涙のキセキ

桜 偉村

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「く、来るな! 来ないでくれ!」
 何もない真っ白い部屋の中で腕を無秩序に振り回して泣き叫ぶ若者に、全身が赤紫に染まっている人型の何かが襲い掛かる。身体の色に加え、その鋭い爪と牙、瞳いっぱいに広がる黒目が、『ソレ』が化け物である事を物語っていた。
「いっ……!」
 爪に腕を裂かれ、若者が声にならない悲鳴を上げてうずくまる。その隙に『ソレ』は、若者の首元まで迫っていた。
「ひっ! や、やめっ……!」
 若者の叫びは空に溶けた。
 その周囲の白い地面が鮮血に染まる。『ソレ』が若者の首元を噛み千切ったのだ。
「見事だよ。あののろまだったゾンビをここまで改良するとは」
 それを眺めていた長身の男が拍手をする。黒い仮面を被っているために表情は分からない。
「なあ?」
 隣に立つ青年に同意を求めるが、青年の返事は素っ気ない。
「どうでもいいです」
 その表情には、何の感情も浮かんでいなかった。
「冷たいなあ。私は一応雇用主なんだが?」
「貴方への返答の仕方は、契約に記されていませんでしたから」
「冷たいなあ」
 黒仮面はもう一度繰り返した。青年の言葉を特に気にしている様子はない。
「まあ、契約さえ守ってくれれば報酬は払うよ」
「お願いしますよ」
 青年は頭を下げると、後方の扉へ身体の向きを変えた。
「それでは僕はこれで」
「ああ。また明日会おう」
 黒仮面の言葉に動きを止める事なく、青年は部屋を出て行った。
「やれやれ」
 扉を眺めていた黒仮面の顔が、正面に戻る。その視線の先には、若者と『ソレ』――黒仮面はゾンビと言った――が重なり合うようにして倒れていた。
「次の『実験』は、ゾンビと戯れてもらおうか」
 男はくつくつと、低い笑い声を響かせた。
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