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1巻
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第一話 魅惑のもふもふと気になる匂い
1
(疲れた……)
夜七時過ぎの電車は混んでいる。それに、乗客一人一人の疲労濃度がぐっと高まっているからか、車内の空気もなんとなく重い気がする。
運良く座れた千登世は、けれど限られたスペースにきゅっと身を縮めている状態に、更に疲労を募らせていた。だんだん筋肉が強張ってきている。
(最近、体力の低下をひしひしと感じる……)
毎日、家と会社を往復するだけで終わってしまう。アクティブな趣味は持ち合わせていないし、健康意識もそう高くないので、ジムもヨガもウォーキングも、運動の類いは何もしていなかった。
休日は身体を休めるために、のんびりしたい派だ。
(でも、そろそろ……)
二十代も半ばを過ぎた今、身体に無理が利かなくなってきていることには気付いている。ここらで一念発起して少し生活意識を変えないと、この先どんどん辛くなるのではないか。
そうは思うけれど、やはり気乗りはしなくて、千登世はそっと息を吐いた。
運動が大切なのは分かる。でも疲れた身体で考えてもやる気が出るわけがない。
それよりも、今必要なのは癒しだ。
(柔らかくて、もふもふして、あったかいものに包まりたい)
ついでに言うと、美味しくてじゅわっと身体に沁みるものも食べたい。
ガタン! と電車が一つ大きく揺れた。右隣の男性と肩がぶつかって、どちらともなく小さく頭を下げる。
あと三駅と停車駅を数えながら、千登世の心だけはもう自宅に帰り着いていた。
『まもなく――』
目的地に到着するとアナウンスが流れた瞬間、反射で座席から腰が浮く。
『右側の扉が開きます』
ぷしゅーっと空気の抜ける音。車内に外気が入ってくる代わりに、人が沢山外に吐き出されていく。千登世も人の間を縫って、駅のホームに降り立った。
それと同時にカバンの中の微かな振動に気付く。
「ん?」
スマホを取り出すと、新着メッセージが届いていた。
『今日はお鍋やよ、はよ帰っておいで』
文面を見ただけで心が躍る。
あったかくて、じゅわっと沁みるものがお家で待っている。なんたる贅沢!
「最近ちょっと冷えてきたもんね、お鍋嬉しい~」
さっきまでずっしりと身体に蓄積していた疲労が、いくらか霧散した。我ながら現金なものだと思いつつも、足取りが軽くなる。
十月半ばの空気は、夜になると日中とは違いひんやりと冷たさを孕む。
けれどその冷たさも、お鍋のあったかさを引き立てるには丁度いい。
「何鍋だろ」
嬉しくなって、千登世は早足でするりと改札を抜けた。
駅のロータリーを出て、大通りを道なりに歩いて数分。そこから一本内側の道へ入る。狭くなった道幅の左右にはこぢんまりとした雑居ビルやアパートが多く、もう少し進むと、和風の一軒家が多く目につくようになってくる。
そんな並びの中、千登世は更に民家と民家の間の細い道へ入っていった。車が通れる幅はあるけれど、大きなトラックなんかは絶対無理な道幅だ。
その細い道の途中にあるのが、千登世の帰るべき場所である。
石造りの塀に囲まれた純和風の住宅。
「ただいまー」
敷地の外から三歩あれば辿り着く玄関の鍵を回して、左側の引き戸を引きながら千登世は家の奥へ呼びかけた。
数秒しないうちに、パタパタと板張りの廊下を軽く駆ける音と共に、彼が顔を覗かせる。
垂れ目がちなこともあって、全体的に柔和な印象の顔立ち。少しクセのあるふんわりした髪はパッと見は薄茶色だが、襟足や内側の辺りは濃い茶でグラデーションのようになっていた。そして千登世をすっぽり包み込めるほど大きな身体は、現代の装いとしては珍しい羽織と着物を纏っている。
「おかえり、とせちゃん」
帰宅を労う言葉には、西の方の訛りがあった。本人の気質・性格が滲み出ていてそう感じるのかもしれないが、千登世は彼の柔らかく親しみのある話し方がとりわけ好きだ。それから、もう一つ。
〝とせちゃん〟
この呼ばれ方も、千登世はすごく好きだ。千登世のことをそう呼ぶのは彼だけだから、一層特別に思える。
永之丞というなかなか古風な名前の彼は、何を隠そう千登世の旦那さんである。しかも籍を入れたのは春のことだから、まだ結婚半年の新婚ほやほやだ。
「お疲れさん。ごはんもう準備できてるよ」
「ありがと。お鍋楽しみ」
「最近寒なってきたから、ええかなって」
在宅仕事の彼は、よほど仕事が詰まっていない限り平日はほぼ食事の準備をしてくれる。こんなありがたいことってないよなぁと感謝の気持ちを抱きながら、千登世はパンプスを脱いで上がり框を上がった。
「……とせちゃん、今日は仕事忙しかったん? 顔がちょっと疲れてる」
永之丞が不意に千登世の頬を手の甲で優しくこする。顔を寄せられ、そろそろメイクがヤバい感じになっているかもしれないと千登世は焦った。今日は忙しくて、一度も手直しする暇がなかったのだ。リップは落ちにくいものを使っているけれど、さすがにもうほとんど取れているだろう。
「えぇ~、そう? 今夜はお鍋って聞いて、大分回復したんだけどな」
「まだ食べてへんのに、それは気ぃが早いな」
千登世の食いしん坊な発言に小さく笑う永之丞に、メイクが崩れた顔を気にした様子はない。けれど、千登世としては気になって仕方がなかった。
一応、新妻である。できれば旦那さんには常に可愛いと思っていてもらいたいのが女心というもの。いや、既に結構ずぼらなところを見せてしまっている自覚はあったが、それはそれだ。
「お鍋食べたら回復するん?」
訊かれて、千登世は頷いた。
「もちろん。元気と栄養がチャージされますよ」
「……ほんまにそれだけで足りるん?」
けれど永之丞は意味ありげに重ねて確認してくる。
お腹が満たされれば、心もそれに伴って満たされるのは間違いない。でも。
(そうだ。柔らかくて、もふもふしてて、あったかいものに包まりたいって思ってたんだった)
「う~ん、どうかな~」
お鍋は魅力的だけど、実はそれに負けないくらい魅力的なものが他にもあるのだ。
千登世はその魅力的なものを、永之丞と恋仲になり、更にはこうして夫婦になったことで特別に堪能する権利を得たのだった。
「とせちゃん、もふもふしたいんやろ?」
「――したいです」
誘うように言われれば、するりと素直な気持ちが口から零れ出る。
「ははっ、そんじゃまぁ、ごはん前やから軽くだけな。ほら」
彼がそう言ったと思ったら――
「あぁ、もふもふ~!」
千登世の前に、ぼふんと大きな大きなふっかふかの茶色い尻尾が差し出された。
尻尾。そう、大きな尻尾だ。
抱き枕にできるくらい大きなそれは永之丞の背後から唐突に現れて、千登世をめろめろにしてしまう。
「とせちゃんは、ほんま俺の尻尾が好きやなぁ」
「ふふっ」
千登世が満面の笑みを浮かべながら尻尾から顔を上げると、彼の頭には先ほどまではなかった半月状のけもみみがちょこんとついていた。
尻尾とお揃いの茶色の愛らしいけもみみ。
よく見るとけもみみはぴくぴく小刻みに動き、尻尾もゆらゆらと絶えず揺れている。
つまり、どういうことかと言うと。
コスプレでもなければ早着替えでもない。耳も尻尾も本物なのだ。
千登世が半年前に結婚した彼は、人間ではないのである。
ふかふかの尻尾と可愛いけもみみを持ち、それを自由自在に出し入れできてしまう彼は――そう、所謂〝あやかし〟という存在なのであった。
「んっは~、もふもふ、最高、癒される~」
疲れた心と身体にもふもふは効く。もうてきめんに効く。
千登世は玄関で茶色の尻尾に顔を突っ込み、その癒しの触り心地を思う存分堪能した。
「たぬきの尻尾ってこんなにふかふかだったんだね。丞くんに会うまで知らなかったよ……」
ふわふわ、もふもふ、柔らかさも密度も絶妙。しかも永之丞の方からも押し付けてくれるので、こう、適度な反発力がとてもいい。そこらの低反発枕なんて目じゃない。
「うむ、魅惑の触り心地。たぬたぬヒーリング、効果がすごい、最高」
「たぬたぬて……とせちゃんはほんま尻尾好きやなぁ。自分の尻尾やのに嫉妬してまいそうやわ」
そうは言うけれど、彼は尻尾を触られるのが嫌いじゃないはずだ。もふもふすると永之丞の耳がそれに合わせて嬉しそうにぴょこぴょこ動くことを、千登世はちゃんと知っている。
「たまにとせちゃん、俺の尻尾と結婚したんやないんかって疑ってまうわ」
「んー、そうだなぁ、尻尾のついた丞くんと結婚したんだなぁ」
「それはどっちが主体なん? 尻尾? 俺?」
「難解な質問をしなさる……」
顔面をもふもふランドにダイブさせたまま呟くと、永之丞の声色が変わった。
「え、そこは丞くん一択やないん? 冗談のつもりやったのにまさかの返し……」
「堪能中は正気を失っているので。尻尾の魅力にめろめろなので」
「あんま尻尾ばかりに余所見するんやったら、禁止にしてまうで」
「そんなご無体な!」
なんてやりとりはするけれど、永之丞が癒しの塊を引っ込めることはなかった。なんだかんだで、彼は千登世の癒しを優先してくれる。
「とせちゃん、そろそろ」
どれくらいそうしていただろうか。
永之丞が遠慮がちにそう声をかけてきて、千登世は名残惜しさを感じながらも尻尾から顔を離す。あと二分、いや一分延長させてもらえないだろうかと彼を見上げると、永之丞はちらりと廊下の奥を気にするように振り返った。
「お鍋の具材が全部くたってしまう」
火にかけたままなのだ、とその発言で気付く。
それはいけない、と思った途端、千登世の素直すぎるお腹がくうと鳴き声を上げた。
「っ!」
「くはっ」
永之丞に笑われるが、これは笑われても仕方がないと思う。現金すぎる反応だ。
「ごはんにしよ、手ぇ洗っておいで」
「……うん、そうする」
千登世は恥ずかしさを誤魔化すように、永之丞の脇を抜け洗面所へ駆け込んだ。
「鶏ももとネギと、しらたきも好きやんね?」
「うん」
手洗いうがいを済ませて千登世が居間に行くと、部屋の真ん中に置いた座卓の上には、カセットコンロの上で温かく湯気を放つ鍋が待ち構えていた。部屋中に幸せな匂いが満ちている。味噌と生姜の、優しくも食欲をそそる匂いだ。知らず知らずのうちに、千登世の口腔に唾液が分泌される。
「はい、とせちゃん」
「ありがと」
渡された器にさっそく鍋の中身をよそいながら、千登世は夫の姿をちらっと盗み見た。
夫がたぬき。いや、たぬきのあやかし。
もちろん、千登世も最初からその事実を受け入れられたわけじゃない。
最初に永之丞の正体を知った時は、いや、喋るたぬきを目にした時は、自分の正気を疑った。
だってあやかしなんて物語の中だけの架空の存在だ。現実に、しかもこんな身近に存在しているわけがない。
けれども、実際にこうして目の前にたゆんと揺れる大きな尻尾がある。その尻尾は今はもう千登世の大のお気に入りであるし、すっかり見慣れた存在だ。
しかしこれが、世間一般に〝よく見かける光景〟として認知されていないのも、また事実。
あやかしはスポットライトの当たる存在ではない。少なくとも、人間界においては。
だがひそやかに、けれど意外にもあちこちに溶け込んで存在しているらしい。
『お国はちゃんとあやかしの存在を認知してるんよ。だから必要に応じて戸籍も用意されるし、健康保険証もマイナンバーもある』
知り合ってしばらくしてからそう聞いた時には、本当に驚いた。ただ存在を認知されているだけでなく、公的な整備もされているそうだ。なので人間界で働いていると、しっかり税金も徴収されるらしい。けれど一方できちんと納税している分、あやかしが人間社会で生きていくのに必要なサポートも受けられると言う。
『戸籍があるから、とせちゃんともきちんと籍を入れて結婚できたわけやし』
それはその通りだった。彼はすっかり人間の姿にも化けてしまえるから、千登世は何食わぬ顔で家族に永之丞を紹介できたし、ちっとも怪しまれずに済んだ。
種族は違うけれど、お互いを受け入れてしまえば、結婚に対するハードルはほとんどなかったのだ。
永之丞の家族も人間の嫁を迎えることへの反発はなく、むしろ大歓迎といった様子だった。
「とせちゃん、お箸止まってるけどどうかしたん?」
最初の一口で動きが止まっていた千登世の顔を、永之丞が覗き込んでくる。
「いや、不思議なこともあるもんだなぁと」
「?」
世の中には知らないものや不思議なことが、すぐ隣にしれっと存在していたりするのだ。ひょんなご縁からあやかしの存在を知った千登世の日常は、すっかり様変わりした。
千登世の返答に、永之丞は首を傾げる。
「この鍋、何か変わってるとこあった?」
自分の器に目をやりながら、少し不安げに訊いてきた。
「いや、ごめん、お鍋のことじゃなくて……ん?」
別のことを考えていたのだと説明しようとした千登世だったが、不意にりんりんりんと軽やかな鈴の音が聞こえた気がして、部屋の外へ顔を向けた。
「今、鳴った?」
「鳴った、かな」
澄んだ音色は、実はインターホンの呼び出し音だ。随分変わった音ではあるが、それもそのはず、これは〝あちら側〟からの来訪を告げるものなのである。
「永之丞ー、おらんのー?」
そして、玄関から響くハリのある声には覚えがあった。
「あれ、紫暢ねぇちゃんや」
声の主は永之丞のイトコである紫暢だ。もちろん、彼女もたぬきのあやかしである。
紫暢と永之丞はイトコ同士ではあるが、その関係は実の姉弟と言ってもいいほどのものらしい。紫暢は、永之丞を筆頭にその下の弟達もひっくるめて随分可愛がっているようだった。
「はいはい、ちょお待って」
永之丞が立ち上がり、千登世もそれに続く。
玄関の引き戸の内側から見て左側、さっき帰宅時に千登世が開けたのとは反対側の戸を、永之丞がスライドさせる。
「あぁ、おったおった。こんな時間にごめんなぁ」
そこには濃紫の着物を身に纏い、緩くウェーブのかかった長い黒髪を後ろで団子に纏めた女性が待っていた。
「紫暢ねぇちゃん」
茶色の耳と尻尾はデフォルト装備で、永之丞より少し小ぶりな尻尾が、背後でゆらゆら揺れている。
千登世は半ば反射的にその尻尾を見てから、次に彼女の後ろに広がる景色に目を奪われた。
外の様子は、先ほど千登世が帰宅した時とは打って変わっていた。
狭いアスファルトの路地は舗装された石畳の道に、どこにでもあるような住宅街は忽然と姿を消し、代わりに古式ゆかしい純和風建築がずらりと並んでいる。特に向かいの建物は大きく立派で、門扉や軒先に提灯が灯され、その柔らかい明かりが夜をぼんやりと照らしていた。
目に映る全く違う景色は、本来あやかしが住まう世界。
″隠り世〟
人間界と淡い境界を隔てて存在する、あやかしの世界だ。
千登世の家の玄関の引き戸には、秘密が隠されている。
家の内側から見て右側の引き戸を開くと人の世″現世〟へ繋がり、左側の引き戸を開くとあやかしの世″隠り世〟へ繋がるのだ。
いつ見ても幻想的だと、千登世はうっとりと溜め息を吐きそうになる。
あやかしの世の夜は、人の世のそれよりいやに美しい。煌々しいネオンとは違う、もっと柔らかくて深い、寄り添うように闇と調和する提灯の明かりが千登世は好きだった。
あやかしの本分は基本夜にあると永之丞は言う。だからきっと、彼らは夜を扱うのが上手いのだろう。
「あ、もしかせんでも晩ごはんの最中やった?」
ごめんなぁと謝る紫暢に軽く首を振り、永之丞は彼女の手元の物に目を向けた。
「いや、まぁそうやけどあんま気にせんでええよ。それよりどないしたん? えらいもん持っとるやん?」
それは、千登世も戸が引かれた瞬間から気になっていたものだ。
彼女の手には、一升瓶が握られているのである。
緑色のガラス瓶の中を満たすのは、普通に考えたらお酒だろう。
「ふふっ、古瀬の狐との勝負に勝って、もろたんよ」
にんまりと口の端を持ち上げ、紫暢が瓶を自慢げに揺らす。
「さすが紫暢ねぇ」
「たぬきの八化けに、そう簡単に勝てるとは思わんといてほしいなぁ」
詳しく話を聞くと、どうやら化かし合いの勝負で狐の一族に勝ったらしい。見たことがないので千登世には化かし合いというのが一体どのように行われるのかさっぱりだが、紫暢が手にする酒はその勝負の戦利品なのだろう。
というか、さらりと流してしまったが、化かし合いってそんなに日常的に行われるものなの? と千登世は首を傾げる。
隠り世では、毎日のようにあちこちでストリートファイトが繰り広げられているのだろうか。千登世が知らない、分からないことが、あやかしの世にはまだまだ山のようにあるようだ。
「そんでね、これ、たっぷり三本もろたから、永之丞のとこにもお裾分けしようと思って」
千登世があれこれ想像しているうちに、紫暢はそう言って永之丞に一升瓶を渡した。途端に彼の瞳がきゅるんと輝く。
「ええのん? だって古瀬って言うたら、これ湧き酒やない?」
また知らない単語が出てきた。古瀬というのは恐らく狐の一族の名だろうということは分かったが、〝わきざけ〟は初めて聞く単語で想像がつかない。
「わきざけ?」
オウム返しにすれば、疑問に答えてくれたのは紫暢だった。
「あれ、とせちゃんは知らん? 隠り世にはねぇ、そう数は多ないけど各地にお酒の湧く泉があるんよ。次から次へと湧いてくる、源泉かけ流し! みたいな泉がね」
なるほど、湧き水のお酒バージョンがあるらしい。自然とお酒が湧いてくるなんて、夢のような泉だ。お酒好きには堪らない、とんでもなく人気なスポットになりそうだなと千登世は思う。
でも、こうして二人が嬉しそうにしているということは、きっと誰もが気軽に手に入れられるものではないのだろう。
それを三本もらったとはいえ、まるまる一本差し入れてくれるなんて、紫暢は随分と気前がいい。
「湧き酒はね、もうめっちゃ美味しいんよ。特に古瀬のは混ざり気のない澄んだ味で、しかもキレが抜群」
「キレが……」
そこまで言われると、普段付き合い程度にしか飲まない千登世も、ぐんと興味を引かれた。
「紫暢ねぇちゃん」
飲むのが楽しみだね、と永之丞に声をかけようとしたら、不機嫌な声が響く。
「〝とせちゃん〟やのうて〝千登世ちゃん〟」
むっすりとした顔の永之丞が紫暢に苦言を呈した。
「嫌やわぁ。悋気起こして、あんまり酷いと鬱陶しがられるんちゃう?」
対する紫暢はケラケラと笑って、永之丞のむっすり顔などお構いなしの様子だ。
「そやけど」
「ふふ、はいはい、分かった分かった。お嫁ちゃんをそう呼んでええんは永之丞だけってね。控えさせてもらいます」
だが永之丞がなおも言い募ろうとするとスッと引き、鬱陶しくなったらいつでも相談に来てやぁと千登世に言って、紫暢はくるりと踵を返した。本当にただ、戦利品のお裾分けに来ただけのようだ。
紫の着物の袂がひらりと塀の向こうに消える。来る時も唐突ながら、去る時もまたあっという間だった。
千登世の周りにはあまりいなかったタイプだが、いつでも気軽に声をかけてくれる紫暢の存在は、まだあやかしや隠り世に対して一歩引いてしまうところのある千登世にはありがたい。
千登世にとって紫暢は、くいっと手を引いて最初の一歩を踏み出させてくれるひと、という印象だった。
「とせちゃん、中入ろ。せっかくやから、このお酒も頂こうか」
永之丞に促されて、千登世も家の中に戻る。
戸を閉める前にふと視線を遣ると、向かいの家の軒先の提灯が風に小さく揺れていた。その明かりに、丹塗りの欄干が艶めかしく浮かび上がる。
どこまでも幻想的な光景。
魅惑のもふもふと、穏やかな旦那さんと、まだまだ知らない未知の世界。
千登世の日常は不思議なものに囲まれながらも、実に平和だった。
2
「それにしても狸塚って珍しい苗字よね」
「確かに。すっと読めない。絶対たぬきづかって読んじゃう」
「まぁ、そうですよね」
お昼休み、会社の食堂で同部署の女性陣と昼食を取りながら話題に上ったのは、千登世の苗字についてだった。
「古森から結婚の報告もらった時、教えてもらった旦那さんの苗字、全然漢字変換できなかったもんね」
千登世の一つ上の先輩である高瀬友理が、小さく笑いながら言う。
ちなみに古森は千登世の旧姓だ。会社ではビジネスネームとして古森のままで働いているので、狸塚姓を使う機会はあまりなかったりする。
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(疲れた……)
夜七時過ぎの電車は混んでいる。それに、乗客一人一人の疲労濃度がぐっと高まっているからか、車内の空気もなんとなく重い気がする。
運良く座れた千登世は、けれど限られたスペースにきゅっと身を縮めている状態に、更に疲労を募らせていた。だんだん筋肉が強張ってきている。
(最近、体力の低下をひしひしと感じる……)
毎日、家と会社を往復するだけで終わってしまう。アクティブな趣味は持ち合わせていないし、健康意識もそう高くないので、ジムもヨガもウォーキングも、運動の類いは何もしていなかった。
休日は身体を休めるために、のんびりしたい派だ。
(でも、そろそろ……)
二十代も半ばを過ぎた今、身体に無理が利かなくなってきていることには気付いている。ここらで一念発起して少し生活意識を変えないと、この先どんどん辛くなるのではないか。
そうは思うけれど、やはり気乗りはしなくて、千登世はそっと息を吐いた。
運動が大切なのは分かる。でも疲れた身体で考えてもやる気が出るわけがない。
それよりも、今必要なのは癒しだ。
(柔らかくて、もふもふして、あったかいものに包まりたい)
ついでに言うと、美味しくてじゅわっと身体に沁みるものも食べたい。
ガタン! と電車が一つ大きく揺れた。右隣の男性と肩がぶつかって、どちらともなく小さく頭を下げる。
あと三駅と停車駅を数えながら、千登世の心だけはもう自宅に帰り着いていた。
『まもなく――』
目的地に到着するとアナウンスが流れた瞬間、反射で座席から腰が浮く。
『右側の扉が開きます』
ぷしゅーっと空気の抜ける音。車内に外気が入ってくる代わりに、人が沢山外に吐き出されていく。千登世も人の間を縫って、駅のホームに降り立った。
それと同時にカバンの中の微かな振動に気付く。
「ん?」
スマホを取り出すと、新着メッセージが届いていた。
『今日はお鍋やよ、はよ帰っておいで』
文面を見ただけで心が躍る。
あったかくて、じゅわっと沁みるものがお家で待っている。なんたる贅沢!
「最近ちょっと冷えてきたもんね、お鍋嬉しい~」
さっきまでずっしりと身体に蓄積していた疲労が、いくらか霧散した。我ながら現金なものだと思いつつも、足取りが軽くなる。
十月半ばの空気は、夜になると日中とは違いひんやりと冷たさを孕む。
けれどその冷たさも、お鍋のあったかさを引き立てるには丁度いい。
「何鍋だろ」
嬉しくなって、千登世は早足でするりと改札を抜けた。
駅のロータリーを出て、大通りを道なりに歩いて数分。そこから一本内側の道へ入る。狭くなった道幅の左右にはこぢんまりとした雑居ビルやアパートが多く、もう少し進むと、和風の一軒家が多く目につくようになってくる。
そんな並びの中、千登世は更に民家と民家の間の細い道へ入っていった。車が通れる幅はあるけれど、大きなトラックなんかは絶対無理な道幅だ。
その細い道の途中にあるのが、千登世の帰るべき場所である。
石造りの塀に囲まれた純和風の住宅。
「ただいまー」
敷地の外から三歩あれば辿り着く玄関の鍵を回して、左側の引き戸を引きながら千登世は家の奥へ呼びかけた。
数秒しないうちに、パタパタと板張りの廊下を軽く駆ける音と共に、彼が顔を覗かせる。
垂れ目がちなこともあって、全体的に柔和な印象の顔立ち。少しクセのあるふんわりした髪はパッと見は薄茶色だが、襟足や内側の辺りは濃い茶でグラデーションのようになっていた。そして千登世をすっぽり包み込めるほど大きな身体は、現代の装いとしては珍しい羽織と着物を纏っている。
「おかえり、とせちゃん」
帰宅を労う言葉には、西の方の訛りがあった。本人の気質・性格が滲み出ていてそう感じるのかもしれないが、千登世は彼の柔らかく親しみのある話し方がとりわけ好きだ。それから、もう一つ。
〝とせちゃん〟
この呼ばれ方も、千登世はすごく好きだ。千登世のことをそう呼ぶのは彼だけだから、一層特別に思える。
永之丞というなかなか古風な名前の彼は、何を隠そう千登世の旦那さんである。しかも籍を入れたのは春のことだから、まだ結婚半年の新婚ほやほやだ。
「お疲れさん。ごはんもう準備できてるよ」
「ありがと。お鍋楽しみ」
「最近寒なってきたから、ええかなって」
在宅仕事の彼は、よほど仕事が詰まっていない限り平日はほぼ食事の準備をしてくれる。こんなありがたいことってないよなぁと感謝の気持ちを抱きながら、千登世はパンプスを脱いで上がり框を上がった。
「……とせちゃん、今日は仕事忙しかったん? 顔がちょっと疲れてる」
永之丞が不意に千登世の頬を手の甲で優しくこする。顔を寄せられ、そろそろメイクがヤバい感じになっているかもしれないと千登世は焦った。今日は忙しくて、一度も手直しする暇がなかったのだ。リップは落ちにくいものを使っているけれど、さすがにもうほとんど取れているだろう。
「えぇ~、そう? 今夜はお鍋って聞いて、大分回復したんだけどな」
「まだ食べてへんのに、それは気ぃが早いな」
千登世の食いしん坊な発言に小さく笑う永之丞に、メイクが崩れた顔を気にした様子はない。けれど、千登世としては気になって仕方がなかった。
一応、新妻である。できれば旦那さんには常に可愛いと思っていてもらいたいのが女心というもの。いや、既に結構ずぼらなところを見せてしまっている自覚はあったが、それはそれだ。
「お鍋食べたら回復するん?」
訊かれて、千登世は頷いた。
「もちろん。元気と栄養がチャージされますよ」
「……ほんまにそれだけで足りるん?」
けれど永之丞は意味ありげに重ねて確認してくる。
お腹が満たされれば、心もそれに伴って満たされるのは間違いない。でも。
(そうだ。柔らかくて、もふもふしてて、あったかいものに包まりたいって思ってたんだった)
「う~ん、どうかな~」
お鍋は魅力的だけど、実はそれに負けないくらい魅力的なものが他にもあるのだ。
千登世はその魅力的なものを、永之丞と恋仲になり、更にはこうして夫婦になったことで特別に堪能する権利を得たのだった。
「とせちゃん、もふもふしたいんやろ?」
「――したいです」
誘うように言われれば、するりと素直な気持ちが口から零れ出る。
「ははっ、そんじゃまぁ、ごはん前やから軽くだけな。ほら」
彼がそう言ったと思ったら――
「あぁ、もふもふ~!」
千登世の前に、ぼふんと大きな大きなふっかふかの茶色い尻尾が差し出された。
尻尾。そう、大きな尻尾だ。
抱き枕にできるくらい大きなそれは永之丞の背後から唐突に現れて、千登世をめろめろにしてしまう。
「とせちゃんは、ほんま俺の尻尾が好きやなぁ」
「ふふっ」
千登世が満面の笑みを浮かべながら尻尾から顔を上げると、彼の頭には先ほどまではなかった半月状のけもみみがちょこんとついていた。
尻尾とお揃いの茶色の愛らしいけもみみ。
よく見るとけもみみはぴくぴく小刻みに動き、尻尾もゆらゆらと絶えず揺れている。
つまり、どういうことかと言うと。
コスプレでもなければ早着替えでもない。耳も尻尾も本物なのだ。
千登世が半年前に結婚した彼は、人間ではないのである。
ふかふかの尻尾と可愛いけもみみを持ち、それを自由自在に出し入れできてしまう彼は――そう、所謂〝あやかし〟という存在なのであった。
「んっは~、もふもふ、最高、癒される~」
疲れた心と身体にもふもふは効く。もうてきめんに効く。
千登世は玄関で茶色の尻尾に顔を突っ込み、その癒しの触り心地を思う存分堪能した。
「たぬきの尻尾ってこんなにふかふかだったんだね。丞くんに会うまで知らなかったよ……」
ふわふわ、もふもふ、柔らかさも密度も絶妙。しかも永之丞の方からも押し付けてくれるので、こう、適度な反発力がとてもいい。そこらの低反発枕なんて目じゃない。
「うむ、魅惑の触り心地。たぬたぬヒーリング、効果がすごい、最高」
「たぬたぬて……とせちゃんはほんま尻尾好きやなぁ。自分の尻尾やのに嫉妬してまいそうやわ」
そうは言うけれど、彼は尻尾を触られるのが嫌いじゃないはずだ。もふもふすると永之丞の耳がそれに合わせて嬉しそうにぴょこぴょこ動くことを、千登世はちゃんと知っている。
「たまにとせちゃん、俺の尻尾と結婚したんやないんかって疑ってまうわ」
「んー、そうだなぁ、尻尾のついた丞くんと結婚したんだなぁ」
「それはどっちが主体なん? 尻尾? 俺?」
「難解な質問をしなさる……」
顔面をもふもふランドにダイブさせたまま呟くと、永之丞の声色が変わった。
「え、そこは丞くん一択やないん? 冗談のつもりやったのにまさかの返し……」
「堪能中は正気を失っているので。尻尾の魅力にめろめろなので」
「あんま尻尾ばかりに余所見するんやったら、禁止にしてまうで」
「そんなご無体な!」
なんてやりとりはするけれど、永之丞が癒しの塊を引っ込めることはなかった。なんだかんだで、彼は千登世の癒しを優先してくれる。
「とせちゃん、そろそろ」
どれくらいそうしていただろうか。
永之丞が遠慮がちにそう声をかけてきて、千登世は名残惜しさを感じながらも尻尾から顔を離す。あと二分、いや一分延長させてもらえないだろうかと彼を見上げると、永之丞はちらりと廊下の奥を気にするように振り返った。
「お鍋の具材が全部くたってしまう」
火にかけたままなのだ、とその発言で気付く。
それはいけない、と思った途端、千登世の素直すぎるお腹がくうと鳴き声を上げた。
「っ!」
「くはっ」
永之丞に笑われるが、これは笑われても仕方がないと思う。現金すぎる反応だ。
「ごはんにしよ、手ぇ洗っておいで」
「……うん、そうする」
千登世は恥ずかしさを誤魔化すように、永之丞の脇を抜け洗面所へ駆け込んだ。
「鶏ももとネギと、しらたきも好きやんね?」
「うん」
手洗いうがいを済ませて千登世が居間に行くと、部屋の真ん中に置いた座卓の上には、カセットコンロの上で温かく湯気を放つ鍋が待ち構えていた。部屋中に幸せな匂いが満ちている。味噌と生姜の、優しくも食欲をそそる匂いだ。知らず知らずのうちに、千登世の口腔に唾液が分泌される。
「はい、とせちゃん」
「ありがと」
渡された器にさっそく鍋の中身をよそいながら、千登世は夫の姿をちらっと盗み見た。
夫がたぬき。いや、たぬきのあやかし。
もちろん、千登世も最初からその事実を受け入れられたわけじゃない。
最初に永之丞の正体を知った時は、いや、喋るたぬきを目にした時は、自分の正気を疑った。
だってあやかしなんて物語の中だけの架空の存在だ。現実に、しかもこんな身近に存在しているわけがない。
けれども、実際にこうして目の前にたゆんと揺れる大きな尻尾がある。その尻尾は今はもう千登世の大のお気に入りであるし、すっかり見慣れた存在だ。
しかしこれが、世間一般に〝よく見かける光景〟として認知されていないのも、また事実。
あやかしはスポットライトの当たる存在ではない。少なくとも、人間界においては。
だがひそやかに、けれど意外にもあちこちに溶け込んで存在しているらしい。
『お国はちゃんとあやかしの存在を認知してるんよ。だから必要に応じて戸籍も用意されるし、健康保険証もマイナンバーもある』
知り合ってしばらくしてからそう聞いた時には、本当に驚いた。ただ存在を認知されているだけでなく、公的な整備もされているそうだ。なので人間界で働いていると、しっかり税金も徴収されるらしい。けれど一方できちんと納税している分、あやかしが人間社会で生きていくのに必要なサポートも受けられると言う。
『戸籍があるから、とせちゃんともきちんと籍を入れて結婚できたわけやし』
それはその通りだった。彼はすっかり人間の姿にも化けてしまえるから、千登世は何食わぬ顔で家族に永之丞を紹介できたし、ちっとも怪しまれずに済んだ。
種族は違うけれど、お互いを受け入れてしまえば、結婚に対するハードルはほとんどなかったのだ。
永之丞の家族も人間の嫁を迎えることへの反発はなく、むしろ大歓迎といった様子だった。
「とせちゃん、お箸止まってるけどどうかしたん?」
最初の一口で動きが止まっていた千登世の顔を、永之丞が覗き込んでくる。
「いや、不思議なこともあるもんだなぁと」
「?」
世の中には知らないものや不思議なことが、すぐ隣にしれっと存在していたりするのだ。ひょんなご縁からあやかしの存在を知った千登世の日常は、すっかり様変わりした。
千登世の返答に、永之丞は首を傾げる。
「この鍋、何か変わってるとこあった?」
自分の器に目をやりながら、少し不安げに訊いてきた。
「いや、ごめん、お鍋のことじゃなくて……ん?」
別のことを考えていたのだと説明しようとした千登世だったが、不意にりんりんりんと軽やかな鈴の音が聞こえた気がして、部屋の外へ顔を向けた。
「今、鳴った?」
「鳴った、かな」
澄んだ音色は、実はインターホンの呼び出し音だ。随分変わった音ではあるが、それもそのはず、これは〝あちら側〟からの来訪を告げるものなのである。
「永之丞ー、おらんのー?」
そして、玄関から響くハリのある声には覚えがあった。
「あれ、紫暢ねぇちゃんや」
声の主は永之丞のイトコである紫暢だ。もちろん、彼女もたぬきのあやかしである。
紫暢と永之丞はイトコ同士ではあるが、その関係は実の姉弟と言ってもいいほどのものらしい。紫暢は、永之丞を筆頭にその下の弟達もひっくるめて随分可愛がっているようだった。
「はいはい、ちょお待って」
永之丞が立ち上がり、千登世もそれに続く。
玄関の引き戸の内側から見て左側、さっき帰宅時に千登世が開けたのとは反対側の戸を、永之丞がスライドさせる。
「あぁ、おったおった。こんな時間にごめんなぁ」
そこには濃紫の着物を身に纏い、緩くウェーブのかかった長い黒髪を後ろで団子に纏めた女性が待っていた。
「紫暢ねぇちゃん」
茶色の耳と尻尾はデフォルト装備で、永之丞より少し小ぶりな尻尾が、背後でゆらゆら揺れている。
千登世は半ば反射的にその尻尾を見てから、次に彼女の後ろに広がる景色に目を奪われた。
外の様子は、先ほど千登世が帰宅した時とは打って変わっていた。
狭いアスファルトの路地は舗装された石畳の道に、どこにでもあるような住宅街は忽然と姿を消し、代わりに古式ゆかしい純和風建築がずらりと並んでいる。特に向かいの建物は大きく立派で、門扉や軒先に提灯が灯され、その柔らかい明かりが夜をぼんやりと照らしていた。
目に映る全く違う景色は、本来あやかしが住まう世界。
″隠り世〟
人間界と淡い境界を隔てて存在する、あやかしの世界だ。
千登世の家の玄関の引き戸には、秘密が隠されている。
家の内側から見て右側の引き戸を開くと人の世″現世〟へ繋がり、左側の引き戸を開くとあやかしの世″隠り世〟へ繋がるのだ。
いつ見ても幻想的だと、千登世はうっとりと溜め息を吐きそうになる。
あやかしの世の夜は、人の世のそれよりいやに美しい。煌々しいネオンとは違う、もっと柔らかくて深い、寄り添うように闇と調和する提灯の明かりが千登世は好きだった。
あやかしの本分は基本夜にあると永之丞は言う。だからきっと、彼らは夜を扱うのが上手いのだろう。
「あ、もしかせんでも晩ごはんの最中やった?」
ごめんなぁと謝る紫暢に軽く首を振り、永之丞は彼女の手元の物に目を向けた。
「いや、まぁそうやけどあんま気にせんでええよ。それよりどないしたん? えらいもん持っとるやん?」
それは、千登世も戸が引かれた瞬間から気になっていたものだ。
彼女の手には、一升瓶が握られているのである。
緑色のガラス瓶の中を満たすのは、普通に考えたらお酒だろう。
「ふふっ、古瀬の狐との勝負に勝って、もろたんよ」
にんまりと口の端を持ち上げ、紫暢が瓶を自慢げに揺らす。
「さすが紫暢ねぇ」
「たぬきの八化けに、そう簡単に勝てるとは思わんといてほしいなぁ」
詳しく話を聞くと、どうやら化かし合いの勝負で狐の一族に勝ったらしい。見たことがないので千登世には化かし合いというのが一体どのように行われるのかさっぱりだが、紫暢が手にする酒はその勝負の戦利品なのだろう。
というか、さらりと流してしまったが、化かし合いってそんなに日常的に行われるものなの? と千登世は首を傾げる。
隠り世では、毎日のようにあちこちでストリートファイトが繰り広げられているのだろうか。千登世が知らない、分からないことが、あやかしの世にはまだまだ山のようにあるようだ。
「そんでね、これ、たっぷり三本もろたから、永之丞のとこにもお裾分けしようと思って」
千登世があれこれ想像しているうちに、紫暢はそう言って永之丞に一升瓶を渡した。途端に彼の瞳がきゅるんと輝く。
「ええのん? だって古瀬って言うたら、これ湧き酒やない?」
また知らない単語が出てきた。古瀬というのは恐らく狐の一族の名だろうということは分かったが、〝わきざけ〟は初めて聞く単語で想像がつかない。
「わきざけ?」
オウム返しにすれば、疑問に答えてくれたのは紫暢だった。
「あれ、とせちゃんは知らん? 隠り世にはねぇ、そう数は多ないけど各地にお酒の湧く泉があるんよ。次から次へと湧いてくる、源泉かけ流し! みたいな泉がね」
なるほど、湧き水のお酒バージョンがあるらしい。自然とお酒が湧いてくるなんて、夢のような泉だ。お酒好きには堪らない、とんでもなく人気なスポットになりそうだなと千登世は思う。
でも、こうして二人が嬉しそうにしているということは、きっと誰もが気軽に手に入れられるものではないのだろう。
それを三本もらったとはいえ、まるまる一本差し入れてくれるなんて、紫暢は随分と気前がいい。
「湧き酒はね、もうめっちゃ美味しいんよ。特に古瀬のは混ざり気のない澄んだ味で、しかもキレが抜群」
「キレが……」
そこまで言われると、普段付き合い程度にしか飲まない千登世も、ぐんと興味を引かれた。
「紫暢ねぇちゃん」
飲むのが楽しみだね、と永之丞に声をかけようとしたら、不機嫌な声が響く。
「〝とせちゃん〟やのうて〝千登世ちゃん〟」
むっすりとした顔の永之丞が紫暢に苦言を呈した。
「嫌やわぁ。悋気起こして、あんまり酷いと鬱陶しがられるんちゃう?」
対する紫暢はケラケラと笑って、永之丞のむっすり顔などお構いなしの様子だ。
「そやけど」
「ふふ、はいはい、分かった分かった。お嫁ちゃんをそう呼んでええんは永之丞だけってね。控えさせてもらいます」
だが永之丞がなおも言い募ろうとするとスッと引き、鬱陶しくなったらいつでも相談に来てやぁと千登世に言って、紫暢はくるりと踵を返した。本当にただ、戦利品のお裾分けに来ただけのようだ。
紫の着物の袂がひらりと塀の向こうに消える。来る時も唐突ながら、去る時もまたあっという間だった。
千登世の周りにはあまりいなかったタイプだが、いつでも気軽に声をかけてくれる紫暢の存在は、まだあやかしや隠り世に対して一歩引いてしまうところのある千登世にはありがたい。
千登世にとって紫暢は、くいっと手を引いて最初の一歩を踏み出させてくれるひと、という印象だった。
「とせちゃん、中入ろ。せっかくやから、このお酒も頂こうか」
永之丞に促されて、千登世も家の中に戻る。
戸を閉める前にふと視線を遣ると、向かいの家の軒先の提灯が風に小さく揺れていた。その明かりに、丹塗りの欄干が艶めかしく浮かび上がる。
どこまでも幻想的な光景。
魅惑のもふもふと、穏やかな旦那さんと、まだまだ知らない未知の世界。
千登世の日常は不思議なものに囲まれながらも、実に平和だった。
2
「それにしても狸塚って珍しい苗字よね」
「確かに。すっと読めない。絶対たぬきづかって読んじゃう」
「まぁ、そうですよね」
お昼休み、会社の食堂で同部署の女性陣と昼食を取りながら話題に上ったのは、千登世の苗字についてだった。
「古森から結婚の報告もらった時、教えてもらった旦那さんの苗字、全然漢字変換できなかったもんね」
千登世の一つ上の先輩である高瀬友理が、小さく笑いながら言う。
ちなみに古森は千登世の旧姓だ。会社ではビジネスネームとして古森のままで働いているので、狸塚姓を使う機会はあまりなかったりする。
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