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第二章『竜呪』~漆黒の嵐来たれり、ウォルヴァンシア~
戻った騎士と、深夜のお茶会!
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カインさんが、『禁呪』と呼ばれる呪いにかかってしまった……。
それは、徐々に身の内から全体に広がるように、紋様の浸食と共に命を蝕む術。
対象者だけでなく、術者にとっても非常に残酷な死の宣告をもたらすその術のせいで、カインさんは倒れてしまい、王宮医務室の奥の部屋で必死にその身を苛む呪いを闘い続けている。
(カインさん……)
王宮医師であるセレスフィーナさんとルイヴェルさんが必死にカインさんの呪いを解く為の研究や、彼の苦痛を和らげるその横で、私はカインさんの手を握り、祈る事しか出来なかった……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夜も更けた深夜、王宮医師のお二人から一度部屋に戻ってゆっくり休むようにと勧められた私は、自分の足が鉛でも引き摺っているかのように重い足取りで自分の部屋へと続く道を歩いていた。
倒れる直前まで、いつものように飄々として、意地悪だけど……どこか優しい笑みを浮かべていたのに、『呪い』にかかってしまうだなんて……。
一体、誰が、何の為に、あんな酷い術をかけたの? 自分だって死んでしまうかもしれないのに。
カインさんは、人をからかったり、笑えない意地悪をしてくるような自分勝手な所もある人だけど、死んでほしいなんて……そんな事、私には絶対に思えない。
最初は大嫌いで、顔も見たくないようなトラウマの原因にもなった最悪の相手ではあったけれど、最近はお互いに友好的な関係を築けていたし、カインさんの良い所だって、少しずつ見え始めていた。それなのに……。
「あれ、副団長じゃないですか?」
「え……、アレク、さん?」
自室に戻るまでの護衛として一緒に来てくれた騎士団のクレイスさんが、その名を口にした。
本当だ……。壁に備え付けられている魔術の灯りが、彼の姿を映し出している。
珍しく私服を纏っているアレクさんが、私達に気付いたらしく、こちらに顔を向けた。
「……ユキ」
昨日、『あんな事』があったから……、上手くアレクさんの顔を見る事が出来ない。
私はクレイスさんの背に隠れるように身を寄せると、彼から視線を逸らした。
「え? え? ちょ、ユキ姫様!? どうして隠れちゃうんですか!?」
「……」
背に隠れている私を振り返ったクレイスさんが、顔を青ざめさせながら慌てた様子で私とアレクさんを交互にブンブンと見比べる。ごめんなさい、クレイスさんっ。
「ユキ……」
「……」
とても失礼な事をしている自覚はあるけれど、昨日の事を思い出すと上手くアレクさんと向き合う自信がない。あの時、彼が何を思っていたのか、壁に押し付けられた時の光景が頭に蘇る。
怪我をしたカインさんの許から、私を回廊まで連れ出したアレクさん……。
ロゼリアさんが現れてくれたから逃げ出す事は出来たけれど、あの時、彼が私に言おうとしていた事は何だったのか……。
「クレイス、護衛を代わる。ロゼリアが来るまでは俺が見ておくから、お前はもう騎士団に戻ってくれ」
「あ~……、ん~……、わかりました。じゃあ、ユキ姫様、今日は色々ありましたから、ゆっくり休んでくださいね」
「……はい。ありがとうございました。クレイスさん」
本当は、アレクさんと二人で残されるのが少し怖い。
けれど、こんな夜遅くまで私を護衛してくれたクレイスさんに無理を言う訳にもいかない。
私は彼に頭を下げてお礼を言うと、その背を見送った。
――……。
「ユキ……」
「えっと、部屋に入りましょうか……」
アレクさんの横をすり抜けて、扉のノブに手をかけようとした瞬間、私のその手を彼が掴んだ。
「――っ!!」
「……すまない。痛かったか?」
「い、いえ……」
昨日とは違う、ちゃんと手加減されている感触にほっとした。
その硬く大きな手の先を辿るように視線を上げ……、私の事を心底気遣ってくれている事が見てとれる視線と触れ合った。
昨日感じた怖いような気配はどこにもなくて……、徐々に私の緊張も和らいでいく。
私はやっとアレクさんに笑みを向けられる心地になり、彼に大丈夫ですと告げると、部屋の中に一緒に入った。魔術の力が作用している入り口側の球体に手を翳すと、光が室内を満たしていく。
「今、お茶を淹れますね」
「いや、それよりも……、ユキ、すまないが顔を見せてくれ」
「え……」
お茶を淹れに背を向けた私の腕を優しく掴むと、アレクさんが自分の方に振り向かせ、私の顔を慎重に観察し始めた。その眉根が……、困惑と心配を滲ませてぐっと寄せられていく。
「ユキ、顔色が悪い……。体調が優れないのか?」
「いえ、私は何ともないんですよ。……私は」
そう、私自身は何ともない。今この時も苦しみに耐えて辛い思いをしているのは、――カインさんだから。
「ユキ、何があったんだ……?」
「……実は、カインさんが、……今日の夕方に突然倒れてしまって」
「あの男が?」
「はい……。急いで王宮医務室に運んだんですけど、セレスフィーナさんとルイヴェルさんの話では、……『禁呪』という恐ろしい術にかかっているらしくて」
呪いに苦しむカインさんの表情を思い出した私は、胸元で両手を組み、自分の頬に涙が伝うのを感じながら、震える声でアレクさんに話を聞いて貰った。
カインさんが今、どんな状態なのか。どれほどの危険と背中合わせなのかを……。
その途中、私の添い寝の為に訪れてくれたロゼリアさんも加わって、美味しい紅茶を淹れて貰いながら話を最後まで口にする事が出来た。
ほんのりと……お湯の熱で湯気がのぼるティーカップを見つめる。
「禁呪……、ですか。確か私も前に耳にした事があります。この世界には、行使してはならない禁じ手と呼ばれる術が幾つもあると」
「幾つも……、ですか?」
ロゼリアさんが静寂の中に波紋の一欠けらを投げ込むようにそう言った。
あんな恐ろしいものが……、他にも、まだ。
(当然かもしれない……。だってここは、異世界なんだもの)
地球では通用しないルールや常識、あちらには絶対に存在しないであろう魔術という存在。
何が起きても不思議じゃない……、異世界。
向こうの世界にいた時は、小説の中に出てくる魔法やファンタジーな要素に心をときめかせたものだったけれど……。こうしてその脅威を目の当たりにしてしまうと、魔術という存在がいかに恐ろしいものであるかを、この肌で、心で、感じる事が出来た。
「中には、対象者だけでなく、その周囲の者にも害を成す術もあるそうです。ですが……、今回はカイン皇子お一人の命を害する為に術者の命を代償にしたとなると……」
「相当……、根深い恨みがあるとみて、間違いないだろうな」
「恨み……」
自分の命と引き換えにしても良いと思えるほど、根深い感情……。
ティーカップを持つ手が、その内容の恐ろしさにカタカタと小さく震えてしまう。
「大丈夫ですか? ユキ姫様……」
「はい……」
気遣う声をかけてくれたロゼリアさんに頷きを返すと、アレクさんの大きな手のひらが私の震える手へと、そっと……、触れた。
「アレクさん……」
言葉は何も紡がれない。ただ、優しい眼差しで私を見つめながら、アレクさんはティーカップの柄から私の手を外させ、しっかりとその手のひらに包み込んだ。
その力強いぬくもりが……、私の中の不安を少しでも晴らしたいと言ってくれているかのように。
「『禁呪』の類は、遥か昔に封じられた存在でもある……。その術式や詠唱方法、力の扱い方を知るのは、限られた者だけのはずだ」
「はい。恐らく……、よほど魔術に詳しく、且つ、カイン皇子を心の底から憎んでいる者……。ウォルヴァンシアには、カイン皇子を害する理由が在る者は恐らく存在しないでしょう。なにせ、まだ滞在から一ヶ月も経っていません」
「……やはりイリューヴェル皇国側からの動き、だろうな」
イリューヴェル皇国において、カインさんは他国に悪評を広めるほどの厄介者だから、それを疎ましく思う者の仕業では、と、ロゼリアさんがアレクさんに同意しながら呟いた。
「または、イリューヴェル皇国皇妃であられる方の息子である事が関係しているやもしれません」
「俺がルディーに聞いた話によると、イリューヴェル皇国の皇妃は、古の大戦において、『悪しき存在(モノ)』との戦いで、その強き力を揮った英雄の血筋らしい。それ故に、脈々と受け継がれる血の中には、先祖の遺伝子が確かに息づいていると」
「側室お二人のお子様であられる第一皇子殿下、第二皇子殿下は先に生まれてはおられますが。もしも……、遥か先の未来で、カイン皇子がその御二人よりも強い竜の血を、正確には……、誰も及ばぬ強き竜の力を揮う事になれば、次期皇帝の座に望まれる可能性があります」
同じような事を、ルディーさんも前に言っていた。
臣下の人達が第一皇子様や第二皇子様を次期皇帝として推したとしても、現・イリューヴェル皇帝さんがカインさんを指名すれば、次期皇帝の座は覆る、と。
「だが、いくら力が強かろうと、素行の悪い竜の皇子に次期皇帝の座が渡る事はない」
「ですが、この先、いつ改心し、心を入れ替えるやもしれぬという疑心があるのでしょう。イリューヴェル皇帝が次期皇帝指名の際に、もしそうなっていれば……」
「第一皇子様と第二皇子様を推している人達にとって、カインさんは……」
そうなる前に、竜の第三皇子を亡き者にしてしまえば、先の不安は消え去る。
つまりはそういう事なのだろう。
だけど、だからといって、自分の命を代償にしてまで果たして呪いをかけるだろうか。
その疑問をアレクさんとロゼリアさんに向けると、二人も同じ事を思っていたのか暫しの間沈黙がおりた。
「でも……、今わかっている情報だけで考えると、イリューヴェル皇国の人達が呪いをかけた可能性が高いんですよね?」
「はい……。レイフィード陛下も、恐らくすぐに調査に乗り出しているとは思われますが、何にせよ、イリューヴェル皇国側で何かがあった可能性は高いかと思われます……」
「ユキ、俺達で考えられる事には限界がある。その件に関しては、レイフィード陛下に任せておこう。それに、王宮医師であるルイとセレスがいる以上、禁呪も何とかなるだろう。あの二人は、ウォルヴァンシアが誇る医師であり、同時に、フェリデロード家の血を継ぐ、魔術の申し子達だからな……」
私が退出する時も、真剣にカインさんの様子を見ながら治療をしてくれていたお二人。
絶対にカインさんを死なせはしないと宣言してくれたセレスフィーナさんとルイヴェルさんの事を心に思い浮かべた私は、アレクさんのしっかりとした言葉に頷き、余計な不安は捨てる事にした。
大丈夫……、カインさんには腕の良いお医者様がついてる。
きっと、すぐに良くなる……。絶対に。
「ところで副団長……。少々気になったのですが……、もしや、『あの件』はまだ?」
「……」
ん? 何だろう。ロゼリアさんが思い出したようにアレクさんに視線をやると、じと……、と物言いたそうな目で問いかけた。
その視線から逃げたいのか、アレクさんの方はさっと別方向に視線を逃す。
「……今度にする」
「非常に残念極まりない回答ですが、……確かにそうですね。今はカイン皇子の件もありますし、落ち着かれてからが一番でしょう」
「あぁ……」
「あの、……何のお話でしょうか?」
二人の間で何かが納得されたように見えたけれど、私にはさっぱりわからない。
そんな私の疑問を、アレクさんは首を緩やかに振って「気にするな」と、苦笑を向けて濁す。
「それよりも、ユキ」
「はい」
「俺は、お前に謝らなければならない事がある」
アレクさんのもう片方の手が、握っている私の手を両手で包み込むように重なる。
「昨日は……、すまなかった。怪我人を気遣うお前の気持ちを無視して、身勝手な真似をしてお前を傷付けてしまった」
「アレクさん……」
「お前は心が優しいから、あの男を放っておけなかった事はわかっている。だが……、あの時の俺は」
私を見つめるアレクさんの蒼の双眸が、一瞬強い熱のような揺らぎを見せたかと思うと、また優しい気配だけを湛えたそれに代わり、彼の心からの謝罪が続いた。
「あの時の俺は……、いや、とにかく、俺の身勝手な振る舞いで、お前の事を傷付け怯えさせたのは確かだ。だから、何か……、俺に罰を与えてはくれないだろうか?」
「ば、罰だなんて、そんな……。私はアレクさんの様子がいつもと少し違っていたから気になってはいましたけど、怒ってはいませんよ? だから、罰なんて与えられるはず……」
「ユキ姫様、副団長は一度言い始めたら頑固です。ですから、よろしければ、何か『罰』をひとつ考えてみてはいかがでしょうか?」
そ、そんな事を言われても……!!
正面ではアレクさんが真剣そのもので私からの罰を待ってるみたいだし、ロゼリアさんの方はアレクさんの言動に諦めがあるのか、すみませんと私に頭を下げてくる。
でも、私自身が、アレクさんからの謝罪で十分な以上、これ以上は必要ないと思うのだけど……。
「どうしても……必要ですか? 罰」
「あぁ……。自分への戒めの為にも、頼む」
……う~ん、これは手強い。アレクさんは罰を貰う為に一歩も引く気はないようだ。
だけど、急に罰を与えてほしいと言われても、心情的にも抵抗があるというか……。
「あ……」
その時、私はアレクさんへの罰を、『お願い』の形に変える事を思いついた。
もしかしたら……、また不機嫌にさせてしまうかもという不安があったけれど、明日からの私の行動のひとつに加えられる件がひとつある。
それを、私の護衛騎士であるアレクさんに了承して貰う必要を考えると、丁度良いのかもしれない。
「あの……、また不快にさせてしまったら申し訳ないんですけど、アレクさんへの『罰』というか、『お願い』をさせて頂いても良いですか?」
「お前がそれを、俺への『罰』とするなら、何でも言ってくれ」
「カインさんの……、お見舞いを、明日から毎日スケジュールに入れたいんですけど、……良い、ですか?」
「……そんな事で、良いのか?」
昨日のアレクさんが見せた様子を振り返っていた私に、予想外の言葉が返ってきた。
てっきり……、また怖い顔をされるのかなと思っていたけれど、アレクさんは私の疑問を察したようで、安心へと導く微笑を私に向けた。
「正直なところで言えば、あの男とお前を……、あまり近付けたくはない。だが、他でもないユキ、お前がそう望むのなら、俺はその力となれるよう尽力するまでだ」
「アレクさん……」
本当に、昨日と大違いというか、……一体何があったの、アレクさん。
「ユキ姫様、お気になさらないでください。副団長は少々ご自身のお心を悟る機会がありまして」
「は、はぁ……」
えっと、つまり……、どういう事、かな?
困惑する私を余所に、アレクさんはまた明日から護衛に戻ると言ってくれて、この日の夜はロゼリアさんと一緒に、狼の姿で私の添い寝をしてくれる事になった。
とりあえず、カインさんのお見舞いに関する懸念は晴れたのだし、まぁ、良い……、のかな。うん。
それは、徐々に身の内から全体に広がるように、紋様の浸食と共に命を蝕む術。
対象者だけでなく、術者にとっても非常に残酷な死の宣告をもたらすその術のせいで、カインさんは倒れてしまい、王宮医務室の奥の部屋で必死にその身を苛む呪いを闘い続けている。
(カインさん……)
王宮医師であるセレスフィーナさんとルイヴェルさんが必死にカインさんの呪いを解く為の研究や、彼の苦痛を和らげるその横で、私はカインさんの手を握り、祈る事しか出来なかった……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夜も更けた深夜、王宮医師のお二人から一度部屋に戻ってゆっくり休むようにと勧められた私は、自分の足が鉛でも引き摺っているかのように重い足取りで自分の部屋へと続く道を歩いていた。
倒れる直前まで、いつものように飄々として、意地悪だけど……どこか優しい笑みを浮かべていたのに、『呪い』にかかってしまうだなんて……。
一体、誰が、何の為に、あんな酷い術をかけたの? 自分だって死んでしまうかもしれないのに。
カインさんは、人をからかったり、笑えない意地悪をしてくるような自分勝手な所もある人だけど、死んでほしいなんて……そんな事、私には絶対に思えない。
最初は大嫌いで、顔も見たくないようなトラウマの原因にもなった最悪の相手ではあったけれど、最近はお互いに友好的な関係を築けていたし、カインさんの良い所だって、少しずつ見え始めていた。それなのに……。
「あれ、副団長じゃないですか?」
「え……、アレク、さん?」
自室に戻るまでの護衛として一緒に来てくれた騎士団のクレイスさんが、その名を口にした。
本当だ……。壁に備え付けられている魔術の灯りが、彼の姿を映し出している。
珍しく私服を纏っているアレクさんが、私達に気付いたらしく、こちらに顔を向けた。
「……ユキ」
昨日、『あんな事』があったから……、上手くアレクさんの顔を見る事が出来ない。
私はクレイスさんの背に隠れるように身を寄せると、彼から視線を逸らした。
「え? え? ちょ、ユキ姫様!? どうして隠れちゃうんですか!?」
「……」
背に隠れている私を振り返ったクレイスさんが、顔を青ざめさせながら慌てた様子で私とアレクさんを交互にブンブンと見比べる。ごめんなさい、クレイスさんっ。
「ユキ……」
「……」
とても失礼な事をしている自覚はあるけれど、昨日の事を思い出すと上手くアレクさんと向き合う自信がない。あの時、彼が何を思っていたのか、壁に押し付けられた時の光景が頭に蘇る。
怪我をしたカインさんの許から、私を回廊まで連れ出したアレクさん……。
ロゼリアさんが現れてくれたから逃げ出す事は出来たけれど、あの時、彼が私に言おうとしていた事は何だったのか……。
「クレイス、護衛を代わる。ロゼリアが来るまでは俺が見ておくから、お前はもう騎士団に戻ってくれ」
「あ~……、ん~……、わかりました。じゃあ、ユキ姫様、今日は色々ありましたから、ゆっくり休んでくださいね」
「……はい。ありがとうございました。クレイスさん」
本当は、アレクさんと二人で残されるのが少し怖い。
けれど、こんな夜遅くまで私を護衛してくれたクレイスさんに無理を言う訳にもいかない。
私は彼に頭を下げてお礼を言うと、その背を見送った。
――……。
「ユキ……」
「えっと、部屋に入りましょうか……」
アレクさんの横をすり抜けて、扉のノブに手をかけようとした瞬間、私のその手を彼が掴んだ。
「――っ!!」
「……すまない。痛かったか?」
「い、いえ……」
昨日とは違う、ちゃんと手加減されている感触にほっとした。
その硬く大きな手の先を辿るように視線を上げ……、私の事を心底気遣ってくれている事が見てとれる視線と触れ合った。
昨日感じた怖いような気配はどこにもなくて……、徐々に私の緊張も和らいでいく。
私はやっとアレクさんに笑みを向けられる心地になり、彼に大丈夫ですと告げると、部屋の中に一緒に入った。魔術の力が作用している入り口側の球体に手を翳すと、光が室内を満たしていく。
「今、お茶を淹れますね」
「いや、それよりも……、ユキ、すまないが顔を見せてくれ」
「え……」
お茶を淹れに背を向けた私の腕を優しく掴むと、アレクさんが自分の方に振り向かせ、私の顔を慎重に観察し始めた。その眉根が……、困惑と心配を滲ませてぐっと寄せられていく。
「ユキ、顔色が悪い……。体調が優れないのか?」
「いえ、私は何ともないんですよ。……私は」
そう、私自身は何ともない。今この時も苦しみに耐えて辛い思いをしているのは、――カインさんだから。
「ユキ、何があったんだ……?」
「……実は、カインさんが、……今日の夕方に突然倒れてしまって」
「あの男が?」
「はい……。急いで王宮医務室に運んだんですけど、セレスフィーナさんとルイヴェルさんの話では、……『禁呪』という恐ろしい術にかかっているらしくて」
呪いに苦しむカインさんの表情を思い出した私は、胸元で両手を組み、自分の頬に涙が伝うのを感じながら、震える声でアレクさんに話を聞いて貰った。
カインさんが今、どんな状態なのか。どれほどの危険と背中合わせなのかを……。
その途中、私の添い寝の為に訪れてくれたロゼリアさんも加わって、美味しい紅茶を淹れて貰いながら話を最後まで口にする事が出来た。
ほんのりと……お湯の熱で湯気がのぼるティーカップを見つめる。
「禁呪……、ですか。確か私も前に耳にした事があります。この世界には、行使してはならない禁じ手と呼ばれる術が幾つもあると」
「幾つも……、ですか?」
ロゼリアさんが静寂の中に波紋の一欠けらを投げ込むようにそう言った。
あんな恐ろしいものが……、他にも、まだ。
(当然かもしれない……。だってここは、異世界なんだもの)
地球では通用しないルールや常識、あちらには絶対に存在しないであろう魔術という存在。
何が起きても不思議じゃない……、異世界。
向こうの世界にいた時は、小説の中に出てくる魔法やファンタジーな要素に心をときめかせたものだったけれど……。こうしてその脅威を目の当たりにしてしまうと、魔術という存在がいかに恐ろしいものであるかを、この肌で、心で、感じる事が出来た。
「中には、対象者だけでなく、その周囲の者にも害を成す術もあるそうです。ですが……、今回はカイン皇子お一人の命を害する為に術者の命を代償にしたとなると……」
「相当……、根深い恨みがあるとみて、間違いないだろうな」
「恨み……」
自分の命と引き換えにしても良いと思えるほど、根深い感情……。
ティーカップを持つ手が、その内容の恐ろしさにカタカタと小さく震えてしまう。
「大丈夫ですか? ユキ姫様……」
「はい……」
気遣う声をかけてくれたロゼリアさんに頷きを返すと、アレクさんの大きな手のひらが私の震える手へと、そっと……、触れた。
「アレクさん……」
言葉は何も紡がれない。ただ、優しい眼差しで私を見つめながら、アレクさんはティーカップの柄から私の手を外させ、しっかりとその手のひらに包み込んだ。
その力強いぬくもりが……、私の中の不安を少しでも晴らしたいと言ってくれているかのように。
「『禁呪』の類は、遥か昔に封じられた存在でもある……。その術式や詠唱方法、力の扱い方を知るのは、限られた者だけのはずだ」
「はい。恐らく……、よほど魔術に詳しく、且つ、カイン皇子を心の底から憎んでいる者……。ウォルヴァンシアには、カイン皇子を害する理由が在る者は恐らく存在しないでしょう。なにせ、まだ滞在から一ヶ月も経っていません」
「……やはりイリューヴェル皇国側からの動き、だろうな」
イリューヴェル皇国において、カインさんは他国に悪評を広めるほどの厄介者だから、それを疎ましく思う者の仕業では、と、ロゼリアさんがアレクさんに同意しながら呟いた。
「または、イリューヴェル皇国皇妃であられる方の息子である事が関係しているやもしれません」
「俺がルディーに聞いた話によると、イリューヴェル皇国の皇妃は、古の大戦において、『悪しき存在(モノ)』との戦いで、その強き力を揮った英雄の血筋らしい。それ故に、脈々と受け継がれる血の中には、先祖の遺伝子が確かに息づいていると」
「側室お二人のお子様であられる第一皇子殿下、第二皇子殿下は先に生まれてはおられますが。もしも……、遥か先の未来で、カイン皇子がその御二人よりも強い竜の血を、正確には……、誰も及ばぬ強き竜の力を揮う事になれば、次期皇帝の座に望まれる可能性があります」
同じような事を、ルディーさんも前に言っていた。
臣下の人達が第一皇子様や第二皇子様を次期皇帝として推したとしても、現・イリューヴェル皇帝さんがカインさんを指名すれば、次期皇帝の座は覆る、と。
「だが、いくら力が強かろうと、素行の悪い竜の皇子に次期皇帝の座が渡る事はない」
「ですが、この先、いつ改心し、心を入れ替えるやもしれぬという疑心があるのでしょう。イリューヴェル皇帝が次期皇帝指名の際に、もしそうなっていれば……」
「第一皇子様と第二皇子様を推している人達にとって、カインさんは……」
そうなる前に、竜の第三皇子を亡き者にしてしまえば、先の不安は消え去る。
つまりはそういう事なのだろう。
だけど、だからといって、自分の命を代償にしてまで果たして呪いをかけるだろうか。
その疑問をアレクさんとロゼリアさんに向けると、二人も同じ事を思っていたのか暫しの間沈黙がおりた。
「でも……、今わかっている情報だけで考えると、イリューヴェル皇国の人達が呪いをかけた可能性が高いんですよね?」
「はい……。レイフィード陛下も、恐らくすぐに調査に乗り出しているとは思われますが、何にせよ、イリューヴェル皇国側で何かがあった可能性は高いかと思われます……」
「ユキ、俺達で考えられる事には限界がある。その件に関しては、レイフィード陛下に任せておこう。それに、王宮医師であるルイとセレスがいる以上、禁呪も何とかなるだろう。あの二人は、ウォルヴァンシアが誇る医師であり、同時に、フェリデロード家の血を継ぐ、魔術の申し子達だからな……」
私が退出する時も、真剣にカインさんの様子を見ながら治療をしてくれていたお二人。
絶対にカインさんを死なせはしないと宣言してくれたセレスフィーナさんとルイヴェルさんの事を心に思い浮かべた私は、アレクさんのしっかりとした言葉に頷き、余計な不安は捨てる事にした。
大丈夫……、カインさんには腕の良いお医者様がついてる。
きっと、すぐに良くなる……。絶対に。
「ところで副団長……。少々気になったのですが……、もしや、『あの件』はまだ?」
「……」
ん? 何だろう。ロゼリアさんが思い出したようにアレクさんに視線をやると、じと……、と物言いたそうな目で問いかけた。
その視線から逃げたいのか、アレクさんの方はさっと別方向に視線を逃す。
「……今度にする」
「非常に残念極まりない回答ですが、……確かにそうですね。今はカイン皇子の件もありますし、落ち着かれてからが一番でしょう」
「あぁ……」
「あの、……何のお話でしょうか?」
二人の間で何かが納得されたように見えたけれど、私にはさっぱりわからない。
そんな私の疑問を、アレクさんは首を緩やかに振って「気にするな」と、苦笑を向けて濁す。
「それよりも、ユキ」
「はい」
「俺は、お前に謝らなければならない事がある」
アレクさんのもう片方の手が、握っている私の手を両手で包み込むように重なる。
「昨日は……、すまなかった。怪我人を気遣うお前の気持ちを無視して、身勝手な真似をしてお前を傷付けてしまった」
「アレクさん……」
「お前は心が優しいから、あの男を放っておけなかった事はわかっている。だが……、あの時の俺は」
私を見つめるアレクさんの蒼の双眸が、一瞬強い熱のような揺らぎを見せたかと思うと、また優しい気配だけを湛えたそれに代わり、彼の心からの謝罪が続いた。
「あの時の俺は……、いや、とにかく、俺の身勝手な振る舞いで、お前の事を傷付け怯えさせたのは確かだ。だから、何か……、俺に罰を与えてはくれないだろうか?」
「ば、罰だなんて、そんな……。私はアレクさんの様子がいつもと少し違っていたから気になってはいましたけど、怒ってはいませんよ? だから、罰なんて与えられるはず……」
「ユキ姫様、副団長は一度言い始めたら頑固です。ですから、よろしければ、何か『罰』をひとつ考えてみてはいかがでしょうか?」
そ、そんな事を言われても……!!
正面ではアレクさんが真剣そのもので私からの罰を待ってるみたいだし、ロゼリアさんの方はアレクさんの言動に諦めがあるのか、すみませんと私に頭を下げてくる。
でも、私自身が、アレクさんからの謝罪で十分な以上、これ以上は必要ないと思うのだけど……。
「どうしても……必要ですか? 罰」
「あぁ……。自分への戒めの為にも、頼む」
……う~ん、これは手強い。アレクさんは罰を貰う為に一歩も引く気はないようだ。
だけど、急に罰を与えてほしいと言われても、心情的にも抵抗があるというか……。
「あ……」
その時、私はアレクさんへの罰を、『お願い』の形に変える事を思いついた。
もしかしたら……、また不機嫌にさせてしまうかもという不安があったけれど、明日からの私の行動のひとつに加えられる件がひとつある。
それを、私の護衛騎士であるアレクさんに了承して貰う必要を考えると、丁度良いのかもしれない。
「あの……、また不快にさせてしまったら申し訳ないんですけど、アレクさんへの『罰』というか、『お願い』をさせて頂いても良いですか?」
「お前がそれを、俺への『罰』とするなら、何でも言ってくれ」
「カインさんの……、お見舞いを、明日から毎日スケジュールに入れたいんですけど、……良い、ですか?」
「……そんな事で、良いのか?」
昨日のアレクさんが見せた様子を振り返っていた私に、予想外の言葉が返ってきた。
てっきり……、また怖い顔をされるのかなと思っていたけれど、アレクさんは私の疑問を察したようで、安心へと導く微笑を私に向けた。
「正直なところで言えば、あの男とお前を……、あまり近付けたくはない。だが、他でもないユキ、お前がそう望むのなら、俺はその力となれるよう尽力するまでだ」
「アレクさん……」
本当に、昨日と大違いというか、……一体何があったの、アレクさん。
「ユキ姫様、お気になさらないでください。副団長は少々ご自身のお心を悟る機会がありまして」
「は、はぁ……」
えっと、つまり……、どういう事、かな?
困惑する私を余所に、アレクさんはまた明日から護衛に戻ると言ってくれて、この日の夜はロゼリアさんと一緒に、狼の姿で私の添い寝をしてくれる事になった。
とりあえず、カインさんのお見舞いに関する懸念は晴れたのだし、まぁ、良い……、のかな。うん。
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「お姉さんなのだから、交換して上げなさい」
流石に婚約者を交換するのは…不味いのでは…。
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淫らな蜜に狂わされ
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美しい公爵様の、凄まじい独占欲と溺れるほどの愛
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*らがまふぃん活動二周年記念として、R6.11/4に一話お届けいたします。少しでも楽しんでいただけますように。
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