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彼女の話
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「なん、で………」
呟く声が掠れていた。理由は、分からない。分かりたくない。
目の前に映る光景をだれが真実と言ったって、私は今ここにある現実を信じられない。
名ばかりの姫と陰に日向に笑われて生きてきた私が、武功を立てたのだという夫に嫁いでまだ一年も経っていない。爵位も何もない平民の兵士が、いくら外れとはいえ一国の姫を娶る程の功をあげたというのだからきっと荒くれ者だろうな、だなんてと思い込んでいたのはほんの数日のこと。街の様子を知っておいた方がいいかもしれない、と連れ出された先で迷子の子供をおろおろしながら抱き上げる彼を見る頃には、そんな考えはすっかりどこかへ消えていた。
小さな子供をそっとくるんだその手で彼は剣をふるい、命のやり取りをしているのだという。彼が兵士だと知らなければ——否、知っていたとしても信じられないほどに優しい、優しい人だった。
ろくに料理も縫物もできない上に気品のかけらもない私を、それでも笑って見守ってくれる人だった。平民になるには常識が欠け、貴族と言い張るには些か礼儀作法に難がある、そんな私を妻として扱ってくれた。名ばかりだとそう笑われることには慣れきっていて、仮に夫にそう言われようと心ひとつ動かない自信はあったのだけれど。
あの人は一度だって私を嗤うことも馬鹿にすることもなかった。礼儀がなっていなくて悪い、だなんて言いながら、その口が私を傷つける言葉を紡ぐことは決して無い。二人で暮らす小さな家の中では、無理やりに吐き出される賛辞の言葉を聞くことも、もちろんこちらから思ってもいない礼を告げることも必要ではないのだ。姫という立場ではどれほど望んでも得られなかったはずの何不自由ない穏やかな日々を、あの人はくれた。
私と正反対で美しく大人しく儚く繊細でおっとりとした、つまりおとぎ話のお姫様そのものだった姉は、私たちの婚姻と時期を同じくして夫の兄君に嫁いでいた。私同様に武功に対する褒賞として降嫁したのだ。若くして王宮の奥深くにも名の知れていた将軍こと義兄君はどうやら姉に首ったけのようで、嫁いでからというもの姉にはしょっちゅう惚気話を聞かされた。
『愛してるよと、いつも仰るのよ……!』
剣を振るうだなんて恐ろしい、嫁がずにすむなら嫁ぎたくないと青ざめていたときの面影はどこへやら。白皙の頬を桃色に染めて惚気る姉に、へえと気のない返事をしたのはいつのことだったか。
最早あれほど政略結婚を憂えていた姉はどこにもいなくて、なんであれ幸せそうならよかったと暢気にそう思ったものだ。残念ながら私はそんなことを憂えるような繊細さは持ち合わせていないので、震える姉を前にしていたときにも深窓の姫君は大変だなあとまるっきり他人事のようなことをぼんやり考えるだけだった。
惚気を聞いたところで同じことだ、義兄君がどれほど素敵でどれほど愛を告げてくれるのか、あれこれと語られても「ふぅん」としか返せなかった。さすがに毎度毎度ふぅんではまずいかと、「おとぎ話みたい」と返したこともある。姉は花が咲くように笑って頷いていた。
姉のようなおとぎ話もかくやという体験は、私にはない。
夫は無口というほどではなかったけれどもとかく色恋には疎い、愛の言葉などさっぱりわからないと自分で言いきっていたし、実際あまり女性慣れしているようにも見えなかった。私が横着して薄いワンピース一枚で出迎えた時のうろたえぶりなど、今思い出してもとても先の戦の勇将であるとは思えない。
そしてそれは、私も似たようなものだった。色恋というものに憧れたことはないし、正直なところ甘酸っぱい恋物語を聞いてもそうですか、としか言えない。
結婚してからというもの彼の仕事がない日にはずっと一緒にいたけれど、夫を見て私の胸が高鳴ることは別になかった。夫のほうもワンピース事件の際には常識として薄着にうろたえただけであって、私に魅力を感じたからどうこうということは一切なかったのだそうだ(これは服を着直して出てきた私に夫が直接告げた。さすがになけなしの乙女心が痛んだ)。
だから、私たちの間に恋なんていう甘くて桃色をした感情は存在していなかったし、お互いそれをどうとも思っていなかった。所詮恋をして結んだ婚姻ではないのだから、無理やり恋し合う夫婦の真似を必要もないだろうだなんて、姉が聞けば卒倒待ったなしの情緒もへったくれもない会話を普通にしてしまうような二人だった。
だけれども。私は、私たちは、夫婦だったのだ。焦げだらけのおかずにも文句ひとつ言わず御馳走さまと、そう律義に呟くあなたは、夕食の席で決まってこれまでに外で見てきたもののことを話してくれた。思い出したままにぽつぽつと溢れる音がその光景を形作る。にわか雨の後にかかった虹のこと、戦場に咲く小さな花の鮮やかさ。澄み切った湖の水に草原を吹き抜ける風の音。木の実に集まる小鳥たちや道端に落ちていた綺麗な石の話。ふとした瞬間を大切に切り取って、そうして私に教えてくれる貴方のことが、私は本当に好きだった。大したことじゃなくてごめんねと、照れたように前置いて語られる飾り気のない美しいその話たちが、真剣に語ってくれるあなたのその横顔が。私は大好きだった。本当に、大好きだった、のに。
なのに、どうして。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
隣国との最後の戦も、もう間もなく終わるだろう。数週間前に結ばれたはずの休戦協定で人質として送られてきた私と姉は、敵となったその国の城で迫りくる終焉の時を待っていた。
私たちは、戦勝のための布石だ。そのために生み育てられ、日々を過ごしてきた。そのために勇将と婚姻を結び、人質としての価値を予め上げていた。初めから死ぬことを前提に送り出される人質なのだから、母国が攻撃を躊躇う理由は全くない。愚かにも重要な人質を手に入れたと油断していたこの国は、もはや三日と持たずに陥ちるはずだ。人質として意味をなさない存在だと知れた私たちは手が空き次第処刑されることになっていて、今はただ同じ部屋で最後の別れを惜しんでいた。
「……無事に勝てそうで、よかったわね」
「負けるわけがないわ、姉様のご夫君と私の夫がいるんだから」
青褪めた顔の姉は、けれど私の返した言葉にも当然のようにそうねと頷く。深窓の姫君であるはずの姉の目に、涙の膜は張っていない。瞳の奥にあるであろう怯えの色を綺麗に押し隠し、姉はふわりと笑って見せた。
――――当たり前だ。だって、私たち王族は国内で絶対の権力をもって君臨している。国民がそれを許すのは、私たちが上に立つことで彼らにも得られるものがあるからだ。父や兄たち男は、その武でもって外難を退け、その智でもって政を治める。母は幼い頃から望んで身に着けた知で父を助け、必要があれば自ら指揮を執り政を治める。ならば力もなく、政治にも疎いまま育った私たち姫は何をすればいい?一体何を以って、国民からの畏敬の念に報いればいい?
「ねえ、わたくしたち、有用な駒になれたかしら」
「ええ、ばっちり」
硬い顔ながら冗談めかしてそういう姉に、親指を立てて答える。庶民の間で流行りの、肯定を示す仕草だ。街で見かけて以来気に入ってしまって随所で使っている。庶民の暮らしを思う存分楽しんだ私と違って未だ深窓の姫君のような暮らしをしている姉のことだ、もしかすると下品な真似をと言うかもしれない。そんな風にも思ったけれどぱちりと瞬いた目で弧を描いて、姉は同じ仕草を返してくれた。
そう、私たちは有事の際の駒だ。戦を優位に進めて勝利するための、布石。
勇将との婚姻だって本当は形式上のものに過ぎなくて、要するに「あの」将軍の妻、という立場を手に入れられればそれでいい。勿論、武をもって国の中枢に関わるようになった夫たちはそのことを承知のうえで私達と婚姻を結んでいた。
国で最も身分の高い王族であることに加えてそれが一国の勇将の配偶者ともなれば、一層私達の人質としての価値は高まるし交換条件として提示された相手は油断する。まさか相手国が重要人物の妻たる姫を犠牲にして突撃してくるだなんて、夢にも思わないからだ。それを知ったうえで私達は人質としてこの国に来た。もう生まれ故郷の土を踏むことはできないと知って、それでも。
厳しいようだけれども、それが私達の国が生き残る術。私や姉だけではなく、王族は皆これを心得ている。王に連なる者たちが日頃多少居丈高にふるまっても贅を尽くしても許されるのは、私達がいざとなれば身を以て国に尽くすからだ。だから期の細い姉だって決して泣くことはない。彼女を深窓の姫君と呼ぶ人々は、そのか弱い姫君が務めを果たすときの腹の括り方を知らないのだ。現に牢から引き出された時の落ち着き様などは、私よりよっぽど肝が据わっているとしか言いようのないものだった。
「姉様、私達幸せでしたね」
「ええ、幸せだったわ。あんな素敵な旦那様、どこを探してもいないわよ」
「あら、私の夫だっていい人ですよ。ただちょっと色恋に疎いだけで」
「それが致命的なのではなくって?」
どうでもいい会話をしながら、二人してくすくす笑う。とうに覚悟はしていた。人質に出されると決まったその時から、否、ずっと昔から、いつか来る終わりのことを覚悟して生きてきたのだ。
今さら何に怯えることがあるかしら、と姉が笑う。姫失格だろうが何だろうが王族の一端を担ってきたのだもの、最後くらいは王族の名に恥じない誇り高い死に方をしてみせます。そんな風に、私も返した。
「ッくそ!こいつらを、こいつらを殺せ!」
バンっと荒々しい音と共に扉が開いた。火に焼かれたのだろうか、赤く染まった剣を持った兵士が部屋に飛び込んでくるのを二人落ち着き払って迎える。
少しも怖くはなかった。ただ、これで最後だと思うとなぜか、夫の顔が頭に浮かんだ。ああ、好きだと言っておけばよかったな、だなんてそんな思いも。
人質として出立した時、最後まで別れを惜しんで抱き合っていた姉夫婦の横で、私たちはちょっと笑って二人で流れる雲を見ていた。きっと互いに何を言えばいいのか分からなくて、結局さよならの一言すら交わさないまま二人同じ空を見上げることしかできなかった。あの時に、好きでしたと伝えておけばよかったかもしれない。好きだったのだ。恋はしていなかったと言いきれてしまうけれど、そばにいてくれた温かさが大好きだった。他の誰でもなく私を妻として扱ってくれた、私の、私だけの、大切な貴方に。
見つかってしまった心残りに笑って、ゆっくりと目を閉じようとした。
―――――瞬間。疾風のようにもう一人、誰かが部屋へ飛び込んできた。
「死ねぇ!………ぐっ!?」
剣を振り上げた兵士が崩れ落ちる。背を切り裂いたのであろう剣の形は、間違いなく母国のものだった。助けが。どうして、もう。だってまだ、兵たちは到底たどり着けない距離にいるのに。そのはずなのに。
赤く染まったその人の足から順に、ゆっくりと視線を上げていく。
どうしてだろう、怖くて顔を見られないのは。ねぇ、どうしてこんなに怖いんだろう。どうしてだろう、殺されようというときにも常のままだった心臓が今痛いほど脈打っているのは、ねぇ、どうして、
「………!!」
血まみれの彼を見て、姉が上げた絹を裂くような悲鳴が、耳の奥にこびり付いて離れない。
視界に入った人影を、私はそれと認識できなかった。したくないのだと、心が叫んでいた。
「どう、して」
服はぼろぼろで、左目が赤く染まった布で乱暴に隠されていて、右足は変に曲がって引きずっていて、無事なところが見つからないほどに体のいたるところを深紅に染めている、その人は。誰がどう見たってもう瀕死の重傷だと、一目でそう分かってしまう程にひどい赤色を纏っているその兵は。
「っ!」
―――――彼は、夫だった。
夫じゃなければいいのに、私の勘違いならいいのに。そんな虫の良すぎる考えが、回らない頭をよぎる。
ああ、だけれど残された方の瞳が、こんな時だというのにそっと細められたその形は、紛れもなく私と婚姻を結んだあなたのもので。切りつけた剣を持つ手には、見覚えのある傷跡が残されていて。―――ああ、この人は彼なのだと、どうしてもそう理解させられてしまって。
どうして、なのだろう。
優しい、優しいあなたは、見るも無残な姿で、人質部屋までやって来た。
「…………ュ」
ユレイル。彼の名前を呼ぼうとして口を開けたのに、締め付けられた喉奥から出てきたのは、まるで言葉にならない細い悲鳴だけ。もう一度呼ぼうとしても上手く息が吸えず、手を伸ばそうにも体がガタガタと震えて言うことを聞かない。
「……ごめん、びっくりさせたね」
それを、私が怯えてのことだと取ったのだろう。彼は怖がらせてすまないと苦笑して、先ほど切り捨てた兵士の首元をぐっとつかんだ。血塗れの、あちこちに真新しい傷が見える手で。
「もう、大丈夫だから」
そう言って兵を引きずる力など、一体この血塗れの体のどこに残っているのだろう。どこもかしこも覆っている赤い血をもってしても隠し切れないほどに、蒼白な顔をしているのに。もう立っていることすら限界のはずなのに、それでも貴方は。
違う。違うわ。
そう言いたかった。
びっくりしたんじゃない。兵士が怖かったんじゃない。血塗れの貴方を見て、怯えたわけでもない。
私が震えて立てないのは、口を開いても言葉が出てこないのは、そんなことが理由じゃない。ぼろぼろになってしまった貴方を、平気でなんて見ていられない。貴方がその身に負った傷を、数えきれない痛みを想像するだけで、気が狂いそうなの。
どうして。ねぇ、どうして、私の貴方。
「大丈夫、怖がらないで。すぐに、助け、が、くる」
「違う!」
部屋の外へと兵を引きずっていく彼は、真っ白な顔にそれでも笑みを浮かべてそう言う。動かない喉を引き絞り、まるで悲鳴のような声を無理やり押し出した。
違う、待って。行かないで。そんな兵士なんてどうでもいい、だって本当は私の命だってどうだってよかったはずなのに、だってあの扉の向こうに消えてしまえば、
――――――――きっとあなたとはもう、二度と会えない。
「好き、だったの。私、あなたのことが、ずっと」
転がり出た言葉を斟酌する余裕なんて、あるはずもなかった。私の舌が紡ぐに任せ、心のまま、ありのままをさらけ出す。
伝えないといけない。そう思った。
伝えないと。私の気持ちを。いつかこんな風になるならと、そう思って今まで伝えてこなかった気持ちを、だけどこんな時だからこそ。
「恋じゃ、なかった。でも、わたしは、あなたのことが」
舌がもつれても構わなかった。みっともなく縋って、それで彼を一秒でもこの場に留めておけるのならいくらでも縋るだろう。
貴方のことが、好きで、好きで好きで好きで、どうしたって失いたくなくて。ずっと一緒にいたくて、ずっと一緒にいられないと分かっていて、それでもずっと。
言葉の波が溢れ出す、その寸前に黙って兵を引っ張っていた夫が扉の前で足を止めた。刹那、無事な方の目が私の方を振り向いて――――ちらりと、口元に白い歯が覗く。
「―――知ってたよ」
そう言って浮かべた彼の笑みは、今までで一番優しくて、力強くて、私への温かさで満ちていた。そして、その笑みをちょっと困ったようにゆがめて、彼は「ごめんね」と言った。
嫌だと、全身が強く震える。
「いや、嫌だ、待って、ユレイル――ッ!」
―――それでも。懸命に伸ばした手は空を切り、扉は無常に音を立てて閉じる。赤く染まった部屋に残されたのは呆然と涙を流す姉と、半狂乱で泣きわめく私だけだった。震える足で二、三歩歩きかけたところでかくんと力が抜けた。開かぬ扉を前に、ただ泣き崩れることしかできない。
ユレイル。まわらない舌でただ、貴方の名前を呼んだ。
ユレイル。ユレイル。私の、貴方。私だけの貴方。
ごめんね、なんて、貴方が謝ることは何一つないのに。謝るべきは、望んでもいなかった妻としてあなたに嫁いで、貴方から自由を、恋を、これから先の未来をすべて奪った私のほうなのに。
兵を外に連れ出したのは、きっと私たちに血を見せたくなかったから。集団でくればかすり傷一つ負わなかったはずの貴方があんなにひどい怪我をしていたのは、きっとここまで単騎でやってきたから。
それが命令だったはずはないのに、だって私たちの死は決まっていたものだった。貴方もそれを知っていたはずだった。優秀な貴方が、兄と共に勇将と称えられる貴方がむざむざ死にに行くようなことは万に一つもなかった。それなのにどうして。どうして、ユレイル。
どんなに泣いても叫んでも、もう優しい声は返ってこない。
名ばかりの姫を、己からたくさんのものを奪った女に全てを与えて、そうしてユレイルは命まで捨ててしまった……。
尽きぬ涙が枯れるとともに、私も彼の元へ逝けたならいい。
そんな叶わぬ思いを、心の底から希っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
そうして。
ユレイルが来た日から三日を待たずにその国は白旗を上げ、私と姉は無事救出された。助け出してくれたのは、姉の夫が率いる軍勢だった。ユレイルの、兄君だ。
自らも弟を亡くした彼は、それなのにそんなことはおくびにもださず私たちの安否を気遣い、不便なく国へ帰れるよう手はずを整えてくれた。
義兄君は帰る手段や道について安全性と時間を考慮してあれこれと提示してくれたようだったけれど、私は何だか全ての記憶が曖昧で。結局姉が諸々を選んでくれていたのだろう、翌日には馬車と人員が手配されていた。
物言わぬユレイルと再会したのは、その時。
「……ユレ、イル」
死に化粧などしていないのに、真っ白で血の気が少しもないユレイル。悲惨な傷をあちこちに負っていた彼の体はほとんどが覆い隠されてしまっていて、私が見ることを許されたのは彼の顔の右半分と、右手の先だけだった。人を切るための武器を握っていた手は、それがゆえに大きな損傷を避けられたのだと。
「握っても、いいでしょうか」
「ええ、弟もそう望んでいるはずです」
義兄に促されてひんやりとした彼の手に触れる。いつだったか、市場に出かけた時に人込みではぐれるからと繋いでくれた手だ。あの時の力強さも、弾力も、もうすべてを失った冷たい手だった。両手で包み込んでも私の温もりが伝わることのない、血の気の失われてしまったユレイルの。
「……姫君、泣かないでください」
「もう、しわけありません」
ユレイルの兄君が困ったように笑う。自身も弟を亡くして辛いだろうに、彼は私の方がつらいだろうと気遣うばかりで悲しむ素振りは一切見せないのだ。その勁さに、最期のユレイルを重ねてしまってまた涙があふれた。
泣かないでくれと、義兄が言う。困ったように、それでもどこか温かい声音で、自慢の弟を褒める時の声音で彼は言葉を紡いだ。
「アレは……ユレイルは、進軍が決まった瞬間に部隊を副長に投げ渡して、単騎で駆けていきました。将軍として生きることより妻の命を選ぶと、そう言って。昔から、自己評価が低い弟でした。手を伸ばせばなんにでも届く力がありながら、自分が確実にできることにしか手を出そうとしない。失敗したくないという彼を、私は意気地なしだと散々からかったものです。…けれどそんなあいつが、絶対に不可能なはずの単騎突破に自ら挑んでいった。誰に言われたのでもない、他ならぬあいつ自身の意志で。全ては、姫様を助けたいがためです。姫様がご無事で、本当によかった。きっと弟も、喜んでいるでしょう」
だから、もう泣かないで下さいと。そう言われて、懸命に溢れ出す涙を拭った。
「いけない、姉様のご夫君を独り占めしてしまうなんて」
笑う。泣き続けて強張った顔の筋肉で、上手く笑顔は作れているだろうか。今だけでもいい。ばれていると分かっても、私は笑う。明るさと元気だけが取り柄の下の姫に、今だけ戻れていますように。
「ありがとうございます、もう大丈夫。…帰りの馬車に、ユレイルも乗せていただけますか」
義兄上が黙って手配してくれた馬車には私と、ユレイルが寝かせられた簡易の棺が乗せられていた。
一人には十分で二人だとやや手狭なそこは、ユレイルと私の二人っきりの、一人ぼっちの空間で。
私は帰路の間中、声が外に漏れないよう必死に音を噛み殺して泣き続けることしかできなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
私達を乗せた馬車が母国に帰りついたのは、それから数日経ってのことだった。
帰宅の前に、ユレイルの火葬があった。棺に取りすがる私を実兄や義兄が押さえつけるようにしてようやくのことで葬儀は行われ、彼は空へかえっていった。どうしようもなく離れ難かったけれど、時間が経ってより無残なことになる前に、綺麗な姿で送ることができてよかったのかもしれない。もう手の届かない所に行ってしまった彼を見ながら、ぼんやりとそう思った。
空へ昇っていく煙を見て、また一人で泣いた。…泣いても泣いても、涙が枯れ果てることはないらしい。そしてそれと同じだけ、彼に伝えたかったことが後から後から溢れ出て止まらなかった。
ユレイル。優しい貴方に、次の生ではどうか、どうか穏やかで幸福な日々が贈られますように。彼の行く先がどうか、無理やりでなく彼自身の意志で恋した人と結ばれることのできる、そんな幸せな未来が約束された健やかなものでありますように。
そう願うことしか、私にはもうできないけれど。
火葬が終わってからどこをどう歩いたのか記憶はない。けれど気が付けば足は、私たちの小さな家に帰っていた。
泣き腫らした目で家を見上げる。貴方は質素で小さいとすまなそうにしていたけれど、いつだって温かくて居心地のいい大好きな家。家中どこに居たって、貴方の呼び声がすぐに聞こえる家。もう、彼が帰ることはできない、二人の家。
きい、と小さな音を立てて、久方ぶりに自宅の扉を開けて。
「………え」
そこに、小さな絵があった。休日には騎士らしくないこともしたいのだと、そんな風に彼が言ったことがあったのを思い出す。気まぐれに描いた絵がすごく綺麗で、それを趣味にしたらいいよと言ったことも。いつか私にも絵を描いてほしいとねだったのは、あれはいつのことだっただろう。
存外凝り性だったユレイルは、描けば描くほど画材にこだわるようになっていった。
騎士らしくないことをするべく、その休日に一緒に買いに行った絵筆と、彼の一番気に入っていた店のキャンバスと。
そこにはまるで本物と見まがうような大輪の薔薇が、活き活きと描き出されている。
余白には、少し崩れたあの人の文字。――――シェーラに。
『知ってたよ』
最期の言葉が甦って、堪えきれずに咽んだ。
「ユレイル…っ!」
ぼやける視界の中でも、深紅の薔薇だけははっきりと見えた。
真っ赤な薔薇の意味は、「愛している」。恋じゃない、愛なのだ。
照れ屋の彼が、きっと精一杯に考えて伝えようとしてくれた、私への気持ち。
ユレイル。大好きな、誰よりも大好きな、私の最愛の人。軍規に背いて、敬愛していた兄を振り切って、たった一人で死ぬために…私を生かすために、助けに来てくれた貴方。
恋じゃない。そう、夫に言った。彼は、笑って知っていたと答えた。
ああ、本当にそうだ。私たちの間に恋なんてなかった。そんな甘くて軽いものなんかじゃ、なかったのだ。
私は、あの人を愛していた。なにがあっても、たとえ死が二人を別っても、ずっとずっと愛していけるくらいに、あの人のことが好きだったのだと、ようやくそう分かったのだ。
ユレイルが命がけでくれたこれからの日々を、いけるところまで生きていこうと、思った。彼がいない世界を生きて生きて、どこまでも生きて。もうどれだけ苦しくても生きることを諦めたりはしないから。
だから、いつの日か私の命が終わる日が来たのなら。
その時は、貴方がくれた薔薇を持って、会いに行ってもいいかしら。
ねぇ、ユレイル。
笑う。この思いが、貴方に届くように。どこにいてもすぐに分かると言われた満面の笑みを浮かべて私はキャンバスをそっと撫でた。
私もよ。私も、あなたのことが。
Fin
呟く声が掠れていた。理由は、分からない。分かりたくない。
目の前に映る光景をだれが真実と言ったって、私は今ここにある現実を信じられない。
名ばかりの姫と陰に日向に笑われて生きてきた私が、武功を立てたのだという夫に嫁いでまだ一年も経っていない。爵位も何もない平民の兵士が、いくら外れとはいえ一国の姫を娶る程の功をあげたというのだからきっと荒くれ者だろうな、だなんてと思い込んでいたのはほんの数日のこと。街の様子を知っておいた方がいいかもしれない、と連れ出された先で迷子の子供をおろおろしながら抱き上げる彼を見る頃には、そんな考えはすっかりどこかへ消えていた。
小さな子供をそっとくるんだその手で彼は剣をふるい、命のやり取りをしているのだという。彼が兵士だと知らなければ——否、知っていたとしても信じられないほどに優しい、優しい人だった。
ろくに料理も縫物もできない上に気品のかけらもない私を、それでも笑って見守ってくれる人だった。平民になるには常識が欠け、貴族と言い張るには些か礼儀作法に難がある、そんな私を妻として扱ってくれた。名ばかりだとそう笑われることには慣れきっていて、仮に夫にそう言われようと心ひとつ動かない自信はあったのだけれど。
あの人は一度だって私を嗤うことも馬鹿にすることもなかった。礼儀がなっていなくて悪い、だなんて言いながら、その口が私を傷つける言葉を紡ぐことは決して無い。二人で暮らす小さな家の中では、無理やりに吐き出される賛辞の言葉を聞くことも、もちろんこちらから思ってもいない礼を告げることも必要ではないのだ。姫という立場ではどれほど望んでも得られなかったはずの何不自由ない穏やかな日々を、あの人はくれた。
私と正反対で美しく大人しく儚く繊細でおっとりとした、つまりおとぎ話のお姫様そのものだった姉は、私たちの婚姻と時期を同じくして夫の兄君に嫁いでいた。私同様に武功に対する褒賞として降嫁したのだ。若くして王宮の奥深くにも名の知れていた将軍こと義兄君はどうやら姉に首ったけのようで、嫁いでからというもの姉にはしょっちゅう惚気話を聞かされた。
『愛してるよと、いつも仰るのよ……!』
剣を振るうだなんて恐ろしい、嫁がずにすむなら嫁ぎたくないと青ざめていたときの面影はどこへやら。白皙の頬を桃色に染めて惚気る姉に、へえと気のない返事をしたのはいつのことだったか。
最早あれほど政略結婚を憂えていた姉はどこにもいなくて、なんであれ幸せそうならよかったと暢気にそう思ったものだ。残念ながら私はそんなことを憂えるような繊細さは持ち合わせていないので、震える姉を前にしていたときにも深窓の姫君は大変だなあとまるっきり他人事のようなことをぼんやり考えるだけだった。
惚気を聞いたところで同じことだ、義兄君がどれほど素敵でどれほど愛を告げてくれるのか、あれこれと語られても「ふぅん」としか返せなかった。さすがに毎度毎度ふぅんではまずいかと、「おとぎ話みたい」と返したこともある。姉は花が咲くように笑って頷いていた。
姉のようなおとぎ話もかくやという体験は、私にはない。
夫は無口というほどではなかったけれどもとかく色恋には疎い、愛の言葉などさっぱりわからないと自分で言いきっていたし、実際あまり女性慣れしているようにも見えなかった。私が横着して薄いワンピース一枚で出迎えた時のうろたえぶりなど、今思い出してもとても先の戦の勇将であるとは思えない。
そしてそれは、私も似たようなものだった。色恋というものに憧れたことはないし、正直なところ甘酸っぱい恋物語を聞いてもそうですか、としか言えない。
結婚してからというもの彼の仕事がない日にはずっと一緒にいたけれど、夫を見て私の胸が高鳴ることは別になかった。夫のほうもワンピース事件の際には常識として薄着にうろたえただけであって、私に魅力を感じたからどうこうということは一切なかったのだそうだ(これは服を着直して出てきた私に夫が直接告げた。さすがになけなしの乙女心が痛んだ)。
だから、私たちの間に恋なんていう甘くて桃色をした感情は存在していなかったし、お互いそれをどうとも思っていなかった。所詮恋をして結んだ婚姻ではないのだから、無理やり恋し合う夫婦の真似を必要もないだろうだなんて、姉が聞けば卒倒待ったなしの情緒もへったくれもない会話を普通にしてしまうような二人だった。
だけれども。私は、私たちは、夫婦だったのだ。焦げだらけのおかずにも文句ひとつ言わず御馳走さまと、そう律義に呟くあなたは、夕食の席で決まってこれまでに外で見てきたもののことを話してくれた。思い出したままにぽつぽつと溢れる音がその光景を形作る。にわか雨の後にかかった虹のこと、戦場に咲く小さな花の鮮やかさ。澄み切った湖の水に草原を吹き抜ける風の音。木の実に集まる小鳥たちや道端に落ちていた綺麗な石の話。ふとした瞬間を大切に切り取って、そうして私に教えてくれる貴方のことが、私は本当に好きだった。大したことじゃなくてごめんねと、照れたように前置いて語られる飾り気のない美しいその話たちが、真剣に語ってくれるあなたのその横顔が。私は大好きだった。本当に、大好きだった、のに。
なのに、どうして。
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隣国との最後の戦も、もう間もなく終わるだろう。数週間前に結ばれたはずの休戦協定で人質として送られてきた私と姉は、敵となったその国の城で迫りくる終焉の時を待っていた。
私たちは、戦勝のための布石だ。そのために生み育てられ、日々を過ごしてきた。そのために勇将と婚姻を結び、人質としての価値を予め上げていた。初めから死ぬことを前提に送り出される人質なのだから、母国が攻撃を躊躇う理由は全くない。愚かにも重要な人質を手に入れたと油断していたこの国は、もはや三日と持たずに陥ちるはずだ。人質として意味をなさない存在だと知れた私たちは手が空き次第処刑されることになっていて、今はただ同じ部屋で最後の別れを惜しんでいた。
「……無事に勝てそうで、よかったわね」
「負けるわけがないわ、姉様のご夫君と私の夫がいるんだから」
青褪めた顔の姉は、けれど私の返した言葉にも当然のようにそうねと頷く。深窓の姫君であるはずの姉の目に、涙の膜は張っていない。瞳の奥にあるであろう怯えの色を綺麗に押し隠し、姉はふわりと笑って見せた。
――――当たり前だ。だって、私たち王族は国内で絶対の権力をもって君臨している。国民がそれを許すのは、私たちが上に立つことで彼らにも得られるものがあるからだ。父や兄たち男は、その武でもって外難を退け、その智でもって政を治める。母は幼い頃から望んで身に着けた知で父を助け、必要があれば自ら指揮を執り政を治める。ならば力もなく、政治にも疎いまま育った私たち姫は何をすればいい?一体何を以って、国民からの畏敬の念に報いればいい?
「ねえ、わたくしたち、有用な駒になれたかしら」
「ええ、ばっちり」
硬い顔ながら冗談めかしてそういう姉に、親指を立てて答える。庶民の間で流行りの、肯定を示す仕草だ。街で見かけて以来気に入ってしまって随所で使っている。庶民の暮らしを思う存分楽しんだ私と違って未だ深窓の姫君のような暮らしをしている姉のことだ、もしかすると下品な真似をと言うかもしれない。そんな風にも思ったけれどぱちりと瞬いた目で弧を描いて、姉は同じ仕草を返してくれた。
そう、私たちは有事の際の駒だ。戦を優位に進めて勝利するための、布石。
勇将との婚姻だって本当は形式上のものに過ぎなくて、要するに「あの」将軍の妻、という立場を手に入れられればそれでいい。勿論、武をもって国の中枢に関わるようになった夫たちはそのことを承知のうえで私達と婚姻を結んでいた。
国で最も身分の高い王族であることに加えてそれが一国の勇将の配偶者ともなれば、一層私達の人質としての価値は高まるし交換条件として提示された相手は油断する。まさか相手国が重要人物の妻たる姫を犠牲にして突撃してくるだなんて、夢にも思わないからだ。それを知ったうえで私達は人質としてこの国に来た。もう生まれ故郷の土を踏むことはできないと知って、それでも。
厳しいようだけれども、それが私達の国が生き残る術。私や姉だけではなく、王族は皆これを心得ている。王に連なる者たちが日頃多少居丈高にふるまっても贅を尽くしても許されるのは、私達がいざとなれば身を以て国に尽くすからだ。だから期の細い姉だって決して泣くことはない。彼女を深窓の姫君と呼ぶ人々は、そのか弱い姫君が務めを果たすときの腹の括り方を知らないのだ。現に牢から引き出された時の落ち着き様などは、私よりよっぽど肝が据わっているとしか言いようのないものだった。
「姉様、私達幸せでしたね」
「ええ、幸せだったわ。あんな素敵な旦那様、どこを探してもいないわよ」
「あら、私の夫だっていい人ですよ。ただちょっと色恋に疎いだけで」
「それが致命的なのではなくって?」
どうでもいい会話をしながら、二人してくすくす笑う。とうに覚悟はしていた。人質に出されると決まったその時から、否、ずっと昔から、いつか来る終わりのことを覚悟して生きてきたのだ。
今さら何に怯えることがあるかしら、と姉が笑う。姫失格だろうが何だろうが王族の一端を担ってきたのだもの、最後くらいは王族の名に恥じない誇り高い死に方をしてみせます。そんな風に、私も返した。
「ッくそ!こいつらを、こいつらを殺せ!」
バンっと荒々しい音と共に扉が開いた。火に焼かれたのだろうか、赤く染まった剣を持った兵士が部屋に飛び込んでくるのを二人落ち着き払って迎える。
少しも怖くはなかった。ただ、これで最後だと思うとなぜか、夫の顔が頭に浮かんだ。ああ、好きだと言っておけばよかったな、だなんてそんな思いも。
人質として出立した時、最後まで別れを惜しんで抱き合っていた姉夫婦の横で、私たちはちょっと笑って二人で流れる雲を見ていた。きっと互いに何を言えばいいのか分からなくて、結局さよならの一言すら交わさないまま二人同じ空を見上げることしかできなかった。あの時に、好きでしたと伝えておけばよかったかもしれない。好きだったのだ。恋はしていなかったと言いきれてしまうけれど、そばにいてくれた温かさが大好きだった。他の誰でもなく私を妻として扱ってくれた、私の、私だけの、大切な貴方に。
見つかってしまった心残りに笑って、ゆっくりと目を閉じようとした。
―――――瞬間。疾風のようにもう一人、誰かが部屋へ飛び込んできた。
「死ねぇ!………ぐっ!?」
剣を振り上げた兵士が崩れ落ちる。背を切り裂いたのであろう剣の形は、間違いなく母国のものだった。助けが。どうして、もう。だってまだ、兵たちは到底たどり着けない距離にいるのに。そのはずなのに。
赤く染まったその人の足から順に、ゆっくりと視線を上げていく。
どうしてだろう、怖くて顔を見られないのは。ねぇ、どうしてこんなに怖いんだろう。どうしてだろう、殺されようというときにも常のままだった心臓が今痛いほど脈打っているのは、ねぇ、どうして、
「………!!」
血まみれの彼を見て、姉が上げた絹を裂くような悲鳴が、耳の奥にこびり付いて離れない。
視界に入った人影を、私はそれと認識できなかった。したくないのだと、心が叫んでいた。
「どう、して」
服はぼろぼろで、左目が赤く染まった布で乱暴に隠されていて、右足は変に曲がって引きずっていて、無事なところが見つからないほどに体のいたるところを深紅に染めている、その人は。誰がどう見たってもう瀕死の重傷だと、一目でそう分かってしまう程にひどい赤色を纏っているその兵は。
「っ!」
―――――彼は、夫だった。
夫じゃなければいいのに、私の勘違いならいいのに。そんな虫の良すぎる考えが、回らない頭をよぎる。
ああ、だけれど残された方の瞳が、こんな時だというのにそっと細められたその形は、紛れもなく私と婚姻を結んだあなたのもので。切りつけた剣を持つ手には、見覚えのある傷跡が残されていて。―――ああ、この人は彼なのだと、どうしてもそう理解させられてしまって。
どうして、なのだろう。
優しい、優しいあなたは、見るも無残な姿で、人質部屋までやって来た。
「…………ュ」
ユレイル。彼の名前を呼ぼうとして口を開けたのに、締め付けられた喉奥から出てきたのは、まるで言葉にならない細い悲鳴だけ。もう一度呼ぼうとしても上手く息が吸えず、手を伸ばそうにも体がガタガタと震えて言うことを聞かない。
「……ごめん、びっくりさせたね」
それを、私が怯えてのことだと取ったのだろう。彼は怖がらせてすまないと苦笑して、先ほど切り捨てた兵士の首元をぐっとつかんだ。血塗れの、あちこちに真新しい傷が見える手で。
「もう、大丈夫だから」
そう言って兵を引きずる力など、一体この血塗れの体のどこに残っているのだろう。どこもかしこも覆っている赤い血をもってしても隠し切れないほどに、蒼白な顔をしているのに。もう立っていることすら限界のはずなのに、それでも貴方は。
違う。違うわ。
そう言いたかった。
びっくりしたんじゃない。兵士が怖かったんじゃない。血塗れの貴方を見て、怯えたわけでもない。
私が震えて立てないのは、口を開いても言葉が出てこないのは、そんなことが理由じゃない。ぼろぼろになってしまった貴方を、平気でなんて見ていられない。貴方がその身に負った傷を、数えきれない痛みを想像するだけで、気が狂いそうなの。
どうして。ねぇ、どうして、私の貴方。
「大丈夫、怖がらないで。すぐに、助け、が、くる」
「違う!」
部屋の外へと兵を引きずっていく彼は、真っ白な顔にそれでも笑みを浮かべてそう言う。動かない喉を引き絞り、まるで悲鳴のような声を無理やり押し出した。
違う、待って。行かないで。そんな兵士なんてどうでもいい、だって本当は私の命だってどうだってよかったはずなのに、だってあの扉の向こうに消えてしまえば、
――――――――きっとあなたとはもう、二度と会えない。
「好き、だったの。私、あなたのことが、ずっと」
転がり出た言葉を斟酌する余裕なんて、あるはずもなかった。私の舌が紡ぐに任せ、心のまま、ありのままをさらけ出す。
伝えないといけない。そう思った。
伝えないと。私の気持ちを。いつかこんな風になるならと、そう思って今まで伝えてこなかった気持ちを、だけどこんな時だからこそ。
「恋じゃ、なかった。でも、わたしは、あなたのことが」
舌がもつれても構わなかった。みっともなく縋って、それで彼を一秒でもこの場に留めておけるのならいくらでも縋るだろう。
貴方のことが、好きで、好きで好きで好きで、どうしたって失いたくなくて。ずっと一緒にいたくて、ずっと一緒にいられないと分かっていて、それでもずっと。
言葉の波が溢れ出す、その寸前に黙って兵を引っ張っていた夫が扉の前で足を止めた。刹那、無事な方の目が私の方を振り向いて――――ちらりと、口元に白い歯が覗く。
「―――知ってたよ」
そう言って浮かべた彼の笑みは、今までで一番優しくて、力強くて、私への温かさで満ちていた。そして、その笑みをちょっと困ったようにゆがめて、彼は「ごめんね」と言った。
嫌だと、全身が強く震える。
「いや、嫌だ、待って、ユレイル――ッ!」
―――それでも。懸命に伸ばした手は空を切り、扉は無常に音を立てて閉じる。赤く染まった部屋に残されたのは呆然と涙を流す姉と、半狂乱で泣きわめく私だけだった。震える足で二、三歩歩きかけたところでかくんと力が抜けた。開かぬ扉を前に、ただ泣き崩れることしかできない。
ユレイル。まわらない舌でただ、貴方の名前を呼んだ。
ユレイル。ユレイル。私の、貴方。私だけの貴方。
ごめんね、なんて、貴方が謝ることは何一つないのに。謝るべきは、望んでもいなかった妻としてあなたに嫁いで、貴方から自由を、恋を、これから先の未来をすべて奪った私のほうなのに。
兵を外に連れ出したのは、きっと私たちに血を見せたくなかったから。集団でくればかすり傷一つ負わなかったはずの貴方があんなにひどい怪我をしていたのは、きっとここまで単騎でやってきたから。
それが命令だったはずはないのに、だって私たちの死は決まっていたものだった。貴方もそれを知っていたはずだった。優秀な貴方が、兄と共に勇将と称えられる貴方がむざむざ死にに行くようなことは万に一つもなかった。それなのにどうして。どうして、ユレイル。
どんなに泣いても叫んでも、もう優しい声は返ってこない。
名ばかりの姫を、己からたくさんのものを奪った女に全てを与えて、そうしてユレイルは命まで捨ててしまった……。
尽きぬ涙が枯れるとともに、私も彼の元へ逝けたならいい。
そんな叶わぬ思いを、心の底から希っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
そうして。
ユレイルが来た日から三日を待たずにその国は白旗を上げ、私と姉は無事救出された。助け出してくれたのは、姉の夫が率いる軍勢だった。ユレイルの、兄君だ。
自らも弟を亡くした彼は、それなのにそんなことはおくびにもださず私たちの安否を気遣い、不便なく国へ帰れるよう手はずを整えてくれた。
義兄君は帰る手段や道について安全性と時間を考慮してあれこれと提示してくれたようだったけれど、私は何だか全ての記憶が曖昧で。結局姉が諸々を選んでくれていたのだろう、翌日には馬車と人員が手配されていた。
物言わぬユレイルと再会したのは、その時。
「……ユレ、イル」
死に化粧などしていないのに、真っ白で血の気が少しもないユレイル。悲惨な傷をあちこちに負っていた彼の体はほとんどが覆い隠されてしまっていて、私が見ることを許されたのは彼の顔の右半分と、右手の先だけだった。人を切るための武器を握っていた手は、それがゆえに大きな損傷を避けられたのだと。
「握っても、いいでしょうか」
「ええ、弟もそう望んでいるはずです」
義兄に促されてひんやりとした彼の手に触れる。いつだったか、市場に出かけた時に人込みではぐれるからと繋いでくれた手だ。あの時の力強さも、弾力も、もうすべてを失った冷たい手だった。両手で包み込んでも私の温もりが伝わることのない、血の気の失われてしまったユレイルの。
「……姫君、泣かないでください」
「もう、しわけありません」
ユレイルの兄君が困ったように笑う。自身も弟を亡くして辛いだろうに、彼は私の方がつらいだろうと気遣うばかりで悲しむ素振りは一切見せないのだ。その勁さに、最期のユレイルを重ねてしまってまた涙があふれた。
泣かないでくれと、義兄が言う。困ったように、それでもどこか温かい声音で、自慢の弟を褒める時の声音で彼は言葉を紡いだ。
「アレは……ユレイルは、進軍が決まった瞬間に部隊を副長に投げ渡して、単騎で駆けていきました。将軍として生きることより妻の命を選ぶと、そう言って。昔から、自己評価が低い弟でした。手を伸ばせばなんにでも届く力がありながら、自分が確実にできることにしか手を出そうとしない。失敗したくないという彼を、私は意気地なしだと散々からかったものです。…けれどそんなあいつが、絶対に不可能なはずの単騎突破に自ら挑んでいった。誰に言われたのでもない、他ならぬあいつ自身の意志で。全ては、姫様を助けたいがためです。姫様がご無事で、本当によかった。きっと弟も、喜んでいるでしょう」
だから、もう泣かないで下さいと。そう言われて、懸命に溢れ出す涙を拭った。
「いけない、姉様のご夫君を独り占めしてしまうなんて」
笑う。泣き続けて強張った顔の筋肉で、上手く笑顔は作れているだろうか。今だけでもいい。ばれていると分かっても、私は笑う。明るさと元気だけが取り柄の下の姫に、今だけ戻れていますように。
「ありがとうございます、もう大丈夫。…帰りの馬車に、ユレイルも乗せていただけますか」
義兄上が黙って手配してくれた馬車には私と、ユレイルが寝かせられた簡易の棺が乗せられていた。
一人には十分で二人だとやや手狭なそこは、ユレイルと私の二人っきりの、一人ぼっちの空間で。
私は帰路の間中、声が外に漏れないよう必死に音を噛み殺して泣き続けることしかできなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
私達を乗せた馬車が母国に帰りついたのは、それから数日経ってのことだった。
帰宅の前に、ユレイルの火葬があった。棺に取りすがる私を実兄や義兄が押さえつけるようにしてようやくのことで葬儀は行われ、彼は空へかえっていった。どうしようもなく離れ難かったけれど、時間が経ってより無残なことになる前に、綺麗な姿で送ることができてよかったのかもしれない。もう手の届かない所に行ってしまった彼を見ながら、ぼんやりとそう思った。
空へ昇っていく煙を見て、また一人で泣いた。…泣いても泣いても、涙が枯れ果てることはないらしい。そしてそれと同じだけ、彼に伝えたかったことが後から後から溢れ出て止まらなかった。
ユレイル。優しい貴方に、次の生ではどうか、どうか穏やかで幸福な日々が贈られますように。彼の行く先がどうか、無理やりでなく彼自身の意志で恋した人と結ばれることのできる、そんな幸せな未来が約束された健やかなものでありますように。
そう願うことしか、私にはもうできないけれど。
火葬が終わってからどこをどう歩いたのか記憶はない。けれど気が付けば足は、私たちの小さな家に帰っていた。
泣き腫らした目で家を見上げる。貴方は質素で小さいとすまなそうにしていたけれど、いつだって温かくて居心地のいい大好きな家。家中どこに居たって、貴方の呼び声がすぐに聞こえる家。もう、彼が帰ることはできない、二人の家。
きい、と小さな音を立てて、久方ぶりに自宅の扉を開けて。
「………え」
そこに、小さな絵があった。休日には騎士らしくないこともしたいのだと、そんな風に彼が言ったことがあったのを思い出す。気まぐれに描いた絵がすごく綺麗で、それを趣味にしたらいいよと言ったことも。いつか私にも絵を描いてほしいとねだったのは、あれはいつのことだっただろう。
存外凝り性だったユレイルは、描けば描くほど画材にこだわるようになっていった。
騎士らしくないことをするべく、その休日に一緒に買いに行った絵筆と、彼の一番気に入っていた店のキャンバスと。
そこにはまるで本物と見まがうような大輪の薔薇が、活き活きと描き出されている。
余白には、少し崩れたあの人の文字。――――シェーラに。
『知ってたよ』
最期の言葉が甦って、堪えきれずに咽んだ。
「ユレイル…っ!」
ぼやける視界の中でも、深紅の薔薇だけははっきりと見えた。
真っ赤な薔薇の意味は、「愛している」。恋じゃない、愛なのだ。
照れ屋の彼が、きっと精一杯に考えて伝えようとしてくれた、私への気持ち。
ユレイル。大好きな、誰よりも大好きな、私の最愛の人。軍規に背いて、敬愛していた兄を振り切って、たった一人で死ぬために…私を生かすために、助けに来てくれた貴方。
恋じゃない。そう、夫に言った。彼は、笑って知っていたと答えた。
ああ、本当にそうだ。私たちの間に恋なんてなかった。そんな甘くて軽いものなんかじゃ、なかったのだ。
私は、あの人を愛していた。なにがあっても、たとえ死が二人を別っても、ずっとずっと愛していけるくらいに、あの人のことが好きだったのだと、ようやくそう分かったのだ。
ユレイルが命がけでくれたこれからの日々を、いけるところまで生きていこうと、思った。彼がいない世界を生きて生きて、どこまでも生きて。もうどれだけ苦しくても生きることを諦めたりはしないから。
だから、いつの日か私の命が終わる日が来たのなら。
その時は、貴方がくれた薔薇を持って、会いに行ってもいいかしら。
ねぇ、ユレイル。
笑う。この思いが、貴方に届くように。どこにいてもすぐに分かると言われた満面の笑みを浮かべて私はキャンバスをそっと撫でた。
私もよ。私も、あなたのことが。
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