皇帝の寵愛

たろう

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後段

55 旅立ち

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※54話と55話の二話更新です。可能であれば、近日中にあと1話更新できるかもしれません。

 それから食事は恙なく進んでいった。正尚さまが、言われた通り一度話し出すと堰を切ったように話し続けるのには驚いたけれど、料理だけでなく故郷の話を面白おかしくお話ししてくださったおかげで、お二方とはだいぶ打ち解けることができた。こういう会話の運びかたは僕も見習わなければと思う。
「そういえば、先ほどお二方の会話で、近日中にどこかへお出でになられるようなお話があったと思うのですが、どちらまで行かれるのですか?」
 食後のお茶を飲みながらふと思いついて僕は何の気なしに聞いてみた。
「実は私ども、私と妻は数日後にこの国を発つのです。皇帝陛下のお力添えをいただき、妻の助けのおかげもあって、私の故郷へと帰ることができます」
「そうなのですか?全く存じ上げませんでした。折角お知り合いになれたのに、遠くへ行ってしまわれるのは少し寂しくあります」
「ええ、本当に」
「ですが、故郷へ帰れるのはとても喜ばしいことですね。心よりお喜び申し上げます。私は明日皇都へ戻るのでお見送りすることかないませんが、息災をお祈りしております」
「賢英さまもどうか息災であられますように」
「はい。ところで、どれくらいぶりに戻られるのですか?」
「そうですね……十年近くになるでしょうか、私がこの国にきてから」
「そんなに……。どうしてこちらへいらしたのですか?」
「それは、偶然、いえ、天の配剤です」
「天の……?」
「はい。こちらへ来たのは私の意志ではなかったのです。来たばかりのころは自分の境遇を呪ったものですが、今となっては私への試練だったようにも思われます。辛いことも多かったのですが、そのぶん良いことも多くありました。世間知らずの私が見分を広める良い機会になったととらえ直すこともできます。当時はそんな風には全く考えられませんでしたが。それにこうして喜媚に出会うこともできました。皇帝陛下と縁を結ぶこともできました。ええ。悪いことばかりではありませんでした」
「帰るのが楽しみですね」
「え?ええ」
「家族や友人にも会えますし、故国の懐かしい料理も堪能できますね。ご自慢の水に拘った美味しい料理が。本当に良かったですね」
 見たこともない国に下り立つ二人が想像できる。
「それに久しぶりに故郷へ戻られたらなさりたいこともたくさんありますよね、きっと」
「やりたいこと……」
「十年もたっていたらお知り合いのかたも随分変わってしまっているかもしれません。とりあえず、お喋りの種には事欠きませんね」
「……そう、ですね」
 正尚さまが穏やかに微笑む。
 僕は呑気に言葉を紡ぐ。そういえば父がいなくなってから故郷には帰っていないことを思い出す。きっとこの人には古い馴染みや友人家族が待っているのだろう。無事に会えるといいなと思う。
「ええ。本当にその通りです。やりたいことや楽しみなことがたくさん待っているはずです。ええ、きっと。私は妻に見せてやりたい。美しい山や野や、穏やかで誠実な人たちを。私の愛する家族や友人を」
 そう話す彼の顔はとても穏やかで。
「ありがとうございます。賢英さま」
 正尚さまが不意に僕の手を握る。握る手は大きくて力強い。
 突然そんなことをされて、僕はただ焦る自分を取り繕うことしかできなかった。
「ええと。船旅はとても危険だと聞き及んでおります。どうか道中お気を付けください。お二人の旅のご無事を微力ではございますが、お祈りいたしております」
 僕はなんとかそれだけを言うことができただけだった。


「喜媚が正尚に無茶を言わないかどうかが私は心配だよ」
 僕の両の手が解放されたと思って人心地ついていると、突然横から声がかけられた。声のした方を振り向くと、主上との話も終わったのだろう、気づくとすぐそばに柳海燕と息子の芳晋が立っている。二人が僕に一礼して、言葉を続ける。
「本当にこんな妹を連れていくのか、正尚?きっと船の上でわがまま三昧だぞ」
「夫を困らせるようなことはしないわ」
「けれど、船の上はお前が想像するよりもずっと辛い。船の揺れは片時も止むことはないし、柔らかな寝床もなければ、うまい料理もない。耐えられるか?無事に向こうにたどり着くとも限らない。そしてなんとか向こうについたとしても、どんな生活が待っているかもわからない。もしかしたら野宿だってするかもしれない。それでも行くのか?やめるのなら今のうちなのだぞ、喜媚」
「兄さん……。それでも私はこの人と離れたくないの」
「何も嫌がらせで言っているわけではないんだ。なぁ喜媚。私は心配だ。いくら普通の女ではないと言っても、やっぱりお前は箱入り娘なわけで、本当に辛いことを経験したことがない」
「普通の女でない……」
「喜媚はこれ以上ないほどによくできた妻だよ。義兄さん。このことはもう二人で何度も話し合いました。時間をかけて準備もしてきました。それでも絶対と言えることはありません。確実なことなどこの世にはないのです。ですが、より良い未来につながるように二人で力を合わせたいと思います。私は、彼女がいれば困難を切り抜けられると信じています。だからどうか義兄さんも私たちを信じてください」
「あなた……」
「芳晋。もうやめろ。喜媚と正尚が決めたことだ。お前が口出しできる時はとっくに過ぎてしまった」
 お見苦しいところをお見せしましたと言って、柳海燕が息子を連れて元の席に着く。僕の隣に座る二人が堅く手を握るのを見た。
 そうこうしているうちに料理は全て片付けられた。僕らは会の終わりの宣言を待った。
 上座に座る主上が、不意に侠舜に目配せをする。すぐに侠舜は部屋の隅にある卓から黒塗りの小箱を取ってくると、正尚さまに恭しく手渡した。
 受け取った正尚さまが困惑したように主上を見つめる。
「私からの餞別だ。父の代でお前の国とは直接の行き来が無くなっている。そのためどれほどの意味があるかはわからないが、お守り代わりにはなるだろう。持っていくと良い。それから、一緒にお前の兄に向けた親書も封入されている。無事合流できたら渡すと良い」
 言葉もないというように正尚さまが手元の箱をじっと見つめたあとで、囁くように言葉を発した。
「お心遣い痛み入ります……」
 正尚さまは動かなかった。掌の中の重みを確かめているようにも見えた。皆が見つめる中、しばらく無言の時間が流れた後で、彼が静かに言葉を発した。
「私は……」
 ぽつりと言葉が落ちる。その先の言葉は形にならずに溶けて消えた。
「陛下は気づいておられましたか?」
 正尚さまが言葉を切ってじっと主上を見つめる。
「以前の貴方は私どもに興味がありませんでしたね。初めに同情がありました。私はなんて慈悲深いのだろうと思いました。けれど、すぐに私は気づきました。あなたは私たちに何も期待していませんでした。
ですが、陛下はここしばらくの間で随分とお変わりになられました」
 正尚が言葉を切ってじっと主上を見つめる。
「以前の陛下は私たちがうまくいくことも失敗することにも興味がない風でした。陛下の私ども柳家に対する指示も機械的で温度の感じられないものでした。ですが最近は何か……、別の意図を感じるような指示をいただくことが多くなりました。言葉は無くても、あなたが何かに手を伸ばそうとしていらっしゃるのがわかりました。この一年で、私はやっと貴方の為人を見たように思いました。そして、今日突然私の中で陛下のお姿がはっきりとした形となって現れました」
 主上は何も言わずに、目の前に立つ男を見つめている。
「ですが、なぜなのでしょうか?」
「ただの気まぐれだと言ったらどうする?」
 正尚さまがゆっくりと首を振る。
「陛下は気づいておられるでしょうか。その気まぐれさえも今まではなかったのです。それはつまり貴方がお変わりになられた証左です。私は幼少の頃よりあなたに一度お会いしてみたかった。そして、その願いは私が想像したものとは全く違った形ではありましたが、神の思し召しによりこうして叶いました。道は重なりました。お互いに進む先は異なりますが、それでもこうして出会いました。
私が会いたいと願った人は、ですが抜け殻でした。これでは駄目だと思いました。先はないと。なぜならあなたは何者でもありませんでした。まるで死地に送られる罪人がその終わりを待っている姿に見えました。気概も誇りも夢も希望も怒りすらも持ち合わせてはいらっしゃらなかった。ご容赦ください。私はあなたを利用しました。国に帰るためにはそれが必要だったからです。ですが……」
 箱をそっと卓の上に置くと、右手を胸の上に添えるようにして立ちあがる。
「明国皇帝陛下」
 一つの決意を固めたように一文字に結ばれた口から、次の瞬間発せられた彼の声は朗々と室内に響いた。他人に聞かせることに慣れた者の話し方だった。
「ああ。どうか今、心より私どもへの格別なるお心遣いを賜りましたことについて感謝を述べさせていただくことをお許しください。当時生意気にも支援を願い出た私の言葉を信じて頂いただけでなく、今までの長期に渡るご支援を賜りましたこと、また妻への厚い恩情、さらに柳家への支援、私は陛下のご親切を一生涯忘れることはないでしょう。そして今またかようにして賜りましたご厚情につきましても、本当にどれほど言葉を尽くしてもこの気持ちを言い表すことはできません。私は私の未熟さを知りました。なればこそ、せめて故国へと無事に帰りつき、悲願を達成することができましたら、必ずこの御恩に報いることを、今この場において誓わせていただきたく存じます」
 正尚が頭を下げる。
「二人の旅路に幸多からんことを願っている」
「ありがとうございます」
 その異国の男性が再び深く礼をすると、その隣に立つ女性が優雅に一礼する。
 そうして、離宮での最後の晩餐会は幕を閉じた。
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