今まで以上に周囲に気を配れ」
「了解」
 二人の声が重なった。

 一真の左を歩いていた悠馬の足音が乱れる。
「悠馬。どうした?」
 一真の問いに、悠馬は指先を震わせながら左斜め前方を指差した。
 その指の示す先に目を向けて、一真は息を呑んだ。隣で友梨奈が小さく悲鳴を洩らす。
 道路脇に、大部分が布団に覆われ、靴のみがはみ出しているものが横たえられていた。
「あ、あれ……人間?」
「俺が確かめる。お前らは周囲を警戒しろ。こういう時こそ奴らは襲ってきやがる」
 一真は語気を強めて指示を出し、二人の意識を無理矢理ゾンビに集中させた。
 一真とて内心では動揺していたが、その靴が健介や明美、輝人の物でもない事で、まだ脳は正常に機能していた。これがもし三人のうちの誰かの、特に健介か明美の物だったら、脳は完全に機能を停止していたかもしれない。
 一つ息を吐く。その前に片膝をつき、布団に手を掛けた。三人のうちの誰かでない事を祈りながらそれをめくろうとし、手を止める。
 楽観的になるな。自分に言い聞かせる。非常事態の時は、最悪を想定して行動するべきだ。靴だけで判断をしてはいけない。
 一真は度深呼吸をして、もう一度布団に手を掛けた。意を決して、一気にめくる。
 その身体が目に入った瞬間、三人の誰でもない事はすぐに分かった。髪が長く女性の身体つきで、こんな事を言えば怒られるだろうが、明美よりも明らかに胸があったからだ。
 その身体には無数の切り傷があり、鋭利なもので繰り返し攻撃されたのは間違いない。
 手首の脈を取り、既に事切れている事を確認する。
 改めて全身を見回せば、ちぎれている部分は多いものの、その服には見覚えがあった。
 これは、黄仮面が着ていたものだ。
 三人ではない事に安堵を覚える間もなく、一真の頭は混乱した。
 これはどういう事だ。この施設内での切り傷など、ゾンビの爪以外には考えられない。もし仮に他の何かがあったとしても、『ボス』の手下である筈の黄仮面が死んでいる事に説明がつかない。
 しかし、答えの分からないものをいつまで考えていても仕方がない。
 一真は布団を掛け直すと、頭を振って立ち上がった。
「お前ら」こちらに背を向けている二人に声を掛ける。「既に事切れてはいるが、こいつは健介でも明美でも武田さんでもねえ」
 故人を気遣って声には出さないのだろうが、二人が安堵しているのは背中越しでも伝わってくる。
「でもじゃあ、その人は誰なの?」友梨奈が問うてくる。
「確証はねえ。ただ、こいつの着ている服は俺らをホテルまで案内した黄仮面の物だ」
「えっ?」
「ど、どういう事っすか? あの人って『ボス』の手下っすよね?」
「そうだった筈だがな。ただ着ている服がそいつと同じだっただけだ。別人って事も有り得る。そんな事より」一真は話題を切り替えた。「死体の状態を見ても、故人に服を掛けた奴はそう遠くまでは行ってねえ筈だ。それが三人のうちの誰かである可能性もある。先を急ぐぞ」
 二人を促して足を進めようとした時、一真の耳は音を拾った。神経を研ぎ澄ましていなければ絶対に聞き逃していたであろうその小さな音が、今自分にとってとても意味のあるものだと直感して、足を止める。
 後ろの二人にも身振りで音を出さないように伝え、耳を澄ませる。
 もう一度聞こえる。声なのか機械が出しているのかの判別も出来ない音量だが、その聞こえた音が健介と明美の声だと、一真は確信していた。
「こっちだ!」
 周囲への警戒を疎かには出来ないため全力は出せないが、それでも今出せる限りのスピードで三人は走った。非常事態でもない限り、あの二人が大声を出す事などまず有り得ない。輝人がどうしているのかも気にはなるが、まずはあの二人だ。
「堪えてくれよ……っ!」
 三対の足音が、静寂の中に響いていた。
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