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第十二章 幻想と現実の狭間で
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「セシルってもしかして」
「伝説にも残っていない大賢者の本名?」
翔と杏様は交わされる会話の意味さえ理解できなかった。
ただ亜樹が突然、見知らぬ人になってしまったような衝撃に声もない。
「他の奴らは大賢者なんて呼んでたからな。本名で呼んでいたのはおれくらいだったし。それ
にセシルも、いつからか本名を名乗るのはやめてしまったから」
「だから、その名前には反応したんだね? それを知っているのは常に自分を守護していた聖獣であり水神である君だけだから」
エルシアの指摘に一樹は黙って頷いた。
それから改めてこちらも驚いて固まっていたエルダたちのほうを向いた。
「よくもここまで追い詰めてくれたな?」
「マルス。わたしたちは!」
「言い訳は聞きたくないっ! おまえたちはもうすこしで亜樹の心を壊すところだったんだぞ? 二度と亜樹の前に姿を見せるなっ!」
激しい水の流れそのままに命じる姿はまさに水神。水を統べる者。
アレスは一樹が水の長だということを今更のように実感した。
「根本的な原因はあなたにあると、まだおわかりにならないのか、マルス兄上! そもそもあなたがご自分の使命を放棄なさらずに戻ってきていれば、すべては起きなかったこと。それほどまでに大賢者が大切か!」
「何度も言っているはずだ。おれはもうマルスじゃない。昔のおれじゃないんだ。セシルと出逢う前におれは消滅した。マルスとしてのおれは消滅したんだ」
「それは言い訳だわ、マルス兄さま」
割り込んできたレダに一樹は困った顔になる。
レダだけはどうにも扱いに困るのだ。
彼女は部外者に近いから。
事件が起きた当時、生まれたばかりでなにも知らないレダに、感情をぶつけるわけにはいかなかったので。
「ラフィン兄さまやレオニス兄さまが、どれほど犠牲を払い、どれほどの苦痛に耐え忍び
あなたの代理を努めてきたか。まだわかっていただけないのっ?」
「レダ」
「聖獣に変化したからなんだっていうの? そんなことでわたしたちが、兄さまを否定したり
哀れんだりするわけないじゃないのっ! どうしてそんなことすらわかって頂けないの! 兄さまにとってわたしたちは信頼に値しない者なのっ?」
「母上」
気高い母が泣いている。どう声をかければいいのかすらわからない。そんなレダの肩をラフィンが抱き寄せた。
母の正当な夫は伯父だと知っていても、ちょっと胸が痛かった。
落ち込んだアレスの頭をレオニスが抱いてくれたけれど。
「おまえたちを信じていないわけじゃない。認めていないわけでもない。おれが、いやだったんだ、レダ」
「兄さま」
「正直なところ、聖獣に変化したときは、あのまま消滅したほうがよかったとすら思ったさ。そうすれば世界がどんなことになるか、おれにだってわかっていたさ。だけど、おれは誇り高い水神マルス。地に落ちるくらいなら消滅を選ぶ」
「でも、兄上は生き残った」
「確かにな。セシルの力で助かった。一命は取り留めた。だけど、それを受け入れることは、おれには難しいことだった。お前たちならどうなんだ?
いきなり神としての力のすべて
を失い、その姿も失い聖獣へと変化したら。すんなり受け入れられるのか?」
皮肉げな問いには、だれも答えられなかった。
それぞれに神は誇り高いものなので。
「おれが現状を受け入れることができたのもセシルのおかげだ。不思議と暖かい。傍にいればなんでもないことのように思えた。ただ自分が抜けた穴はいつだって気になっていた。セシルの影響で神力を取り戻しはじめてからは、世界が受けている景響を目の当たりにして、正直迷ったこともある。この姿のままでも戻るべきなのかと。力は使える以前と同じ状態に世界を導くことは容易いだろう。そうも思った。決意するのは並大抵のことじゃなかったが」
「だが、マルスはそうしなかった。何故だ?」
凛とした中にも厳しさの感じられるエレダの声に、一樹は小さく笑った。
夫となるはずだったエルダの目には、セシル(亜樹)を選んだマルスは裏切り者に見えるだろうと思いながら。
「一度も実行に移さなかったわけじゃない。姿を消して一年後。神力のほとんどを取り戻せたとき、もうこれが限界だと思った。このままおれが抜けたままだと、世界は大規模な水不足に襲われる。それ以前に均衡が保てない。そう気づいてセシルに別れを告げて、一度は戻る決意をしたんだ」
「‥‥‥」
「だけど、セシルから離れれば離れるほど激しくなっていく、急激な力の減少におれは気付いたんだ。山をひとつ越えたぐらいか。そこまでが限界だった。もう歩くこと難しくなっていた」
「マルス兄上」
レオニスの驚愕する声に一樹は大きなため息をつく。
「どこでそれを知ったのか、それともはじめからわかっていて、おれの気の済むようにさせてくれたのか。おれが動けなくなったとき、不意にセシルが現れた。そうして言ったんだ。ごめん、と。おれが取り戻した力は、確かに現実的な意味では以前と同じで、水神としての働きもできるけど、それはセシルがいて初めて成立することだと。はじめはそんなまさかと思ったさ。幾らおれを助けることのできたセシルでも、たかが人間にそんな真似ができるわけがない。でも、その言葉どおりセシルが現れた瞬間、おれは力が蘇ってくるのを実感した」
一樹の言葉は衝撃的だったが、レダはすぐに立ち直った。
「伝説にも残っていない大賢者の本名?」
翔と杏様は交わされる会話の意味さえ理解できなかった。
ただ亜樹が突然、見知らぬ人になってしまったような衝撃に声もない。
「他の奴らは大賢者なんて呼んでたからな。本名で呼んでいたのはおれくらいだったし。それ
にセシルも、いつからか本名を名乗るのはやめてしまったから」
「だから、その名前には反応したんだね? それを知っているのは常に自分を守護していた聖獣であり水神である君だけだから」
エルシアの指摘に一樹は黙って頷いた。
それから改めてこちらも驚いて固まっていたエルダたちのほうを向いた。
「よくもここまで追い詰めてくれたな?」
「マルス。わたしたちは!」
「言い訳は聞きたくないっ! おまえたちはもうすこしで亜樹の心を壊すところだったんだぞ? 二度と亜樹の前に姿を見せるなっ!」
激しい水の流れそのままに命じる姿はまさに水神。水を統べる者。
アレスは一樹が水の長だということを今更のように実感した。
「根本的な原因はあなたにあると、まだおわかりにならないのか、マルス兄上! そもそもあなたがご自分の使命を放棄なさらずに戻ってきていれば、すべては起きなかったこと。それほどまでに大賢者が大切か!」
「何度も言っているはずだ。おれはもうマルスじゃない。昔のおれじゃないんだ。セシルと出逢う前におれは消滅した。マルスとしてのおれは消滅したんだ」
「それは言い訳だわ、マルス兄さま」
割り込んできたレダに一樹は困った顔になる。
レダだけはどうにも扱いに困るのだ。
彼女は部外者に近いから。
事件が起きた当時、生まれたばかりでなにも知らないレダに、感情をぶつけるわけにはいかなかったので。
「ラフィン兄さまやレオニス兄さまが、どれほど犠牲を払い、どれほどの苦痛に耐え忍び
あなたの代理を努めてきたか。まだわかっていただけないのっ?」
「レダ」
「聖獣に変化したからなんだっていうの? そんなことでわたしたちが、兄さまを否定したり
哀れんだりするわけないじゃないのっ! どうしてそんなことすらわかって頂けないの! 兄さまにとってわたしたちは信頼に値しない者なのっ?」
「母上」
気高い母が泣いている。どう声をかければいいのかすらわからない。そんなレダの肩をラフィンが抱き寄せた。
母の正当な夫は伯父だと知っていても、ちょっと胸が痛かった。
落ち込んだアレスの頭をレオニスが抱いてくれたけれど。
「おまえたちを信じていないわけじゃない。認めていないわけでもない。おれが、いやだったんだ、レダ」
「兄さま」
「正直なところ、聖獣に変化したときは、あのまま消滅したほうがよかったとすら思ったさ。そうすれば世界がどんなことになるか、おれにだってわかっていたさ。だけど、おれは誇り高い水神マルス。地に落ちるくらいなら消滅を選ぶ」
「でも、兄上は生き残った」
「確かにな。セシルの力で助かった。一命は取り留めた。だけど、それを受け入れることは、おれには難しいことだった。お前たちならどうなんだ?
いきなり神としての力のすべて
を失い、その姿も失い聖獣へと変化したら。すんなり受け入れられるのか?」
皮肉げな問いには、だれも答えられなかった。
それぞれに神は誇り高いものなので。
「おれが現状を受け入れることができたのもセシルのおかげだ。不思議と暖かい。傍にいればなんでもないことのように思えた。ただ自分が抜けた穴はいつだって気になっていた。セシルの影響で神力を取り戻しはじめてからは、世界が受けている景響を目の当たりにして、正直迷ったこともある。この姿のままでも戻るべきなのかと。力は使える以前と同じ状態に世界を導くことは容易いだろう。そうも思った。決意するのは並大抵のことじゃなかったが」
「だが、マルスはそうしなかった。何故だ?」
凛とした中にも厳しさの感じられるエレダの声に、一樹は小さく笑った。
夫となるはずだったエルダの目には、セシル(亜樹)を選んだマルスは裏切り者に見えるだろうと思いながら。
「一度も実行に移さなかったわけじゃない。姿を消して一年後。神力のほとんどを取り戻せたとき、もうこれが限界だと思った。このままおれが抜けたままだと、世界は大規模な水不足に襲われる。それ以前に均衡が保てない。そう気づいてセシルに別れを告げて、一度は戻る決意をしたんだ」
「‥‥‥」
「だけど、セシルから離れれば離れるほど激しくなっていく、急激な力の減少におれは気付いたんだ。山をひとつ越えたぐらいか。そこまでが限界だった。もう歩くこと難しくなっていた」
「マルス兄上」
レオニスの驚愕する声に一樹は大きなため息をつく。
「どこでそれを知ったのか、それともはじめからわかっていて、おれの気の済むようにさせてくれたのか。おれが動けなくなったとき、不意にセシルが現れた。そうして言ったんだ。ごめん、と。おれが取り戻した力は、確かに現実的な意味では以前と同じで、水神としての働きもできるけど、それはセシルがいて初めて成立することだと。はじめはそんなまさかと思ったさ。幾らおれを助けることのできたセシルでも、たかが人間にそんな真似ができるわけがない。でも、その言葉どおりセシルが現れた瞬間、おれは力が蘇ってくるのを実感した」
一樹の言葉は衝撃的だったが、レダはすぐに立ち直った。
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