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第六章・アレク×幸希編~蒼銀の誓いと咲き誇る騎士の花~

二人の目覚め

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※最初に三人称視点、後半にヒロイン・幸希視点でお送りいたします。



「ふぅ~……、吃驚したなぁ。よっと、……ん?」

 アレクディースを、愛する者を失った悲しみにより、幸希がその心を乱してからの事。
 彼女の身の内で浄化を受けながら過ごしていたかつての敵、ヴァルドナーツは突然荒れ狂い出した世界の中で酷い目に遭いながらも、どうにか無事に自由を取り戻していた。
 瓦礫と化した家の残骸から這い出し、緑が溢れていたはずの大地に視線を巡らせる。
 一瞬にして様変わりした世界。草も、花々も腐り落ち、そこにいたはずの小動物達の姿さえも消え失せている。
 あの少女が抱くには似つかわしくない、暗く、悲しみに満ちた光景だ。

(外で何かあったんだろうけど……、これは……)

 ヴァルドナーツは傷だらけになっている身体に痛みを感じながら歩き出す。
 一歩一歩が苦痛を伴うものだったが、自分の罪深さによって生じる辛さに比べれば、まだマシなものだ。
 災厄、ディオノアードの欠片によって蝕まれていたこの魂。
 幸希のお陰で浄化が進み、魂へのダメージも癒されていたのだが……、異変が起こった際、その全てが無駄に、再び負の力によって酷い汚染を受けるような衝撃を味わった。
 今は和らいでいるが……、やはり、身体の重さと息苦しさのせいで歩みは遅い。
 だが、行かなくてはならない。捜さなくてはならない。
 この世界の母たる、あの、心に深い悲しみを抱いていた少女を。
 
「うぅっ……、っ、く、……あ、レ、ク、……アレ、ク、……私、のっ」

 絶望の最果て、そう呼びたくなるような薄暗い世界の片隅で、――彼(か)の女神は泣いていた。
 崩れた柱が円形に沿って立ち並ぶ、その中心に。
 両手で顔を覆い、あの騎士の名を嗚咽交じりに泣きながら口にしている少女。
 その嘆きは、音は、まるで……、愛する者を亡くした心の慟哭のように、ヴァルドナーツの心を苛んでくる。
 
「お嬢、――っ!?」

 ヴァルドナーツがゆっくりと近付こうとしたその時、幸希の傍に一人の子供が現れた。
 ふわふわとした長い黒髪の、幼い女の子……?
 白いドレスに身を包んでいる黒髪の女の子が、悲しそうな顔をしながら幸希の頭を撫でる。
 あれも、幸希が生み出したこの世界の産物、なのだろうか?

「かなしい……。ユキ、かなしい……」

「っく、っ、……うぅっ、……アレク、アレク……っ、死、……死んで、しま、っ」

「ユキ、だいすきなひと、しんじゃった。……つらい、つらい、かなしい、くるしい」

「あぁぁっ、ぁああっ、……アレク、アレク、さんっ、ごめんなさいっ、私は、私はっ」

 死んだ? あの騎士が?
 確か……、ウォルヴァンシア騎士団の副団長で、彼女の護衛騎士だった男で、この世界の御柱の、一人。
 幸希に聞かされた話によると、自分の神様であったアヴェルという少年の……、生みの親だ。
 魂の一部と、御柱たるアヴェルオードの力の半分を受け継がせ創り出したと聞いているが、それでも、神は神だ。幸希を始めとした他の神々も何人かいたはずだが、それでも……、避けられなかった事態なのか?
 黒髪の女の子が幸希の頭から手を引き、首を傾げながら言った。

「ユキ、かなしい。……だいすきなひと、いなくなった。アレク……、ころしたの、だぁれ?」

「う、うぅっ……、アヴェ、ルっ、……アヴェ、ルッ、……あの子が、あの子がっ、アレクさんをっ!!」

「アヴェル、……ころした、ユキのだいじなひと、ころした」

 悪意のない、純粋な子供からの問いに、幸希が両手を下ろして顔を上げた。
 その表情を、憎悪に染まっている真紅の瞳を目にした瞬間、ヴァルドナーツの全身に走ったのは、恐ろしい悪寒。自分の知っている、あの少女らしくない気配と顔つき。
 アレクディースという騎士を殺したのが、アヴェル? 自分達の神様だった、あの少年が?
 幸希達を翻弄する事が出来たとしても、アヴェルにアレクディースを殺す事が出来るのだろうか?
 どういう経緯でそうなったのかはわからないが、今はそれよりも。
 
(あの子は……、『何』だ?)

 幸希に問いかけ、徐々に淀んだ闇を纏い始めた幼い女の子。
 あれを無害と呼ぶには……。ヴァルドナーツの目が険しげに細められ、その足が一歩を踏み出す。
 だが、背後の気配に気付いたのか、それとも、すでにわかっていたのか……。
 黒髪の女の子がヴァルドナーツの方を振り返り、悲しそうな顔でこう言った。

「おじちゃん、……どうしよ」

「は?」

 そこで、縋られるような言葉を向けられるとは思わなかった。
 黒髪の女の子は幸希の悲しみを、憎悪を感じながら、同じ言葉を繰り返す。
 どうしよう、どうしよう、と。

「ユキ、きずついてる……。かなしくて、こころがこわれそうで……、『かたよりかけてる』」

「偏りかけている? ……黒髪のお嬢ちゃん、君は……、誰なのかな?」

「ユキ」

「いや、そっちのお嬢さんの事じゃなくて、君の事だよ。可愛らしいお嬢ちゃん」

「ユキぃ」

「…………」

 これは……、答えているのか、それとも、話が通じていないのか。
 子供の相手は得意な方だが、ヴァルドナーツにはこの女の子との意思疎通が上手くいく自信が湧いてこない。
 ユキ、と繰り返しているが、それは今泣いている少女の名だ。
 いや、もしかしたら、黒髪の女の子も同じ名前、なのだろうか?

「おじちゃん、どうしよう……。ユキが、……『わたし』が、……コワレ、チャウ」

 その愛らしい音が無機質なものへと変わった瞬間、再び異変が起こった。
 ヴァルドナーツ達のいる世界が揺らぎ、大きく揺れ始めたのだ。
 さっきと同じだ。ゆっくりと家で寛いでいたヴァルドナーツの平穏を乱した異変と。
 だが、今度はもうひとつの変化を目にする事になった。
 長く柔らかな蒼髪を纏っていた幸希のそれが、不穏な気配と共に闇へと染まっていく。
 ゆっくりと、紋様が描かれている石の地面から立ち上がった幸希が、アヴェルの、ヴァルドナーツの神様だった子供の名を憎々しそうに呟き、――狂気に苛まれた絶叫を迸らせた。

「――っ!! お嬢さん!!」

「ユキ……!! うぅっ、おじちゃん!! とめて!! ユキ、とめて!!」

「いやいやっ、俺だって止めたいけど、あれ無理だから!! おじちゃんが突撃しても、一瞬で消し炭レベルだから!!」

「おじちゃん、ごー!!」

「ごー!! じゃなぁあああい!!」

 冗談抜きで、今の幸希を相手に何か仕掛けでもした日には、確実に消されてしまう事だろう。
 ヴァルドナーツの神様だったアヴェルよりも強い、地上の命如きでは太刀打ちなど出来ぬ存在の脅威。
 幸希の絶叫と共に吹き荒れ始めた突風の中、ヴァルドナーツは黒髪の女の子をしっかりと抱え、この状況を冷静に分析しようと試みるが……。

(間違いなく、喪失と憎しみの情が爆発して、神としての清廉さが負のそれに取って代わった状態なんだろうけどねぇ……。う~ん、昔見た神々の資料に何か役に立ちそうなものはあったかなぁ……。っていうか、俺の方も……、災厄の影響が濃くなってるみたいで、……ちょっと、まずい、かも)

 浄化が進められていたはずの魂。だが、自分の精神状態に厄介な干渉が始まっている事に、ヴァルドナーツは気付いた。かつて、妻であったレフェナを助ける為に使ったディオノアードの欠片。
 徐々に心を支配され、狂い、歪んでいった自分……。
 解き放たれたはずの魂が、再び、災厄の魔の手に蝕まれようとしている。

「ぐっ……!! ぅ、……はぁ、はぁっ、ぐぅううっ」

「おじちゃん、大丈夫?」

 と、心配そうに声をかけてくれてる黒髪の女の子だが、この幼子自身からも禍々しい力の気配が漏れ出しており、ヴァルドナーツ的には非常に辛い心境だ。
 悪意は……、感じられない。この幼子は、心から自分の事を案じてくれている。
 まるで、その心と力は一切別物だというように。
 放り出すべきか、……いや、子供相手にそんな非道な真似は出来ない。

「君に、……聞いても、駄目、……かも、だけど。……はぁ、……はぁ、ここから、出る、方法、知って、る、かな?」

「ユキのそと、……でる、の?」

「そうしないと、……まずいん、だよ、ねぇ。うぅっ……」

「でも……、ユキ、とめないと」

「……その前に、多分、いや、……確実に、俺達の方が飲み込まれちゃうと思うんだけど、ね」

 問答を繰り広げている目の前では、狂神と化している幸希の絶叫が大きくなり、その身から溢れ出してくる不穏の奔流も激しく、色濃く変貌を遂げようとしている。
 あんなものをどうやって止めろというのか。
 出来る事なら、救ってくれた礼に手を差し伸べたい。どんな事をしても、恩を返したい。
 だが、残念な事に、今のヴァルドナーツに、いや、たとえ全盛期であった頃の、生身の肉体に在った頃でも無理な話だ。なにせ、相手は神。この魂を懸けたところで、成果を得る事は無理だろう。
 ヴァルドナーツは情に厚い人柄だ。だからこそ、わかる。
 自分が無意味に犠牲となれば、後で悲しむのは、自分を責めるのはあの子だ。
 ならば、出来る事はひとつ。彼女の外側にいる神々に救いを求める。
 そして、その手が差し伸べられるまで、この魂を守り抜く。
 それが、自分の道を正し、希望を与えてくれた少女への恩返しだ。

「おじちゃん、ごめんね……。ユキの、こころ……、『わたし』、……そろ、そろ」

「お嬢ちゃんっ!?」

 心を乱し、嘆き苦みながら狂化している女神と同じ色を纏っている幼子の瞳から光が消え去り、事態はさらに深刻な局面へと時を早めていった。
 それは、ヴァルドナーツの存在を危うくするほどに膨れ上がり、――そして。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ――Side 幸希

 
 ナニモカモガコワレテシマウ……。
 あの時、私のすぐ目の前で砕かれた、愛しい人の魂。
 アヴェル君が躊躇いなしに壊してしまったその行為が、一瞬で……、私の魂を赤黒く染め尽くした。
 お父様を失った時よりも、お母様が災厄の女神として封じられた時よりも、この心から溢れ出した嘆きの声は酷く大きくて……。何も考えられなくなった私の中に生じたのは、――アヴェル君への抑えきれない憎悪の念だった。
 アレクさんを、アヴェルオード様を、あの子が殺した。
 私の大切な、大切な、私の魂の半身を。愛おしいあの人をっ。


 ――アノコガウバッタ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


「――っ!!」

「ユキ!!」

「……あ、……あ、ぁぁっ……、はぁ、はぁっ」

 突き上げるかのような衝動を感じ、激情と共に伸ばした手を受け止めてくれた感触。
 女性の柔らかなそれとは違う、少しひんやりとして、しっかりとした感触の……、男性の、手?
 全身に不快感を伴う熱と汗を感じながら目を瞬く私の顔を、その人が覗き込んでくる。
 
「……レイ、シュ、……お兄、様?」

「落ち着いて。……大丈夫、怖い事は全部夢だったんだよ。君は何も失くしたりなんてしていない。君の大切な存在(もの)は、ほら、すぐ傍にあるだろう?」

「……え?」

 私を落ち着かせる為にそっと抱き締めてくれたレイシュお兄様、レイフィード叔父さんが、背中をぽんぽんと叩きながら導く。……すぐ隣に在った、微かなぬくもりへ。
 私がそちらに視線を向けると、白いボタンつきのシャツを纏い、健やかな寝息を立てている……。

「アレク……、さん?」

 月光のように煌く、銀の髪。
 閉じられた瞼は震える様子も見せないけれど、その顔には薄っすらと生気が宿っていた。
 レイフィード叔父さんのぬくもりから離れ、私は恐る恐る彼の顔に触れてみる。
 
「アレク……、アレク……、さん」

 彼のあたたかな感触を指先で確かめ、首筋を辿り、鼓動の上へとなぞってゆく。
 トク、トク……、と、確かに感じる。彼の命が脈打つ気配を。
 
「生きてる……っ。……アレク、……アレクさんっ、生きて、生きて、るっ」

「魂のひと欠片だけど、アレクは必死に自分を守ったんだよ。自分を、というよりも、君を悲しませない為に、ね」

「ひと欠片……」

 レイフィード叔父さんが教えてくれたのは、そのひと欠片が本当に小さなものであるという事。
 アレクさんの、アヴェルオード様の魂が転生した今の肉体。
 暫くはその生体機能を維持できるけれど、いずれ限界がくるのは避けられない、と……。
 神の力を削がれている場合なら、他の神が力を分け与えれば問題は解決する。
 だけど、ひと欠片を残し、魂を奪われたとなると……。
 
「私を騙し、アレクさんの魂を跡形もなく砕いたと思わせて……。本当は、この人の魂を持ち去る事が目的だったんですね……」

「恐らくは、アヴェルを、あの子を完全なる神にする為、だろうね。親神であるアレクの魂を取り込めば、その身は間違いなく、――『アヴェルオード』そのものとなる」

 世界が、このエリュセードが、御柱の一人をアヴェル君だと認識してしまう。
 それは、アヴェル君がこの世界のシステムに介入する権利を得る、という事になる。
 土地や人、物に干渉するのとは違う、根本の部分に、彼が、彼らが触れられるようになってしまうという事だ。
 
「早、く……、取り戻しに、……うぅっ」

「無理は禁物、だよ? 君だって、その神性と精神に大きなダメージを負ったんだからね」

「神、性……、に?」

「覚えてない?」

「……私に、何が、あったんです、か?」

 それに、視線をよく巡らせてみれば、窓の景色と内装からして、ここはウォルヴァンシアの王宮。
 私とアレクさんがいたのは、遠く離れた町だったはずなのに……。
 綺麗な白いシーツの広がるベッドの上で、私はゆっくりとその場に座り直しながら記憶を探った。
 ……アレクさんがその身を害され、目の前で、魂を砕かれたと、そう、……思わされた直後からの記憶が、ない。何だかとても嫌な感覚に、怖いものに満たされていたような気がするのだけど……。
 レイフィード叔父さんが傍に腰を下ろし、労わるような手つきで私の頭を撫でながら額へとキスをくれた。

「今は何も考えなくていいよ。ゆっくり休む事だけに集中しなさい」

「レイシュ、お兄様……?」

「何か食事を持って来させるから、この部屋から出ないようにね? アレクが寂しがらないように、一緒にいるといい」

「あの、……あ」

 特に詳しい説明をしてくれるでもなく、レイフィード叔父さんは優しい笑みに悲しげなものを纏いながら部屋を出て行ってしまった。
 
「……」

 間違いない。……あれは、私に対して何か隠している時の反応だ。
 私を傷付けたくなくて、私を危険な目に遭わせたくなくて、何もかも一人で背負い込もうとしている時の、兄の背中だった。

「ふぅ……」

 後を追いかけようかと迷ったけれど、私はその場に残る事を選んだ。
 思考がハッキリしてくると、自分の身体がどれだけの負荷に苛まれているのかを実感出来てきたからだ。
 行動しようという気を奪いにかかってくる倦怠感と、胸の辺りに渦巻いている嫌な不快感。
 意識を集中して探ってみると、自分の神性に歪みが出ている事に気付いた。
 もしかしたら……、私は。

「暴走……、した、の?」

 途中で消えてなくなった自分の意識。
 叔父の、……兄の、物憂げな顔。
 自分が感情を抑えきれずに暴走し、その神性を歪ませてしまったのなら……、今ここにいる意味もわかる。
 アレクさんの魂を、彼を目の前で殺されてしまったショックで、我を見失ってしまったのなら。
 私はもう一度アレクさんに視線を戻すと、ゆっくりと寝そべりながらその身体にぬくもりを添わせた。

「アレクさん……、守れなくて、ごめんなさい」

「……ん、…………ユ、キ?」

 酷く眠たげに開いた彼の瞼。
 寄り添っている私の顔をその優しい蒼の中に受け止めると、アレクさんは辛そうに右手を持ち上げた。
 
「アレクさん……? んっ」

 私の頬を包み込み、指先を動かして肌の感触を確かめるように見つめてくるアレクさん。
 あぁ、この人は……、自分がどんなに辛い状態かわかっていて、それでも私の事を優先し、心配してくれている。どんな時も、穏やかで優しい目を向け、……心から慈しんでくれる、愛おしい人の眼差し。

「無事で……、よか、った」

「アレ、ク、……アレク、さんっ!!」

 失ったと、奪われてしまったと思われた人のぬくもり。
 それは、自分のものよりも低くて、心細くなってしまいそうな頼りなさだったけど……。

「今度は、寝惚けて抱き着いているわけではなさそう、だな……」

 ぎゅっとしがみついた私の身体を抱き締め返し、アレクさんが嬉しそうに笑ってくれる。
 私の存在を、自分の大切な宝物だと、優しい蒼の瞳が伝えてくれる。
 
「うぅっ、……ね、寝惚けてなんかっ、いま、せんっ」

 アヴェル君が私にもたらした、本当には知らなかった感情。
 誰かを心から愛し、かけがえのない存在へと高めたその果てに……、失えばどうなってしまうのか。
 お父様を失ったお母様と同じように、私もまた……、愛する人を失う痛みには耐えられない存在。
 神性が歪んだ名残を感じるこの感覚も、きっと私が悲しみ故に暴走した証。
 恐れていた未来が来てしまったのだ。そうなりたくはないと思っていたのに、私は――。

「ユキ……、悪いんだが、そろそろ……、ん? ユキ?」

「……っ」

 愛してしまった。気付いてしまった。
 ずっと、ずっと、私の事を穏やかな眼差しと愛で見守ってくれていたこの人と過ごした時が、長い長い時間をかけて、―― 一輪の花を咲かせた。
 抑えきれない想いが鼓動を速め、どうにもならない熱が全身に広がっていく。
 私はアレクさんの顔を見れず、その逞しい胸に突っ伏したまま黙り込む。
 もう見抜かれてしまっているとはいっても、ハッキリと伝えたわけじゃない。
 ……伝えていいのか、まだ、わからない。
 
「……ユキ」

「……ご、ごめんなさいっ。で、出来れば、もう少し、この、まま」

「……」

 真っ赤に染まった私の顔。少しだけ速まっているアレクさんの鼓動。
 その胸に顔を押し付けながら小さく息を吐いた私は、シャツの合間から除く彼の素肌を擽っている事にも気付いていなかった。
 お母様のようになりたくないと怖がっているくせに、この人のぬくもりを誰にも奪われたくないと願っている、どうしようもなく、我儘で身勝手な私。
 愛しくて、愛しくて……、失えば、この心を狂わせ壊してしまう存在。
 それなのに、離れる事など不可能だと、本能で悟っている自分。
 すりすりとアレクさんの胸に頬を擦り付けていると、その場で動く気配がした。
 アレクさんが無理をして上半身を起こし、驚いた私の逃げを先回りで阻み、ぬくもりを捕らえてしまう。

「顔を、見せてくれ……」

「んっ、……あ、アレク、さんっ、許し」

「駄目だ、逃がさない……。お前の傍に在る現実を、しっかりと、確かめたい」

「アレク、……さ」

 懇願を宿した低い声音に心を揺さぶられ、私は身体から力を抜いた。
 アレクさんの両手が私の両頬を包み込み、しっかりと見えるように固定する。
 逃げられない、逃げちゃ……、駄目。この人を拒んではいけない。
 ぽろぽろと零していた涙に濡れた瞳と、情けなく真っ赤に染まりきっている顔を、彼の蒼い眼差しが見下ろしてくる。その双眸の奥で揺らめいているのは、狂おしささえ感じさせる程に、熱い、想い。
 私の心に溢れている想いを抱き締めてくるかのように、アレクさんは切なさを宿した表情で顔を近づけてくる。

「……」

「んっ」

 アレクさんへの抑えきれない想いと、失いかけたという事実を覆す事の出来た安堵の涙。
 私の瞳に浮かんでいる感情の片鱗がその柔らかな唇によって掬い取られ、微かな熱の吐息に全身を震わせる。
 あぁ……、逃げられない。逃げたくない。
 自分がどんなに罪深い存在だとしても、この人を不幸にしか出来ないのだと知っていても……。
 ――恋は落ちるもの。
 頭の中に、いつか教えて貰った言葉が浮かんでくる。
 逃げられるものではないのだと、愛してしまえば、もう……。

「俺の罪の証であるこの涙にさえも、……今はどうしようもなく、喜びを感じてしまう」

 私も同じ……。自分の罪深さを、危うさをわかっているのに、貴方のぬくもりを求めずにはいられない。
 離れたくなくて、ひとつに溶け合いたくて……、どんどん我儘になっていく。

「ユキ」

「はい」

「ユキ」

「はい。アレクさん」

 もっと呼んでほしい。貴方の音で呼ばれる度に、私の心が、魂が、大きな喜びに包まれる。
 愛おしい人の声。ぬくもりが。その全てが砂糖菓子のように甘く感じられて……。
 私の頬を包み込んでいたその両手が私の私の背中にまわり、そっと抱き寄せられた瞬間。
 言葉にならない想いを伝え合うかのように、私達はそっと互いを抱き締めた。
 まだ何も伝える事が出来ていないのに、伝える事が怖くて仕方がないのに、……もう、そんな必要なんてない気がして。

「……俺達は、我儘だな」

「……はい」

 逸りながら重なる鼓動。私の首筋にうずめられているアレクさんの顔。
 ゆっくりと、自分が動かした右手とアレクさんの左手が、密着している身体の横で出会い、絡み合っていく。
 病み上がりのような状態でも、その感触は大きく、頼りがいがあるぬくもりだった。
 何も言わず、ただ、日向で寄り添い合っている動物のように、心地良さを覚えながら瞼を閉じる。
 ……もう、手遅れ。私は、この人を奪われる事も許せないし、自分から離れていく事も出来ない。
 誰に責められようと、許されざる大罪に手を染めようと、……この人を、私が傷付け、不幸にしてしまうとしても。――この人の傍にいたい。
 
「アレクさん……、わ、私」

『姫ちゃ~ん、アレク~、起きてるか~?』

 少しだけ身体を離し、アレクさんに正直な気持ちを伝えようとした矢先の事。
 ノックとルディーさんの声に驚いた私は、大慌て状態で身支度を整えようとしたのだけど……。

「ふぎゃんっ!!」

「ユ、ユキ、大丈夫か?」

 うぅ……。やっぱりまだ、動くのはきつかったみたい。
 ベッドの下に転げ落ちた私を心配し、アレクさんが手を伸ばそうとしてくれたけど、その蒼に険し気な気配が見えた。

「あ、アレクさん、無理は駄目、ですよっ」

「それは姫ちゃんも一緒だろ~? ふぅ。よっ、アレク。調子はどうだ?」

 普段の高校生くらいの少年姿とは違う、ルディーさんのもうひとつの姿。
 ガデルフォーン皇国の、元次期皇帝様だったお父さんを持つルディーさんは、狼王族とは別に、竜煌族の血も引いている。それが、今の大人の姿だ。
 こちらの姿の方が使える力も強く、ルディーさんの精神年齢にも合っている。
 食事の載っている銀トレイを持ってベッドに近づいてきたルディーさんの背後には、同じものを持ったロゼリアさんの姿もあった。

「ユキ姫様、食欲はいかがですか? もう一週間も眠られておいででしたので、お腹が退屈しているのではないと思いまして」

「一週……、間? あの、私達、そんなに長く」

「はい。レイフィード陛下が王宮にお戻りになられた際、駆け付けた私と団長はすぐには面会をお許し頂けず……。一昨日の晩、ようやくこの部屋への入室を許されたのです」

「命に別状はないって聞いてたんだけどさ……。正直、姫ちゃんとアレクの顔を見るまでは安心出来なかった。ほんと……、無事で良かった」

「ルディーさん……、ロゼリアさん……。ご心配を、おかけしました」

 サイドテーブルに置かれた食事の載った銀トレイ。
 野菜スープの入っている器を手に取ったロゼリアさんが私の近くに腰を下ろし、深彫りのレンゲを手にそれを差し出してくれた。ふぅ、ふぅと、彼女の息がスープの熱をほどよく冷ましてくれる。

「んっ」

「まだお辛いかとは思いますが、どうか栄養をつけられてください。そして、また元気になられた貴女様のお姿を見せてくださるその日を、楽しみにしております」

「ロゼリア、さん……っ。うぅ……っ、本当に、ありが、んぐっ!!んっ!!」

 大変だったのは私達だけじゃない。
 私達に何かあれば、沢山の人達の心も傷つけてしまうのだという事を、私はいつも忘れがちだ。
 目尻から伝う涙と共に、ドッサリと野菜が入ったスープを食べながら思う。
 もう、怖がるのはやめよう。自分が諦めれば何もかも上手くいくなんて、二度と思わないようにしよう。
 
「ロゼ……、少しペースが早すぎないか?」

「も、申し訳ありません……。ユキ姫様がお元気になるよう、沢山食べて頂きたいと思いまして、……だ、大丈夫ですか? ユキ姫様」

「もぐもぐっ。……だ、大丈夫、ですっ」

「ははっ!! じゃあ、俺はこっちの寝坊助に食わせてやっかな。ほらっ、口開けろ、アレク!!」

「いや、俺はまだ、――んぐぅうっ!! もぐもぐ……、んっ、ルディー、俺はまだ後で、んっ!!んぐっ!!」

 私と同じように、……じゃなくて、私よりもさらに凄い勢いで大きく千切ったパンを口に放り込まれるアレクさん。あの、アレクさんは私よりも酷い状態で、まだ食事を取る元気まではないんじゃ……。
 止めようかどうか迷っていると、ロゼリアさんが微笑ましそうにくすりと笑った。

「ご安心を。レイフィード陛下からのお話では、もう食事を取っても大丈夫な状態まで回復していると、そう教えて頂きましたので。あと、あのお二人のやり取りは普段の交流と何も変わりありませんので、逆に良いリハビリになるでしょう」

「そ、そうです、か……。なら、ふふ、見守っておきますね」

「はい」

 ふかふかの焼きたてパンを一口サイズに千切り、ロゼリアさんは私の口元に運んでくれる。
 それをもぐもぐとしっかり味わっている最中……、私は重大な事に何点か気付いた。
 二口目を差し出してくれたロゼリアさんに断りを入れ、自分の中に意識を集中させる。
 ――ヴァルドナーツさん、ヴァルドナーツさん、聞こえますか?

「……あれ?」

「ユキ姫様?」

「……消え、てる?」

「はい?」

 嘘……。私の中にいたはずのヴァルドナーツさんの魂の気配が、ない。
 災厄の残滓、のようなものは色濃く残っているのに、……あの人の声も、姿も、捉える事が出来ない。
 愕然としながら胸の中心に添えていた右手を落とし、私は不安に逸る鼓動と共に息を乱す。

「ヴァルドナーツさん……っ」

「まさか……、お前の中に、いないのか? あの男が」

「はい……。どこ、にも……」

 一体、いつ、どこで、ヴァルドナーツさんの存在が消えてしまったのか……。
 可能性的には、あの時……。アレクさんの魂を砕かれたと思い込んでしまった私が、意識をなくしてから、今に至るまでの、一週間。
 
「ルディーさん、ロゼリアさん、レイフィード叔父さんを呼んでくれませんか? 早く確かめないと」

 だけど、レイフィード叔父さんは何も言わなかった。
 あれから一週間。何があったのか、とか、ヴァルドナーツさんの事も、何も。
 もしかしたら、私の回復を待ってから伝えるつもりだったのかもしれない。
 私に起こった神性の歪み。その影響でヴァルドナーツさんに何かが起きて、レイフィード叔父さん達が彼の魂を保護してくれた可能性もある。そう、きっとそう、だから……。
 ――だけど、それからすぐに来てくれたレイフィード叔父さんの口から、期待していた答えは得られなかった。
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