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幕間 始まりの出逢い

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 幕間 始まりの出逢い




 このままわたしは消滅するのかしら?

 既に自分では動けない。力が失われていくのがわかる。なにも言い残せなかった。

 伝えられなかった。

 いきなり姿を消せば、弟妹たちがどれほど心配するか。

 それよりも水を司る自分が後継も残さずに消滅すれば、世界はどうなってしまうの?

 消滅はもう避けられない。

 このまま人知れず消えていくしかない。

 それが世界を救済した代償。神としては本望ななのに。

 どうしてこんなに空疎なのかしら?

「諦めるのはまだ早いよ」

 突然、そんな声がした。

 誰かに起き起こされているのがわかる。

 目はもう開かないか手が誰なのか、確かめる術すら残されてはいなかったけれど。

 神である自分が見えている?消滅寸前なら見えないはずなのに。

「すこしでいい。これを飲んで。そうしたら助かるから。助けてみせるからっ!」

 必死に縋りつく声だった。まるで泣きつかれているよう。

 不思議と性別を意識させない声。

 なにかが口元に当てられている。それがなんなのか気づかないままに、コクリと喉を通った。

 熱く、身体が燃えるのがわかった。

 それは信じられないほどの痛み。

 それほどの時間、その苦しみに耐えたのか。

 気がつくと目の前にひとりの少年がいた。

 いや。

 少女だろうか?

 シャナ以外には見たことのない黒い髪。それに神的な黒い瞳。そして珍しい装飾品。

 両耳を飾っているそれは蒼海石の宝石だった。

「ごめん。助けるだけにしては力が強すぎたみたいだ」

 顔を覗き込みながら途方に暮れたようにそう言った。

 その意味を知ったのはその直後。

 足元にできていた水溜まりが、己の姿を映していたから。

 白銀の狼を連想させる体軀。
そこにいるのは紛れもない獣。

 ぞくりとした。

「言葉は喋れるはずだよ。名前は?」

 この姿で最高神、水神マルスだと名乗れと?

 そんな真似はできなかった。

 こんな姿に変わるくらいなら、あのまま死なせてくれたらよかったのに。

 そんな想いが伝わったのか、少年(?)は困ったような顔をした。

「でも、死にたくなかったんだろ?」

 口に出していない感想に気づかれて、ぎょっとした。

「ごめん。あの、その心で強く思ったことは、オレには伝わるんだ。だから」

 では水神マルスだとわかってしまった?

「自分の生命と引き換えに世界を護るなんて馬鹿だよ」

 優しい声。優しい声音。そのときになって初めて目の前の少年から、感じたこともない暖かい波動が伝わってきた。

 なにもかも委ねたくなるような、甘美な。

「すこしでも躊躇していれば、オレがなんとかしたのに」

「そんなことがあなたにできるの?」

 獣の姿では以前と同じ声は出ないだろうと思っていたのに、口から出た声は昔の水神だった
頃の声だった。

「なんとかするためにここにいるんだ」

「不思議な人ね」

「それよりこれからどうするんだ?」

「この姿ではもう」

 兄弟の元へは戻れない。

 そんな気持ちをまた少年は読み取ったらしかった。

 立ち上がってさも当然なように、その華奢な手を差し出した。

「オレとくる? 贅沢はさせてあげられないけど」

「同情なの?」

「同情? それでなにかが変わるって思ってる?」

 ひねた問いを出すと逆に問い返されて返答に困った。

 なんだかこの少年は勝手が違う。

「くるかこないか選ぶのは自由。強制はしないよ」

「あなたはだれ?」

「セシル」

 一言だけそう名乗られてまた困ってしまった。

 セシルでは男とも女とも取れる。

「オレの性別で悩んでる? だったら教えてあげるけど」

 こう簡単に心を読まれると水神としての自信を失いそうだった。

 これでも最強と言われた神なのに。

 それとも獣に変わったことで、力を失ってしまったのだろうか?

「力は失っていないよ。ただ今は使い果たしてしまっていて、取り戻すのに時間がかかるだけ
だから」

 セシルを相手に秘密を持とうとすることが、そもそも間違いらしい。

「オレに性別というものはないんだ」

「え?」

「さっきの疑問の答え。オレは男でも女でもないよ」

「無性別?」

「どちらかといえば両性皆無。どっちにもなれないってこと。今はまだ、ね」

「あなたは人間なの?」

 その問いには答えずセシルはもう一度繰り返した。

「ひとりは寂しいたろ? おいでよ」

 笑ってそう言ってもう一度手を差し出してきたセシルに、マルスは純粋に驚いていた。

 それは見たこともないような輝いた笑顔だったから。

「元の名前を名乗れないなら、なにか名付けないとな」

 クスクス笑うセシルに、不思議と心が和む。

 だからだろうか。

 黙って彼の後をついていくのは。

「ガーターっていうのはどう?」

「ガーター?」

「失われた幻の聖獣の名前だよ。知らない?」

「知らないわ。あなたは不思議な人ね。わたしが知らないようなことまで知っているなんて」

「うん。そうだね。オレも自分がわからないかな」

 ちょっと沈んだ顔になったセシルに、マルスは彼の顔を覗き込んだ。

 そうして知る。

 彼が驚くほど端正な顔立ちをしていたことを。

 神々と比較してもおそらく負けていないだろう。

「傍に誰かがいてくれるって嬉しいな」

 そう言って笑ったセシルの笑顔を、マルスは生涯、忘れることがなかった。

 これが後に大賢者の名で知られる偉人、セシルと水神マルスの出逢いである。

 この後、セシルは持っていた不思議な力で数々の奇跡を起こし、失われていた仰信仰を徐々に回復させていく。

 それは同時に世界を混乱させていたい者にとっては、余計な手出しでしかなかった。

 セシルは執拗に生命を狙われるようになり、マルスは自分から進んで、彼のために刺客を殺すようになる。

 それが後に人々に守護聖戦と呼ばれるようになった所以だった。

 セシルの生命が尽きるそのときまで、マルスは彼の傍でひっそりと寄り添い、ずっと護り続けてきた。

 ふたりが再会を果たすのは悠久の時が流れた後となる。
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