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第三章 明暗

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 今まで生きてきて、こんなに幸せを感じたことはない。

「まだ死んだ方がよかったと思いますか?」

「ドクター」

 少年の声に涙を拭いたくても拭えない。

 たったひとつ動く手で弟のスカーフを握っているから。

「それがどれほど価値のある物かは知りません。金銭的な価値じゃありません。あなたたちにとっての価値です。今まで投げ遣りでも気丈に振る舞ってきたあなたを泣かせるほどの価値がそれにはあった。それを手放したんです」

「ああ」

 それしか言えない。

 胸が詰まって言葉にならないから。

「あなたの無事を喜ぶ弟さんの声が聞こえませんか? そのスカーフから感じませんか? 生きていてくれてよかったと思っている弟さんの心を」

「わたしが浅慮だった。あのときに死んでいたら、わたしは弟をひとりにしたのだな。こうして最後の家族の無事を喜んでくれる大事な弟を一人ぼっちにしていたところだったな。なのに死んだ方がよかったと思うなんて」

 どれほど自暴自棄になっていたとしても、決して許されるべきことじゃない。

 死んでいた方がよかったことなんてこの世にはないのだ。

 生きていれば希望が持てる。

 あのときに死んでいたら、弟の心を知ることもなく、深い心の傷を与えただろう。

 自分の浅慮をどれほど悔いても、あのときの自分の愚かさは消えないが。

「あなたの目の代わりは弟さんがしてくれます。あなたの腕の代わりに弟さんが動いてくれます。動かない脚の代わりに弟さんが動いてくれます。それを信じてあげてください」

 優しい声にコクンと頷いた。

「海賊だというのにそなたたちは優しいな」

「海賊荷だって血も涙もありますよ。少々お金にうるさいだけです」

「そこは譲らないのか、ドクター」

 苦笑して言えば少年が声を上げて笑った。




「はああ。ドキドキした」

 自室へと戻って優哉はドキドキする胸に手を当てている。

 なにもなかったフリをして自室に戻るのは勇気が必要だった。

 優哉は両親に隠し事をしたことがないので。

 それに見つかってはならない大事な証拠もあったし。

 カバンに入れていたそれを取り出す。

 血に染まったスカーフ。

 あの人の腕を飾っていた頃の華麗な面影はない。

 見ているだけで痛々しくなるほどだ。

「必ず助け出すから」

 決意を呟いてもう一度カバンに仕舞い込んだ。

 それからひとつしかない宝石箱を取り出す。

 貰ったときの状態のまま置いていたのだが大丈夫だろうか。

 箱から宝石を取り出す。

 変わらない輝きを放っている。

 ピンク色の宝石はかなりの価値があると後で知ったが。

「んー? パッと見て傷はついてないな。まあ取り出してないんだから当然だけど」

 放置しておくのは気が引けたが、どう考えても優哉は宝石には興味がなかったので、今まで貰ったときのまま放置していたのだ。

 どうやらそれが功を奏したようだ。

 これなら貰ったときの金額のまま売れるだろう。

 但し買い手が見付かれば、だが。

 最悪買い手が見付からない可能性もある。

 あの海賊の言っていたことが本当なら。

「でも、その方がいいのか。そこまでの価値があれば、確実にあの人を取り戻せる」

 どうしてここまで必死になるのか自分でもわからない。

 あの人は自分から実の両親を奪い、ひとりだけ実子として育てられていた人だ。

 本当なら恨んで当然の人。

 なのに心を占めるのは無事に戻ってきてほしいという願いだけ。

 これが理由のない肉親の情というものだろうか。

 でも、問題はいつも付き従っているミントをどうやって撒くか、だ。

 今日は本当に運がよかったのだ。

 帰宅しようとしたとき、ミントは質問をしてくる学生に捕まっていた。

 その隙に逃げてきたのであの場に介入できなかったのである。

 普通ならあの海賊はとっくに捕まるか殺されるかしているはずだ。

「これからぼくとだけ連絡を取りたいって言っていたけど、どうやって連絡を取る気なんだろう? ぼくは護衛されてる身なんだけど」

 それは海賊も承知していることだろうけれど。

 身分は知らなくても、そのくらいのことはされていても不思議のない立場であることは、おそらくジェイクを知っているなら、彼を助けたなら気付いているはずだ。

 だから、なんらかの手を打ってくるとは思うが気掛かりだ。

「取り敢えず平常心。平常心」

 こんなに取り乱して興奮していたらミントにすぐバレるし、なによりも優哉のことに詳しい父に見抜かれる。

 父は近衛隊の将軍で優哉の護衛の責任者。

 そんなことになったらジェイクが本当に見殺しにされても不思議のない容態ならマズイ。

 絶対にマズイ。

 海賊から隔離するために監禁されかねない。

「落ち着け。落ち着けっ」

 自分に言い聞かせているといきなり扉が開いてビックリした。

 振り返ると母が不思議そうにこちらを見ている。

「どうかしたの、優哉? そんなに驚いて」

「ノックもしないで入ってこないでよ、母さん。ぼくだって年頃なんだから秘密にしたいことのひとつやふたつはあるんだよっ!?」

「夕飯が出来たって呼びにきたのよ。でも、何度ノックをしても出てこないから」

「そう? ごめん。すぐに行くよ」

 隣を通り過ぎようとすると母が怪訝そうな声を投げてきた。

「なにかあったの?」

「どうして?」

 ギクリとはしたが平然と返せたとは思う。

 だが、母の怪訝そうな顔は崩れない。

「冷や汗を掻いているし、なによりも落ち着きがないわ」

「なんにもないよ。母さんがいきなり入ってくるから、ちょっと驚いただけだって」

「スカーフはどうしたの?」

 剥き出しの手首を見られてとっさに隠す。

「あれは陛下から頂いた形見の品だと教えたでしょう? どうして外しているの? それに刺青を見せてはいけないといつも」

「うるさいなあっ。もう夕飯はいらないから出ていってっ!!」

「優哉!?」

 驚いている母の背中を押して慌てて追い出した。

 暫く立ち止まっている気配がしていたが、やがて母は階下へと下りていった。

「ふう。ヤバかった。とっさにあれしか思い浮かばなかったから、つい渡してしまったけどやっぱりまずかったかなあ? バレるよなあ、ミント教授にも」

 父の形見の品はいつもしていた物だ。

 それが失くなっているのは確かに怪しい。

 疑われても無理もない。

 でも、他に確実に優哉だと証明できる品もなかったし。

「取り敢えず明日中に宝石がどのくらいで売れるのか、果たして買ってくれる人がいるのかどうか調べないと。長引くとマズイな」

 先が思いやられて思わずため息が出た。
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