愛する裸婦

中村湊

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衝突

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 アンリが、ジヴェル・ニアに来てから3ヶ月が過ぎた。春も近づき、周りの桜やガヴの家の桜も蕾が膨らんできている。
 今朝もいつも通りに水汲みから始まり、朝食の準備と……順調だった。昼前に、商店に行った。先週頼んでいた、絵の具やスケッチ帳などを取りに店に入る。

 カランコロンーー

 「あぁ、アンタかい? 注文の品物届いているよ」
 「ありがとうございます」
 「コレだよ」
 「はい。確認しますね……えっと……?」
 「どうした?」
 「あの、違うんです」
 「違う? 何がだい?」
 「旦那さまのご所望のは、エンジ色の油絵の具で……この注文書の控えにも……」
 「あぁ、ソレかい? たしかにエンジ色じゃないか? コレは?」
 「いえ、ですから。エンジ色でもこのエンジではないんです」
 「なんだい?! いちゃもんかい!! 帰ってくれ!! 金は払えよ!!」

 ガヴの注文したエンジ色だが、発注を依頼した店はメーカーを間違えていた。【トマス画材店】と【トナイ画材】を……よく似たメーカーだが、画材店と画材で名前がまず違う。
 商家で画材も扱っていた家の育ちだったアンリは、番頭たちが発注や注文受けた際はメーカーと色に気を遣った。1度間違って、信用を失うと画家仲間の拡がりは早かったのだ。

 支払いをし、間違った品も含められた商品を抱え、商店で食材も買った。
 昼は何とか彼の食事を用意できたが、アンリはガヴがアトリエから出てきた時。正直に、もらい受けた絵の具のメーカーが違っていたことなどを話した。

 「金を払った?」
 「はい」
 「君が間違えたのか?」
 「旦那さまのメモをいつものように渡しました」
 「なら、なぜ違う?」
 「それは、わかりません」
 
 バンッ!! と、扉を大きく締めてアトリエに籠もってしまった。 
 その日の夜、食堂には彼は来ず食事をアトリエのいつもの食台に置いたが少ししか口にしていなかった。
 それが、数日、続いた。アンリはその間に、もう一度、画材屋に行き、店主と何度も話し合い何とか品物を注文できた。そして、品物を受け取り支払いをして家に戻ってくるとガヴは不機嫌だった。
 彼女の顔を見るなり、アトリエに再び脚を戻して籠もってしまった。
 アンリは、絵の具1つ満足に注文できなかった自分を悔いた。小さく息を吐き出し、台所で彼が唯いつ口にしてくれているキッシュを焼いた。今日は、ベーコンとほうれん草のキッシュ。それに、酒のつまみにと、ベーコンとチーズの燻製くんせいをここ数日作っていた。外の倉庫を整理した時に、小さな燻製機があり綺麗に磨き上げて使い始めた。キッシュで使うベーコンも、この燻製機で再度燻製してから使っている。

 「食べてくれるといいけれど」

 食台に食事とワイン、つまみの燻製したベーコンとチーズを小皿に分けてトレーにまとめておいた。
 その日は、ワインとつまみだけしか空になっていなかった。その日を境に、1週間。ワインとつまみだけになった。
 毎日、サンドウィッチやスープ、キッシュ。色々と料理しても手を付けない。余った食事をそのままにするわけにも、あるじに黙って手を出すわけにもいかず。アンリはマリーに食べて貰った。

 「いいのかい? あたしが食べても?」
 「はい。旦那さまに言わずに食べられないので……」
 「一週間は経ったのかい? あのバカは……たくっ、絵の具ひとつで……」
 「大事な事ですから……わたしが言い訳せず謝罪するべきだったんです」
 「そんな……アンリは食べてるのかい?」
 「大丈夫です」

 そう言って、きびすを返したアンリだったが本当はまともに食事が喉を通っていなかった。食事をせずに、酒中心になった主のことが心配でもあり。何より、自分と会うとすぐさまアトリエに引き返す主。
 自分の見てくれが……と、何度も思い返してしまってきていた。ハンナと一緒に居た時は忘れていた、こびりついた垢は、とれていない。
 ズキズキと頭が痛く感じられた。
 マリーの所から、使用人入り口に入ると……ガヴがワインの瓶を片手にして台所の外玄関で壁にもたれかかっていた。

 「君は何していた?」
 「席を外してすみません」
 「旦那さま、だ? ふざけるな!!」

 ガシャンっ!! と地面に叩き付けられた瓶が割れ、粉々になった。
 
 「……お前は……」
 「っ!!」

 酷く怒っている彼の瞳にビクリとする。アンリは思わず、走り出していた。

 「っ!! おいっ!!」

 走って、走って……。もう、戻れない実家。どこにも居場所がない。戻る場所もない。
 途方に暮れながら、涙しながら、ジヴェル・ニアの外れまで走った。
 日も暮れて、暗い夜空には月と星が浮かび照らしていた。大きな大きな澄んだ水に、月の光が反射している。
 水の近くの樹に背を預けて、アンリはボンヤリと空を眺めていた。
 息を切らして、やってきた男は彼女の姿に目を奪われた。
 あまりにも、自然な美しさを持っていたから……夜空の月と湖で反射している光を受けている、彼女の持つ美しさが憂いと哀しさと優しさで溢れていた。

 そっと、立ち去り再び戻ってきた男は。目の前の美しい女性をスケッチブックに何枚も、何十枚も描き続けた。
 樹の下で、眠る彼女すら……。
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