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第二章 森と湖の国
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しおりを挟む第二章 森と湖の国
どこをどう泳いだのか、亜樹が死ぬような想いで水から上がったとき、ぞっとするような寒さを感じた。
初春とはいえ、五月を目前にした気候じゃない。
まるで真冬の寒さ。
自分で自分の肩を抱きながら、亜樹は周囲を見渡し唖然とした。
「どこだ、ここ……」
びしょ濡れになって座り込んでいる亜樹の眼に映ったのは、深く生い茂った豊かな緑に囲まれた森ととどこまでも続く蒼穹。
息を吸い込むだけで気分が良くなるような高原の空気。
背後を振り返れば大きな湖があった。
「確かオレ……杏樹と落ちたのは川、だよな?」
隣の県にある有名な川だったはずだ。
それがどこをどうしたら湖になるんだ?
見上げた空は生まれてから一度も見たことのないような色をしていた。
空があんなにきれいだなんて知らなかった。
流れる雲まで現実感からは遠くて、亜樹はゆっくりとその場に倒れた。
あまりの寒さに震えながら。
完全に気を失ってから近くの茂みが揺れた。
不意に現れた人影は倒れている亜樹を見て、すこしため息をつくと、彼を抱き上げて歩きだした。
その左耳に輝く蒼いピアスを見て、ふと眉をしかめる。
それからしっかりした足取りで歩きだした。
もう止まることなく。
何度か瞬きをして亜樹が目を開いたとき、そこは見知らぬ場所だった。
見たこともないようなベッドに横たわっている。
映画なんかでしか見たことのないような豪華なものがついている。
たしか……天蓋……と呼ばれるものだったはずだ。
窓辺にカーテンでもつけているように、ベッドの周囲を取り囲む布が、緩やかに纏められている。
四角い形でカーテンをつけていると想像したほうが早いだろうか?
柱にも見事な細工が施してある。
モチーフは花、だろうか?
ふかふかの布団に背中が沈み込むような、見事なベッド。
ここはどこだろう? と視線を巡らせると、目に入ってきたのは、まるで外国にでもいるような、奇妙な部屋だった。
外国の家具を連想させる物ばかりが置かれていて、日本人である亜樹にはあまり馴染みがない。
父が日本の雅を愛する人だったから、余計に外国めいた物とは縁がなかったのだ。
馴染めなくて顔をしかめたが、なんとなく変だと感じた。
ただの洋館とは思えない。
煉瓦作りの建物。
色調は白だが、まるで映画に出てくる古い時代の城のようだ。
大体どんな屋敷だろうと天蓋付きの寝台なんて置いているだろうか?
こんな物、映画にしか出る用はないと思っていたのに、まさか自分がお世話になるとは、人生とは不可解である。
右腕を動かそうとして、激しい痛みが走った。
見てみれば手厚く包帯が巻かれている。
たぶん包帯なのだろう。
色は茶色でとても包帯には見えないが、怪我の手当をしているなら、それは包帯と呼ばれるべきものだろうから。
「杏樹」
自分と同じように川に落ちた妹の身が気になったが、今は自分の境遇を知る方が先だ。
杏樹を捜すにしても、状況が飲めなかったら不可能だから。
それに右腕がこの状態だということは、杏樹は無事だということだ。
亜樹にしかわからない理由から、ホッと安堵の息をもらす。
それから亜樹は繋々と部屋の中を見比べた。
「やっぱこれ、どっかの城だって。でも、隣の県にこんな屋敷あったかなあ?」
だれかいないだろうかと、キョロキョロしていると、木で作られた扉が開き初めて人が姿を見せた。
「おや? 気がつかれたようですね」
にこやかに声をかけてくる青年に、亜樹は呆然としていた。
現状を受け入れることを、理性が拒否している。
まじまじと相手を見るがどこから見ても外国人だった。
が、どこの国の人種かと問われたら、答えに詰まる容姿をしている。
薄茶色の髪と同じ色の瞳。
柔和そうな顔立ちと、性格の出ている優しい瞳。
服装は……ローブというのだろうか?
頭からすっぽりと大きなワンピースのような物を着ていて、腰の辺りで革紐で縛っていた。
両横にスリットが入っていて、その下にズボンのような物を穿いているのが見える。
それも足首の辺りで締めてある、不思議なズボンだった。
印象的にはインドとか、あっち方面の服装だろうか。
ゲームなんかに出てくる登場人物みたいな服装である。
これを現実として受け入れるのは、非常に厳しいものがあった。
それに大体なんでそんなファンタジー世界の人間が、流暢な日本語を喋るのだ?
亜樹の理性は、現状を受け入れることを拒み、現実逃避を始めそうになっていた。
「異国の方のようですが言葉は分かりますか?」
近くまで移動してきた青年にそう言われ、亜樹は今更のように言葉が通じることに驚いた。
亜樹はこれだけ現実離れした事態が起きてまでこれは夢だとか、これはタチの悪い冗談だ、などという往生際の悪い真似をする少年ではなかった。
かなりの柔軟性をもってしてこの非常識極まりない現実を受け入れ、おそるおそる問いかけた。
「ここ……どこ?」
言葉が本当に通じるかどうか、ただ理解できるだけで喋れないという要素は無視できなかったので、まず無難なことを訊ねてみた。
すると相手はホッとした表情になり答えてきた。
手際よく右手の包帯を変えながら。
「森と湖の国と呼ばれるリーン・フィールド公国です」
「森と湖の国? リーン・フィールド公国?」
なんだ、それは? の世界である。
亜樹はそんな国は知らない。
まあこの服装にこの建物ときてまだ現代だとか、地球だとかそういう甘い解釈が許されるとは思っていなかったが。
どうやら正真正銘、ここは日本ではないらしい。
いや。
そもそも地球なのだろうか?
亜樹の知る限りでは、地球の歴史にリーン・フィールド公国なんて国は存在しない。
歴史に名を残せないくらいの古代だとすると、この建物などの年代が合わない。
これだけの建物を建てられるとなると、年代的には中世には差しかかっているだろうから。
まるでマンガやゲームで親しんだ架空の世界のようだ。
独自の歴史を誇る異世界。
そんな感じがした。
「憶えていらっしゃらないのですか? どうしてここにいるのか」
「憶えているもなにも……いったい全体なにがなんだか……」
困惑顔の亜樹に、青年は気の毒そうな顔になる。
「聖城の湖の近くで行き倒れていらしたそうですよ」
「行き倒れ……聖城の湖?」
もしかしたら意識を失う前に見たあの湖のことだろうか?
ということはやはりあれはここへくる前の記憶?
「聖域の湖は普通なら泳ぐことなどできません。びしょ濡れでしたが、まさか入水なさったわけではないでしょうね? 聖域の湖で入水すると精霊の加護を受けて闇世に行けるというのが通説ですけど」
どこか責める口調だった。
手当てしてくれているのを覗き込むと、無残な傷跡が見えた。
「それ……どうしたんだ、オレ?」
「凍傷を起こしているのですよ。今は真冬なのですよ? 湖で泳ぐような季節ではありません。まだこの程度で済んでよかったと思わないと。右腕だけなんて運がよかったんですよ。本来なら全身に及んでいても不思議はないのですから」
なるほど。こちらは今真冬らしい。どうりで寒かったわけだ。
春だったのに移動したところは真冬だなんてツイてない。
「それよりも先ほどの質問に答えてください。まさかとは思いますが入水なさったのですか?」
そんな真似をしたら許さないと声音に出ていた。
ところでじゅすいってなんだ?
どこかで聞いたような気はするんだけど……。
感覚が麻痺していたせいで、すぐには思い出せなかったが、その言葉がなにを意味するか、亜樹はようやく思い出した。
湖で自殺しようとしたのではないか。
亜樹はそう疑われているのだ。
入水とはまた古風な物言いをするものである。
理解するのに余計な時間が必要になってしまった。
「なんでオレが自殺しないといけないんだ?」
「違うんですか?」
亜樹が怒ったように言うと、相手も戸惑ったようだった。
てっきりそうだと思い込んでいたのだろう。
否定されるとは思っていなかったと態度に出ていた。
「違うって。オレはただ……」
どう説明すれば相手に伝わるのか、急に自信がなくなってきた。
こんな場面でうかつにこの世界とは違う世界からきたらしい、なんて打ち明けてもいいものかどうか。
打ち明けたせいで中世の魔女狩りではないが、異端者として追われる可能性だってあるし。
この世界が本当に異世界なら、亜樹は正真正銘の異端者だろうから。
魔物と呼ばれても不思議はない。
答えに詰まる様子を見て、青年がまた疑いの眼になる。
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