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第十三話 経験

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「お父様、いってらっしゃい!」

 ソフィアは家を出て行くマテオに手を振った。

「あなた、気を付けてね」
「いってらっしゃいませ」

 後ろにはヴィクトリアとレイモンドがいる。

「ああ……おや?」

 頷いて踏み出そうとしたマテオが、足を止める。

「どうしたんですか?」
「あれ、リリーちゃんじゃないか?」

 マテオが示す先には、ソフィア達に背を向けて今にも歩き出そうとしている黄色の髪をなびかせた少女がいた。

「あっ、本当だ。リリー!」

 大声を出して呼び止めれば、リリーは足を止めて振り返った。

「いってらっしゃい!」

 そういって手を振れば、彼女は一度お辞儀をしてから手を振ってくれた。
 その顔には柔らかい笑みが浮かんでいた。

「じゃあ」
「はい。お気を付けて!」
「お前もちゃんと食べるんだぞ」
「はい!」
「よし」

 ソフィアの頭をポンポンと叩き、マテオは歩いて行った。

 その後ろ姿が見えなくなるまで見送り、三人で家の中に戻る。最近の日課だ。

「リリーさん、学校が楽しそうだね」
「最近リリー楽しそうだよねー」
「そうね。特にレイ君がうちに来たくらいからじゃないかしら。それまではどこか一歩引いたような感じがあったけど、最近は結構歳相応の表情もするようになったのよ」
「そうなんですね」
「そうそう。特にレイが来てから、リリー凄いんだよ」
「凄い?」
「そう、凄いの!」

 ソフィアも何が凄いのかはあまり分からないのだが、とにかくリリーが凄いと感じたのだ。

 そんな事を話しているうちに、家の中に入った。
 そのまま使用人が持ってきてくれる朝食を食べる。

「ねえレイ。この後遊ぼうよ」
「この後? うーん、掃除とかしなきゃだから、その後で良い?」
「前から思ってたんだけど、そんなに全部レイが手伝わなくても良いんじゃないの? ちょこっと手伝えば」

 ソフィアは何故レイが率先して家事をこなすのか、理解出来なかった。

 ソフィアの名誉のために言えば、これはこの世界では普通の感覚だ。
 使用人のいる家の子供は最低限、やり方を覚える程度にしか家事をしない。
 それが常識であるため、ソフィアにレイの行動が理解出来ないのは、ある種当然と言えた。

「確かにそうかもしれない。でも僕はあくまで客人だし、もしそうじゃなくても、この経験はいつか役に立つと思うんだ」

 ソフィアにはレイモンドの真意は分からなかった。
 分かったのは、彼が家事を疎かにする事はないだろう、という事だ。
 だからソフィアは言った。

「じゃあ、私も手伝う!」

 レイモンドと一緒にいるために。







 ソフィアにとって、レイモンドは英雄ヒーローだった。
 あの日、ソフィアはリリーに言われて本部に向かって走っていた。
 すると、その途中で一人の少年と遭遇した。

「君、こんな遅くに一人でどうしたの?」
「友達が霊に襲われてるの! 助けを呼ばないと!」
「森で一人は危険だ。《憑依人間》や《憑依生物》の危険もある」
「でもっ!」
「来て」
「わわっ⁉」

 少年はソフィアを半ば無理矢理背中に乗せると、とてつもないスピードでリリーのいる方向へ走り出した。
 そこは、霊術を使った際の発光現象により仄かに明るい。

 リリーを視認出来る距離まで来ると、少年は木の根元にソフィアを下ろした。
 すぐに《聖域》がソフィアを覆う。

「絶対に動かないで」

 ソフィアに釘を刺し、少年は地面に膝をついているリリーの元へ駆けて行った。
 駆けていく少年の手にはいつの間にか青い刀身の剣が握られており、今にもリリーを襲おうとしていた触手を受け止め、跳ね返した。
 そこからは無双タイムだ。
 戦闘経験のないソフィアにも、その戦いが一方的である事は分かった。

 そして少年はあっさりと敵を倒すと、気絶したリリーの傷を治し、グレイスにも霊力を与えていた。

「もう安心だよ」

 すべてを終えた少年が放ったその言葉は、ソフィアの限界まで張りつめていた緊張を解くには十分だった。
 そこで意識の途切れたソフィアは、自宅に戻ってようやく少年の名前がレイモンド・テイラーだという事を知ったのだ。

 大好きな人リリーのピンチを圧倒的な強さで救った美少年。
 六歳の少女ソフィアその少年レイモンドを好きになるのはある意味当然の事だった。
 そして、まだ「好き」のバリエーションが少ないソフィアが「大好き」なレイモンドと一緒にいようとするのもまた、当然の事だろう。



 こうして大半の時間をレイモンドと過ごしていると、やがてリリーが帰ってくる。
 そこからは三人で過ごす時間だ。

 最近は霊術もそうだが、特にリリーの学校での話を聞くのがソフィアの楽しみだった。
 話が面白いのは相変わらずだが、何よりリリーが楽しそうなのだ。
 つい先日は一番の友達だというクレアを連れてきた事があった。
 陽気でよく笑うクレアを、ソフィアはすぐ好きになった。
 リリー曰く、学校にはクレア以外にも面白い人がいっぱいいるらしい。

 そんな話を聞いているうちに、ソフィアの中に一つの想いが芽生えた。
 私も学校に行ってみたい、と。

 それをリリーに言えば、両親に相談するように言われた。

 だから、ソフィアは数日後に家に帰ってきた父親と夕飯を共にしている時に思い切って言った。

「学校に行ってみたいです」

 と。







 どうしたものか。
 自室の机に肘をつき、マテオは考え込んだ。

 事の発端はさかのぼる事三十分前。
 一週間ぶりの家での夕食の最中、ソフィアが珍しく真面目な表情でマテオの事を呼んだ。

「お父様」
「どうした?」
「一つ、お願いがあるのですが……」

 ソフィアは甘えん坊だが、彼女からのお願いはせいぜいあれを買って、というものくらいだったから、今回は少し高価なものでも頼んでくるのだろう、とマテオは当たりを付けた。

「何だい?」

 しかし、その後の娘の言葉は予想とは全く異なっていた。

「私、学校に行ってみたいです」

 表情こそ真面目だが、その眼はキラキラと輝いていた。
 なんでも、リリーの話を聞いているうちに自分も行きたくなってしまったらしい。

 確かに最近のリリーは学校が楽しそうだ。登校前の表情を見れば分かる。

 ……そうだ。リリーに相談しよう。

 その思い付きは、とても良いもののように感じられた。
 生憎マテオは学校に通っていなかった。
 だったら、まずはその経験のある者に話を聞くのは合理的だ。
 それに、シエラで行動を伴にして以来、マテオはリリーの事を尊敬していた。「近所の賢い子」から「対等以上に議論が出来る相手」になっていたのだ。
 周囲は笑うだろう。十歳の少女に何を期待しているのか、と。
 しかし、マテオは確信していた。リリーなら、必ずや建設的な意見を出してくれる事を。



 思い立ったが吉日。
 マテオはその日のうちに早速ブラウン家を訪ねた。

「マテオ様、ようこそお越しくださいました」

 使用人の一人がうちに招き入れてくれる。

「おお、マテオ」

 玄関に入るとすぐにジャックが顔を覗かせた。

「珍しいな。お前がうちに来るなんて。何か急用か?」
「急用……というほどでもないが、少しリリーちゃんに話が聞きたくてな。今大丈夫か?」
「えっ、うちの娘が何かしたのか?」

 不安そうな顔をするジャックに首を振る。

「いや、そうじゃないんだ。うちのソフィーが学校に行きたいと言い出してな。それで学校について話を聞きたいと思ったんだ」
「ああ、そういう事か。安心した。ならこっち……あっ、いや」

 踵を返したジャックが立ち止まり、こちらを振り向く。

「その話、興味あるから俺も聞いて良いか?」
「ん? ああ、勿論」

 二分後、マテオ、ジャック、リリーの三人は一つの机を囲んでいた。

「済まないな、こんな時間に」
「いえ。ちょうど作業が一段落したところでしたから」

 リリーは目を閉じて首を振った。

「そうか」
「はい。それで、お話というのは?」
「ああ。ソフィーが学校に行きたいと言い出してな」
「あっ、その事ですか」
「知っているのか?」
「はい。学校での話を聞かせていたら自分も行きたいと言い出したので、それならご両親に相談するように言ったんです」
「なるほど……では、早速一つ質問しても良いかい?」
「はい」

 マテオはリリーの目を見た。

「ソフィアを、学校に行かせるべきだと思うかい?」
「はい」

 リリーの返事は即答だった。

「……理由を聞いても?」
「はい。学校は、クラスこそ一応年齢ごとに分かれてはいますが、授業によっては年齢、身分、出身などの違う多種多様な人間が同じ場所で集まります。ソフィーなら友達も出来るでしょうし、そこで得られる集団生活や対人関係の経験は、きっと将来の役に立つからです。例えば、自分より力の強い者への接し方や沸点の低い人の扱い方、自分に取り入ろうとしてくる人への対処などが学べるかもしれません」
「ほう……」

 思わず感嘆の溜息が洩れる。
 具体例もあり、分かりやすい。
 やはり、この少女に意見を求めるのは正解なようだ。

「とても分かりやすいよ。では逆に、学校に行く事で被る不利益はあるかい?」
「それも勿論あります。授業に置いて行かれる……事はソフィーならないでしょうけど、単純にいじめられたりするかもしれません。素直で可愛い子って嫉みや妬みの対象になりやすいので」
「そのリスクを考慮しても、ソフィアは学校に行かせるべきだと思う?」
「ええ」

 また即答だ。

「ソフィーはこれまで愛情に囲まれて育ってきたと思います。勿論心に傷が残るような事はあってはなりませんが、他人からの悪意にある程度慣れる事も大事だと思いますから。それに」

 リリーの鋭い視線がマテオを射抜いた。

「そんな事にはならないように、私が必ずソフィアを支えますから」

 それから数秒間、マテオとリリーはどちらも目を逸らさなかった。
 ……先に逸らしたのはマテオだった。
 マテオはリリーからジャックへと視線を移した。

「凄いな、お前の娘は」
「俺も今そう思っていた」

 ジャックが真面目腐った表情で頷いた。
 それに対して笑いが洩れるのを自覚しながら、マテオはリリーに向き直った。

「貴重な意見を有難う、リリーちゃん」
「いえ、生意気言ってしまってすみません」
「そんな事はないさ。根拠のしっかりした頼もしい意見だった。決めたよ。私はソフィアを学校に通わせようと思う」
「えっ、そんな簡単に決めてしまって宜しいのですか?」
「ああ。元々ソフィアの願いはなるべく叶えたいと思っていたしね。そんな時に君から前向きな意見が貰ったんだ。これ以上は何も要らないさ」
「そうですか」

 リリーは素直に引き下がったが、ふとこちらを見てきた。

「そういえば、レイはどうするのですか?」
「レイ? そういえば彼は何も言っていなかったな」
「マテオさん」

 リリーの声色は真剣だ。

「もし良かったら、レイも学校に通わせて頂けませんか?」
「分かった」

 今度はマテオが即答する番だった。
 金銭面でも問題はないし、そもそもマテオはレイモンドも自分の子供のように接すると決めたのだから、渋る理由はない。

「ただ、彼がどうしても行きたくないと言ったら私は行かせるつもりはないよ」
「承知しています」

 リリーが頷き、論議は終了となった。







「全く、嬉しいやら寂しいやら……」

 今しがたリリーが登っていった階段を見ながら、ジャックが溜息を吐いた。

「立派に育ってるじゃないか」
「育ちすぎたよ」

 ジャックが苦笑した。

「最近、リリーのやつ色々な事により精を出すようになったの、気付いているか?」
「ああ」
「あれ、あの襲撃があった後からなんだよ」

 マテオは黙ってジャックを見た。

「あの時、帰ってきたリリーは心身ともに疲弊していた。思えばあんな風に弱ったところを見せるリリーは初めてだった。不謹慎だけど、あの時俺は嬉しかったんだよ。やっと親としてこの子を支えてやれる、ってな。だけどあの子は一人で立ち直った。どころか、それをバネに成長した。これまではどこか達観していたところがあった。けど今はなんつーか、今を真剣に生きてる。そんな感じがするんだ。俺はそんなあの子を見て思ったよ。ああ、こんな俺じゃ親として出来る事はねえのかもしれねえな、って」

 ジャックの口調は自嘲的だが、マテオは素直に彼を凄いと思った。
 思った事をそのまま口にする。

「お前はそれで良いんじゃないか」
「えっ?」

 ジャックが顔を上げた。

「リリーちゃんはしっかりしている。確かにお前が何かを教えたりする事は少ないのかもしれない。けど、お前はちゃんとあの子の事を見ている。普段はしっかりした子でも、心のどこかでは親を頼りにしているもんだ。お前はあの子をちゃんと見て、もしあの子に助けが必要になったら手を差し伸べる。それで良いじゃないか」
「……そうだな」

 ややあって、ジャックはふっと笑って頷いた。

「変に親ヅラする必要もねえか」
「そういう事だ」
「何か気が楽になったわ。ありがとな、マテオ」
「良いさ。俺とお前の仲だ」
「今度何日か休みを取ってこい。久しぶりに飲もう」
「ああ、そうだな。俺も久しぶりに飲みたい」
「約束だ」
「ああ」

 拳をぶつけ合い、マテオは席を立った。
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