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12巻
12-2
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だが、グレンは不安げな表情をしながらも、セラの肩に手を置いて宥めてから、風見を見つめてくる。
「……説明する時間はないのですな?」
「……悪い」
風見が謝罪すると、グレンは強がるように笑った。
彼らには、前回の記憶がない。今の会話を理解するのは難しいだろう。
それでも事情を推察し、風見を信じようとしてくれるらしい。
だが、セラはそれでは収まらなかった。彼女はグレンの手を払い、風見を睨む。
「なんなんですか、あなたはっ! わけのわからないことを言って! ロクな説明もしないで……! 振り回されるセラがバカみたいですっ!」
思っていることを全て吐き出したのではないかと思うほど、セラは強く叫んでいる。
傍からすれば、風見はリズを助けるためだけに、多くの人を危険に晒そうとしているようにも見えるだろう。説明する時間がないからと押しつけるのは酷く心苦しい。
大きなため息をつくセラに対し、風見は頭を下げようとした。
「セラ、ごめ――」
「謝ってもらったって、何の解決にもならないですからっ。あなたは結果だけ持ってきてください!」
こんな状況でやっていられるかと罵声を浴びせられるかと思いきや――セラから向けられたのは、力強い視線だ。それどころか、頭を下げかけた姿勢を押し戻される。
「確かにあなたはわけがわからないです。以前も火鼠退治をせずに団子作りを始めたりして、いかれてるんじゃないかと思いました。けど、巡り巡って目的どおりの結果を出しました。今の話も、結局はお姉様の命を救った上で、この街も砦の人間も救おうって話なんですよね?」
「あ、ああ。そう――」
「だったら回れ右っ! さっさと行ってくださいっ。詳しい話も聞かないで協力しようとするセラが、バカみたいですっ!」
風見が答えようとするも、セラはその言葉を遮るように捲し立てた。
今にも噛みつかんばかりの勢いに押され、風見はグレンとリードベルトに目を向ける。
姿勢こそ違えど、二人も結論はセラと同様なのだろう。口元を緩めて深く頷いてくれる。
「悪い、詳しいことは後でココノビから聞いてくれ。俺は先を急がせてもらう。けど、誰も見捨てるつもりはないってことは本心だ」
「ええ、心得ておりますとも。武勇は後で聞きましょう。猊下殿、お気をつけて」
「ご武運を」
グレンとリードベルトが短く答える。それを聞くと、風見は走り出した。
施設を出た途端、ナトが風見を抱えて跳躍し、クロエ、キュウビが続く。街の外に出たところで、指笛を吹いてタマを呼び寄せた。
反応は非常に早い。地響きのごとき足音が近づき、タマが目の前に飛びこんできた。そしてタマの急ブレーキによって、砂埃が立ちこめる。
タマはこのタイムスリップした状況をまだ誰とも共有できていないはずだ。セラたち以上に困惑を解消するのが難しいに違いない。
風見はどのように説明するのが効率的か思案しながら、砂埃が晴れるのを待つ。
だが、見立ては大いに崩れた。タマはもうもうと立ちこめる砂埃を大顎で掻き切り、風見に迫ったのである。
「――っ!?」
そんな事態が起こるとは思いもしなかったため、タマが風見に食らいつくまで誰も反応できなかった。
「風見様!?」
クロエに続き、ナトとキュウビも驚きの声を上げる。
タマは彼女らの声を振り切り、脱兎のごとく駆け出してその場から離れた。
「痛っ。どっ、どうしたんだ、タマ!?」
風見は困惑して声を上げる。
タマに食らいつかれたが、風見は噛み潰されたわけではない。これは攻撃ではなかった。胴体を咥え上げられ、乱暴に連れ去られただけである。
理解が及ばない風見は、タマの口をタップする。けれども返答はない。
クロエとナト、キュウビが、慌てて追いかけてきた。
だがそれに気づいたタマは律法を発動させ、彼我の間に障害物として巨大な岩壁を発生させる。すると律法で形成しているナトの肉体は解け、クロエとキュウビは岩壁に阻まれた。
害意はないが、彼女らを遠ざけているのは明らかである。
タマは何故こんなことをするのかと風見は思考を巡らせた。
まさか敵側から何か工作があったか? 否、そんな時間はない。では他の可能性は――と考えていた時、風見は自分の体に吹きかかる吐息に答えを見出した。
タマはふるるるっ、ふるるるっと、嗚咽を堪えるように息を震わせている。
今の風見の体勢ではタマの瞳は見えない。けれどもどんな感情を秘めているか、察せられた。
「……もしかして、不安がっているのか?」
タマは元から喜怒哀楽の表現が豊かだ。何を楽しみ、何を怖がるのか、言葉がなくても風見にも十分に理解できる。その経験からすると、タマは不安がっているに違いない。
タマの立場では、今までの事態は本当に急だったはずだ。
アスラ対策会議の直前は、襲撃に備えて待機していた。そして、総本山が襲撃を受けたという情報が急にやってくる。その後は風見が西軍の拠点に単身で戦闘を仕掛けた話が回ったはずだ。
それを追ってきたタマが見たもの。それは西軍兵の屍山血河や、リズとナトを失って慟哭する風見の姿だった。
時を遡ったこの事情を理解できたにしろ、できなかったにしろ、風見をそんな状況に陥れた場がすぐ傍にあるのだ。この場のしがらみを全部振り切って、怖いものがないところへ逃げようとしているのかもしれない。
(タマが向かっている方向は、西軍の拠点とも総本山とも違うもんな)
全部をまとめると、この考えが最も当てはまるだろう。
これが、タマなりの守り方なのだ。それを察した風見はタマの口に手を添える。
こんな風に想ってくれていることに、精一杯の感謝を向けた。けれども、風見は首を横に振る。
「……ありがとう。でも、それじゃダメなんだ」
体を挟んでいる牙に手を当て、体を左右によじる。噛み潰さないようにと力加減されているため、風見はタマの口から多少抜け出ることができた。
すると今まで見えなかったタマの目が見えてくる。
やはり、攻撃的ではない。おどおどと、恐れを帯びた目が向けられていた。
風見はその目をまっすぐに見つめ返す。
「俺はリズを死なせたくない。逃げたって何の解決にもならないんだ。けどな、タマが思うこともわかる。俺が何かをするのが不安なんだよな?」
リズを助けに行くことまでは読めていないかもしれない。
しかしあの惨状の記憶が残っているのならば、不安がるのも当然である。
タマは、風見がまたあの悲劇を繰り返してしまうのではないかと考えているのだ。
実際、二代目マレビトとは違い、風見は無力な人間である。それは自他共に認める事実だった。
「確かに俺は一度失敗した。でも、皆の力を借りて、今度こそどうにかしたいんだよ! だからタマにも協力してほしい……!」
力強く語りかけてみる。
けれどもタマから返ってきたのは、ふるるるっ。ぐぐぐぐぅっ……! と、今までと似た吐息だ。首を横に振ってもいることからも、拒否していることが窺える。
当然だ。失敗した人間の言葉をそのまま受け入れるなんてできないだろう。
風見はしかし体をよじって抗う。
「そうだよな、信じられないよな。でも、俺は欲張りたいんだよ。ドラゴンの背に乗って、好きな人を助ける英雄の真似事をしたい。もちろん、タマが俺を信じられないのはわかる。だからさ――試されなきゃダメだよな。言葉だけじゃダメだ」
そう言うと、タマはぴくんと反応した。
これは、タマと初めて出会った時、背中に乗せてもらおうとして向けたのとほぼ同じ言葉だ。
伝説に語り継がれるような、御大層な肩書きなんていらない。
仲間の力を借り、リズを守れる何かになれればいいだけだ。それすらも実現可能か疑うのなら、存分に試してもらえばいい。
そう心を決め、風見は霊核武装を呼び出す。それは近場の地面から出現すると、すぐに風見の手に収まった。
これはタマを力尽くで止めるために呼び出したわけではない。
だが、タマは警戒したのか、律法を起動させる。周囲に茶色い幻光が満ち、複雑な文様が描かれはじめた。
それは、霊核武装の元になった魔獣の力さえ吸収し、叩き返した律法だ。効果がないはずはない。
風見はそんなタマの律法に抗おうとはしなかった。
むしろ逆である。霊核武装の力をタマの律法に上乗せする形で組み込む。
「ウォッ……!?」
タマは全く抵抗なく力が働いたことに困惑したのだろう。律法の制御が緩まる。
律法の主導権を握る隙を見つけた風見は、収束する力を別の形で表そうとした。
目指すはキュウビの言葉の具現化だ。
人を乗せ、共に飛べば身が軽くなる矛盾。それを体現する翼を作るために、力を働かせる。
律法の力があり、力が発現するための型が定められ、それらを働かせる手段まである。不可思議な現象を統べるための条件が、ここに揃っていた。
周囲を眩しく照らすほど満ちていた幻光は、大量の土砂を巻き上げ、タマの翼にまとわりつく。それが形成するのは、地竜の巨躯に見合う巨大で重厚な翼だ。
ゴーレムたちは、本来であれば支えきれない重さの体を、律法の力で支えていた。それと同じことを、風見がその身につけた付加武装と霊核武装の力で補助して、成したのである。
タマはついに、困惑のあまり立ち止まった。
風見は、そんなタマに語りかける。
「タマ。俺はここでリズを助けられなきゃ、絶対に後悔する。確かに俺は、英雄になりきれないただの一般人だ。だからこそ、あの時は一人でやって失敗した……。そんな未来を変えるために力を貸してほしいんだ。言えた義理じゃないのはわかるけど、頼む……! 俺は、お前と全部を変えたいんだ!」
思いの丈を叫んだ。
それは衝撃となって響いたのだろう。タマがわなわなと震え、風見は口からこぼれ落ちた。
落下の瞬間、なんとか追いついたクロエが風見を受け止めてくれる。ナトとキュウビも同じく追いつき、震えるタマを見上げた。
タマの震えが、止まる。
そして再度口を大きく開けると、盛大な咆哮を上げた。
耳をつんざき、空を割るほどの雄叫びだ。それと一緒に翼が振るわれ、人の身なんて軽く吹き飛ばしそうな突風が吹き荒れる。
二度、三度と繰り返されてから音がやみ、風も過ぎ去った。静止したタマを、四人は見上げる。
すると、タマはその場に伏せた。翼をスロープのように下ろし、こちらに竜の眼を向けてくる。――認めてくれたのだ。
それを理解した風見は息を呑み、「ありがとう」と小さく呟いた。
しかし胸を撫で下ろす余裕はない。クロエ、ナトと共にタマの背に跳び乗る。
この場に残るキュウビは、声を上げた。
「シンゴ様、あなたを慕う仲間を信じてください! 未来を変えようとする者は、この場にいる限りではありません。あの場には――総本山にはクイナがいます。わたくしが保証いたします。クイナは強い。あの子は、心が未熟だっただけ。けれど、それも今に自らの力で踏み越えます!」
返答する時間はない。タマは地面を跳ね、同時に新たな翼を打ち下ろし、凄まじい加速で走り出した。目指す総本山に向け、一直線に竜の翼をはためかせる。
皮肉で残酷なこの世界を変えるために、竜は飛び立ったのだった。
†
風見らが時間の遡りを自覚したのと同じ頃。
クイナはハドリア教の総本山で、同じ体験を味わっていた。
「え。あ……、ここは……? ……っ!」
それは突然の自覚だ。
頭が真っ白になって、自分はどうしてここにいるのだろうと、一瞬呆然とした。その直後、鮮明な記憶がフラッシュバックする。
自分は、ハドリア教の総本山に潜んだアスラの寄生体や分体と戦闘した。
戦況は途中まで有勢だった。けれども敵は、一瞬の不意をついて牙を剥いた。その結果、リズが命を落としたのである。
そう。あの時、自分は何もできなかったのだ。
リズに命を守られた。
惨劇後、敵に立ち向かえなかった。
慟哭する風見を励ますことさえ、できなかった。
未来の記憶や思いが、まとめて胸に叩きこまれたかのような感覚に襲われる。この圧縮された追体験に、胸は張り裂けそうになった。
「どうかしましたか?」
立ち止まって胸を押さえていると、白騎士のシンディが顔を覗きこんでくる。
ここはハドリア教総本山。教会に続く大通りで、アスラの寄生体と戦った市場のすぐ傍だ。
この時クイナは、リズやシンディと共に、敵の寄生体と思しき匂いを捜して歩いていた。父と別れ、シンディを含む白騎士の部隊と出会い、作戦に向けて動こうとした――ちょうどその頃合いである。
散開しだした白騎士たちを見て、クイナは慌てて声を上げた。
「待って!!」
騎士たちはその声に立ち止まる。彼らからは困惑と、説明を求める目を向けられた。
唐突なクイナの行動を、リズも気にしたようだ。
彼女は先日のアスラとの戦闘で負傷していた。そのせいで腹膜炎になり、今も歩ける状態ではないので馬に乗せられていたくらいだった。それにもかかわらず、気遣って馬から降りてくる。
「クイナ。もしかして戦闘が怖くなったのかな?」
リズは肩に手をかけ、問いかけてきた。
目の前にいる彼女は、夢でも幻でもない。風見の大切な人であり、自分のせいで死に至ってしまったその人。しかし、彼女は今この瞬間は生きているのだと、クイナは実感した。
同時に、一度犯した自らの過ちを自覚し、胸がさらに痛む。
この時、敵はとっくに市場の店舗内に分体を、市民には寄生体を潜ませていたはずだ。つまり、惨劇の舞台はもう整っていると言っていい。
さっきまで自分はこの道を平然と歩いていた。処刑場にリズを案内しようとしていたとも言える状況だ。
ふがいなさや申し訳なさが猛烈にこみ上げ、目が潤んでしまう。
「ち、ちがう。リズ団長、そうじゃなくてっ……」
クイナの突然の変化に、リズとシンディは顔を見合わせる。そんな反応を見ると、自分の記憶がおかしくて、本当はあの出来事は全て夢だったのではないかとさえ思えた。
いや、それこそ違う。
彼女らはあの場にいなかった。だから時間が戻る前の記憶を持たないと考えるのが自然だろう。この状況を理解できるのも、未来を変えられる可能性があるのも、自分だけだ。
踏み出すことを恐れて同じことを繰り返せば、再びあの末路になるかもしれない。そうなれば風見はまた酷く苦しむことになる。
それは、イヤだ。絶対にイヤだ。
また救えなかったと彼に慟哭させるなんて、許せるはずがない。
――なら、自分はどうすればいい?
決まっている。口を開けて待つだけのひな鳥でいてはいけない。
いつまでも何もできないままではいたくないから、変わろうとしてきたのだ。
「……踏めないはずのもう一歩を踏んで、先へ」
縮地を教わる際、キュウビは度々この言葉を口にしていた。
今はまさにその一歩を踏み出さなければいけない時である。
困った顔をしているリズとシンディに対し、クイナは自分から口を開いた。
「聞いて、ください。わたし、これからおかしいことを言います。でも、それは本当のことで、大切な話なんです……!」
緊張に両拳を握り締めながら、二人を見る。するとシンディは難色を示した。
「クイナ殿。今でなければいけないことですか?」
その反応も当然だ。彼女らからすれば、いつ寄生体が事をしでかすかわからない状況である。
クイナはこの空気を覆すためにも、強く言い直そうと大きく息を吸った。
だが、リズはそれに先んじてシンディを制す。
「いいよ。クイナがこんな風に言い出すこと自体、珍しい。何か重要なことなんだろうね。ただ、時間はない。何を言いたいのかは手短にね」
リズは少し面白がるような笑みを浮かべてクイナを促す。これは訓練で誰かを褒める時にも見せていた表情だ。
そんな彼女に応えるためにも、クイナは自分の知っていることを口にする。
「わたしは、この先何が起こるか知ってます。わたしたちは市場でアスラの分体や寄生体と交戦しました。しばらくしてから神官騎士の加勢もあって善戦したけど、大型の分体のお腹に仕込まれた兵器で不意をつかれて、たくさんの被害が出ました。リズ団長も、わたしをかばって……」
嘘でも冗談でもない。体感時間では一時間ほど前に味わった生々しい体験談だ。言葉には溢れんばかりの感情が宿っていた。
しかしシンディは怪訝そうに眉をひそめる。
「未来を知っていると……? 申し訳ないですが、そんな不可思議な話を信じるのは、とても難しいです」
確かに鵜呑みにできない内容だ。クイナ自身、言葉を紡ぐだけで信憑性のなさをより深く自覚していた。
先ほどはかばってくれたリズも「突拍子もない話だね」とぼやいている。
けれど、ここで退くわけにはいかない。クイナはさらに気を引き締め、知る限りを伝えようとした。
「その後、遅れてやってきた枢機卿が、律法でシンゴを喚んだんです。でも、団長の傷は深すぎて、助けられませんでした……。それでこらえきれなくなったシンゴは、使えるものを全部使って、アスラも西軍の残党もみんな殺したんです。わたしたちは何もできませんでした……」
風見は触れた端から敵を弾き飛ばした。
どのような理屈なのかはわからないが、それは彼の左手に埋められたヒュージスライムの核と、今までは決して取らなかった凄惨な手段を利用したものだった。
するとそれを耳にしたリズは、一転して口元を緩める。
「それは面白い話だね。なんだ、私はシンゴにそれくらいの爪痕を残せるのか」
人の生死より、そこが重要らしい。リズはくつくつと笑みを漏らした。
シンディは、不謹慎な彼女にちらとだけ視線を投げ、話を元に戻す。
「クイナさん。あなたの話を基に動くには確証がなさすぎます。猶予もあまりない状況ですので、私はこれ以上聞いていられない。もう十分ですね?」
「十分じゃない! 何か変えないとダメで、そのっ……、えっと……」
確かに何の証拠も提示できない。体験を語ることしかできないクイナは、口ごもってしまう。
どうすべきなのだろうか。すぐにでも反論しないといけないのに、何も思い浮かばない。
そんな焦燥感に駆られていた時、リズは軽く笑い飛ばした。
「いやいや、そういう判断は早いんじゃないのかな。クイナがどうしてこんなことを言い出したのか、まだ理由を聞いてないだろう? この子は無意味に茶々を入れる馬鹿ではないし、度胸があるわけでもない。それなりの理由があるんだろうさ」
堅実な手段を好むはずの彼女は、何故かこんな不確かな話を支持してシンディを宥めてくれる。
そして、シンディが再び聞く姿勢になるのを認めると、クイナに目を向けてきた。
面白がっている風ではない。穏やかで、これから何をするのか見定めようとしている目だ。
それはリズの期待の表れなのだろう。
緊張で弾む心臓を落ち着かせるために深呼吸を挟んでから、クイナは口を開いた。
「そのひどい事件の後のことを聞いてください。全部が終わった後、あのエレインっていうお姫様が現場に駆けつけて、失敗をやり直せるって言ったんです。それでものすごく大きな規模の律法を使って――気づいたら今になってました」
「……つまり、その変化を自覚したのがたった今だったから、顔色が悪かったと?」
怪訝そうにしながらも、シンディは自分なりの解釈を口にする。
クイナは頷きを返した。
「この律法はシンゴだけに向けたものだと思ってました。でも、近くにいたわたしもこうなったってことは、あの場にいた人が、記憶を持ったまま今に戻ったってことになるのかもしれません」
リズは眉根を寄せて質問してくる。
「そこには他に誰がいた?」
「シンゴと、クロエさんとキツネ様とサヤさん。あとはお姫様、青と赤とシンゴのドラゴンと、オーヴィルと、最後にわたしです」
「ふむ、オーヴィルか。いずれここに出張る話はあった気がするね。それにあの女……確かに妙な雰囲気があったけれど、そんなことができるものかな」
やはり、時間が戻るなんてすぐに信じられるものではないらしい。
当然だ。クイナ自身もそんな話は聞いたことがない。
超常現象を引き起こす律法は数あれど、死人を蘇らせたり、未来を予知したり、過去に戻ったりというものは、お伽噺の中で語られるだけだ。こうして時を遡った自覚がなければ、信じるのは難しかっただろう。
けれども意外なことに、シンディはハッとした様子で口を押さえている。
「……驚きました。それならばあり得るかもしれません。アウストラ帝国の初代皇帝がそのような能力を持っていたという記述を、我が家に代々伝わる書物で読んだ覚えがあります」
彼女は南国・アウストラ帝国の皇帝に仕えるバラクロフ公爵家の娘だ。貴族の中でもかなり身分が高い上に、歴史が古いらしい。一般的には秘された情報も把握しているのだろう。
彼女は真剣な面持ちで見つめてくる。
「クイナ殿。ちなみに、皇女殿下の属性は……?」
「黒。重力属性だった」
見たままを伝えると、シンディは頷く。
「なるほど。先ほどの話が本当だとして、どうすべきでしょうか……」
どうやら、信頼に足るものと判断されたらしい。シンディはさっそく対応を考えはじめている。
しかしクイナにしてみれば考えるまでもない。風見が慟哭していた理由は明確なのだから。
シンディと同じく考え顔になっているリズの服を掴む。
「リズ団長、だから逃げてください……! わたしが頑張って、ここは――」
風見が最も苦しんだ理由である彼女に、ここを離れてもらう。それで上手くいくはずだ。
自分はまだ普段の彼女ほどは活躍できない。しかしながら、負傷している彼女がこの場を離脱した際、その欠けた戦力を補える程度には、成長しているはずだ。
そうするしかないと心に決め、訴えたのだが――
「それはダメだね。そんなことを言い出すなんて、お前はシンゴのやり方を見すぎだよ」
リズはクイナの額を指で弾き、一蹴した。
「シンゴはね、度を過ぎてお人よしな上に、物事を変え得る可能性を持っているから、性質が悪いんだ。誰にもできないことができるから、いろんなやつに持て囃されて調子に乗る。それで行きすぎたものを求めて、擦り減るんだ。周りにいる私たちまで真似をしたら、すぐに共倒れだよ」
リズの言葉には説得力があった。
確かに自分は風見のやり方に倣っている。彼に助けられたのだから、彼の助けになるのが一番の恩返しになると思って努力を続けた。
彼を追いかけているだけでしかない自分に、リズの視線が刺さる。
「いいか、クイナ。普通にやりあって、敵に大いに出し抜かれたんだろう? それならお前一人の力で最高の結果に挿げ替えるなんて無理だよ。自惚れるな」
「――っ」
その言葉は刃のように、クイナの胸に突き立つ。
キュウビやナトという伝説じみた存在による教練は本物だ。彼女らに師事したおかげで、自分の力は少しばかり幅が利くようになった。その感触を、自らも覚えはじめていたところだった。
しかし、そう思いこんでいただけなのだろうか。リズの言葉に、クイナは酷く委縮する。
劣等感は、役立たずだった隷属騎士の時代にも、あったものだ。
結局、自分はそこから成長していないのだろうか?
そんな自問自答に苛まれていた時、クイナは予想外の感覚に襲われた。擬音で表すならズポリと――全く意識が向いていなかった猫耳に、リズが指を突っ込んできたのである。
「あひゃっ!?」
「くくっ、そう硬くならんでもいいのにね」
だから緊張を解すためにこうしたのだ、と言わんばかりだ。
動揺と困惑のせいで身を強張らせたクイナの耳を、リズは続けて弄る。
しかしすぐにこの先進むべき方向をちらと見やった後、残念そうに息を吐いた。
「そもそもね、敵は魔獣の力を使っているんだ。それを個人で覆そうなんて、土台無理な話だよ。思うがままの結果に捻じ曲げたいって言うなら、それこそ魔獣が何体もいなければ無理だろう? 私でもわかる簡単な計算だ」
「で、でもそれじゃ団長が――!?」
情けない声ながらも訴える。
リズはそれを押し留めるようにクイナの頭を撫でた。
「……説明する時間はないのですな?」
「……悪い」
風見が謝罪すると、グレンは強がるように笑った。
彼らには、前回の記憶がない。今の会話を理解するのは難しいだろう。
それでも事情を推察し、風見を信じようとしてくれるらしい。
だが、セラはそれでは収まらなかった。彼女はグレンの手を払い、風見を睨む。
「なんなんですか、あなたはっ! わけのわからないことを言って! ロクな説明もしないで……! 振り回されるセラがバカみたいですっ!」
思っていることを全て吐き出したのではないかと思うほど、セラは強く叫んでいる。
傍からすれば、風見はリズを助けるためだけに、多くの人を危険に晒そうとしているようにも見えるだろう。説明する時間がないからと押しつけるのは酷く心苦しい。
大きなため息をつくセラに対し、風見は頭を下げようとした。
「セラ、ごめ――」
「謝ってもらったって、何の解決にもならないですからっ。あなたは結果だけ持ってきてください!」
こんな状況でやっていられるかと罵声を浴びせられるかと思いきや――セラから向けられたのは、力強い視線だ。それどころか、頭を下げかけた姿勢を押し戻される。
「確かにあなたはわけがわからないです。以前も火鼠退治をせずに団子作りを始めたりして、いかれてるんじゃないかと思いました。けど、巡り巡って目的どおりの結果を出しました。今の話も、結局はお姉様の命を救った上で、この街も砦の人間も救おうって話なんですよね?」
「あ、ああ。そう――」
「だったら回れ右っ! さっさと行ってくださいっ。詳しい話も聞かないで協力しようとするセラが、バカみたいですっ!」
風見が答えようとするも、セラはその言葉を遮るように捲し立てた。
今にも噛みつかんばかりの勢いに押され、風見はグレンとリードベルトに目を向ける。
姿勢こそ違えど、二人も結論はセラと同様なのだろう。口元を緩めて深く頷いてくれる。
「悪い、詳しいことは後でココノビから聞いてくれ。俺は先を急がせてもらう。けど、誰も見捨てるつもりはないってことは本心だ」
「ええ、心得ておりますとも。武勇は後で聞きましょう。猊下殿、お気をつけて」
「ご武運を」
グレンとリードベルトが短く答える。それを聞くと、風見は走り出した。
施設を出た途端、ナトが風見を抱えて跳躍し、クロエ、キュウビが続く。街の外に出たところで、指笛を吹いてタマを呼び寄せた。
反応は非常に早い。地響きのごとき足音が近づき、タマが目の前に飛びこんできた。そしてタマの急ブレーキによって、砂埃が立ちこめる。
タマはこのタイムスリップした状況をまだ誰とも共有できていないはずだ。セラたち以上に困惑を解消するのが難しいに違いない。
風見はどのように説明するのが効率的か思案しながら、砂埃が晴れるのを待つ。
だが、見立ては大いに崩れた。タマはもうもうと立ちこめる砂埃を大顎で掻き切り、風見に迫ったのである。
「――っ!?」
そんな事態が起こるとは思いもしなかったため、タマが風見に食らいつくまで誰も反応できなかった。
「風見様!?」
クロエに続き、ナトとキュウビも驚きの声を上げる。
タマは彼女らの声を振り切り、脱兎のごとく駆け出してその場から離れた。
「痛っ。どっ、どうしたんだ、タマ!?」
風見は困惑して声を上げる。
タマに食らいつかれたが、風見は噛み潰されたわけではない。これは攻撃ではなかった。胴体を咥え上げられ、乱暴に連れ去られただけである。
理解が及ばない風見は、タマの口をタップする。けれども返答はない。
クロエとナト、キュウビが、慌てて追いかけてきた。
だがそれに気づいたタマは律法を発動させ、彼我の間に障害物として巨大な岩壁を発生させる。すると律法で形成しているナトの肉体は解け、クロエとキュウビは岩壁に阻まれた。
害意はないが、彼女らを遠ざけているのは明らかである。
タマは何故こんなことをするのかと風見は思考を巡らせた。
まさか敵側から何か工作があったか? 否、そんな時間はない。では他の可能性は――と考えていた時、風見は自分の体に吹きかかる吐息に答えを見出した。
タマはふるるるっ、ふるるるっと、嗚咽を堪えるように息を震わせている。
今の風見の体勢ではタマの瞳は見えない。けれどもどんな感情を秘めているか、察せられた。
「……もしかして、不安がっているのか?」
タマは元から喜怒哀楽の表現が豊かだ。何を楽しみ、何を怖がるのか、言葉がなくても風見にも十分に理解できる。その経験からすると、タマは不安がっているに違いない。
タマの立場では、今までの事態は本当に急だったはずだ。
アスラ対策会議の直前は、襲撃に備えて待機していた。そして、総本山が襲撃を受けたという情報が急にやってくる。その後は風見が西軍の拠点に単身で戦闘を仕掛けた話が回ったはずだ。
それを追ってきたタマが見たもの。それは西軍兵の屍山血河や、リズとナトを失って慟哭する風見の姿だった。
時を遡ったこの事情を理解できたにしろ、できなかったにしろ、風見をそんな状況に陥れた場がすぐ傍にあるのだ。この場のしがらみを全部振り切って、怖いものがないところへ逃げようとしているのかもしれない。
(タマが向かっている方向は、西軍の拠点とも総本山とも違うもんな)
全部をまとめると、この考えが最も当てはまるだろう。
これが、タマなりの守り方なのだ。それを察した風見はタマの口に手を添える。
こんな風に想ってくれていることに、精一杯の感謝を向けた。けれども、風見は首を横に振る。
「……ありがとう。でも、それじゃダメなんだ」
体を挟んでいる牙に手を当て、体を左右によじる。噛み潰さないようにと力加減されているため、風見はタマの口から多少抜け出ることができた。
すると今まで見えなかったタマの目が見えてくる。
やはり、攻撃的ではない。おどおどと、恐れを帯びた目が向けられていた。
風見はその目をまっすぐに見つめ返す。
「俺はリズを死なせたくない。逃げたって何の解決にもならないんだ。けどな、タマが思うこともわかる。俺が何かをするのが不安なんだよな?」
リズを助けに行くことまでは読めていないかもしれない。
しかしあの惨状の記憶が残っているのならば、不安がるのも当然である。
タマは、風見がまたあの悲劇を繰り返してしまうのではないかと考えているのだ。
実際、二代目マレビトとは違い、風見は無力な人間である。それは自他共に認める事実だった。
「確かに俺は一度失敗した。でも、皆の力を借りて、今度こそどうにかしたいんだよ! だからタマにも協力してほしい……!」
力強く語りかけてみる。
けれどもタマから返ってきたのは、ふるるるっ。ぐぐぐぐぅっ……! と、今までと似た吐息だ。首を横に振ってもいることからも、拒否していることが窺える。
当然だ。失敗した人間の言葉をそのまま受け入れるなんてできないだろう。
風見はしかし体をよじって抗う。
「そうだよな、信じられないよな。でも、俺は欲張りたいんだよ。ドラゴンの背に乗って、好きな人を助ける英雄の真似事をしたい。もちろん、タマが俺を信じられないのはわかる。だからさ――試されなきゃダメだよな。言葉だけじゃダメだ」
そう言うと、タマはぴくんと反応した。
これは、タマと初めて出会った時、背中に乗せてもらおうとして向けたのとほぼ同じ言葉だ。
伝説に語り継がれるような、御大層な肩書きなんていらない。
仲間の力を借り、リズを守れる何かになれればいいだけだ。それすらも実現可能か疑うのなら、存分に試してもらえばいい。
そう心を決め、風見は霊核武装を呼び出す。それは近場の地面から出現すると、すぐに風見の手に収まった。
これはタマを力尽くで止めるために呼び出したわけではない。
だが、タマは警戒したのか、律法を起動させる。周囲に茶色い幻光が満ち、複雑な文様が描かれはじめた。
それは、霊核武装の元になった魔獣の力さえ吸収し、叩き返した律法だ。効果がないはずはない。
風見はそんなタマの律法に抗おうとはしなかった。
むしろ逆である。霊核武装の力をタマの律法に上乗せする形で組み込む。
「ウォッ……!?」
タマは全く抵抗なく力が働いたことに困惑したのだろう。律法の制御が緩まる。
律法の主導権を握る隙を見つけた風見は、収束する力を別の形で表そうとした。
目指すはキュウビの言葉の具現化だ。
人を乗せ、共に飛べば身が軽くなる矛盾。それを体現する翼を作るために、力を働かせる。
律法の力があり、力が発現するための型が定められ、それらを働かせる手段まである。不可思議な現象を統べるための条件が、ここに揃っていた。
周囲を眩しく照らすほど満ちていた幻光は、大量の土砂を巻き上げ、タマの翼にまとわりつく。それが形成するのは、地竜の巨躯に見合う巨大で重厚な翼だ。
ゴーレムたちは、本来であれば支えきれない重さの体を、律法の力で支えていた。それと同じことを、風見がその身につけた付加武装と霊核武装の力で補助して、成したのである。
タマはついに、困惑のあまり立ち止まった。
風見は、そんなタマに語りかける。
「タマ。俺はここでリズを助けられなきゃ、絶対に後悔する。確かに俺は、英雄になりきれないただの一般人だ。だからこそ、あの時は一人でやって失敗した……。そんな未来を変えるために力を貸してほしいんだ。言えた義理じゃないのはわかるけど、頼む……! 俺は、お前と全部を変えたいんだ!」
思いの丈を叫んだ。
それは衝撃となって響いたのだろう。タマがわなわなと震え、風見は口からこぼれ落ちた。
落下の瞬間、なんとか追いついたクロエが風見を受け止めてくれる。ナトとキュウビも同じく追いつき、震えるタマを見上げた。
タマの震えが、止まる。
そして再度口を大きく開けると、盛大な咆哮を上げた。
耳をつんざき、空を割るほどの雄叫びだ。それと一緒に翼が振るわれ、人の身なんて軽く吹き飛ばしそうな突風が吹き荒れる。
二度、三度と繰り返されてから音がやみ、風も過ぎ去った。静止したタマを、四人は見上げる。
すると、タマはその場に伏せた。翼をスロープのように下ろし、こちらに竜の眼を向けてくる。――認めてくれたのだ。
それを理解した風見は息を呑み、「ありがとう」と小さく呟いた。
しかし胸を撫で下ろす余裕はない。クロエ、ナトと共にタマの背に跳び乗る。
この場に残るキュウビは、声を上げた。
「シンゴ様、あなたを慕う仲間を信じてください! 未来を変えようとする者は、この場にいる限りではありません。あの場には――総本山にはクイナがいます。わたくしが保証いたします。クイナは強い。あの子は、心が未熟だっただけ。けれど、それも今に自らの力で踏み越えます!」
返答する時間はない。タマは地面を跳ね、同時に新たな翼を打ち下ろし、凄まじい加速で走り出した。目指す総本山に向け、一直線に竜の翼をはためかせる。
皮肉で残酷なこの世界を変えるために、竜は飛び立ったのだった。
†
風見らが時間の遡りを自覚したのと同じ頃。
クイナはハドリア教の総本山で、同じ体験を味わっていた。
「え。あ……、ここは……? ……っ!」
それは突然の自覚だ。
頭が真っ白になって、自分はどうしてここにいるのだろうと、一瞬呆然とした。その直後、鮮明な記憶がフラッシュバックする。
自分は、ハドリア教の総本山に潜んだアスラの寄生体や分体と戦闘した。
戦況は途中まで有勢だった。けれども敵は、一瞬の不意をついて牙を剥いた。その結果、リズが命を落としたのである。
そう。あの時、自分は何もできなかったのだ。
リズに命を守られた。
惨劇後、敵に立ち向かえなかった。
慟哭する風見を励ますことさえ、できなかった。
未来の記憶や思いが、まとめて胸に叩きこまれたかのような感覚に襲われる。この圧縮された追体験に、胸は張り裂けそうになった。
「どうかしましたか?」
立ち止まって胸を押さえていると、白騎士のシンディが顔を覗きこんでくる。
ここはハドリア教総本山。教会に続く大通りで、アスラの寄生体と戦った市場のすぐ傍だ。
この時クイナは、リズやシンディと共に、敵の寄生体と思しき匂いを捜して歩いていた。父と別れ、シンディを含む白騎士の部隊と出会い、作戦に向けて動こうとした――ちょうどその頃合いである。
散開しだした白騎士たちを見て、クイナは慌てて声を上げた。
「待って!!」
騎士たちはその声に立ち止まる。彼らからは困惑と、説明を求める目を向けられた。
唐突なクイナの行動を、リズも気にしたようだ。
彼女は先日のアスラとの戦闘で負傷していた。そのせいで腹膜炎になり、今も歩ける状態ではないので馬に乗せられていたくらいだった。それにもかかわらず、気遣って馬から降りてくる。
「クイナ。もしかして戦闘が怖くなったのかな?」
リズは肩に手をかけ、問いかけてきた。
目の前にいる彼女は、夢でも幻でもない。風見の大切な人であり、自分のせいで死に至ってしまったその人。しかし、彼女は今この瞬間は生きているのだと、クイナは実感した。
同時に、一度犯した自らの過ちを自覚し、胸がさらに痛む。
この時、敵はとっくに市場の店舗内に分体を、市民には寄生体を潜ませていたはずだ。つまり、惨劇の舞台はもう整っていると言っていい。
さっきまで自分はこの道を平然と歩いていた。処刑場にリズを案内しようとしていたとも言える状況だ。
ふがいなさや申し訳なさが猛烈にこみ上げ、目が潤んでしまう。
「ち、ちがう。リズ団長、そうじゃなくてっ……」
クイナの突然の変化に、リズとシンディは顔を見合わせる。そんな反応を見ると、自分の記憶がおかしくて、本当はあの出来事は全て夢だったのではないかとさえ思えた。
いや、それこそ違う。
彼女らはあの場にいなかった。だから時間が戻る前の記憶を持たないと考えるのが自然だろう。この状況を理解できるのも、未来を変えられる可能性があるのも、自分だけだ。
踏み出すことを恐れて同じことを繰り返せば、再びあの末路になるかもしれない。そうなれば風見はまた酷く苦しむことになる。
それは、イヤだ。絶対にイヤだ。
また救えなかったと彼に慟哭させるなんて、許せるはずがない。
――なら、自分はどうすればいい?
決まっている。口を開けて待つだけのひな鳥でいてはいけない。
いつまでも何もできないままではいたくないから、変わろうとしてきたのだ。
「……踏めないはずのもう一歩を踏んで、先へ」
縮地を教わる際、キュウビは度々この言葉を口にしていた。
今はまさにその一歩を踏み出さなければいけない時である。
困った顔をしているリズとシンディに対し、クイナは自分から口を開いた。
「聞いて、ください。わたし、これからおかしいことを言います。でも、それは本当のことで、大切な話なんです……!」
緊張に両拳を握り締めながら、二人を見る。するとシンディは難色を示した。
「クイナ殿。今でなければいけないことですか?」
その反応も当然だ。彼女らからすれば、いつ寄生体が事をしでかすかわからない状況である。
クイナはこの空気を覆すためにも、強く言い直そうと大きく息を吸った。
だが、リズはそれに先んじてシンディを制す。
「いいよ。クイナがこんな風に言い出すこと自体、珍しい。何か重要なことなんだろうね。ただ、時間はない。何を言いたいのかは手短にね」
リズは少し面白がるような笑みを浮かべてクイナを促す。これは訓練で誰かを褒める時にも見せていた表情だ。
そんな彼女に応えるためにも、クイナは自分の知っていることを口にする。
「わたしは、この先何が起こるか知ってます。わたしたちは市場でアスラの分体や寄生体と交戦しました。しばらくしてから神官騎士の加勢もあって善戦したけど、大型の分体のお腹に仕込まれた兵器で不意をつかれて、たくさんの被害が出ました。リズ団長も、わたしをかばって……」
嘘でも冗談でもない。体感時間では一時間ほど前に味わった生々しい体験談だ。言葉には溢れんばかりの感情が宿っていた。
しかしシンディは怪訝そうに眉をひそめる。
「未来を知っていると……? 申し訳ないですが、そんな不可思議な話を信じるのは、とても難しいです」
確かに鵜呑みにできない内容だ。クイナ自身、言葉を紡ぐだけで信憑性のなさをより深く自覚していた。
先ほどはかばってくれたリズも「突拍子もない話だね」とぼやいている。
けれど、ここで退くわけにはいかない。クイナはさらに気を引き締め、知る限りを伝えようとした。
「その後、遅れてやってきた枢機卿が、律法でシンゴを喚んだんです。でも、団長の傷は深すぎて、助けられませんでした……。それでこらえきれなくなったシンゴは、使えるものを全部使って、アスラも西軍の残党もみんな殺したんです。わたしたちは何もできませんでした……」
風見は触れた端から敵を弾き飛ばした。
どのような理屈なのかはわからないが、それは彼の左手に埋められたヒュージスライムの核と、今までは決して取らなかった凄惨な手段を利用したものだった。
するとそれを耳にしたリズは、一転して口元を緩める。
「それは面白い話だね。なんだ、私はシンゴにそれくらいの爪痕を残せるのか」
人の生死より、そこが重要らしい。リズはくつくつと笑みを漏らした。
シンディは、不謹慎な彼女にちらとだけ視線を投げ、話を元に戻す。
「クイナさん。あなたの話を基に動くには確証がなさすぎます。猶予もあまりない状況ですので、私はこれ以上聞いていられない。もう十分ですね?」
「十分じゃない! 何か変えないとダメで、そのっ……、えっと……」
確かに何の証拠も提示できない。体験を語ることしかできないクイナは、口ごもってしまう。
どうすべきなのだろうか。すぐにでも反論しないといけないのに、何も思い浮かばない。
そんな焦燥感に駆られていた時、リズは軽く笑い飛ばした。
「いやいや、そういう判断は早いんじゃないのかな。クイナがどうしてこんなことを言い出したのか、まだ理由を聞いてないだろう? この子は無意味に茶々を入れる馬鹿ではないし、度胸があるわけでもない。それなりの理由があるんだろうさ」
堅実な手段を好むはずの彼女は、何故かこんな不確かな話を支持してシンディを宥めてくれる。
そして、シンディが再び聞く姿勢になるのを認めると、クイナに目を向けてきた。
面白がっている風ではない。穏やかで、これから何をするのか見定めようとしている目だ。
それはリズの期待の表れなのだろう。
緊張で弾む心臓を落ち着かせるために深呼吸を挟んでから、クイナは口を開いた。
「そのひどい事件の後のことを聞いてください。全部が終わった後、あのエレインっていうお姫様が現場に駆けつけて、失敗をやり直せるって言ったんです。それでものすごく大きな規模の律法を使って――気づいたら今になってました」
「……つまり、その変化を自覚したのがたった今だったから、顔色が悪かったと?」
怪訝そうにしながらも、シンディは自分なりの解釈を口にする。
クイナは頷きを返した。
「この律法はシンゴだけに向けたものだと思ってました。でも、近くにいたわたしもこうなったってことは、あの場にいた人が、記憶を持ったまま今に戻ったってことになるのかもしれません」
リズは眉根を寄せて質問してくる。
「そこには他に誰がいた?」
「シンゴと、クロエさんとキツネ様とサヤさん。あとはお姫様、青と赤とシンゴのドラゴンと、オーヴィルと、最後にわたしです」
「ふむ、オーヴィルか。いずれここに出張る話はあった気がするね。それにあの女……確かに妙な雰囲気があったけれど、そんなことができるものかな」
やはり、時間が戻るなんてすぐに信じられるものではないらしい。
当然だ。クイナ自身もそんな話は聞いたことがない。
超常現象を引き起こす律法は数あれど、死人を蘇らせたり、未来を予知したり、過去に戻ったりというものは、お伽噺の中で語られるだけだ。こうして時を遡った自覚がなければ、信じるのは難しかっただろう。
けれども意外なことに、シンディはハッとした様子で口を押さえている。
「……驚きました。それならばあり得るかもしれません。アウストラ帝国の初代皇帝がそのような能力を持っていたという記述を、我が家に代々伝わる書物で読んだ覚えがあります」
彼女は南国・アウストラ帝国の皇帝に仕えるバラクロフ公爵家の娘だ。貴族の中でもかなり身分が高い上に、歴史が古いらしい。一般的には秘された情報も把握しているのだろう。
彼女は真剣な面持ちで見つめてくる。
「クイナ殿。ちなみに、皇女殿下の属性は……?」
「黒。重力属性だった」
見たままを伝えると、シンディは頷く。
「なるほど。先ほどの話が本当だとして、どうすべきでしょうか……」
どうやら、信頼に足るものと判断されたらしい。シンディはさっそく対応を考えはじめている。
しかしクイナにしてみれば考えるまでもない。風見が慟哭していた理由は明確なのだから。
シンディと同じく考え顔になっているリズの服を掴む。
「リズ団長、だから逃げてください……! わたしが頑張って、ここは――」
風見が最も苦しんだ理由である彼女に、ここを離れてもらう。それで上手くいくはずだ。
自分はまだ普段の彼女ほどは活躍できない。しかしながら、負傷している彼女がこの場を離脱した際、その欠けた戦力を補える程度には、成長しているはずだ。
そうするしかないと心に決め、訴えたのだが――
「それはダメだね。そんなことを言い出すなんて、お前はシンゴのやり方を見すぎだよ」
リズはクイナの額を指で弾き、一蹴した。
「シンゴはね、度を過ぎてお人よしな上に、物事を変え得る可能性を持っているから、性質が悪いんだ。誰にもできないことができるから、いろんなやつに持て囃されて調子に乗る。それで行きすぎたものを求めて、擦り減るんだ。周りにいる私たちまで真似をしたら、すぐに共倒れだよ」
リズの言葉には説得力があった。
確かに自分は風見のやり方に倣っている。彼に助けられたのだから、彼の助けになるのが一番の恩返しになると思って努力を続けた。
彼を追いかけているだけでしかない自分に、リズの視線が刺さる。
「いいか、クイナ。普通にやりあって、敵に大いに出し抜かれたんだろう? それならお前一人の力で最高の結果に挿げ替えるなんて無理だよ。自惚れるな」
「――っ」
その言葉は刃のように、クイナの胸に突き立つ。
キュウビやナトという伝説じみた存在による教練は本物だ。彼女らに師事したおかげで、自分の力は少しばかり幅が利くようになった。その感触を、自らも覚えはじめていたところだった。
しかし、そう思いこんでいただけなのだろうか。リズの言葉に、クイナは酷く委縮する。
劣等感は、役立たずだった隷属騎士の時代にも、あったものだ。
結局、自分はそこから成長していないのだろうか?
そんな自問自答に苛まれていた時、クイナは予想外の感覚に襲われた。擬音で表すならズポリと――全く意識が向いていなかった猫耳に、リズが指を突っ込んできたのである。
「あひゃっ!?」
「くくっ、そう硬くならんでもいいのにね」
だから緊張を解すためにこうしたのだ、と言わんばかりだ。
動揺と困惑のせいで身を強張らせたクイナの耳を、リズは続けて弄る。
しかしすぐにこの先進むべき方向をちらと見やった後、残念そうに息を吐いた。
「そもそもね、敵は魔獣の力を使っているんだ。それを個人で覆そうなんて、土台無理な話だよ。思うがままの結果に捻じ曲げたいって言うなら、それこそ魔獣が何体もいなければ無理だろう? 私でもわかる簡単な計算だ」
「で、でもそれじゃ団長が――!?」
情けない声ながらも訴える。
リズはそれを押し留めるようにクイナの頭を撫でた。
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