金平糖の箱の中

由季

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「夕霧、旦那さんがきてくれたぞ」

 そう障子を開けた向こうには、喜八がきまずそうに立っていた。

「旦那様」

 いいかい、といつも通り座布団に座った。あのような相談をした後なので、夕霧もしゃんと背筋が伸びる。喜八のその結ばれた口から「店のものに言う」などでて来るのではないかと、夕霧にとって少しの沈黙が、どれ程長く感じただろうか。外の喧騒が騒がしかった。

「夕霧」

 喜八のくちから、名前が出る。その音にばかりとしながらも、覚悟を決めたんだというように、落ち着いた目で喜八を見た。喜八は、そんな鋭い目に、困ったように眉を垂らした。

「聞いてくれるか」

 喜八は、落ち着いた声で話し始める。それは、朝霧との最後の日のことであった。


『だから、これからは余りこれなくなる』

 そう、若い頃の喜八は本当に寂しそうに、正座をしながら拳を握りしめる。

 店の修行、親から進められる許嫁の話。自分の金を削って通っていた遊郭であったが、跡取りの話が出てきたいま、通うのが難しくなったきたのである。

 正座した膝の上で握りしめていた拳を、朝霧の手が包む。柔らかく温かい手であった。ヒョイと俯く喜八を覗き込む朝霧は、愛らしく微笑んでいた。喜八は本気で、その笑顔を一生見続けたいと思っていた。

『そんな、今生の別れのように言わないでくださいまし』
『しかし……。そうだ、逃げてしまおう。一緒に、どこかへ……』

 そういうと、喜八の持ってきた金平糖を一つつまみ、喜八の口の中に放り込んだ。強制的に会話を終わらせ、朝霧は困ったように微笑む。

『わたしは、いつでもここにいます』

 そういうと、窓に向かって歩く。くるりと振り返る朝霧は、喜八の贈った打掛を羽織っており、その着物は楼台の柔らかな明かりに照らされ、一層朝霧の肌を映えさせた。

『旦那様は、なんで遊女が前に帯を結んでいるかご存知で?』

 朝霧の後ろの窓からは、変わらず男と女の声が聞こえる。赤い提灯の明かりも、すこし部屋に入り込んで朝霧を妖しく照らしている。

『既婚者のしるし……』

 そういうと、朝霧はまた、喜八の前に座った。楼台に照らされる朝霧の顔は、寂しいように微笑む。

『喜八様がここにきてくだされば、わたしはいつでも喜八様の妻です』

 額をコツンと、ぶつける。ちらりと朝霧の顔を見ると、下に俯いているまつ毛が長く、光に照らさせる。ずっと見ていたい気持ちに喜八は胸が締め付けられるようであった。

『だから、自分の身を危険にさらすことなんか考えないでください』

 朝霧の腕を掴み、自身のほうに引き寄せる。豪華な着物から伸びている首の根元に鼻をあてると、白粉の匂いが肺をいっぱいにした。

『いつか……いつか……』

 そううわ言のようにつぶやいた。抱きしめていたため、喜八は朝霧の顔は見えなかったが、『ええ』と漏らした声は、憂いを帯びていた。


「……それで夕霧。朝霧はどうなった」

 夕霧は、キュと口を結ぶ。

「……それで、私は、どうなった」

 あぐらに肘をつき、片手で頭を抱えた。
 ひとつ、重いため息を吐く。

「私は店で大繁盛、朝霧を忘れておいて」

 情けない、と今まで聞いたことないような、か細い声で話した。痛々しくも聞こえるその話を、夕霧は深刻な顔で聞く。

「旦那様……」

 朝霧が、母が喜八のためを案じ足抜けの提案を蹴ったと聞いた夕霧は、足抜けに協力してくれなんて、自分が言うべきことではなかったのだと心がずしりと重くなる。
 あぐらの上で握りしめている手を、頭を抱えている喜八に近付く権利はないと、俯き口を閉じる。

 喜八はひとしきり考え込むと、顔を上げる。

「夕霧」

 ああ、ダメになってしまうと、か細い声で返事をし夕霧も顔を上げる。怒っているか、悲しんでいるかの顔だと予想した夕霧であったが、もっと複雑な……眉を垂らし微笑み、しかし目の奥に覚悟を秘めている目で喜八は言う。

「一緒に逃げる妓に、着物何色がいいか聞いてきなさい」

 意外な返答に、夕霧は目を見開いた。

「旦那様……」
「夕霧には幸せになって欲しい」

 緊張で冷たくなった夕霧の手を取る。指先からジワリと暖かくなっていく感覚は、その場も暖かくしていった。緊張がじわじわと溶け、夕霧の顔もほころんでくる。

「ありがとう、ございます……」

 俯いてひとつ、自分の手に重ねられた喜八の手に涙を落とす。

 その俯く夕霧の、ガラス玉のような綺麗な涙が朝霧に似た長い睫毛を彩り、喜八はまた懐かしさに、胸を痛めたのである。
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