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第六章 異邦人

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 第六章 異邦人





 その女性は悲しげな目をして、じっとこちらを見ていた。

 これは夢、なのだろうか?

 それとも現実?

 ぼんやりとした意識の中で亜樹はそんなことを思う。

 だってそこにいるのは間違いなく、写真でしか見たことのない懐かしい母だったのだから。

 写真で見たときは短く切り揃えた黒髪が見事な美しい女性だったが、そこにいる母は腰まで届いた長い黒髪が印象的な、まだ少女とも呼べる外見をしていた。

 常識的に考えれば母の少女時代ということになるが。

 亜樹はただ呆然と母とおぼしき少女を見詰めていた。

 逢えたことが夢のようで、もしかしたら本当に夢かもしれないと思って、声を掛けたらそれだけで母は消えてしまいそうな気がしたから。

 その左耳には亜樹ほどではないが、見事な大きさの蒼いピアスをしている。

 大きさも色も亜樹の方が勝っているが、間違いなく同系統のピアスだった。

 長い黒髪が風に靡く。

 そうしてゆっくりと背後を振り返ると母とおぼしき少女はため息をついた。

『わたしがやらなくてはならないのね』

『セレーネ姫さま。お許しください。我々の力不足です』

『あなたたちのせいではないわ。わたしが……血を引く唯一の者である以上、これは避けられない宿命だったのよ。そのために生命を落とすとしても』

 言葉の途中が聞き取れなくて、亜樹は怪訝そうな顔になる。

 それに母がだれと喋っているのかも気になった。

 その相手は母を姫と呼び、名前も「響子」ではなく「セレーネ」と呼んだ。

 では母ではないなだろうか?

 だが、あのピアスと明らかに母の面影を持つその容姿から、違うとも思えず亜樹は困惑していた。

『可哀想なのは寧ろわたしの子よ。このピアスを受け継ぐ運命の子よ』

 それは自分のことかと亜樹は目を見開く。

 母からピアスを受け継いだのは亜樹ひとりなのだから。

 背中を向けた母は尚も悲しげな口調で言を継ぐ。

『せめて穏やかに育つことができるように、わたしは世界を越えましょう』

『セレーネ姫さまっ!! それでは生まれてくる運命の子の宿命を歪めてしまいますっ!!』

『止めないで頂戴。そのことは承知しているのよ。異世界で生まれれば、確実になんらかの影響を受けるでしょう。
 自分が受け入れるべき運命にも気付かずに成長するかもしれない。そのときはわたしを恨むでしょう。
 突然過酷な運命と対峙するように仕向けたわたしを。それでもわたしは生まれてくる子供に幸せな時を過ごしてほしいのよ』

『姫さま』

『せめて運命と出逢うまでは平穏に生きてほしい。そう望むのはわたしの傲慢なのかしら?』

 悲しげな口調だった。

 ここまでのやり取りを聞いていて、亜樹は初めてさっきから感じていた違和感の意味を知った。

 母の服装が異端だったのだ。

 リーンやエルシアたちに似ただが、どこかが違う服装をしている。

 敢えて言うなら年代が違う。

 そんな印象を受けた。

 例えば同じフランスの服装でも、年代によって趣や傾向が違う。

 受ける印象もデザインも。

 そんな微妙な違いを感じたのである。

 そう。

 まるでリーンたちの生きている時代より、ずっと古い時代。

 そんな印象を与える服装だった。

 リーンたちの服装をもっと古典的にして、神秘的な感じにデザインすればこうなる。

 そんな衣装だった。

『わたしは生まれてくる運命の子に過酷な運命を背負う……の後継者にアキと名付けましょう。実り豊かな季節である秋のように豊かな心を持った子に育ってくれるように』

 いきなり自分の名前が出て亜樹はギクリとした。

 これは夢だと言い聞かせても動悸は治まらない。

 生まれてくるピアスを受け継ぐ子にはアキと名付ける。

 彼女は確かにそう言った。

 では、やはりこの少女は母なのか?

 これは本当にただの夢なのか?

 もしこの夢になんらかの意味があったら、母は地求人ではなかったことになってしまう。

 母は異世界へ行くとはっきりとそう言った。

 それが地球のことなら彼女が言っている過酷な運命を背負って生まれてくる「運命の子」とは、ピアスを受け継ぎ「亜樹」と名付けられた自分だということになる。

『……未来に陰りが視えるわ。人々が滅びの運命を受け入れられず、逃れたくて抗う気持ちはよくわかる。でも』

 沈んだ声で囁いて少女は少しの間を空けた。

 なにを言おうとしているのか、生まれ育った世界さえ捨てようとしている母が、今なにを思っているのか、亜樹にはわからなかった。

 会話をきいているかぎりでは、母の決断は亜樹のためということになるが。

『わたしはなんのために生まれ、どうして生きているのかしら? 人々の願いを具現させるだけの存在なら、わたしが生きている価値はないというのに。ましてや愛しい子供に過酷な運命を背負わせるために、わたしの生命があるというのなら、それは……あまりにも……』

『セレーネ姫さま。あなたが……の血を引く直系である以上、確かに避けられない宿命というものはあるでしょう。ですがあなたの存在に意味がないなどとは思わないでください。子を産み落とすということは、あなたがだれかを愛するということ。その相手と出逢うために生まれてきたのだとは思えませんか?』

『そうね。わたしが死んだ後も子供を愛してくれる。そんな人に巡り会いたいわ。夫と愛し合うために生まれてきたのと思えば、自分の生命にも価値があったのかもしれないと思えるから』

 そう言って母は微笑んだようだった。

 微かな笑い声が聞こえてくる。

『おまえもよく尽くしてくれました。ありがとう』

『そんな勿体無い』

『世界が転機を迎えるとき、アキは自らの運命と巡り会うでしょう。わたしは祈りたい』

『姫さま』

『運命がどれほど過酷でも、負けずに乗り越えてほしいと。そして魂で愛せる人に出逢ってほしいと。愛する人に愛されることでしか、きっとアキには救いがないから。幸せになってほしいわ。傍で見守ることのできないわたしの分まで。でも、わたしはきっと死んでからも、アキを見守っているでしょう。風となり炎となり大地となりて』

 幸せになりなさいと囁く声がする。

 それは確かに母にしか持ち得ない声音。

 子供を無条件に愛する無償の愛。

 それを肌で感じ取って亜樹は「母さんっ!!」と叫びたかった。

 背中を向けている母に抱きついて泣き出してしまいたかった。

 ずっと触れられなかった思いでさえない母。

 これが夢でなければ、どんなによかったか。

 泣きたいほど辛くて苦しくて、ただ顔を歪めたとき、声が、聞こえてきた。



『違うよ、亜樹。セレーネは犠牲になったわけじゃない。人はどんなときもだれかの力を借りて生きている。それだけのことだから。セレーネもわかっていたよきっと。自分が生まれたのは亜樹のためでもなく世界のためでもなく、愛する人と巡り会うためだと。地球に行ってよかった。そこで司と逢えてよかった。オレはそう思うよ。司と出逢い愛し合うことで、セレーネは救われたんだから。オレには生涯叶えられなかった夢。望んではいけない願い。滅ぼすのはオレなのかもしれない。それでも忘れられないから諦められないから。だから……亜樹? 亜樹が叶えてほしい。叶えられなかったすべての夢を』

 だれの声なのか。

 なんのことなのか。

 亜樹にはなにもわからない。

 その声が言いたいのがなんなのかすらわからない。

 それでも俯いてばかりいてはいけない気がした。

 顔をあげて生きていかなければ、命懸けで亜樹を産んでくれた母に申し訳がないから。

 母を犠牲にするか、それとも母の人生を豊かなものにするか。

 それを選べるのは亜樹だけだとわかったから。

『オレは帰りたくないっ!!』

 魂で叫んだ。

 亜樹が叫んだのか、違うだれかが叫んだのか、それすらも亜樹にはわからなかったけれど。

 だれかが呼んでる声がする。

 遠いところから呼んでいる。

 知っている声。

 魂のどこかで遠い記憶のどこかで聞いていた声のような気がする。

 逢いたい。

 その一言を呟こうとして亜樹はふと立ち尽くす。

 振り向いた背後にあるはずの道が消えていた。

 生きていくことでできていくはずの道。

 生きてきた軌跡。

 それが消えている。

 耳を澄ませば声が聞こえる。

 名を呼ぶ声。

 例え生きていなくても、それが過ちでも前へ進んでいこうと一歩を踏み出した。

 それが罪へと続く過ちでも構わない。

 前へ。

 前へ。

 そうすることで大事ななにかを取り戻せる。

 そんな気がした。





 あまりにも色々あった日が過ぎて、亜樹はゆっくりと目が覚めた。

 なんだか不思議な夢を見た。

 最初は母が出てきた。

 どうして母の少女時代を夢に見たのか、しかも名前も違えば服装だって見慣れない物を着ていたし。

 どうしてそんな夢を見たのか、亜樹にはわからなかった。

 服装だけで意識したら夢の中で「セレーネ姫」と呼ばれていた母は、こちらの世界の出身のように思えた。

 服装はリーンたちが着ている物と比べると、かなり古い時代の物だと思わざるを得なかったけれど。

「……最初の方も意味不明だけど、最後の方あれ、どういう意味なんだ?」

 まだ寝転がったままで亜樹は怪訝そうな顔をする。

 母のことにしても意味不明といった感が強いが、その後の方が抽象的すぎてよくわからなかった。

 不思議な夢。

 でも、なにか大切なことを暗示しているような気はした。

 今まで自分にも謎だったピアスのこととか出てきたし。

 まあ理解できなければ意味はないのだが。

 ただ……目覚める直前に感じた胸の切なさ。

 それだけが鮮明で胸を締め付ける。

 逢いたい。

 そう望んだ気持ちが胸を支配して切なくて苦しい。

 逢いたいと望んだ相手がだれなのかすら覚えてはいないのに。

「変なの。なんで涙が出てくるんだろ」

 両腕で目を隠しても流れる涙は止まらなかった。

 それから暫くして亜樹はベッドから抜け出すと、リーンが用意してくれた服に着替えた。

 こちらの世界の服というのは、出逢ったときにレックスが着ていたように、基本的に大きな形の服(亜樹にはワンピースやチャイナドレスのような印象が強いのだが)を着て、その下にズボンを穿くというのが普段着らしい。

 特に冬にその傾向が強いのだという。

 実はその服の下にも何枚か重ね着しているらしく、それらが防寒着となっているのだと。

 季節が移り変わり春とか夏になると、上から羽織っている足首の近くまで届いている長い服が、膝上くらいまで短くなり、また袖の部分もなくなるらしい。

 春までは五分袖が基本で、夏になると袖無しになるらしいのだ。

 当然中に着ている服も変化する。

 春まで着ている五分袖は中に着ている服で、夏は上から羽織っている服だけになる。

 興味があったので何着か夏服を見せてもらったが、ちょっとセクシー過ぎないかと思ったのが本音だった。

 だって服はそれしか着ないのに、殆どのタイプが肩から腰にかけて、側面を紐で括ってあるもので……一言で言ってしまえば、脇からなら上半身を覗き見ることも可能なのである。

 但しこれはレックスたちのような一般人が着る服であり、身分が高くなるとそれなりに変化するらしい。

 この世界では身分の高い者が、無闇に肌を露出させるのは恥ずべきことであり、忌み嫌われる傾向があるという。

 だから、基本的な服装も変わってくる。

 リーンをはじめとしてエルシアたちエルダ神族の者も、一般ではない服装をしていた。

 なるべく肌が露出されないタイプの服で、一言で言ってしまうときっちりと着込んであるのだ。
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