98 / 140
第十二章 幻想と現実の狭間で
(7)
しおりを挟む
「セシルってもしかして」
「伝説にも残っていない大賢者の本名?」
翔と杏様は交わされる会話の意味さえ理解できなかった。
ただ亜樹が突然、見知らぬ人になってしまったような衝撃に声もない。
「他の奴らは大賢者なんて呼んでたからな。本名で呼んでいたのはおれくらいだったし。それ
にセシルも、いつからか本名を名乗るのはやめてしまったから」
「だから、その名前には反応したんだね? それを知っているのは常に自分を守護していた聖獣であり水神である君だけだから」
エルシアの指摘に一樹は黙って頷いた。
それから改めてこちらも驚いて固まっていたエルダたちのほうを向いた。
「よくもここまで追い詰めてくれたな?」
「マルス。わたしたちは!」
「言い訳は聞きたくないっ! おまえたちはもうすこしで亜樹の心を壊すところだったんだぞ? 二度と亜樹の前に姿を見せるなっ!」
激しい水の流れそのままに命じる姿はまさに水神。水を統べる者。
アレスは一樹が水の長だということを今更のように実感した。
「根本的な原因はあなたにあると、まだおわかりにならないのか、マルス兄上! そもそもあなたがご自分の使命を放棄なさらずに戻ってきていれば、すべては起きなかったこと。それほどまでに大賢者が大切か!」
「何度も言っているはずだ。おれはもうマルスじゃない。昔のおれじゃないんだ。セシルと出逢う前におれは消滅した。マルスとしてのおれは消滅したんだ」
「それは言い訳だわ、マルス兄さま」
割り込んできたレダに一樹は困った顔になる。
レダだけはどうにも扱いに困るのだ。
彼女は部外者に近いから。
事件が起きた当時、生まれたばかりでなにも知らないレダに、感情をぶつけるわけにはいかなかったので。
「ラフィン兄さまやレオニス兄さまが、どれほど犠牲を払い、どれほどの苦痛に耐え忍び
あなたの代理を努めてきたか。まだわかっていただけないのっ?」
「レダ」
「聖獣に変化したからなんだっていうの? そんなことでわたしたちが、兄さまを否定したり
哀れんだりするわけないじゃないのっ! どうしてそんなことすらわかって頂けないの! 兄さまにとってわたしたちは信頼に値しない者なのっ?」
「母上」
気高い母が泣いている。どう声をかければいいのかすらわからない。そんなレダの肩をラフィンが抱き寄せた。
母の正当な夫は伯父だと知っていても、ちょっと胸が痛かった。
落ち込んだアレスの頭をレオニスが抱いてくれたけれど。
「おまえたちを信じていないわけじゃない。認めていないわけでもない。おれが、いやだったんだ、レダ」
「兄さま」
「正直なところ、聖獣に変化したときは、あのまま消滅したほうがよかったとすら思ったさ。そうすれば世界がどんなことになるか、おれにだってわかっていたさ。だけど、おれは誇り高い水神マルス。地に落ちるくらいなら消滅を選ぶ」
「でも、兄上は生き残った」
「確かにな。セシルの力で助かった。一命は取り留めた。だけど、それを受け入れることは、おれには難しいことだった。お前たちならどうなんだ?
いきなり神としての力のすべて
を失い、その姿も失い聖獣へと変化したら。すんなり受け入れられるのか?」
皮肉げな問いには、だれも答えられなかった。
それぞれに神は誇り高いものなので。
「おれが現状を受け入れることができたのもセシルのおかげだ。不思議と暖かい。傍にいればなんでもないことのように思えた。ただ自分が抜けた穴はいつだって気になっていた。セシルの影響で神力を取り戻しはじめてからは、世界が受けている景響を目の当たりにして、正直迷ったこともある。この姿のままでも戻るべきなのかと。力は使える以前と同じ状態に世界を導くことは容易いだろう。そうも思った。決意するのは並大抵のことじゃなかったが」
「だが、マルスはそうしなかった。何故だ?」
凛とした中にも厳しさの感じられるエレダの声に、一樹は小さく笑った。
夫となるはずだったエルダの目には、セシル(亜樹)を選んだマルスは裏切り者に見えるだろうと思いながら。
「一度も実行に移さなかったわけじゃない。姿を消して一年後。神力のほとんどを取り戻せたとき、もうこれが限界だと思った。このままおれが抜けたままだと、世界は大規模な水不足に襲われる。それ以前に均衡が保てない。そう気づいてセシルに別れを告げて、一度は戻る決意をしたんだ」
「‥‥‥」
「だけど、セシルから離れれば離れるほど激しくなっていく、急激な力の減少におれは気付いたんだ。山をひとつ越えたぐらいか。そこまでが限界だった。もう歩くこと難しくなっていた」
「マルス兄上」
レオニスの驚愕する声に一樹は大きなため息をつく。
「どこでそれを知ったのか、それともはじめからわかっていて、おれの気の済むようにさせてくれたのか。おれが動けなくなったとき、不意にセシルが現れた。そうして言ったんだ。ごめん、と。おれが取り戻した力は、確かに現実的な意味では以前と同じで、水神としての働きもできるけど、それはセシルがいて初めて成立することだと。はじめはそんなまさかと思ったさ。幾らおれを助けることのできたセシルでも、たかが人間にそんな真似ができるわけがない。でも、その言葉どおりセシルが現れた瞬間、おれは力が蘇ってくるのを実感した」
一樹の言葉は衝撃的だったが、レダはすぐに立ち直った。
「伝説にも残っていない大賢者の本名?」
翔と杏様は交わされる会話の意味さえ理解できなかった。
ただ亜樹が突然、見知らぬ人になってしまったような衝撃に声もない。
「他の奴らは大賢者なんて呼んでたからな。本名で呼んでいたのはおれくらいだったし。それ
にセシルも、いつからか本名を名乗るのはやめてしまったから」
「だから、その名前には反応したんだね? それを知っているのは常に自分を守護していた聖獣であり水神である君だけだから」
エルシアの指摘に一樹は黙って頷いた。
それから改めてこちらも驚いて固まっていたエルダたちのほうを向いた。
「よくもここまで追い詰めてくれたな?」
「マルス。わたしたちは!」
「言い訳は聞きたくないっ! おまえたちはもうすこしで亜樹の心を壊すところだったんだぞ? 二度と亜樹の前に姿を見せるなっ!」
激しい水の流れそのままに命じる姿はまさに水神。水を統べる者。
アレスは一樹が水の長だということを今更のように実感した。
「根本的な原因はあなたにあると、まだおわかりにならないのか、マルス兄上! そもそもあなたがご自分の使命を放棄なさらずに戻ってきていれば、すべては起きなかったこと。それほどまでに大賢者が大切か!」
「何度も言っているはずだ。おれはもうマルスじゃない。昔のおれじゃないんだ。セシルと出逢う前におれは消滅した。マルスとしてのおれは消滅したんだ」
「それは言い訳だわ、マルス兄さま」
割り込んできたレダに一樹は困った顔になる。
レダだけはどうにも扱いに困るのだ。
彼女は部外者に近いから。
事件が起きた当時、生まれたばかりでなにも知らないレダに、感情をぶつけるわけにはいかなかったので。
「ラフィン兄さまやレオニス兄さまが、どれほど犠牲を払い、どれほどの苦痛に耐え忍び
あなたの代理を努めてきたか。まだわかっていただけないのっ?」
「レダ」
「聖獣に変化したからなんだっていうの? そんなことでわたしたちが、兄さまを否定したり
哀れんだりするわけないじゃないのっ! どうしてそんなことすらわかって頂けないの! 兄さまにとってわたしたちは信頼に値しない者なのっ?」
「母上」
気高い母が泣いている。どう声をかければいいのかすらわからない。そんなレダの肩をラフィンが抱き寄せた。
母の正当な夫は伯父だと知っていても、ちょっと胸が痛かった。
落ち込んだアレスの頭をレオニスが抱いてくれたけれど。
「おまえたちを信じていないわけじゃない。認めていないわけでもない。おれが、いやだったんだ、レダ」
「兄さま」
「正直なところ、聖獣に変化したときは、あのまま消滅したほうがよかったとすら思ったさ。そうすれば世界がどんなことになるか、おれにだってわかっていたさ。だけど、おれは誇り高い水神マルス。地に落ちるくらいなら消滅を選ぶ」
「でも、兄上は生き残った」
「確かにな。セシルの力で助かった。一命は取り留めた。だけど、それを受け入れることは、おれには難しいことだった。お前たちならどうなんだ?
いきなり神としての力のすべて
を失い、その姿も失い聖獣へと変化したら。すんなり受け入れられるのか?」
皮肉げな問いには、だれも答えられなかった。
それぞれに神は誇り高いものなので。
「おれが現状を受け入れることができたのもセシルのおかげだ。不思議と暖かい。傍にいればなんでもないことのように思えた。ただ自分が抜けた穴はいつだって気になっていた。セシルの影響で神力を取り戻しはじめてからは、世界が受けている景響を目の当たりにして、正直迷ったこともある。この姿のままでも戻るべきなのかと。力は使える以前と同じ状態に世界を導くことは容易いだろう。そうも思った。決意するのは並大抵のことじゃなかったが」
「だが、マルスはそうしなかった。何故だ?」
凛とした中にも厳しさの感じられるエレダの声に、一樹は小さく笑った。
夫となるはずだったエルダの目には、セシル(亜樹)を選んだマルスは裏切り者に見えるだろうと思いながら。
「一度も実行に移さなかったわけじゃない。姿を消して一年後。神力のほとんどを取り戻せたとき、もうこれが限界だと思った。このままおれが抜けたままだと、世界は大規模な水不足に襲われる。それ以前に均衡が保てない。そう気づいてセシルに別れを告げて、一度は戻る決意をしたんだ」
「‥‥‥」
「だけど、セシルから離れれば離れるほど激しくなっていく、急激な力の減少におれは気付いたんだ。山をひとつ越えたぐらいか。そこまでが限界だった。もう歩くこと難しくなっていた」
「マルス兄上」
レオニスの驚愕する声に一樹は大きなため息をつく。
「どこでそれを知ったのか、それともはじめからわかっていて、おれの気の済むようにさせてくれたのか。おれが動けなくなったとき、不意にセシルが現れた。そうして言ったんだ。ごめん、と。おれが取り戻した力は、確かに現実的な意味では以前と同じで、水神としての働きもできるけど、それはセシルがいて初めて成立することだと。はじめはそんなまさかと思ったさ。幾らおれを助けることのできたセシルでも、たかが人間にそんな真似ができるわけがない。でも、その言葉どおりセシルが現れた瞬間、おれは力が蘇ってくるのを実感した」
一樹の言葉は衝撃的だったが、レダはすぐに立ち直った。
0
お気に入りに追加
246
あなたにおすすめの小説

俺が総受けって何かの間違いですよね?
彩ノ華
BL
生まれた時から体が弱く病院生活を送っていた俺。
17歳で死んだ俺だが女神様のおかげで男同志が恋愛をするのが普通だという世界に転生した。
ここで俺は青春と愛情を感じてみたい!
ひっそりと平和な日常を送ります。
待って!俺ってモブだよね…??
女神様が言ってた話では…
このゲームってヒロインが総受けにされるんでしょっ!?
俺ヒロインじゃないから!ヒロインあっちだよ!俺モブだから…!!
平和に日常を過ごさせて〜〜〜!!!(泣)
女神様…俺が総受けって何かの間違いですよね?
モブ(無自覚ヒロイン)がみんなから総愛されるお話です。

傷だらけの僕は空をみる
猫谷 一禾
BL
傷を負った少年は日々をただ淡々と暮らしていく。
生を終えるまで、時を過ぎるのを暗い瞳で過ごす。
諦めた雰囲気の少年に声をかける男は軽い雰囲気の騎士団副団長。
身体と心に傷を負った少年が愛を知り、愛に満たされた幸せを掴むまでの物語。
ハッピーエンドです。
若干の胸くそが出てきます。
ちょっと痛い表現出てくるかもです。


そんなの真実じゃない
イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———?
彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。
==============
人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

美形×平凡の子供の話
めちゅう
BL
美形公爵アーノルドとその妻で平凡顔のエーリンの間に生まれた双子はエリック、エラと名付けられた。エリックはアーノルドに似た美形、エラはエーリンに似た平凡顔。平凡なエラに幸せはあるのか?
──────────────────
お読みくださりありがとうございます。
お楽しみいただけましたら幸いです。

メインキャラ達の様子がおかしい件について
白鳩 唯斗
BL
前世で遊んでいた乙女ゲームの世界に転生した。
サポートキャラとして、攻略対象キャラたちと過ごしていたフィンレーだが・・・・・・。
どうも攻略対象キャラ達の様子がおかしい。
ヒロインが登場しても、興味を示されないのだ。
世界を救うためにも、僕としては皆さん仲良くされて欲しいのですが・・・。
どうして僕の周りにメインキャラ達が集まるんですかっ!!
主人公が老若男女問わず好かれる話です。
登場キャラは全員闇を抱えています。
精神的に重めの描写、残酷な描写などがあります。
BL作品ですが、舞台が乙女ゲームなので、女性キャラも登場します。
恋愛というよりも、執着や依存といった重めの感情を主人公が向けられる作品となっております。

うちの前に落ちてたかわいい男の子を拾ってみました。 【完結】
まつも☆きらら
BL
ある日、弟の海斗とマンションの前にダンボールに入れられ放置されていた傷だらけの美少年『瑞希』を拾った優斗。『1ヵ月だけ置いて』と言われ一緒に暮らし始めるが、どこか危うい雰囲気を漂わせた瑞希に翻弄される海斗と優斗。自分のことは何も聞かないでと言われるが、瑞希のことが気になって仕方ない2人は休みの日に瑞希の後を尾けることに。そこで見たのは、中年の男から金を受け取る瑞希の姿だった・・・・。

うるせぇ!僕はスライム牧場を作るんで邪魔すんな!!
かかし
BL
強い召喚士であることが求められる国、ディスコミニア。
その国のとある侯爵の次男として生まれたミルコは他に類を見ない優れた素質は持っていたものの、どうしようもない事情により落ちこぼれや恥だと思われる存在に。
両親や兄弟の愛情を三歳の頃に失い、やがて十歳になって三ヶ月経ったある日。
自分の誕生日はスルーして兄弟の誕生を幸せそうに祝う姿に、心の中にあった僅かな期待がぽっきりと折れてしまう。
自分の価値を再認識したミルコは、悲しい決意を胸に抱く。
相棒のスライムと共に、名も存在も家族も捨てて生きていこうと…
のんびり新連載。
気まぐれ更新です。
BがLするまでかなり時間が掛かる予定ですので注意!
人外CPにはなりません
ストックなくなるまでは07:10に公開
3/10 コピペミスで1話飛ばしていたことが判明しました!申し訳ございません!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる