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第四章アレク×幸希編~蒼銀の誓いと咲き誇る騎士の花~

騎士とのお出かけ、キャンディの孤独

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 ――Side 幸希


「キャンディ、はぐれないように俺と手を繋いで貰ってもいいだろうか?」

「は、はい……っ」

 何で……、何で、こんな事になっているんだろう。
 私は差し出されたその手におずおずと温もりを重ねていく。
 目の前には、私よりも背の高い銀髪の男性が、その穏やかな蒼の眼差しで私を見下ろしている。
 彼の名前は、アレクディース・アメジスティーさん。
 つい最近、ただの飼い犬でしかなかった私の前に現れ、『迎えに来た』と、他の二人のお連れの人達と一緒に語った人。
 彼らは、この獅貴族(しきぞく)の王国、ゼクレシアウォードから遠く離れた地にある、ウォルヴァンシア王国から遥々『私』を探しにやって来たらしい。
 ウォルヴァンシアの王兄姫、ユキ・ウォルヴァンシア……。
 それが、私の本当の名前であり、あるべき立場なのだと……。
 けれど、私には彼らやその国に関する記憶などはなく、ましてや……、ただの飼い犬でしかなかった私が、本来は人の姿をしているだなんて。
 私の記憶の始まりは、真っ黒な野良犬の身の上だった。
 緑の生い茂る森の中で目を覚まし、それ以前の記憶を持たなかった私。
 生きる為にゴミを漁り、時には人の情を買おうとすり寄った事もある。
 そんな、……孤独を覚える生活の中から私を救い出してくれたのは、今の御主人様。
 この獅貴族を統治している国王陛下の弟である、レオンさん。
 御主人様に拾われた私は、温もりのある寝床と、美味しいご飯、そして、確かな愛情を与えられる生活を手に入れた。飼い犬としての、幸せな日常。
 それを、アレクさん達は終わりを告げるかのように、私の前へと現れた。
 真っ黒な子犬の姿から、一夜にして私を『黒髪の少女』へと変えてしまった人達。
 今のこの『人の姿』が、私の本当の姿なのだと……、現実を突きつけるかのように。
 人であった頃の記憶は戻らないまま、アレクさん達は私に記憶を取り戻すまでの時間と、現実を受け入れる為の心の余裕を与える為に、数日の間目の前に現れる事はなかった。
 けれど、今……、私の前には、彼がいる。
 私と御主人様が暮らしている王都と、国中で始まった盛大なお祭り。
 昨日の初日は、御主人様と、その姪であり私の友達でもある獅貴族のお姫様、レアンティーヌと一緒にまわったのだけど、二日目の今日、アレクディースさんが家までお誘いにきた。
 最初は私の事を『ユキ』と呼んでいたのに、今は記憶のない私を気遣ってか、飼い犬になった時に名づけられた『キャンディ』という音で呼んでくれている。
 よく知らない人とお祭りに行くのはちょっと……、そう戸惑う私の背を押してくれたのは御主人様だった。アレクさんに危険はない、優しくエスコートをしてくれるから、と。
 
「俺の事が……、怖いか?」

「あ、い、いえ……っ。そうじゃないんです、けど」
 
 御主人様とレアンの時とは違う……、『私』を知るその優しい蒼の眼差しに見つめられると、どうにも落ち着かなくて、失礼だと思いつつも、私はアレクさんから視線を逸らしてしまう。
 今から一緒に王都の賑わいの中に行くというのに、本当に私は大丈夫なのだろうか。
 それに、御主人様以外の男性と手を繋ぐという行為は、何だか別の意味でドキドキしてしまい、私の中からどんどん平常心を奪っていく。

「あ、あの……、アレク、さん」

「ん?」

「きょ、今日は……、お連れのお二人、は」

 臆病になっている私の手をしっかりと握ったアレクさんと共に歩き出した私は、王都の中心地に向かう道の地面に視線を落としながら、姿の見えないカインさんとルイヴェルさんの事について尋ねてみた。何故、アレクさんが一人で私を誘いに来たのか、後で合流する予定はあるのか、色々な事が気になってしまう。
 私の歩みに合わせてゆっくりと道を進むアレクさんが、一瞬だけ間をおいて口を開く。

「ルイの方は用事があって今日はいないんだ。もう一人の方は……、まぁ、気にしないでもいい」

 まぁ、って何? 一瞬だけアレクさんの顔に不穏な気配が滲んだ気がした私は、果たしてカインさんは無事なのだろうかと、微かな恐怖に震えてしまった。
 そういえば、私には今のように気遣いや優しさを見せてくれるアレクさんだけど、カインさんと一緒の時は口喧嘩をしていたような気が……。もしかしなくても、仲が悪いのだろうか。

「それよりも、何か見たいものがあれば、遠慮なく言ってくれ。キャンディが楽しめるように、最大限の配慮をさせて貰うつもりだ」

「あ、ありがとうございます……。えっと、あ、アレクさんも、何か見たいお店があったら、言ってください。一緒に楽しめるように、私も、その……、が、頑張りますからっ」

 空いている右手をぎゅっとぐーの形に握り締めてそう応えると、アレクさんが楽しそうにくすりと笑うのが見えた。私と繋いでいる手を少しだけ持ち上げると、その笑みがますます深まっていく。
 
「気を楽にしてくれ……、というのは、お前には無理な話かもしれないな。だが、どうか安心してくれないか? 俺は、お前をキャンディとして扱うつもりだ。無理に本来の記憶を押し付けるような真似はしない」

「アレクさん……」

 気付いているのだろうか……。
 ウォルヴァンシアから、私を迎えに来たというアレクさん達をいまだに警戒し、心の片隅で……、気を抜いたら御主人様の許から引き離されてしまうかもしれないという、本能的な危惧を抱いている事を。アレクさん達は、私が記憶を取り戻すまでは、絶対に強引な真似はしないと約束してくれた。けれど、それをどこまで信用していいのか、私が戸惑っている事を。

「俺は常に、お前の意思を尊重する……。だから、俺ともう一度、新しい関係を築いてはくれないだろうか? ただのアレクと、キャンディの関係を」

「は、はい……」

 この人は本当に、どこまでも優しい想いに溢れている。
 私が、彼の求める『私』でなくても、今の私を否定せず、受け入れようと正面から向き合ってくれている……。本当は、『私』の記憶を持たない私に拒絶され、忘れられた存在である事に辛さを感じているはずなのに。

(私……、自分の事ばっかりで、アレクさん達の事をちゃんと考えてなかった)

 彼らは、『ユキ』という存在を求め、この王国へとやって来た。
 きっとアレクさん達にとって、『ユキ』という少女は、とても大切な存在だったのだろう。
 御主人様の家に尋ねて来た時、私をその名で呼んだ彼らの眼差しには、『ユキ』を愛しく大切に想う温かな気配が感じられたから……。
 だけど、今の私は『ユキ』じゃない。ううん、今でも、私が彼女かどうかは疑わしく思えている。
 記憶がないという事も要因のひとつだけれど、それよりも……、御主人様に拾われ幸せな日常を送る『キャンディ』としての自分を否定したくない、失いたくないという思いが強い。
 だから、私は『キャンディ』という存在である事を願っているし、『ユキ』ではない事実をほしがってもいる。だけど……。

「キャンディ、まずはどこに行こうか? 軽い食事をしてもいいし、祭りの催し物を見に行くのもいいな」

「あの……」

「どうした?」

「あ、アレクさんにとって……、『ユキ』という人は、ど、どんな存在、なんでしょうか」

 何故そんな事を聞いてしまったのか……。
 彼女の事を知れば、胸の奥で騒ぐ何かがより一層大きくなってしまうかもしれないのに。
 それでも、私は彼の手の温もりを感じながら、言葉を重ねてしまう。

「も、勿論、まだ私の事じゃないって、そう……、思ってますけど、い、一応、聞いておきたくて」

「……気分を害するかもしれない。それでも、いいのか?」

 キャンディである事に拘る今の私を気遣ってくれているのだろう。
 『ユキ』の事を話して、私を不安がらせてしまう事を躊躇っているアレクさんに、私は大丈夫ですと頷きを返す。まだ祭りの賑わいに身を任せるには時間がある。話の種として聞く事にしよう。
 アレクさんは少しだけ頭上に広がる青空に蒼の視線を委ねると、静かに言葉を紡ぎ始めた。

「王弟殿下の家でも説明させて貰ったが、ユキは……、ウォルヴァンシアの王兄姫だ。だが、純粋な狼王族(ろうおうぞく)ではなく、――異世界で暮らしていた過去を持つ」

「異世界……、ですか?」

「あぁ。このエリュセードとは別の世界で生きていた女性と、ウォルヴァンシアの王兄殿下との間に生まれた存在。それがユキだ」

 別の世界……。それを聞いた瞬間、胸の奥で何かがまた騒いだ気がした。
 『ユキ』という少女は、二つの世界の血を継ぐ存在で……、ずっと向こうの世界で暮らしていたけれど、身体の異常が発生した事により、この世界に帰還したそうだ。
 このエリュセードであれば、身体の不調に悩まされる事はなく、穏やかに暮らせるから……。
 『ユキ』は、幼い頃の記憶を封じられた状態で、見知らぬ世界同然の場所で新しい生活を送り始め、アレクさん達と出会い、関係を築いていったらしい。
 
「この世界に戻って来た時のユキは、突然の生活の変化と、故郷と別れを告げた事が原因で……、毎夜悪夢に魘されていた。だが、彼女はそれを乗り越え、俺達を受け入れ始めてくれたんだ」

「そう……、なんです、か」

 ほんの少しだけ、『ユキ』と今の自分の存在が重なるような気がした。
 自分の足で生きてきた世界と別れを告げるのは、きっと涙が出る程に……、胸が痛んだ事だろう。
 私も、御主人様とレアンのいるこの国から引き離されてしまったら、とても、辛い。
 優しい想い出と、結んだ絆を……、手離す事なんて、絶対に考えられないから。
 
「『ユキ』にとっては、元の世界での生活から引き離される事は、きっと不幸な事だったと思う。俺にとっては……、彼女と巡り会えた『幸運』は、何物にも代え難いものだったが」

「アレクさん……」

「彼女は……、いつも、笑っていたんだ。誰かを悲しませないように、傷つけないように、元の世界に残してきた想いを抱えながら、……俺達の事を気遣いながら生きているような存在で」

 どんなに割り切ろうとしても、『ユキ』が諦めざるをえなかった『幸せ』は、まだその胸の奥にある……。けれど、それを口に出してしまえば、ウォルヴァンシアで育んだ絆を否定する事になる。
 だから、『ユキ』はこの世界に慣れようと、元の世界を振り切るように生きていた。
 そう、寂しげに語るアレクさんを見ていると、どうしようもなく……、胸が軋むような鈍い痛みを覚えてしまって。私の事じゃない、きっと別の誰かの事。
 そう信じたいのに、私の一番奥で……、『誰か』が声を上げて泣いているように感じられる。

「俺と同じで……、真面目過ぎるのが心配なところだが、『ユキ』は、頑張り屋で、頑固なところもあって……、彼女と過ごす日々は、俺にとって」

 そうアレクさんが、過ぎ去った幸せを噛み締めるかのように言葉を続けていると、丁度お祭りの入り口に辿り着いてしまった。
 私の知らない、『ユキ』という少女の記憶……。それを追い求めているはずのアレクさんは、彼女の存在を言葉から掻き消すと、また私の事を『キャンディ』と優しく呼んだ。
 本当は、今すぐにでも『ユキ』を取り戻したいと願っているはずの、心優しい人。
 それでも貴方は……、自分の心よりも、今の私を気遣ってくれるの?
 
「キャンディ、俺の手を離さないようにな?」

「は、はいっ」

 ゼクレシアウォードの大通りに広がる、いつもよりもさらに多い人々の波。
 道の左右には、昨日と同じように多くの出店がずらりと並んでいる。
 雲一つない晴れやかな空の下、降り注ぐカラッとした不快感のない強い日差しを受けながら、私はアレクさんと手を繋ぎながら石畳の上を歩いていく。
 昨日と同じ光景なのに、アレクさんの温もりを感じながら歩く度に感じるこの胸の鼓動は何だろう。男性と二人で歩く事が気恥ずかしいの? それとも、御主人様と一緒じゃないから不安なの?
 違う……、胸の奥でトクトクと高鳴るこの鼓動は、アレクさんとの時間を、――喜んでいる。
 それは私が感じている事なのか、それとも……。

(『ユキ』……、私が忘れている、『私』の心が感じている事なのか)
 
 出店のひとつに近づいたアレクさんが、可愛らしい装飾品の並ぶお店の品を指さして、そっと私に微笑む。私の事を『ユキ』と呼びたいのに、呼べない……、ううん、呼ばない、温かな人。
 彼は売り物のひとつを手にとると、私の黒い髪に薄桃色の髪飾りを近づけてきた。

「キャンディは、どんな模様や細工の物が好みだ?」

「え……、えっと、お、お花の模様や、可愛い印象のものが、好き、です」

「そうか。なら、この髪飾りは丁度良いかもしれないな」

 持っていた薄桃色の、愛らしい小さな花模様の細工がされた髪飾りを見せると、アレクさんはそれを私の手に乗せ、また別の装飾品を眺め始めた。
 ひとつ気に入った物を手に取っては、腕輪や指輪などの装飾品を合わせてくる。
 アレクさんの楽しそうな顔を見ていると、私の心も、その感情と共鳴し合うかのように弾んでいく。御主人様とは違う、『ユキ』を求めながらも、今の私を楽しませようとしてくれる人。
 心の奥で尖っていた警戒心が、彼の思い遣りに溶けていく気がする……。
 
「お嬢ちゃん、男性用の装飾品もあるけど、そっちのお兄さんにどうだい?」

「男性用?」

 店主の女性から勧められたのは、数多く並ぶ女性用の装飾品の横で控えめな輝きを宿す男性用の装飾品達だった。女性用は派手だったり可愛い物が多いけれど、男性用はデザインがシンプルな物が多い。だけど、決して地味ではなく、しっかりと男性の力強さや揺らがない存在感を表しているかのような品々。
 
「アレクさん、どんな装飾品が好きですか?」

「キャンディ?」

「御主人様は色々と装飾品を着けたりする事が好きなんですけど、ネックレスとか、ピアスとか、アレクさんは平気ですか?」

 試しに、アレクさんの綺麗な蒼の瞳と同じ色合いの宝石があしらわれた十字のデザインに似たネックレスを手に取ってみた私は、それをアレクさんの胸元にあててみた。
 彼は派手な装飾品よりも、その美しさをさらに惹き立てる為の静かな印象の物が似合う気がする。

「キャンディ……、俺よりも、お前の身を飾る物を選ぶ方が楽しいと思うんだが」

「嫌ですか?」

「いや……、そういうわけじゃないんだ。ただ……、お前が俺の物を選んでくれていると思うと、いや、何でもない」

 アレクさんは少し戸惑っているような気配と共に、その頬にほんのりとした薄桃色の気配を宿し、横を向いて俯いてしまった。……照れているのだろうか?
 
「ふふふふ……、お嬢ちゃんとお兄さん、もしかして付き合い始めたばかりかい? いいね~、お互いに反応が初々しくて、こっちまで恥ずかしくなっちまうよ」

「えぇっ!? ち、違います!! つ、付き合ったりなんかしてませんっ」

 と、全力で店主の女性に訂正をいれると、俯いていたアレクさんが一瞬で悲しそうな表情へと沈んでしまった。気のせいかな……っ、アレクさんの頭に寂しそうに項垂れた犬耳が見えた気がする。
 だけど、付き合っていない事は事実なわけで、私が口に出来るのは否定の言葉だけだ。
 それに、アレクさんほど凛々しく美形な男性だったら、すでに恋人がいてもおかしくない。
 むしろ、いない方が色々とおかしいはずだ、うん。

「おやまぁまぁ……、お兄さん、色々大変みたいだねぇ」

「気遣わないでくれ、余計悲しくなる……」

「ははっ、そうかい!! じゃあ、そんな切ないお兄さんに、良い物を勧めてあげようかねぇ」

 店主の女性が面白そうに笑い声を上げると、その背後に置いてある商品箱の中から、縦に細長いジュエルケースを取り出してきた。
 それを私達の前に差出し、中身を開いて見せる。
 銀のチェーンと共に作られた、同じデザインではあるけれど、色違いの綺麗なネックレスだ。
 多分、ピンク色の小さな宝石があしらわれている方が女性用で、青色の方が男性用だろう。
 というよりもこれは……、もしかしなくても、ペアルック仕様?
 店主の女性がちょいちょいとアレクさんを自分の傍にその顔を招きよせ、こしょこしょと何かを耳元に囁いている。真顔だったアレクさんの目が、カッ! と、何か衝撃を受けたように見開かれた。な、何を囁かれているんだろう……。

「店主、これを貰おう」

「毎度あり!!」

 恋人同士仕様のペアのネックレス。もしかして……、誰か特別な女性に贈るのだろうか。
 二人のお会計のやりとりを眺めていた私は、何だか面白くない気持ちでいっぱいになってしまう。
 アレクさんにはきっと特別な人がいる。そう、さっき自分で思ったはずなのに……。
 目の前でペアのネックレスを購入したアレクさんは、とても嬉しそうで……、何の関係もないはずなのに、寂しく感じてしまうのは何故なんだろう。
 また店主の女性から耳打ちで説明を受けているアレクさんの姿から視線を逸らした私は、離れている手の温もりが冷めている事に気付くと、無意識に別の場所へと向かって大通りの人波の中へと歩き出してしまっていた。
 あのネックレスの片方を受け取る女性は、きっと幸せになれるに違いない。
 あんなにも心優しい人に想われる女性だから、きっと……、素敵な人。
 それは一体誰なんだろうと、心に薄暗い淀みを抱えながら歩いていると、我に返った時はすでに遅く、私は人混みの中で一人ぼっちになっていた。

「あれ……」

 大勢の人々は笑顔を浮かべ、それぞれにこのお祭りを楽しんでいる。
 以前の子犬の姿であったなら、踏み潰されていてもおかしくはないこの賑わい。
 だけど、たとえ人の姿であっても……、アレクさんから離れてしまった事で、私は精神的に一人ぼっちになってしまっていた。
 知ってる人が誰もいない。聞こえる笑い声にさえ、寂しさを感じてしまう。
 早く、早く……、アレクさんの許に戻らないとっ。
 そう思って人波を掻き分けながら道を進んでみるけれど、この状況では、アレクさんと一緒にいたお店の方向もわからない。

「アレク……、さんっ」

 自分から一人になっておいて、何を勝手な事を言っているんだろう。
 まだ一人で出歩く事に慣れていない私は、どんどん寂しくなってしまい、アレクさんの姿を追い求めて涙を零してしまう。
 
「ユキ!!」

「えっ、きゃあっ!!」

 涙で前が見えなくなり、危うく地面に転びそうになってしまった私の身体を、誰かの温もりが掬い上げるように、その力強い腕で持ち上げた。
 まるで重さなど微塵も感じていないように……、アレクさんの焦ったような表情が、持ち上げている私を見上げている。驚きに目を瞬いた私は、声も発せずに彼の視線を受け止め続けた。

「はぁ……、頼むから急に消えないでくれ。心臓が止まるかと思った」

「あ、アレク……、さん。どうして」

「どうしても何もない。俺が店主の説明を受けている間に消えてしまったから、急いで探しに来たんだ。キャンディ……、俺は何か、お前の気を悪くするような事をしてしまっただろうか?」

 勝手にいなくなったのに、どうしてこの人は無条件に私を許せるんだろう……。
 それどころか、自分の方に責任があるというような顔で、申し訳なさそうに私を地面へとおろしてくれた。何も悪くないのに……、どうして、私を許せるの?
 それに、さっき転びそうになった私を助けてくれた時、『ユキ』と、確かに叫んだ。
 そっか……、この人が助けたのは、気遣っているのは、やっぱり、『キャンディ』じゃなくて。

「ごめんなさい……」

 地面に足を着いた私は、自分の中でドロドロと淀む暗い感情を持て余しながら頭(こうべ)垂れた。駄目だなぁ……、わかってたのに、どんなに今の私を気遣ってくれていても、アレクさん達が求めているのは私じゃない。『キャンディ』じゃない。――『ユキ』だけだ。
 それが何だか悲しくて、今の自分は本物じゃないと否定されているかのようで、胸の奥が……、苦しい。

「キャンディ?」

「ははっ、いけませんね……。ちょっとお祭りの雰囲気に酔ってしまって、気が付いたら人混みの中に来ちゃってました。ごめんなさい、アレクさん」

「いや……、それはいいんだが、キャンディ……、大丈夫か?」

 アレクさんだって辛いのだ……。必死に求めている『ユキ』がこの場所にいなくて、代わりにいるのは、『キャンディ』としての私で……。
 心優しいアレクさんに応えられない『キャンディ』と、もしかしたら、自分の中に隠れている『ユキ』の存在に怯えながら、罪悪感と苛立ちを覚えてしまう自分。
 御主人様とレアンからは、何があっても結んだ絆は消えないと言われたけれど、『ユキ』と呼ばれる度に、『キャンディ』としての自分が消えていく気がして……。
 それを誤魔化すために笑った私は、少し食事がしたいとお願いして、アレクさんの手を繋ぎ直した。このまま、本当にお祭りの賑わいに酔ってしまえばいい。
 そうすれば、楽しい想い出だけが自分の中に残る。御主人様にもお土産話が出来る。
 『ユキ』じゃなくて、『キャンディ』としての想い出が……。

「私、この前まで犬だったので、お肉が食べたくなるんですよね!! 歩きながら食べられるの売ってませんかね~」

「キャンディ……」

「んっ、……アレク、さん?」

 歩き出そうとした私を引き留めるかのように、アレクさんはその場を動かなかった。
 私の手を強く握り締め、別の方向に視線を向けると、私をどこかへと連れて行き始めた。
 人波を器用に通り抜け、建物が並んでいる隙間にある狭い路地へと潜り込む。
 賑わいから逃れるように私を路地の中に押し込むと、アレクさんは予告もなく、そっと労わるように、私の身体を抱き締めてきた。

「あ、アレクさん……?」

「すまない……。お前の不安をわかっているつもりだったのに、不安がらせるような事をしてしまった」

「な、何がですか? 勝手に迷子になったのは私ですし……、アレクさんは何もっ」

「俺がさっき、『ユキ』と呼んでしまった事で、お前の心を乱してしまった」

 本当に……、何故この人が謝るのだろうか。
 『ユキ』の存在が、アレクさん達にとって大切なものだという事はわかっている。
 そう、私が、『キャンディ』が『ユキ』の存在を受け入れられず、勝手に拗ねているだけ……。
 それなのに、私が『ユキ』かもしれないというだけで優しくしてくれるこの人の温もりは、罪悪感を覚えるのと同時に、私を追い詰めるものでもあった。
 私は、『キャンディ』でいたい……。だから、もう優しくしないでほしい。

「気にしないでください。『ユキ』……、さん、は、アレクさん達の大切な人なんでしょう? 彼女に『似ている』私のせいで、色々と大変なんだと思いますし」

「ユ……、キャンディ?」

「大変ですよね……。遠方の国からわざわざお姫様を探しに来るなんて。だけど、アレクさんが話してくれた『ユキ』さんは、やっぱり私じゃないと思うんです……。だって」

 ――あまりにも違い過ぎる。
 彼の話してくれた『ユキ』は、辛い事も全て飲み込んで、前を向いている子だ。
 それなのに、私は今の幸せを手離したくなくて……、逃げる事ばかりを考えている。
 胸の奥で騒ぐ何かに怯え、『キャンディ』として受け入れて貰えない事に不満を抱くばかり。
 御主人様とレアンさえいればそれでいい。
 それなのに……、ただ優しくされただけで、それが『キャンディ』への愛情だと錯覚してしまう自分。そんな自分が……、嫌で嫌で、堪らない。

「きっと、いつまで待っても記憶なんて戻りません。いいえ、最初からそんなものはないんです。私は、御主人様に飼われている、ただの子犬。この姿も、何かの間違いか、魔法みたいな、何かで……」

 私の中で、『ユキ』と『キャンディ』が互いの存在を塗り潰そうとせめぎ合う。
 このままアレクさん達と関わる事が多くなれば、いずれ勝つのは……。
 
「私は……、キャンディです。ずっと、このまま……、御主人様の許で、幸せに」

 だから、早くこの国を出て行ってほしい。
 御主人様が大丈夫だからと背中を押してくれたけれど、一緒に出掛けるのは間違いだったのだ。
 アレクさんの傍は、その人柄は、心地よい安心感も覚えるけれど……、一緒にいると、何かが壊れそうな不安に襲われてしまう。
 少し時間を共にしただけでこれだ。このまま一緒にいるのは、キャンディにとって危険だと思える。

「キャンディ……、怖がらないでくれ」

「何も、……怖がってなんか、いません」

 身じろぎをしてアレクさんの温もりから逃げようとしても、その優しい檻は頑固だった。
 私の臆病な心を慰めるかのように、その大きな手のひらが私の背中をそっと何度も撫で下ろす。
 
「今のお前は……、キャンディだ。獅貴族の王弟殿下に愛される、ただの子犬。姿は変わってしまったが、俺達はお前からその幸せを取り上げたりはしない」

「私は……」

「大丈夫だ……。キャンディは消えない。そして、俺達も、キャンディを否定したりはしない」

 それでも、アレクさん達の存在は『キャンディ』を壊そうとしてくるのだ。
 優しい言葉で、抱擁で、今の私を別の何かへと変えていく……。
 何を言われても、それは『ユキ』の為にある心だと、そう傷ついてしまう私がいる。

「ごめんなさい……。私は、やっぱりっ」

「キャンディ……」

「こらああああああ!! キャンディに何してるんだよ!! このムッツリ狼!!」

 一体どこから声が……、よく聞き知ったその凛とした力強い少女の声に頭上を仰ぐと、まさかのレアンティーヌが建物の上から路地へと飛び降りてくるところだった。
 地面に着地するのと同時に、アレクさんの背中に蹴りを入れ、意表を突いた所で私の手を引いて走り出す。もしかしなくても、色々と多大な誤解を与えているのかもしれない。
 追ってくる声はなく、私は息を切らしながらレアンと一緒に大通りの賑わいの中を走り続ける。

「大丈夫だったかい!? キャンディ!!」

「う、うん……。だけど、レアン、違うの。アレクさんはね」

「まったく、キャンディが大人しい子だからって、何してくれてんだって話だよね!! 真面目そうな顔して、本当はムッツリだったんだよ!!」

「いや、そうじゃなくて……」

 駄目だ。完全にアレクさんの事を誤解している。
 憤慨しまくっているレアンと一緒に王宮の方まで逃げてくると、ようやくその足が止まった。
 レアンは全然息切れをしていないけれど、私は急に走ったせいで呼吸が途切れがちになっている。
 門番の人達がいる城門を越え、その陰に座り込む。

「舞の練習が終わったから、キャンディと遊ぼうと思って師匠の家に行ったんだけどさ~。あの騎士がキャンディを連れ出したって聞いて、ちょっと追いかけてきたんだ」

「そ、そうだったの……」

「やっぱりさ!! あの騎士もキャンディに気があるんだよ!! あんな路地になんか連れ込んで、アタシと師匠の許しもなく、キャンディの唇を奪おうとするなんて、最低だ!!」

 奪われそうになった覚えがないのだけど……。
 訂正しようとしても、呼吸を整えるのが先だった私は、お怒り中のレアンが吠える姿だけを眺め続けた。完全にアレクさんが痴漢的な存在として認識されてしまっている。
 だけど、あの場から連れ出してくれて、助かった……。
 あれ以上アレクさんと一緒にいたら、距離をとる為に酷い事を言いかねなかったから……。
 
「暫くこの王宮内にいようよ。あ、そうだ!! キャンディにだけ、特別に良い物を見せてあげるよ!! 行こう!!」

「え? あっ、レアン!!」

 町に出れば、アレクさんに見つかってしまうかもしれない。
 それを危惧したレアンは、私を守る為と言いながら、何だかとてもわくわくとした顔で、私の手を引いて王宮内へと向かい始めるのだった。良い物って……、何?
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