チューリップと画家

中村湊

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彼の絵

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 仕事に復帰してからも、モーネスの診察は継続されていた。最初の1カ月はモーネスが毎朝夕と診察をし、マーブル侍女長との面談をアイリスは行った。
 彼との診察は、脈診など基本の診察以外は絵画や美術の話しばかり。それでも、アイリスには心地良いと感じる時間だった。モーネスの手の温もりを感じ、彼の柔らかな眼差しと陽射しに反射し輝く髪に。絵画への溢れんばかりの情熱。
 時折、ヴォルフとハルの2人の様子も聞かせてくれる。アトリエの担当しているハルは、頬を膨らませながらも嬉しそうにヴォルフの話しをする。それとは違い、モーネスが話す時は2人の仲を喜んでいる。

 「アトリエであの2人は何を考えているんだか……」
 「仲が良いのでは?」
 「良すぎるから、居心地が悪いんだ……」
 「……?!……」
 「あ、いや、別に2人に別れろとは言わない!! ただ、俺の前であけすけに口説き続けながらというのは……なんというか……」
 「わたしには、モーネス様はやはり2人は一緒が良いと考えていると思います」
 「……そう、だが……まぁ、そうだな」

 1カ月も共に話す時間が増えると、モーネス自身も肩の力が抜けてヴォルフと話す時の様になる。少し違った意味で、彼は彼女との時間が愛おしいと思っている。
 当の本人は、以前よりは表情が出てくるようになったが分かる者にしか分からないような変化。

 彼と話しをしていた絵画を、美術回廊の手入れ仕事で目に入った。
 落ち着きのある群青ぐんじょうの翠。鮮やかな赤に入り交じった黄色。伸び伸びとしているチューリップの茎と葉。1本のチューリップが1輪挿しに活けてあり、文机に彩りを添えている。文机に便箋とペン。文机の左側、絵画の左端にうっすらと気づくものが数少ないと思われる影。
 スカートと紐、侍女メイドが付ける作業帽に首にリボンとおぼしきもの。
 アイリスは、これが彼の絵画。描きたい絵画の初めなのだろう、と。

 彼女の脳裏に、もやがかった中で鮮やかな色使いで笑いと笑顔の中で……『これを贈ろう、愛しいアイリス』と言って抱きしめてくれた人がいたのを想いだす。
 辛いはずの記憶のかすみは、今のアイリスに新たな感情を得始めている。

 ドクドクと心臓から血が全身を駆け巡り、モーネスの絵画の色鮮やかな影を観てみたいと……。

 「色が……綺麗……きっと……」

 直接は触れられない、彼の絵画。今は、目の前で目をつむり想像する。彼がスケッチから、油絵の具を板のパレットで混ぜ、オイルを加える姿。
 絵画の情熱をカンヴァスに向け、絵筆で創る彼の世界。現実のある絵画、そして、柔らかな温かさとぬくもり……。

 フルフィルメント侯爵家の美術回廊で観た、チューリップは初めてアイリスを揺さぶった絵画だった。心というものがあるのか? ないのか? わからない自分が、初めて感じた作品。モーネスの作品を観ていると、自分の心の臓が熱く全身を血が駆け巡っていく。小さな涙がうっすらと、眼の端から伝い落ち、その景色をもっと感じていたいと。
 そう、アイリスは感じた。
 侯爵の手紙に同封されていた【アイリスへ】と封をされていた手紙は、未だに開けていないが……今日、読んでみたい。と、思った。夕方には、モーネスが診察で来る。その時なら……アイリスは、両手を胸の前で小さく握りしめて彼の名前を呟いていた。

 診察の時は、ハルはいつも『庭に散歩に行ってくる』と席を外してくれる。モーネスが脈診と、今日の体調を確認したところでアイリスは切り出した。

 「モーネス様。一緒に見ていただきたいものがあるのですが……」
 「俺で良ければ」
 「フルフィルメント侯爵様から届いた手紙に一緒に同封されていた。この手紙なんです」
 「……俺が一緒でいいのかい?」
 「はい。モーネス様となら、読める気がするのです」
 「……わかった……読み続けるのが辛かったりしたら、やめていいからな?」
 「はい」

 ペーパーナイフで丁寧に封を切り、手紙を取り出す。

――愛しいわが娘 アイリス――

 君がこの手紙を読んでいるという事は、私たちはこの世にいないだろう。君は、この手紙をフルフィルメント侯爵様から受け取ってくれたんだね。侯爵様は、君に宛てた手紙を大事に保管してくれるのを信頼して預けた。

 アイリス。私たちの、大事な娘。君を、幼い君を、ただ独りにしてしまう私たちを許して欲しい。
 あの日、ママがアネットがふた咳病にかかり、どうしても君と一緒に居られなくなった。私も、最期の力を、ペンを握れる力が残っている今のうちに書いている。手紙より先に、侯爵様には君への贈り物も預けた。それは直接、いつか、君の愛する人ができた時に受け取って欲しい。

 フルフィルメント様は、パパが絵を描いている仕事ができるようにしてくれている人だ。いつか、君にも会わせたい。いや、もしかしたら、もう会っているのかも知れない。彼の事だから、幼い君の姿を見ては『わたしも娘のように思っていいかい?』と言っていたよ。彼は、絵画の次に、君を愛していた。もちろん、家族の一員としてだがね。

 アイリス、君がパパと一緒にお絵かきしていた絵も侯爵様が預かっているよ。君の絵の才能は、確かだ。ただ、パパたちの絵は、王宮の人たちを怒らせてしまうから、秘密だよ。

 ママは、君の名前をベッドの上からでも呼んでいるよ。君の顔を一目見たい、だけど、そしたら君に病をうつしてしまう。だから、会うことが出来ない。今は、パパが描いたアイリスの絵を観ている。君が、小さな手で、ドアの前まで一生懸命、水やパンを運んできてくれるのは知っているよ。アイリスはしっかり、ご飯を食べているかい?


 あぁ……ママは君の名前を一生懸命呼んで、パパの描いた絵を観て微笑んでい居る。
 パパも、近いうちママのところへ……。

 アイリス、君がこの手紙を読んでくれているのなら。君が、生きている証拠だと。私たちは信じている。

 生まれてきてくれて、ありがとう。
 生まれ変わっても、パパとママとの子どもとして出逢えることを、願っている。

――ジョナス・フルフィルメント――

 ポタポタと、ちいさな粒の涙が手の甲に落ちる。手紙を濡らすまいと、大事に胸に抱きしめ、涙は太ももを濡らす。嗚咽のない、ただただ涙が溢れ、声のない涙。
 彼は、彼女が泣くのを躊躇いがちに泣いている姿が辛かった。ゆっくりと背中に手を回し、彼女を抱きしめ耳元で「傍にいる」と囁く。せきをきったように、小さな子どもが泣くように彼女は泣き始めた。

 アイリスの父、ジョナスは、フルフィルメント侯爵家の血筋なのはたしかなのだろう。【家族の一員】という、彼の言葉。『娘のように思っていいかい?』と言っていた侯爵、そして、侍女として引き受ける前から美術に関する勉強ができるよう配慮もしている。彼女だけが待遇を良くなるだけでなく、養護院全体の改善などにも支援してきている。ふた咳病で家族を亡くした人のケアも支援してきている。
 貴族として、模範を示し、また、絵画収集以外にも画家たちへの支援も行ってきている。

 医療などが確立していく立役者の貴族の一員として、フルフィルメント家は重要な役割を果たしているのは医師の道を通ったモーネスも知っていた。

 「大丈夫か? アイリス?」
 「……は、はい……」
 「君の父上は、フルフィルメント家の一員だったんだな」
 「そのようです……まだ、わたしも記憶が曖昧なので……でも、侯爵様は本当に良い方です」
 「あぁ、俺も知っている。俺の絵画を気に入ってくれている数少ない貴族だからな」
 「わたしが観た、チューリップ……侯爵様の美術回廊で観ました」
 「あの初期作品か……何年か前のものだったか?」
 「モーネス様の、チューリップが……わたしは……すき、です」
 
 初めて、アイリスは【すき】と言う言葉を使った。昔、幼い時、使っていたかもしれないが大人になって改めて覚え言った言葉というのに等しい。耳を赤くし、頬を染め、うつむき加減でいるアイリスがモーネスは愛おしく思え頬に口づけた。
 瞳を瞬かせてモーネスを見る彼女に、もう反対の頬に口づけをした。

 「も、モーネス、さ、ま?」
 「すまない……嬉しくて」

 ためらいがちに、アイリスはモーネスの手を握り「温かかったです」と言った。彼女の感情は、少しずつだがモーネスの絵画と彼といること。また、ハルやヴォルフたちと居ることで刺激を受けて、育ち始めてきている。

 手紙を読んだ日以降、なんとなくぎこちないモーネス。彼女への想いが、はっきりと自分の中で曖昧なものから確かなものへと変わった。絵画にしか興味がなかったと言わんばかりに、王宮画家を目指し、そのために医術の道を通り。ブリューワー派の絵画を学ぶ中で、疑問を持ち人物を描きたい気持ちが抑えきれずに毎日ひたすらデッサンを繰り返し……描いても、決して分からないようにと描いた人物を隠すように描いた。
 それでも、トーナル氏にはバレてしまい毎度のように言い合いをしていた。

 アイリスの父、ジョナスが描いていた絵画にモーネスは何かひっかかりを覚えた。フルフィルメント侯爵がいつぞや話していた『支援していた惜しい画家を失くしたが、わたしは同じ想いを、情熱を絵画に注ぐ君と出逢え幸運だ』と。チューリップの絵画を一目見て、購入を即決した侯爵。彼は、あの絵画に人物が塗りこめられていたのを分かっていて買った。

 アイリス自身も仕事をだんだんと以前のように行えるようになってきていた。マーブル侍女長は、彼女の回復を喜ばしくも思ったが不安もあった。彼女が、時折見せている寂しげな瞳が伺えるのだ。モーネスからの報告で、亡き父の手紙を読んだことは知っている。その日、彼女が初めて声を出して泣いたというのも。まだ、親しい人の間でしか、彼女の感情は見せていないが、その表情はとても愛らしく静かな佇まいは傍にいる者の心を落ち着かせてくれる。その1人が、モーネスでもある。
 マーブルもトーナルも、2人の関係が変化してきているのを知っている。当のモーネスは彼女への想いを自覚したばかり。アイリスは、さらりと『モーネス様の手は温かいです』と言って彼を翻弄している。自覚がないので、モーネスはより彼女の本心を知りたくて焼きもきしている。その感情が、最近は絵画に表れているというのが実情。

 「モーネス? モーネス? モーネス!!」
 「……んっ? あぁ、ヴォルフか……なんだ?」
 「はぁ……お前、いったい何枚、いや、なん十冊のデッサン帳にコレを描いているんだ?!」
 「……えっ……」
 「ほら、見てみろ!! 全部、彼女だろうがっ!!」
 「あっ、いや……その……」
 「他のデッサンもあるけど。これ、トーナル氏にバレたら大変だろうがっ!!」
 「その、なんていうか……俺もわからん……」
 「わからん? お前、今まで絵画でそんな風に言ったことはないだろう?」

 モーネスがデッサン帳に描いたアイリスの姿を、彼は愛おしく見つめ優しく指で愛撫する様になぞりながら……「彼女の気持ちを知りたい」と言っていた。絵画一筋できた青年は、初めて、絵画で人物を描きたいと情熱を注いでいたが。描きたい人物が、想い人へと変わった。

 足りなくなったデッサン帳の補充にやってきたハルが、モーネスの様子を見てヴォルフの方を見てみると「どうやら恋をしたらしい、アイリスに」と言った。ハルは一瞬驚いたが、モーネスのこの気持ちに今のアイリスが気が付く日がきてほしいと願った。最近のアイリスは、とても表情が柔らかく、モーネスの診察後の表情がとても良いのを知っているからだ。彼女自身、気が付いていないがアイリスもモーネスに心を許している。

 「なぁ、ハル? 俺との婚約と、こいつの婚約。どっちが早いかな?」
 「ヴォルフ様? こ、婚約って……わ、わたしは……」
 「俺とあーんなことや、こーんなこともしてるのに?」
 「っ!! ヴォ、ヴォルフ様!!」

 ヴォルフがいつもの様にハルを口説き始めても、モーネスはデッサン帳のアイリスを愛おしく見続けていた。

 「アイリス……君を、君の全てを描きたい……」

 その一言に、「重症だ」とヴォルフは呟いた。ハルも、横で頷いた。
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