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第二章『恋蕾』~黒竜と銀狼・その想いの名は~
帰ってきた日常
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「あ、あの……、あ、アレクさん、一人で食べられますからっ」
ずいっと差し出された木造のレンゲを前に、私はここ数日に渡って何度目とも知れない遠慮の言葉で彼と向き合っていた。
ほわわんと、ほど良い熱を宿した美味しそうなお粥。
食欲をそそる匂い。あぁ、食べたい、食べたくて堪らない! ……でも。
カインさんを中心とした一連の事件を終えて休養に入った私の新たな問題は、それを私に食べさせようと甲斐甲斐しく世話を焼いてくるアレクさんの存在だ。
何度もう一人でも大丈夫だからと遠慮の言葉を伝えても、全然引き下がってくれない。
心配そうな顔を崩さずに、何から何まで至れり尽くせりの仕様を提供しようと頑張ってくれるアレクさん。その気持ちは……、とても嬉しい、のだけど。
「ユキ、まだ完全に回復したわけではないと、自分でもわかっているだろう?」
「それは、まぁ……。だけど、王宮医師のお二人からのお話では、食事やお散歩くらいならもう問題ない、と」
「もしも、という事もある。俺の目から見ても大丈夫だと判断出来るようになるまでは、遠慮せずに俺を頼ってほしい」
「あ、アレクさん……、本当に大丈夫なんですよ? それに、少しでも自分から動き始めないと」
世話を焼かれる事に慣れてしまいそうで若干怖い。
禁呪事件を終えてから三日間ほど、私はずっと夢の中にいた……。
三度にも渡って失われた大量の血液。
予想外の事態ばかりを引き起こし、カインさんや私達を嘲笑い続けた禁呪と、正体不明の介入者の存在……。どうなる事かと、一時は寿命が縮まるくらいに緊張したものだけど、どうにか無事に収束する事が出来た。その反動と疲労のせいか、目が覚めた時にはベッドから起き上がる事すら出来なくて……。必ず誰かの手を借りての生活をかれこれ二週間ほど繰り返しているのだった。
(二週間くらいでここまで回復出来たのは、やっぱりお二人のお蔭だなぁ)
元いた世界にはない、魔術という力の恩恵。
王宮医師であるセレスフィーナさんとルイヴェルさんの存在がなければ、きっとこんなにも早く体調が良くなる事もなかったことだろう。
お二人だけでなく、私の世話を積極的にこなしてくれているアレクさんや皆さんにも、本当に、どれだけ感謝しても足りないぐらいで……、だからこそ。
「ほら、もう手だって問題なく動きますし、リハビリは必要なんですよ」
「駄目だ」
ロゼリアさんやセレスフィーナさんは私の意思を尊重してすぐ引き下がってくれたというのに……。どうして、アレクさんだけはこんなにも過保護に私を心配してしまうのだろうか。
あれかなぁ……、手のかかる妹みたいな存在がまた無茶をしないかと気を揉んでいるとか。
「お前を守れなかった不甲斐ないこの身には……、このくらいの事しか出来ないんだ」
「アレクさん?」
「叡智の神殿でお前が攫われた時も、その後も……、俺には何も出来なかった」
木のレンゲを持つ指先に震えを抱き、アレクさんが奥歯を噛み締めながら後悔と自己嫌悪に沈む小さな音を零した。
「いいえ。アレクさんは守ってくれました」
「いいや、俺は守れなかった……っ。傷つき苦しむお前を見ている事しか出来なかった……っ」
見ている私が辛くなるほどに、アレクさんの自責の念は強く激しかった……。
左手を膝の上で爪が食い込むほどに握り締め、何度も何度も後悔の言葉を吐き出すアレクさん。
あれはアレクさんのせいじゃないのに、貴方はちゃんと私を守り続けてくれていたのに……。
私は、木のレンゲを持つその手元を両手で包み込み、首を横に振った。
「禁呪に攫われる前も、後も、いつだってアレクさんは私の全てを守ってくれていますよ? その優しい眼差しで、思い遣りで、ずっと……」
「ユキ……、だが」
「だから、もう自分を責めないでください。大好きなアレクさんにそんな辛そうな顔をされてしまうと、私も悲しくなってしまいます」
「……ユキ」
ぎゅっと、その大きな硬い、温かな手元を包み込んで自分の気持ちを伝えると、ようやくアレクさんはその表情から緊張を解いてくれた。
アレクさんは責任感が強くて真面目な、ううん、真面目すぎる程に純粋な人だから……。
その心を少しでも軽くしてあげたくて、私は「ね?」と首を傾けながら微笑んでみせた。
「わかった……。お前が、そう言ってくれるのなら」
「はい。もう気にしないでくださいね」
と、場の空気が少し和んだところで、私はアレクさんから木のレンゲをやんわりと奪いにかかる。
この流れで食事も自分で!! と、思ったのが甘かったのかもしれない。
そっと自分の手にレンゲを受け取ろうとした瞬間、ひょいっとかわされてしまった。
「だが、これとそれは別の問題だ」
きらん……!! 今、アレクさんの優しい蒼の双眸に不敵な光が煌めいたような気がっ。
私の体調が完全に回復するまでは世話係の座を退く気はない!! と、その表情が物語っている。
うぐぐ……!! なんでそんなに頑固なんですかっ、アレクさん!!
再び差し出されたレンゲを前に慄いていると、その時、私の部屋の扉をノックする音が響いた。
アレクさんが一旦レンゲをお粥の入った器に戻し、そちらへと向かってくれる。
(お見舞いの人かな……)
ベッドの住人となって早二週間と少し、私の事を心配してお見舞いに来てくれる人は多い。
騎士団のルディーさんやメイドのリィーナさん、レイル君や三つ子ちゃん達……。
ベッドから動けない私を退屈させないように楽しい時間を提供してくれる皆さんには、本当に感謝している。だから、今訪ねて来た人もお見舞いに来てくれたのかなと思ったのだけど……。
扉の向こうから現れたのは、アレクさんと同じ銀の輝きを髪に宿した、白衣姿のあの人だった。
「ユキ姫様、お休み中のところ大変失礼いたします。診察と薬の件で伺わせて頂きました」
私のベッドの傍に立ち軽く会釈を向けてくれたのは、王宮医師のルイヴェルさんだ。
横にある椅子に腰かけ、私の顔色を見ながら、頬や首元、手首などに触れてくる。
「ルイ、ユキが完治するには、あとどれぐらいかかる?」
「そうだな……。前にも言ったが、王宮内の軽い散策程度であれば問題ないが、元通りの体力と状態を取り戻すには、一週間ほどと見ていいだろう」
「あの、ルイヴェルさん」
「何でしょう?」
アレクさんや他の人には素の口調で喋るのに、相変わらず私に対しては敬語一色のルイヴェルさん。その銀フレームの眼鏡越しから、知の気配を湛えた静かな深緑が私へと向けられる。
この視線を受け止める時、心の奥底で……、どこか、不思議と懐かしい感覚を覚えるのだけど、それはきっと幼い頃に封じられた記憶が関係しているのだろう。
ルイヴェルさんだけでなく、それは王宮内の他の人達にも感じている事だけど……。
(この人を前にすると、特に強くそれを感じるような……)
「ユキ姫様? どうされましたか?」
「あ、す、すみませんっ。え、えっと、その……、あ! あの、もう食事は自分でしても構わないんですよね?」
ルイヴェルさんの顔がずいっと私の目の前で迫っていた事に気付いた私は、その美しすぎる理知的な顔を前に慌てて挙動不審になりながら、食事の件を尋ねた。
もう一度お医者様であるルイヴェルさんの口から伝えて貰えば、アレクさんも安心出来るはず。
そう期待して聞いてみたのだけど……。
ルイヴェルさんはサイドテーブルに置いてあるお粥の器から、ひと口分、木のレンゲにそれを掬い上げ、私に視線を戻した。
「る、ルイヴェルさん……?」
私の手にそれを渡してくれるのかと思ったけれど……。
ルイヴェルさんの深緑の瞳に、何か嫌な予感を感じる愉しそうな気配が滲んでいる気がしてならない。
「ユキ姫様、少々口の中を見せて頂きたいのですが、開けて頂けますか?」
「え? ――んぐっ」
ついついお医者様からの言葉に反応して、素直に自分の口を開いてしまった私は、次の瞬間、お粥入りのレンゲを突っ込まれてしまった!! ちょっ!!
乱暴な動作ではなく、とても器用な流れで口の中に収まったレンゲが……、ゆっくりと表に出ていく。
「……な、何するんですか!!」
「美味しかったですか?」
「え? は、はい……」
「では、もうひと口」
「んぐっ」
ニヤリと不敵に微笑んだルイヴェルさんが、まるで雛鳥への餌付けのような感覚でお粥を口内に入れてくる!!
文句の声を続ける隙もなく、それからパクパクとお粥の味を堪能する事になってしまった私は、泣けてくるような敗北感と共に食事を終える事になってしまったのだった。
――カラン……、と、器にレンゲが置かれる。
「食欲も良好。一人で食べても問題はありませんよ」
「じゃあ今のは何なんですか~!!」
「雛鳥のように、素直に口を開けてくださるユキ姫様のお姿は、非常に楽しいものでしたよ。アレクが世話を焼きたがるのも頷けますね」
「ルイ……」
満足そうに横の椅子に腰かけたルイヴェルさんに、私とアレクさんは非難の声と視線を注ぐ。
問題がないなら、何故こういう真似をするのかと怒鳴りたいけれど、言ってもあまり効果はない気がするのは、きっと気のせいじゃない。
その証拠に、ルイヴェルさんは喉の奥で小さく笑いを殺しながら涼しげな顔をしている。
「まぁ、アレクがユキ姫様の世話を焼きたがる気持ちはわかりますが、別にいいのではないですか? 貴女はこのウォルヴァンシアの王族。国王の兄君であられるユーディス様のご息女なのですから、臣下を使う事に何ら問題はありませんよ」
「私は、アレクさんや皆さんの事をそういう風には思っていませんっ。皆さんは私にとって……、こういうのはおこがましいかもしれませんけど、大切な友人だと、そう、思っていますから」
いくらお世話になっているとはいえ、少しだけ冷たく突き放されるような物言いで心外な言葉を向けられてしまった私は、ルイヴェルさんに感情的な怒りを真っ向からぶつけてしまった。
私にとってこのウォルヴァンシアの皆さんは、下にいる人達じゃない。
この世界に不慣れな私を助け続けてくれている、心優しい大切な人達なのだ。
そう、自分の気持ちを視線に込めてみたのだけど、……あれ。
「アレク、ユキ姫様の今日一日分の薬だ。忘れずに飲ませておけ」
「わかった」
何故だろう。ルイヴェルさんはその深緑に微笑ましそうな気配を浮かべ、席を立ち上がった。
去り際に、くしゃりと優しい手つきで私の頭を撫でたその大きな手の感触に、私の心は意味を掴めずに戸惑ってしまう。
丁寧な敬語の中に、時折混じる意地悪な物言いや、ふとした瞬間に見せてくれる優しそうな顔。
この人にとって、私は一体……、『何』なのだろうか。
逆に言えば、私にとってのルイヴェルさんは……、『何』なのだろうか。
封じられた記憶の鍵穴が、その中に在る日々を思い出せと言っているかのように、鈍く傷んだ気がする。
「大丈夫だったか? ユキ……」
「あ、は、はい。ちょっと、驚いただけですから」
「ルイに悪気はないんだ。ただ、……少々性格に問題があるというか」
「はは……、確かにそんな感じではありますよね。そういえば、アレクさんはルイヴェルさんの事を『ルイ』って呼んでますけど、昔からのお友達……、とか、ですか?」
お互いの名前を呼ぶ時に、アレクさんとルイヴェルさんの間には、昔から続いているかのような、確かな絆がある気がしていたのだけど、どうやら間違ってはいなかったらしい。
アレクさんは粉薬を取り出すと私に手渡し、サイドテーブルに置かれている水差しからグラスにその中身を注ぎながら口を開く。
「俺とルイ、それから、ルイの双子の姉であるセレスフィーナとは、幼馴染なんだ」
「へぇ~、そうなんですか」
「あぁ。ルイとセレスの父親であるフェリデロード家当主と、俺の父親が昔からの友人なんだ。それに、俺の父親が元ウォルヴァンシア騎士団の副団長だった事もあり、二人がいる王宮にはよく出入りしていたからな」
「それじゃあ、一緒に遊べる時間も多かったんでしょうね」
私にも、幼い頃からの大切な親友が向こうにいるけれど、時を重ね一緒に想い出を作って来た友達というのは、何にも代えがたい存在だ。
アレクさんも同じようで、二人の事を語ってくれるその表情は、とても穏やかで優しいものに見える。粉薬を喉奥に呷った私は、グラスの水ををごくりと飲み干していく。
「子供の頃のアレクさん達だって、どんな感じだったんですか?」
「俺は今とあまり変わらないな。だが、温厚な性格の素直なセレスとは違い、ルイの方は多大に問題のある子供ではあったが……」
「ルイヴェルさんがですか?」
「あぁ。今でこそ落ち着いたものだが、昔は色々と手を焼かせられたものだ」
確かに、素直で優しい性格……、とは言えないルイヴェルさんだけど、人の手を煩わせるような過去があったとは、思ってもみなかった。
それどころか、アレクさんの語ってくれたルイヴェルさんの幼い頃の姿は、頭が良く魔術に対する熱心さはあったけれど、その好奇心のせいで色々と問題を起こす事も多かったのだとか……。
なるほど……、つまり今のルイヴェルさんは。
「やんちゃをやり尽くした後の姿、なんですね?」
私の大雑把な表現に、アレクさんは小さく笑みを零す。
「そうだな。思い切りやんちゃをやった後の、どうにか大人になれた姿だ」
「意外です……。何でも冷静に判断して難なくこなしそうな人に見えるのに」
ルイヴェルさんの消えていった扉の方に視線を向けると、アレクさんが「今でこそ、な」と、珍しく少年めいたあどけなさのある笑みを零した。
きっと、とても仲の良い幼馴染の関係を築いてきたのだろう。
その表情を見ていれば、よくわかる。
「まぁ、昔のような大事(おおごと)をもう起こす事もないとは思うが、あの性格だけは治りそうもないな……。だが、悪気はないんだ。許してやってくれ」
「アレクさん……。ルイヴェルさんの事、大事に思っているんですね」
「一応、な。だが……」
「アレクさん?」
和んでいた表情が急に険しげなもの……、というよりも、不満を宿した気配へと変わったかと思うと、アレクさんはサイドテーブルにあるお粥の器に視線を向けた。
「まさか、ルイに俺の役目を奪われるとは……」
アレクさーん……、まだ私にお粥を食べさせる事を諦めてなかったんですか?
どうやら、自分ではなく、ルイヴェルさんの手から私がお粥を食べさせて貰った事に対して思うところがあるらしい。小さく、「次こそは……」と決意を込めた低い音を漏らしているけれど、アレクさん……、私は一人で食べますよ!
「ルイヴェルさん(お医者様)から太鼓判を押して頂きましたから、食事のお世話はもう大丈夫ですよ」
「だが……」
「大丈夫です」
やんわりと食事のお世話はもう必要ないと改めて伝えたのだけど……。
しゅんと項垂れてしまったアレクさんの気落ちした様子を見ていると、物凄く良心が痛んでしまう! 大人の男性なのに、私からお世話を拒まれてしまったアレクさんのその姿は、可哀想と可愛いが絶妙に混在しているかのような、『母性を擽る気配』に満ちていた。
気のせいかな……。こういう時のアレクさんには、何故か、わんちゃんの耳や尻尾の幻影が見えるような気がするのだけど。
(今は人の姿のはずなのに……、何故?)
こんなアレクさんの姿を前にして、果たして駄目だと強情を張れるだろうか……。
「ユキ……」
「うっ……」
私の瞳を真っ直ぐに見つめ、子犬のような眼差しと共に訴えてくる蒼の双眸……。
これはわざとなの? ううん、アレクさんの事だから、どう考えても無意識なのだろう。
ごくりと喉の奥に唾を飲み込んだ私は、退路を断たれてなるものかと心を鬼にする事に決めた。
「わ、私も一応大人……、です、から、あまりアレクさんの手を煩わせてはいけないと思うんです。だから……、その、食事はもう一人で出来ますし、護衛の件もそろそろ……」
「……俺の存在は、迷惑、なのだろうか」
「え?」
いつまでも国の要である副騎士団長さんを私の許に留めておくのは、本人にも騎士団の人達にも悪いと思って、そう伝えてみたのだけど……。
アレクさんはビクリと肩を震わせたかと思うと、その表情に漂わせていた悲壮感を強め、椅子から立ち上がった。言葉がなくてもわかる……。きっと今、私はアレクさんをさらに傷付けた。
「あの、アレク、さん……」
「すまない。一度騎士団に戻る。ロゼを寄越すから、少しの間不便を堪えてくれ」
「アレクさんっ」
どんよりと気落ちした様子で私に背を向けたアレクさんは、引き止める私の声にも振り返る事なく、お互いに気まずさを残したまま部屋を出て行ってしまった……。
どうしよう……。傷付けるつもりなんてなかったのに、アレクさんを元のお仕事に専念出来るように配慮したつもりだったのに、これじゃあ逆効果だ。
「こ、今度……、改めて話をしないとっ」
多分、今追いかけて行っても、アレクさんの心が落ち着くまで待った方が良い気もするし……。
毛布を頭から勢いよく被り込んだ私は、うーん、うーんと唸りながら、どうすればアレクさんを傷付けずに私のお守(も)りから解放してあげられるだろうかと悩み始めたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
一週間後、ようやく私の体調も元通りに回復し、カインさんのお見舞いに行けるようになった。
私よりも酷い状態だったカインさんも、王宮医師のお二人が力を尽くしてくれたお蔭で、もう動けるようにまで回復しているらしい。
それならお話も出来るだろうと、アレクさんとロゼリアさんに同行して貰ってカインさんの部屋の前までやって来たのだけど……。
私の後ろについてくれているアレクさんから、居た堪れないほどのどんよりとした空気が……っ。
あれから何度も話そうと機会を窺っているのだけど、アレクさんはロゼリアさんを代わりに寄越すようになっていたし、なかなか二人で話せる時間が取れずに日数だけが虚しく過ぎていた。
やっぱり、私が言った事を気にしているんだろうなぁ……。
私としては、アレクさんの事を邪魔だとかそういう風に思ったわけじゃないのだけど、真面目で思い込みやすいところもあるアレクさんだから……。
(悪い方の意味で捉えている気が……)
多分、……ううん、絶対にその可能性が高い。
この重苦しい気配といい、私に対してかけてくる言葉が必要最低限のものだけに留まっている事から考えても、アレクさんが過剰な思い込みの底にいる事は確かだろう。
ロゼリアさんが一緒にいてくれなかったら、多分今以上に気まずくなっていたはず。
だけど、声をかけても反応が素っ気ないし……、本当にどう誤解を解くべきか……。
前を向き、顔を俯けてため息を吐き出していた私の耳に、その時、カインさんの部屋の中から怒声が響いてきた。
「な、何!?」
物が割れるような音と、言い争う大きな声に驚いた私は、反射的に目の前の扉を開け放った。
「カインさん!! 一体何が、――え!?」
中の様子を確認するその前に、私の視界の前に割り込んだ影が何かを叩き落す音がした。
目の前に立ったその人は、真っ白な白衣越しの背中で私を庇いながら、こちらへと少しだけ振り返ってくる。動揺の一切浮かんでいない冷静な気配を漂わせる深緑の双眸。
「ユキ姫様、お怪我はありませんか?」
「は、はい。ありがとうございます、ルイヴェルさん……」
アレクさんとロゼリアさんが動くよりも早く、私を危険から守ってくれたルイヴェルさんが溜息と共にまた前を見据えた。
その視線の先を追うように、私がルイヴェルさんの背中から少しだけ顔を出して中の様子を確認してみると……。
「とっとと帰りやがれって言ってんだろうが!! このクソ親父!!」
「カイン、頼むから落ち着いてくれ。そして、俺の話を……」
「どやかましいわあああああ!!」
ベッドの上で手負いの獣のように怒鳴りながら、父親であるイリューヴェル皇帝さんに次から次へと物を投げているカインさん……。
何かを必死に訴えようとしながら、飛んでくる物をひょいひょいと避けていく器用なイリューヴェル皇帝さん。目の前で起こっている二人の攻防。そのせいで、凶器と化した投撃物がこっちにまで飛んで来てしまったらしい。
「結界を張りましたので、もう平気ですよ」
「あ、ありがとうございます、ルイヴェルさん」
一瞬、淡い光が視界の中に生じると、被害がこちらへと及んでくる事はなくなった。
飛んで来た花瓶や小物、クッションの類が、ボトボトと見えない壁にぶつかって下に落ちていく。
「ルイヴェル殿、ユキ姫様をお守りくださって有難うございます。そして、護衛の任にありながら対応が遅れました事、深くお二人にお詫び申し上げます」
「気にするな。……それよりも、アレク」
声を低めたルイヴェルさんの冷ややかな呼びかけに、まだ扉の外で立ち尽くしていたアレクさんは数秒遅れて、それに反応を返した。
気落ちした様子のアレクさんの心の内に関わっているのは、多分、私の事なのだろう。
ルイヴェルさんから私が危ない目に遭いかけた事を教えられると、アレクさんはその深い蒼の双眸を大きく見開いて、私の方に心配そうな視線を向けてきた。
「すまなかった、ユキ……」
その申し訳なさそうな声音にさえ、いつもの穏やかな気配は微塵もない。
辛そうに眉根を寄せ、私に謝ってくれるその姿は……、見ていられないほどの悲壮感に苛まれている。
「大丈夫ですよ、アレクさんっ。ルイヴェルさんが守ってくれましたし、私には傷ひとつ付いていませんから!! それに、もう投げる物も減ってきていますし……」
アレクさんを安心させようと、飛んでくる比較的軽い物の類を指さした私は、次の瞬間絶句した。 結界の壁に飛び込んでくる投撃物に、……刃物の類が混ざり始めている。
この部屋のどこにそんな恐ろしい物が!? ぎょっと目を見開いた私の視線の先で、カインさんが両手に鋭い短剣や小さくて細長い刃物を……!!
あれは多分、小説やアニメに出てくる、所謂……、『暗器』の類じゃないかなぁ。
背中に冷や汗を感じながら固まっていると、部屋の隅で結界に守られているセレスフィーナさんの姿が見えた。
私達はゆっくりとそちらの方に移動し、こそこそとカインさん達の方をちら見しながらセレスフィーナさんから事の次第を聞く事になった。
「申し訳ありません、ユキ姫様……。このような醜態をお見せしてしまい……」
「セレスフィーナさん……、これ、一体何が起こってるんですか?」
結界の外で繰り広げられている、片方だけがオーバーヒートしているとしか言えない親子喧嘩に指を震わせながら尋ねると、重苦しい溜息と共に答えが返ってきた。
「実は……、禁呪の件が収束してから三週間ほど……、その間、皇帝陛下は眠り続けるカイン皇子の看病を率先して行ってくださっていたのですが……」
今まで親らしい事をしてやれなかったからと、カインさんのお父さんであるイリューヴェル皇帝さんは夜も寝ずの看病を続けていたらしい。
けれど、私達が来る少し前……。ようやく目を覚ましたカインさんが現状を把握した途端。
「皇帝陛下にイリューヴェルへ帰れと……、怒鳴り始めてしまいまして」
「カインさん……、お父さんの事、嫌い、なんでしょうか……」
この様子を見れば、好きという感情があるようには見えないのだけど……。
何故だろう……。自分のお父さんを全力で拒み、声を限りに怒鳴り続ける今のカインさんの姿はまるで……。
「幼い頃から放っておかれていれば、誰でも捻くれる可能性はある、と言ったところだな」
「ルイヴェルさん……」
まだ病み上がりだというのに、カインさんは怒りに肩を上下させ、荒い呼吸と共に暴れ続けている……。話には聞いていたけれど、生まれた時から皇宮で辛い日々を送り続けてきたカインさんにとって、自分やお母さんを救ってくれなかったイリューヴェル皇帝さんを許すには……、まだまだ時間がかかるのだろう。
「頼むから俺の話を聞いてくれ、カイン!! お前にもミシェナにも、今まで本当に苦労をかけた。イリューヴェル皇国の内情にばかり目を向け、自分の妻や子供がどれほど辛い目に遭っているかも気付かずに……、全てを人任せにしてきた俺の咎だっ。本当に、すまなかった!」
大国を治める皇帝陛下が、肩を震わせながら投撃物を鮮やかな動作で避けながら息子に許しを請う姿は、涙を誘うものもあるけれど……。やっぱり、イリューヴェル皇帝さんもお父さんなんだなぁ。 私にはその大きな背中しか見えないけど、その懇願する声音には父親としての情と、息子であるカインさんへの愛情の片鱗が感じ取れる。
イリューヴェル皇帝さんは、皇国を治める王としての資質と政治的な手腕は相当のものだとレイフィード叔父さんから聞かされている。民に尊敬される名君……。
だけど、家庭内においては色々と出遅れてしまった不器用なお父さんだったのだ……。
「ふざけんなよ……!! 謝ればそれで全てが済むとでも思ってんのかよ!! テメェは当の昔に俺を、自分の息子を捨てたんだろうが!!」
「カインさん……っ!!」
「一度捨てたもんを、今更拾いに来ようとすんじゃねぇ……!!」
「カイン……、お前がそうなってしまったのも、全ては俺の責任だ……。この通り、頭を下げて謝る。だから、もう一度だけ……、不甲斐ないこの俺に、真っ当な父親になる機会を与えてはくれないか?」
カインさんに許しを請う為に頭を下げたイリューヴェル皇帝さんを見たこの場の全員が、大国の皇帝陛下のとった行動に息を呑んだ。
イリューヴェル皇帝さんは、心の底からカインさんとそのお母さんに対して、申し訳ないと悔いている。偽りの気配も、カインさんを言葉巧みに懐柔しようとする片鱗も、一切、ない。
だけど、カインさんは自分のお父さんからの謝罪を聞いても、そう簡単には受け止めきれないようで……。
「今更何言ったって遅ぇ……!! あの国はな、俺にとって何の意味もねぇくらいに、腹の立つ記憶しか残ってねぇんだよ!! テメェが改心した父親ぶろうが、もう何もかも……、取り返せるもんはねぇって自覚しやがれ!!」
投げる物が無くなってしまったのか、カインさんはベッドから飛び降りると、室内に散乱していた物の中から、とんでもない物を持ち上げてしまった。
丸いカーブを描くテーブルの表面を自分のお父さんに定めたカインさんが、激情のままにそれを勢いよく投げつける。
「とっととイリューヴェルに帰りやがれ……、このクソ馬鹿親父があああああああああああ!!」
「カインさん、駄目!!」
勢いよくカインさんの手から投げ放たれた丸テーブルは、幸いな事に、イリューヴェル皇帝さんの余裕のある動きでその背後へと素通りしてしまったのだけど……。
――その時、丸テーブルの進路方向にあたる開いた扉の向こうに、意外な人物が顔を出してしまった。
「失礼するよ~。カインの様子を見に来たんだけど……、え?」
「きゃああああああああ!! レイフィード叔父さぁああああああん!!」
まさかのまさかで、ひょっこりと顔を出してきたレイフィード叔父さんの顔面に、勢いを失っていない丸テーブルが恐ろしい一撃を決めてしまった。
酷い物音が廊下に響き、顔面に大ダメージを受けてしまったレイフィード叔父さんが、ゆっくりと後ろに倒れこんでいく様がスローモーションで私達の瞳に映りこむ。
「……やべっ」
「れ、レイフィード……」
思わぬ相手に被害を出してしまったせいだろうか……。
カインさんが荒ぶる怒りの気配を解き、一瞬にして顔を青ざめさせてしまった。
イリューヴェル皇帝さんも……、何か恐ろしい物でも見てしまった様子でぴきりと固まってしまっている。
「レイフィード陛下、大丈夫ですか!? 今すぐに手当てをっ」
全員が大慌てでレイフィード叔父さんの許に駆け寄ると、顔を真っ赤に腫らした痛ましい光景が目に入った。セレスフィーナさんとルイヴェルさんが叔父さんの傍に膝を着き、迅速に治癒の術を施していく。
「レイフィード叔父さんっ、しっかり!!」
うぅ……、と、低く呻いたレイフィード叔父さんが、少しの間意識を彷徨わせた後、その瞼をゆっくりと開いた。
王宮医師であるお二人の治療を一度中断させ、ゆらりと……。
前にも見た事のある、恐ろしい絶対零度の黒い気配を漂わせながら室内へと足を踏み入れていく。
「そこの二人に聞こうか……。今、この僕の顔面に最悪の洗礼を授けてくれたのは、どっちかな?」
「わ、わざとじゃねぇぞ!! まさか、おっさんが来るとか、予想出来なかっただけで……っ」
「テーブルってね、人に投げる物じゃないんだよ? 皆で楽しくお茶やお菓子を楽しんだり、時には読書のお供に……、っていうか、この部屋に散乱している物は一体何かな?」
「れ、レイフィードっ、カインは悪くないんだ。全ては、ここまで追い詰めてしまった俺の責任で……」
レイフィード叔父さんの不穏極まりない笑みからカインさんを庇う為に立ちはだかったイリューヴェル皇帝さんが、代わりに自分が謝るからとその歩みを止めにかかる。
けれど、レイフィード叔父さんは歩みの先を変える事はせず、まずイリューヴェル皇帝さんの両肩に手をかけた。
「イリューヴェル……。子供はね、悪い事をしたら叱るのが親の務めなんだよ? 甘やかして庇い続けるだけじゃ、腐った人格しか出来上がらないからね」
「そ、それは……、そう、なんだが」
「それと、君も勿論、僕のお説教の対象に入っているからね? 親子揃って……、本当に昔から僕に迷惑をかける事に関しては天才的過ぎて、……いい加減、僕の堪忍袋の緒も限界なんだよ」
その後に、レイフィード叔父さんが、カインさんとイリューヴェル皇帝さんだけを部屋に残し、私達には部屋から出て行くようにと、……爽やかな笑顔で命じた。
顔は笑っているのに、何だろう……、この身も心も凍り尽くすような心地は!!
私達がぶるりと悪寒を覚えた後、――静かにカインさんの部屋の扉が、バタン。
(ごめんなさい、カインさん……!! レイフィード叔父さんが怒ると物凄く怖いんですっ!!)
助けに入る心の余裕も、その理由も見つからないと判断した私は、閉じられた扉の向こうを見つめつつ、遠い目になった。
きっと今から、前回以上のレイフィード叔父さんの怒りが炸裂するのだろう。
「セレスフィーナさん、大丈夫でしょうか……。中の二人」
「……ふふ、……た、多分、陛下も限度は弁えてくださるのではないかと」
「あの親子には良い薬になるだろう。終わるまで放っておけばいい」
中の気配に怯えているのか、セレスフィーナさんは肩を小さく震わせながら言葉を濁す。
ルイヴェルさんの方は全く動じた様子もなく、窓の外を見ながら飄々とした風情だ。
中でこれから何が起こるのか……。
もう心配しても何の意味はないのだと、そう言いたいのかもしれない。
悪い事をしたらお説教と罰がもたされるのは当然の事。そこに同情など必要ない。
そう言いたげに溜息を吐いたのは、壁側に背を預けていたアレクさんだ。
「アレクさん……」
「ユキ、お前が気にする事はない。あの男は、一歩間違えばお前にも危害を加える可能性もあったんだ……。陛下の仕置きは当然の末路だ」
「そして、どうせなら自分もその仕置きに加わりたいと、そう思っているわけですね? 副団長」
アレクさんの目の前に立ち、軽い吐息を零しながらそう問いかけたロゼリアさんに、返す言葉は無言のまま。だけど、その蒼い双眸には……、肯定の気配を読み取る事が出来た。
元々、私の件もあってカインさんを毛嫌いしているアレクさんだけど、本当に同情の余地もないらしい。両腕を胸の前で組み瞼を閉じたアレクさんは、全てが終わるまで静観を決め込む姿勢を見せている。
「ユキ姫様、そろそろ耳を塞いでおいた方がいいですよ」
「え?」
そんなアレクさんの傍に近寄ろうとした私の足を、ルイヴェルさんの意味深な声音が引き止めた。
レイフィード叔父さん達がいる部屋の扉を親指で指し示し、耳を塞ぐようにと促される。
直後、――扉の向こうから恐ろしい断末魔の悲鳴が!!
(あ、阿鼻叫喚の地獄絵図!!)
そう称するに相応しい、耳にするのも怖すぎる物音と響き渡る二人分の叫び声に、私は両耳を塞いで、ぶるぶると打ち震える羽目になってしまった。あぁ、真に恐ろしいのはやっぱり……。
――結論、レイフィード叔父さんを怒らせてはいけません!! 絶対に!!
ずいっと差し出された木造のレンゲを前に、私はここ数日に渡って何度目とも知れない遠慮の言葉で彼と向き合っていた。
ほわわんと、ほど良い熱を宿した美味しそうなお粥。
食欲をそそる匂い。あぁ、食べたい、食べたくて堪らない! ……でも。
カインさんを中心とした一連の事件を終えて休養に入った私の新たな問題は、それを私に食べさせようと甲斐甲斐しく世話を焼いてくるアレクさんの存在だ。
何度もう一人でも大丈夫だからと遠慮の言葉を伝えても、全然引き下がってくれない。
心配そうな顔を崩さずに、何から何まで至れり尽くせりの仕様を提供しようと頑張ってくれるアレクさん。その気持ちは……、とても嬉しい、のだけど。
「ユキ、まだ完全に回復したわけではないと、自分でもわかっているだろう?」
「それは、まぁ……。だけど、王宮医師のお二人からのお話では、食事やお散歩くらいならもう問題ない、と」
「もしも、という事もある。俺の目から見ても大丈夫だと判断出来るようになるまでは、遠慮せずに俺を頼ってほしい」
「あ、アレクさん……、本当に大丈夫なんですよ? それに、少しでも自分から動き始めないと」
世話を焼かれる事に慣れてしまいそうで若干怖い。
禁呪事件を終えてから三日間ほど、私はずっと夢の中にいた……。
三度にも渡って失われた大量の血液。
予想外の事態ばかりを引き起こし、カインさんや私達を嘲笑い続けた禁呪と、正体不明の介入者の存在……。どうなる事かと、一時は寿命が縮まるくらいに緊張したものだけど、どうにか無事に収束する事が出来た。その反動と疲労のせいか、目が覚めた時にはベッドから起き上がる事すら出来なくて……。必ず誰かの手を借りての生活をかれこれ二週間ほど繰り返しているのだった。
(二週間くらいでここまで回復出来たのは、やっぱりお二人のお蔭だなぁ)
元いた世界にはない、魔術という力の恩恵。
王宮医師であるセレスフィーナさんとルイヴェルさんの存在がなければ、きっとこんなにも早く体調が良くなる事もなかったことだろう。
お二人だけでなく、私の世話を積極的にこなしてくれているアレクさんや皆さんにも、本当に、どれだけ感謝しても足りないぐらいで……、だからこそ。
「ほら、もう手だって問題なく動きますし、リハビリは必要なんですよ」
「駄目だ」
ロゼリアさんやセレスフィーナさんは私の意思を尊重してすぐ引き下がってくれたというのに……。どうして、アレクさんだけはこんなにも過保護に私を心配してしまうのだろうか。
あれかなぁ……、手のかかる妹みたいな存在がまた無茶をしないかと気を揉んでいるとか。
「お前を守れなかった不甲斐ないこの身には……、このくらいの事しか出来ないんだ」
「アレクさん?」
「叡智の神殿でお前が攫われた時も、その後も……、俺には何も出来なかった」
木のレンゲを持つ指先に震えを抱き、アレクさんが奥歯を噛み締めながら後悔と自己嫌悪に沈む小さな音を零した。
「いいえ。アレクさんは守ってくれました」
「いいや、俺は守れなかった……っ。傷つき苦しむお前を見ている事しか出来なかった……っ」
見ている私が辛くなるほどに、アレクさんの自責の念は強く激しかった……。
左手を膝の上で爪が食い込むほどに握り締め、何度も何度も後悔の言葉を吐き出すアレクさん。
あれはアレクさんのせいじゃないのに、貴方はちゃんと私を守り続けてくれていたのに……。
私は、木のレンゲを持つその手元を両手で包み込み、首を横に振った。
「禁呪に攫われる前も、後も、いつだってアレクさんは私の全てを守ってくれていますよ? その優しい眼差しで、思い遣りで、ずっと……」
「ユキ……、だが」
「だから、もう自分を責めないでください。大好きなアレクさんにそんな辛そうな顔をされてしまうと、私も悲しくなってしまいます」
「……ユキ」
ぎゅっと、その大きな硬い、温かな手元を包み込んで自分の気持ちを伝えると、ようやくアレクさんはその表情から緊張を解いてくれた。
アレクさんは責任感が強くて真面目な、ううん、真面目すぎる程に純粋な人だから……。
その心を少しでも軽くしてあげたくて、私は「ね?」と首を傾けながら微笑んでみせた。
「わかった……。お前が、そう言ってくれるのなら」
「はい。もう気にしないでくださいね」
と、場の空気が少し和んだところで、私はアレクさんから木のレンゲをやんわりと奪いにかかる。
この流れで食事も自分で!! と、思ったのが甘かったのかもしれない。
そっと自分の手にレンゲを受け取ろうとした瞬間、ひょいっとかわされてしまった。
「だが、これとそれは別の問題だ」
きらん……!! 今、アレクさんの優しい蒼の双眸に不敵な光が煌めいたような気がっ。
私の体調が完全に回復するまでは世話係の座を退く気はない!! と、その表情が物語っている。
うぐぐ……!! なんでそんなに頑固なんですかっ、アレクさん!!
再び差し出されたレンゲを前に慄いていると、その時、私の部屋の扉をノックする音が響いた。
アレクさんが一旦レンゲをお粥の入った器に戻し、そちらへと向かってくれる。
(お見舞いの人かな……)
ベッドの住人となって早二週間と少し、私の事を心配してお見舞いに来てくれる人は多い。
騎士団のルディーさんやメイドのリィーナさん、レイル君や三つ子ちゃん達……。
ベッドから動けない私を退屈させないように楽しい時間を提供してくれる皆さんには、本当に感謝している。だから、今訪ねて来た人もお見舞いに来てくれたのかなと思ったのだけど……。
扉の向こうから現れたのは、アレクさんと同じ銀の輝きを髪に宿した、白衣姿のあの人だった。
「ユキ姫様、お休み中のところ大変失礼いたします。診察と薬の件で伺わせて頂きました」
私のベッドの傍に立ち軽く会釈を向けてくれたのは、王宮医師のルイヴェルさんだ。
横にある椅子に腰かけ、私の顔色を見ながら、頬や首元、手首などに触れてくる。
「ルイ、ユキが完治するには、あとどれぐらいかかる?」
「そうだな……。前にも言ったが、王宮内の軽い散策程度であれば問題ないが、元通りの体力と状態を取り戻すには、一週間ほどと見ていいだろう」
「あの、ルイヴェルさん」
「何でしょう?」
アレクさんや他の人には素の口調で喋るのに、相変わらず私に対しては敬語一色のルイヴェルさん。その銀フレームの眼鏡越しから、知の気配を湛えた静かな深緑が私へと向けられる。
この視線を受け止める時、心の奥底で……、どこか、不思議と懐かしい感覚を覚えるのだけど、それはきっと幼い頃に封じられた記憶が関係しているのだろう。
ルイヴェルさんだけでなく、それは王宮内の他の人達にも感じている事だけど……。
(この人を前にすると、特に強くそれを感じるような……)
「ユキ姫様? どうされましたか?」
「あ、す、すみませんっ。え、えっと、その……、あ! あの、もう食事は自分でしても構わないんですよね?」
ルイヴェルさんの顔がずいっと私の目の前で迫っていた事に気付いた私は、その美しすぎる理知的な顔を前に慌てて挙動不審になりながら、食事の件を尋ねた。
もう一度お医者様であるルイヴェルさんの口から伝えて貰えば、アレクさんも安心出来るはず。
そう期待して聞いてみたのだけど……。
ルイヴェルさんはサイドテーブルに置いてあるお粥の器から、ひと口分、木のレンゲにそれを掬い上げ、私に視線を戻した。
「る、ルイヴェルさん……?」
私の手にそれを渡してくれるのかと思ったけれど……。
ルイヴェルさんの深緑の瞳に、何か嫌な予感を感じる愉しそうな気配が滲んでいる気がしてならない。
「ユキ姫様、少々口の中を見せて頂きたいのですが、開けて頂けますか?」
「え? ――んぐっ」
ついついお医者様からの言葉に反応して、素直に自分の口を開いてしまった私は、次の瞬間、お粥入りのレンゲを突っ込まれてしまった!! ちょっ!!
乱暴な動作ではなく、とても器用な流れで口の中に収まったレンゲが……、ゆっくりと表に出ていく。
「……な、何するんですか!!」
「美味しかったですか?」
「え? は、はい……」
「では、もうひと口」
「んぐっ」
ニヤリと不敵に微笑んだルイヴェルさんが、まるで雛鳥への餌付けのような感覚でお粥を口内に入れてくる!!
文句の声を続ける隙もなく、それからパクパクとお粥の味を堪能する事になってしまった私は、泣けてくるような敗北感と共に食事を終える事になってしまったのだった。
――カラン……、と、器にレンゲが置かれる。
「食欲も良好。一人で食べても問題はありませんよ」
「じゃあ今のは何なんですか~!!」
「雛鳥のように、素直に口を開けてくださるユキ姫様のお姿は、非常に楽しいものでしたよ。アレクが世話を焼きたがるのも頷けますね」
「ルイ……」
満足そうに横の椅子に腰かけたルイヴェルさんに、私とアレクさんは非難の声と視線を注ぐ。
問題がないなら、何故こういう真似をするのかと怒鳴りたいけれど、言ってもあまり効果はない気がするのは、きっと気のせいじゃない。
その証拠に、ルイヴェルさんは喉の奥で小さく笑いを殺しながら涼しげな顔をしている。
「まぁ、アレクがユキ姫様の世話を焼きたがる気持ちはわかりますが、別にいいのではないですか? 貴女はこのウォルヴァンシアの王族。国王の兄君であられるユーディス様のご息女なのですから、臣下を使う事に何ら問題はありませんよ」
「私は、アレクさんや皆さんの事をそういう風には思っていませんっ。皆さんは私にとって……、こういうのはおこがましいかもしれませんけど、大切な友人だと、そう、思っていますから」
いくらお世話になっているとはいえ、少しだけ冷たく突き放されるような物言いで心外な言葉を向けられてしまった私は、ルイヴェルさんに感情的な怒りを真っ向からぶつけてしまった。
私にとってこのウォルヴァンシアの皆さんは、下にいる人達じゃない。
この世界に不慣れな私を助け続けてくれている、心優しい大切な人達なのだ。
そう、自分の気持ちを視線に込めてみたのだけど、……あれ。
「アレク、ユキ姫様の今日一日分の薬だ。忘れずに飲ませておけ」
「わかった」
何故だろう。ルイヴェルさんはその深緑に微笑ましそうな気配を浮かべ、席を立ち上がった。
去り際に、くしゃりと優しい手つきで私の頭を撫でたその大きな手の感触に、私の心は意味を掴めずに戸惑ってしまう。
丁寧な敬語の中に、時折混じる意地悪な物言いや、ふとした瞬間に見せてくれる優しそうな顔。
この人にとって、私は一体……、『何』なのだろうか。
逆に言えば、私にとってのルイヴェルさんは……、『何』なのだろうか。
封じられた記憶の鍵穴が、その中に在る日々を思い出せと言っているかのように、鈍く傷んだ気がする。
「大丈夫だったか? ユキ……」
「あ、は、はい。ちょっと、驚いただけですから」
「ルイに悪気はないんだ。ただ、……少々性格に問題があるというか」
「はは……、確かにそんな感じではありますよね。そういえば、アレクさんはルイヴェルさんの事を『ルイ』って呼んでますけど、昔からのお友達……、とか、ですか?」
お互いの名前を呼ぶ時に、アレクさんとルイヴェルさんの間には、昔から続いているかのような、確かな絆がある気がしていたのだけど、どうやら間違ってはいなかったらしい。
アレクさんは粉薬を取り出すと私に手渡し、サイドテーブルに置かれている水差しからグラスにその中身を注ぎながら口を開く。
「俺とルイ、それから、ルイの双子の姉であるセレスフィーナとは、幼馴染なんだ」
「へぇ~、そうなんですか」
「あぁ。ルイとセレスの父親であるフェリデロード家当主と、俺の父親が昔からの友人なんだ。それに、俺の父親が元ウォルヴァンシア騎士団の副団長だった事もあり、二人がいる王宮にはよく出入りしていたからな」
「それじゃあ、一緒に遊べる時間も多かったんでしょうね」
私にも、幼い頃からの大切な親友が向こうにいるけれど、時を重ね一緒に想い出を作って来た友達というのは、何にも代えがたい存在だ。
アレクさんも同じようで、二人の事を語ってくれるその表情は、とても穏やかで優しいものに見える。粉薬を喉奥に呷った私は、グラスの水ををごくりと飲み干していく。
「子供の頃のアレクさん達だって、どんな感じだったんですか?」
「俺は今とあまり変わらないな。だが、温厚な性格の素直なセレスとは違い、ルイの方は多大に問題のある子供ではあったが……」
「ルイヴェルさんがですか?」
「あぁ。今でこそ落ち着いたものだが、昔は色々と手を焼かせられたものだ」
確かに、素直で優しい性格……、とは言えないルイヴェルさんだけど、人の手を煩わせるような過去があったとは、思ってもみなかった。
それどころか、アレクさんの語ってくれたルイヴェルさんの幼い頃の姿は、頭が良く魔術に対する熱心さはあったけれど、その好奇心のせいで色々と問題を起こす事も多かったのだとか……。
なるほど……、つまり今のルイヴェルさんは。
「やんちゃをやり尽くした後の姿、なんですね?」
私の大雑把な表現に、アレクさんは小さく笑みを零す。
「そうだな。思い切りやんちゃをやった後の、どうにか大人になれた姿だ」
「意外です……。何でも冷静に判断して難なくこなしそうな人に見えるのに」
ルイヴェルさんの消えていった扉の方に視線を向けると、アレクさんが「今でこそ、な」と、珍しく少年めいたあどけなさのある笑みを零した。
きっと、とても仲の良い幼馴染の関係を築いてきたのだろう。
その表情を見ていれば、よくわかる。
「まぁ、昔のような大事(おおごと)をもう起こす事もないとは思うが、あの性格だけは治りそうもないな……。だが、悪気はないんだ。許してやってくれ」
「アレクさん……。ルイヴェルさんの事、大事に思っているんですね」
「一応、な。だが……」
「アレクさん?」
和んでいた表情が急に険しげなもの……、というよりも、不満を宿した気配へと変わったかと思うと、アレクさんはサイドテーブルにあるお粥の器に視線を向けた。
「まさか、ルイに俺の役目を奪われるとは……」
アレクさーん……、まだ私にお粥を食べさせる事を諦めてなかったんですか?
どうやら、自分ではなく、ルイヴェルさんの手から私がお粥を食べさせて貰った事に対して思うところがあるらしい。小さく、「次こそは……」と決意を込めた低い音を漏らしているけれど、アレクさん……、私は一人で食べますよ!
「ルイヴェルさん(お医者様)から太鼓判を押して頂きましたから、食事のお世話はもう大丈夫ですよ」
「だが……」
「大丈夫です」
やんわりと食事のお世話はもう必要ないと改めて伝えたのだけど……。
しゅんと項垂れてしまったアレクさんの気落ちした様子を見ていると、物凄く良心が痛んでしまう! 大人の男性なのに、私からお世話を拒まれてしまったアレクさんのその姿は、可哀想と可愛いが絶妙に混在しているかのような、『母性を擽る気配』に満ちていた。
気のせいかな……。こういう時のアレクさんには、何故か、わんちゃんの耳や尻尾の幻影が見えるような気がするのだけど。
(今は人の姿のはずなのに……、何故?)
こんなアレクさんの姿を前にして、果たして駄目だと強情を張れるだろうか……。
「ユキ……」
「うっ……」
私の瞳を真っ直ぐに見つめ、子犬のような眼差しと共に訴えてくる蒼の双眸……。
これはわざとなの? ううん、アレクさんの事だから、どう考えても無意識なのだろう。
ごくりと喉の奥に唾を飲み込んだ私は、退路を断たれてなるものかと心を鬼にする事に決めた。
「わ、私も一応大人……、です、から、あまりアレクさんの手を煩わせてはいけないと思うんです。だから……、その、食事はもう一人で出来ますし、護衛の件もそろそろ……」
「……俺の存在は、迷惑、なのだろうか」
「え?」
いつまでも国の要である副騎士団長さんを私の許に留めておくのは、本人にも騎士団の人達にも悪いと思って、そう伝えてみたのだけど……。
アレクさんはビクリと肩を震わせたかと思うと、その表情に漂わせていた悲壮感を強め、椅子から立ち上がった。言葉がなくてもわかる……。きっと今、私はアレクさんをさらに傷付けた。
「あの、アレク、さん……」
「すまない。一度騎士団に戻る。ロゼを寄越すから、少しの間不便を堪えてくれ」
「アレクさんっ」
どんよりと気落ちした様子で私に背を向けたアレクさんは、引き止める私の声にも振り返る事なく、お互いに気まずさを残したまま部屋を出て行ってしまった……。
どうしよう……。傷付けるつもりなんてなかったのに、アレクさんを元のお仕事に専念出来るように配慮したつもりだったのに、これじゃあ逆効果だ。
「こ、今度……、改めて話をしないとっ」
多分、今追いかけて行っても、アレクさんの心が落ち着くまで待った方が良い気もするし……。
毛布を頭から勢いよく被り込んだ私は、うーん、うーんと唸りながら、どうすればアレクさんを傷付けずに私のお守(も)りから解放してあげられるだろうかと悩み始めたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
一週間後、ようやく私の体調も元通りに回復し、カインさんのお見舞いに行けるようになった。
私よりも酷い状態だったカインさんも、王宮医師のお二人が力を尽くしてくれたお蔭で、もう動けるようにまで回復しているらしい。
それならお話も出来るだろうと、アレクさんとロゼリアさんに同行して貰ってカインさんの部屋の前までやって来たのだけど……。
私の後ろについてくれているアレクさんから、居た堪れないほどのどんよりとした空気が……っ。
あれから何度も話そうと機会を窺っているのだけど、アレクさんはロゼリアさんを代わりに寄越すようになっていたし、なかなか二人で話せる時間が取れずに日数だけが虚しく過ぎていた。
やっぱり、私が言った事を気にしているんだろうなぁ……。
私としては、アレクさんの事を邪魔だとかそういう風に思ったわけじゃないのだけど、真面目で思い込みやすいところもあるアレクさんだから……。
(悪い方の意味で捉えている気が……)
多分、……ううん、絶対にその可能性が高い。
この重苦しい気配といい、私に対してかけてくる言葉が必要最低限のものだけに留まっている事から考えても、アレクさんが過剰な思い込みの底にいる事は確かだろう。
ロゼリアさんが一緒にいてくれなかったら、多分今以上に気まずくなっていたはず。
だけど、声をかけても反応が素っ気ないし……、本当にどう誤解を解くべきか……。
前を向き、顔を俯けてため息を吐き出していた私の耳に、その時、カインさんの部屋の中から怒声が響いてきた。
「な、何!?」
物が割れるような音と、言い争う大きな声に驚いた私は、反射的に目の前の扉を開け放った。
「カインさん!! 一体何が、――え!?」
中の様子を確認するその前に、私の視界の前に割り込んだ影が何かを叩き落す音がした。
目の前に立ったその人は、真っ白な白衣越しの背中で私を庇いながら、こちらへと少しだけ振り返ってくる。動揺の一切浮かんでいない冷静な気配を漂わせる深緑の双眸。
「ユキ姫様、お怪我はありませんか?」
「は、はい。ありがとうございます、ルイヴェルさん……」
アレクさんとロゼリアさんが動くよりも早く、私を危険から守ってくれたルイヴェルさんが溜息と共にまた前を見据えた。
その視線の先を追うように、私がルイヴェルさんの背中から少しだけ顔を出して中の様子を確認してみると……。
「とっとと帰りやがれって言ってんだろうが!! このクソ親父!!」
「カイン、頼むから落ち着いてくれ。そして、俺の話を……」
「どやかましいわあああああ!!」
ベッドの上で手負いの獣のように怒鳴りながら、父親であるイリューヴェル皇帝さんに次から次へと物を投げているカインさん……。
何かを必死に訴えようとしながら、飛んでくる物をひょいひょいと避けていく器用なイリューヴェル皇帝さん。目の前で起こっている二人の攻防。そのせいで、凶器と化した投撃物がこっちにまで飛んで来てしまったらしい。
「結界を張りましたので、もう平気ですよ」
「あ、ありがとうございます、ルイヴェルさん」
一瞬、淡い光が視界の中に生じると、被害がこちらへと及んでくる事はなくなった。
飛んで来た花瓶や小物、クッションの類が、ボトボトと見えない壁にぶつかって下に落ちていく。
「ルイヴェル殿、ユキ姫様をお守りくださって有難うございます。そして、護衛の任にありながら対応が遅れました事、深くお二人にお詫び申し上げます」
「気にするな。……それよりも、アレク」
声を低めたルイヴェルさんの冷ややかな呼びかけに、まだ扉の外で立ち尽くしていたアレクさんは数秒遅れて、それに反応を返した。
気落ちした様子のアレクさんの心の内に関わっているのは、多分、私の事なのだろう。
ルイヴェルさんから私が危ない目に遭いかけた事を教えられると、アレクさんはその深い蒼の双眸を大きく見開いて、私の方に心配そうな視線を向けてきた。
「すまなかった、ユキ……」
その申し訳なさそうな声音にさえ、いつもの穏やかな気配は微塵もない。
辛そうに眉根を寄せ、私に謝ってくれるその姿は……、見ていられないほどの悲壮感に苛まれている。
「大丈夫ですよ、アレクさんっ。ルイヴェルさんが守ってくれましたし、私には傷ひとつ付いていませんから!! それに、もう投げる物も減ってきていますし……」
アレクさんを安心させようと、飛んでくる比較的軽い物の類を指さした私は、次の瞬間絶句した。 結界の壁に飛び込んでくる投撃物に、……刃物の類が混ざり始めている。
この部屋のどこにそんな恐ろしい物が!? ぎょっと目を見開いた私の視線の先で、カインさんが両手に鋭い短剣や小さくて細長い刃物を……!!
あれは多分、小説やアニメに出てくる、所謂……、『暗器』の類じゃないかなぁ。
背中に冷や汗を感じながら固まっていると、部屋の隅で結界に守られているセレスフィーナさんの姿が見えた。
私達はゆっくりとそちらの方に移動し、こそこそとカインさん達の方をちら見しながらセレスフィーナさんから事の次第を聞く事になった。
「申し訳ありません、ユキ姫様……。このような醜態をお見せしてしまい……」
「セレスフィーナさん……、これ、一体何が起こってるんですか?」
結界の外で繰り広げられている、片方だけがオーバーヒートしているとしか言えない親子喧嘩に指を震わせながら尋ねると、重苦しい溜息と共に答えが返ってきた。
「実は……、禁呪の件が収束してから三週間ほど……、その間、皇帝陛下は眠り続けるカイン皇子の看病を率先して行ってくださっていたのですが……」
今まで親らしい事をしてやれなかったからと、カインさんのお父さんであるイリューヴェル皇帝さんは夜も寝ずの看病を続けていたらしい。
けれど、私達が来る少し前……。ようやく目を覚ましたカインさんが現状を把握した途端。
「皇帝陛下にイリューヴェルへ帰れと……、怒鳴り始めてしまいまして」
「カインさん……、お父さんの事、嫌い、なんでしょうか……」
この様子を見れば、好きという感情があるようには見えないのだけど……。
何故だろう……。自分のお父さんを全力で拒み、声を限りに怒鳴り続ける今のカインさんの姿はまるで……。
「幼い頃から放っておかれていれば、誰でも捻くれる可能性はある、と言ったところだな」
「ルイヴェルさん……」
まだ病み上がりだというのに、カインさんは怒りに肩を上下させ、荒い呼吸と共に暴れ続けている……。話には聞いていたけれど、生まれた時から皇宮で辛い日々を送り続けてきたカインさんにとって、自分やお母さんを救ってくれなかったイリューヴェル皇帝さんを許すには……、まだまだ時間がかかるのだろう。
「頼むから俺の話を聞いてくれ、カイン!! お前にもミシェナにも、今まで本当に苦労をかけた。イリューヴェル皇国の内情にばかり目を向け、自分の妻や子供がどれほど辛い目に遭っているかも気付かずに……、全てを人任せにしてきた俺の咎だっ。本当に、すまなかった!」
大国を治める皇帝陛下が、肩を震わせながら投撃物を鮮やかな動作で避けながら息子に許しを請う姿は、涙を誘うものもあるけれど……。やっぱり、イリューヴェル皇帝さんもお父さんなんだなぁ。 私にはその大きな背中しか見えないけど、その懇願する声音には父親としての情と、息子であるカインさんへの愛情の片鱗が感じ取れる。
イリューヴェル皇帝さんは、皇国を治める王としての資質と政治的な手腕は相当のものだとレイフィード叔父さんから聞かされている。民に尊敬される名君……。
だけど、家庭内においては色々と出遅れてしまった不器用なお父さんだったのだ……。
「ふざけんなよ……!! 謝ればそれで全てが済むとでも思ってんのかよ!! テメェは当の昔に俺を、自分の息子を捨てたんだろうが!!」
「カインさん……っ!!」
「一度捨てたもんを、今更拾いに来ようとすんじゃねぇ……!!」
「カイン……、お前がそうなってしまったのも、全ては俺の責任だ……。この通り、頭を下げて謝る。だから、もう一度だけ……、不甲斐ないこの俺に、真っ当な父親になる機会を与えてはくれないか?」
カインさんに許しを請う為に頭を下げたイリューヴェル皇帝さんを見たこの場の全員が、大国の皇帝陛下のとった行動に息を呑んだ。
イリューヴェル皇帝さんは、心の底からカインさんとそのお母さんに対して、申し訳ないと悔いている。偽りの気配も、カインさんを言葉巧みに懐柔しようとする片鱗も、一切、ない。
だけど、カインさんは自分のお父さんからの謝罪を聞いても、そう簡単には受け止めきれないようで……。
「今更何言ったって遅ぇ……!! あの国はな、俺にとって何の意味もねぇくらいに、腹の立つ記憶しか残ってねぇんだよ!! テメェが改心した父親ぶろうが、もう何もかも……、取り返せるもんはねぇって自覚しやがれ!!」
投げる物が無くなってしまったのか、カインさんはベッドから飛び降りると、室内に散乱していた物の中から、とんでもない物を持ち上げてしまった。
丸いカーブを描くテーブルの表面を自分のお父さんに定めたカインさんが、激情のままにそれを勢いよく投げつける。
「とっととイリューヴェルに帰りやがれ……、このクソ馬鹿親父があああああああああああ!!」
「カインさん、駄目!!」
勢いよくカインさんの手から投げ放たれた丸テーブルは、幸いな事に、イリューヴェル皇帝さんの余裕のある動きでその背後へと素通りしてしまったのだけど……。
――その時、丸テーブルの進路方向にあたる開いた扉の向こうに、意外な人物が顔を出してしまった。
「失礼するよ~。カインの様子を見に来たんだけど……、え?」
「きゃああああああああ!! レイフィード叔父さぁああああああん!!」
まさかのまさかで、ひょっこりと顔を出してきたレイフィード叔父さんの顔面に、勢いを失っていない丸テーブルが恐ろしい一撃を決めてしまった。
酷い物音が廊下に響き、顔面に大ダメージを受けてしまったレイフィード叔父さんが、ゆっくりと後ろに倒れこんでいく様がスローモーションで私達の瞳に映りこむ。
「……やべっ」
「れ、レイフィード……」
思わぬ相手に被害を出してしまったせいだろうか……。
カインさんが荒ぶる怒りの気配を解き、一瞬にして顔を青ざめさせてしまった。
イリューヴェル皇帝さんも……、何か恐ろしい物でも見てしまった様子でぴきりと固まってしまっている。
「レイフィード陛下、大丈夫ですか!? 今すぐに手当てをっ」
全員が大慌てでレイフィード叔父さんの許に駆け寄ると、顔を真っ赤に腫らした痛ましい光景が目に入った。セレスフィーナさんとルイヴェルさんが叔父さんの傍に膝を着き、迅速に治癒の術を施していく。
「レイフィード叔父さんっ、しっかり!!」
うぅ……、と、低く呻いたレイフィード叔父さんが、少しの間意識を彷徨わせた後、その瞼をゆっくりと開いた。
王宮医師であるお二人の治療を一度中断させ、ゆらりと……。
前にも見た事のある、恐ろしい絶対零度の黒い気配を漂わせながら室内へと足を踏み入れていく。
「そこの二人に聞こうか……。今、この僕の顔面に最悪の洗礼を授けてくれたのは、どっちかな?」
「わ、わざとじゃねぇぞ!! まさか、おっさんが来るとか、予想出来なかっただけで……っ」
「テーブルってね、人に投げる物じゃないんだよ? 皆で楽しくお茶やお菓子を楽しんだり、時には読書のお供に……、っていうか、この部屋に散乱している物は一体何かな?」
「れ、レイフィードっ、カインは悪くないんだ。全ては、ここまで追い詰めてしまった俺の責任で……」
レイフィード叔父さんの不穏極まりない笑みからカインさんを庇う為に立ちはだかったイリューヴェル皇帝さんが、代わりに自分が謝るからとその歩みを止めにかかる。
けれど、レイフィード叔父さんは歩みの先を変える事はせず、まずイリューヴェル皇帝さんの両肩に手をかけた。
「イリューヴェル……。子供はね、悪い事をしたら叱るのが親の務めなんだよ? 甘やかして庇い続けるだけじゃ、腐った人格しか出来上がらないからね」
「そ、それは……、そう、なんだが」
「それと、君も勿論、僕のお説教の対象に入っているからね? 親子揃って……、本当に昔から僕に迷惑をかける事に関しては天才的過ぎて、……いい加減、僕の堪忍袋の緒も限界なんだよ」
その後に、レイフィード叔父さんが、カインさんとイリューヴェル皇帝さんだけを部屋に残し、私達には部屋から出て行くようにと、……爽やかな笑顔で命じた。
顔は笑っているのに、何だろう……、この身も心も凍り尽くすような心地は!!
私達がぶるりと悪寒を覚えた後、――静かにカインさんの部屋の扉が、バタン。
(ごめんなさい、カインさん……!! レイフィード叔父さんが怒ると物凄く怖いんですっ!!)
助けに入る心の余裕も、その理由も見つからないと判断した私は、閉じられた扉の向こうを見つめつつ、遠い目になった。
きっと今から、前回以上のレイフィード叔父さんの怒りが炸裂するのだろう。
「セレスフィーナさん、大丈夫でしょうか……。中の二人」
「……ふふ、……た、多分、陛下も限度は弁えてくださるのではないかと」
「あの親子には良い薬になるだろう。終わるまで放っておけばいい」
中の気配に怯えているのか、セレスフィーナさんは肩を小さく震わせながら言葉を濁す。
ルイヴェルさんの方は全く動じた様子もなく、窓の外を見ながら飄々とした風情だ。
中でこれから何が起こるのか……。
もう心配しても何の意味はないのだと、そう言いたいのかもしれない。
悪い事をしたらお説教と罰がもたされるのは当然の事。そこに同情など必要ない。
そう言いたげに溜息を吐いたのは、壁側に背を預けていたアレクさんだ。
「アレクさん……」
「ユキ、お前が気にする事はない。あの男は、一歩間違えばお前にも危害を加える可能性もあったんだ……。陛下の仕置きは当然の末路だ」
「そして、どうせなら自分もその仕置きに加わりたいと、そう思っているわけですね? 副団長」
アレクさんの目の前に立ち、軽い吐息を零しながらそう問いかけたロゼリアさんに、返す言葉は無言のまま。だけど、その蒼い双眸には……、肯定の気配を読み取る事が出来た。
元々、私の件もあってカインさんを毛嫌いしているアレクさんだけど、本当に同情の余地もないらしい。両腕を胸の前で組み瞼を閉じたアレクさんは、全てが終わるまで静観を決め込む姿勢を見せている。
「ユキ姫様、そろそろ耳を塞いでおいた方がいいですよ」
「え?」
そんなアレクさんの傍に近寄ろうとした私の足を、ルイヴェルさんの意味深な声音が引き止めた。
レイフィード叔父さん達がいる部屋の扉を親指で指し示し、耳を塞ぐようにと促される。
直後、――扉の向こうから恐ろしい断末魔の悲鳴が!!
(あ、阿鼻叫喚の地獄絵図!!)
そう称するに相応しい、耳にするのも怖すぎる物音と響き渡る二人分の叫び声に、私は両耳を塞いで、ぶるぶると打ち震える羽目になってしまった。あぁ、真に恐ろしいのはやっぱり……。
――結論、レイフィード叔父さんを怒らせてはいけません!! 絶対に!!
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「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
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