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37.「去れ。お前達に勝ち目はない」
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空の上は時間も曖昧だ。雲はゆっくりと流れているのに、漂っているうちに赤い月はついに満月になる寸前だった。
――もうあと数刻もすれば赤い満月の夜がやってくる。でも、もうなにも怖くない。
私達を脅かす痛みはもうやってこない。溢れる多幸感に何度も涙を雲に浮かべてはロルフが舐めて拭ってくれる。竜の鱗は毛繕いできないから少し寂しいな、なんて猫らしいことを考えていたり。
まだ、やらなければならないことが残っている。それでも、空をふたりきりで旅するこの瞬間は、目が合う度に口付けてしまうほど幸せだった。
猫と竜が地上に降り立ったとき、待ち構えていたのは怒気を帯びた顔つきの男達だった。
ニーナは猫の姿のまま竜の背中で体を強ばらせる。
『第二王子……!! その姿はなんだ!? 禁忌の魔法にでも手をだしたんだろう! 汚い奴だ……無能の分際で王妃様を欺いていたのか……!?』
筆頭の、酷い顔でロルフをなじる男の顔には見覚えがあった。あれは二日前に植物園で王妃と何やら意味深な話をしていた従者だった。開口一番から王妃の肩を持つ辺りからその周りも王妃の手の者とみて間違いない。従者も王妃も猫族だ。
――去れ。お前達に勝ち目はない。
ぶわっと竜巻のような強風が吹き荒れた。竜の翼が強風を起こしたのだ。それは馬に乗っていた男達が軽々と飛ばされるようなもので、ニーナもロルフが支えていてくれなかったら塵のように飛ばされただろう。
集団になったところで竜と猫では圧倒的に力の差がある。その証拠に筆頭の男以外はロルフの姿におののき、腰を抜かしている者さえいる。竜の牙と翼の前ではどんな鎧も剣も役に立たないと本能が悟るからだ。
ロルフとしてもニーナの前で血を流す気はないのだろう。牽制だけで済むのならと蒼い瞳を鋭く光らせ蒼い雷のような魔力を纏う。
だが、王妃の従者は笑った。これを待っていたと言わんばかりに。
『な、なんだあの竜は!? ミカエル様でも国王様でもないぞ!』
『こ、これは一体どういうことです!? 緊急の集まりだと言われてきてみれば……!』
その声に振り返るとどこからか現れた男が立っていた。それに続いてどんどん人が集まってくる。
まずいと気付いたのが遅かった。あっという間に大勢の人に囲まれてしまう。
突如現れた白銀の竜を訝り、恐れているのはどうみても一般市民だ。なかには騒ぎに便乗したのであろうこ子供までみえる。
(これでは迂闊に手をだせない……!)
従者達の狙いはこれだったのだ。ロルフが一般市民に対して手を出せないのを知っているからこそ、関係のない人たちを集めて人質にしているのだ。
従者はしてやったと言わんばかりの声を張り上げて民衆に告げた。
『皆の衆! これはあの極悪人である第二王子だ! 持たざる者でありながら禁術を使ってこのような姿で我々の前に現れたのだ……!』
民衆を取り囲む困惑が一瞬にして怒りに変わり、顔つきが変わる。
『なんだと!? あの極悪王子なのか!?』
『この国をどうする気なの! ようやく赤い満月の夜を迎えてあの恐ろしい日々から解放されると思っていたのに……!』
『ああっ……終わりじゃ。わしらのウィルデン王国は終わりじゃ……』
『あの竜、猫を人質にとってるぞ!? おい誰か助けてやれ!』
『やっちまえ! みんなで力を合わせれば竜とだって戦える! オレたちには騎士様たちだってついてる!』
わあっと盛り上がりを見せる老若男女は叫ぶように第二王子を罵った。
白銀の竜に向けて石や鈍器が飛ばされる。なかには騎士が貸したらしい矢まであった。ロルフは前足にニーナを抱え逞しい翼を盾にしてその攻撃をかわしている。攻撃する様子は微塵もみせない。
「やめて……! これはロルフ様の本当の姿なの……! 悪いのはこの人じゃないの! お願い話を聞いて……!」
猫族同士であれば聞こえるであろう声で叫んでいるのに、誰一人耳をかしてくれない。
最初から、ずっと最初から王妃たちの目的はこれだったんだ。
赤い満月の夜に民衆の積もった怒りをロルフにぶつけさせる。ロルフの呪いが解けていなければそのまま民衆の前で罪を償う、とでも言わせて呪いによって命を落とし、万が一呪いが解けてもこうして民衆に悪役退治をさせればいい。
今までの、生きる意味を見失い、死を受け入れる準備をしていたロルフであれば残される国民のために悪役を演じて自害すらしてみせただろう。
ロルフの優しさを逆手に取った非道だ。なぜここまでされなければならないのだろう。
もし本当に極悪人であれば今この場で爪と牙を使ってしまえば誰一人残らなくなることくらい自分ですら分かるのにと、ニーナは怒りに肩を振るわせた。
呪いの解除方法を王妃は知っていたのだろうか。王妃の部屋で見つけたロルフの母が残した香水と手紙の入った宝箱が開かれた形跡はなかったけれど、手がかりがそれだけだとは限らない。それに、どちらにせよロルフの命も、民衆の命もただの駒だとしか思っていないのはよく分かった。許せない。
竜の目を目がけて不安定な矢が飛ばされた。その先にいたのは状況が理解出来ていない子供で、竜はその子を護るように体勢を変えた。その隙を狙って、碧眼に向けてもう一本の矢が飛ばされる。
「だめっ……!」
矢は一歩遅ければ竜の目に的中だった。矢の先は、竜の手を抜けて宙を舞った猫を射貫く。
瞬間、ざわめきは一瞬にして収まった。
「ニーナ……! ニーナ!」
目を瞠った竜は敵に囲まれていることなど構わず姿を人に変え猫を抱きかかえる。そして人の声とは思えないほど低く、地を這うような声でうなり声をあげた。
この世の終わりのような音に、誰もがその場から動けなくなる。
誰もが目を泳がせ、絶望し、持っている武器を落とした。もう誰もこの状況を正確に判断できていない。
持たざる極悪王子と呼ばれた男が、伝説に記された白竜の姿で現れ、たった一人の国民にすぎない子供を庇い、その竜を猫が体を呈して護ったのだ。
その光景は民衆達の頭を冷やすのに十分だった。目の前にいるのは本当に極悪王子なのか。
そもそも、極悪王子なんてものが本当にいるのか。どうして、この竜は一切自分たちに攻撃してこなかったのか。猫はなにを訴えていたのか。
全員が揃って血の気のひいた顔になる。
ぶわっと風が吹いて降り立ったのは黄金色の竜だった。
竜はすぐに人の姿になるとニーナを抱いて蹲るロルフの肩を掴む。
「遅かったか……! おいっ、ロルフ! 急いで城へ戻れ! どんでもない事実が……!」
ロルフはその手を力強く叩き落とした。
ニーナははっと目を覚ます。そして矢が射貫いた場所にそっとロルフの手を当てさせた。
ニーナに傷はひとつもついていない。ロルフのくれた首飾りがその矢を寸前で食い止めていたのだ。
「……ロルフ様、大丈夫ですから……聞いてください」
そのときようやく碧眼と目が合った。大丈夫。そう頷いてニーナはロルフにしか聞こえない声でそっと微笑んだ。そしてミカエルの言うとおり、集まった民衆を引き連れて城へと向かった。
ニーナは城へ向かう途中に直ぐに終わらせると言って、ロルフが信用できる医者へと預けられた。
ロルフが城に着いたとき、もうすでに王妃を護るはずの従者達は意気消沈していてただ民衆の後をついて歩いていた。集まった民衆は城に押し寄せ、城内の逃げ場を塞ぐ。警備の者などもう意味もない。
辿り着いたのは王の寝室だった。
「なんてことなの……! お願いやめてミカエル……私達の未来のためなのよ」
寝室の扉の前で狼狽える王妃は涙を流し王太子と第二王子に懇願する。まるで罪人のように捕らわれ首を振り続ける。
王太子はそんな王妃の胸の谷間に隠されていた首飾りを引きちぎり、ロルフに差し出した。
その首飾りには鍵がついていた。もう何年も王妃以外が立ち入ることを禁じられていた王の寝室の鍵だ。
「……そういうことか」
「もう分かっちゃった? いやあ、怖いよねえ」
ロルフは鍵を手に王の寝室の扉に手をかける。王妃は血相を変えて髪を乱し泣き崩れた。
なにが起こっているのか全く分からない民衆は不穏な空気にただ顔を見合わせる。
「いやぁ……!! やめてっ!! 誰かっ! あの男を止めなさい……!!」
この中で起こっている最悪の事態を想定して一瞬手が戸惑った。だが、愛しの猫の顔が浮かんで覚悟を決め、解錠の断末魔を響かせた。
「……想像以上だな」
ロルフは眉間に皺を寄せた。隣に立ったミカエルもやはりと言った顔でその光景に目をやった。
王の寝室の窓は閉ざされ、鼻を摘まみたくなるほど濃い匂いが充満している。薔薇を長時間毒で煮込んだような刺激臭だ。光の届かない寝室は薄暗く、とても長い間病を患っている王がいるような場所とは思えない。
燭台の微かな明かりだけがぼんやりと豪華な寝台を照らしていた。そのなかで眠るのは白骨化した王だった。予想していたとはいえ目を背けたくなるような酷い光景だ。
ロルフは王の手の中になにかが握られているのに気づき、それを手に取った。
「……香水、か?」
それは香水瓶で、中には血のように赤い液体が入っている。刺激臭の根源はこれなのだ。
「汚い手で触らないでちょうだい!! それは私からミカエルへの愛なのよ!!」
拘束された状態で怒り狂ったかと思えば、王妃はうっとりとした目で香水瓶を見つめミカエルに向き直る。
「王は私の真実の愛のために尊い犠牲となってくださったのよ……! あれには《愛》が必要だったんですもの……! こんな姿になってもまだ私を愛していてくれるの。これは私からあなたへの気持ちよミカエル……!」
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「…………え?」
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「……ああ……そこにいる無能とあの不義の調香師のせいね……あの優しく美しいミカエルがそんなこと言うはずないわ……!! ああっ、かわいそうなミカエル! でももう大丈夫よ……!」
王妃は拘束が緩んだ隙に振りほどき、噛み付くようにロルフから香水を奪うと、寝室の閉ざされた窓に衝突する勢いでぶつかった。
勢いよく開いた窓からは、満ちたばかりの赤い満月が現れた。薄暗い寝室を照らし出す月光はまるで燃えさかる炎のようだ。
王妃は目を見開き両手を満月に向けて広げ高らかに叫んだ。
「さあ……! もうこれで終わりよ! 王を殺したのも、この騒動を引き起こしたのもすべてあなたの罪なのよ……! 消えなさい! そして私はようやく本当の愛を手に入れるのよ……!」
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