皇帝の寵愛

たろう

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51 お出かけ

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 目が覚めた。
 部屋はまだ暗く、廊下を人が歩き回る気配はまだない。今日もここ数日と同じように早い刻限に目が覚めたようだ。それでも夏の朝だ。もう日は顔を出しているはず。その証拠に布簾越しの窓がぼんやり明るい。
 この様子だときっと外は快晴だろう。今は早朝でまだ涼しいけれど、きっとぐんぐん気温は上がっていくはずだ。
 太い腕に捕らえられたままそこまで考えて、今日は主上と二人で遊びに行くのだと思い出した。途端、胸が弾むような感覚を覚える。
 どうしよう。どうしようか?出かけると言っても、何をしたらいいのだろうか?こういう場合は、何をするのが普通なのだろう。分からない。経験がないせいで、今日一日の様子を上手く想像できない。
 主上はご存知だろうか?
 しばらく布団の中で悩んでいたけれど、何も思いつきそうになくて、けれど考えるのにも飽きて、とりあえず起き上がろうと思った。がっしりした腕が背中に回されているため、上体を起こす際に隣で眠る人を目覚めさせないように注意する。少しだけ名残惜しく感じながら、僕は慎重に腕の間から抜け出して、寝台の上に起き上がった。
 主上は一緒に寝るときは絶対に僕を抱きしめながら眠る。冬は温かいからいいけれど、夏は少し暑い、と思う。そんなこと口に出したりはしないけれど。主上がこうやって眠るのは、記憶にないとしても、僕の発言のせいでもあるのだから文句を言える立場にはないのだけれど、主上は辛くないのだろうか。もし辛いのなら止めてしまってもいいと思うけれど、そうされなくなるのはなんだか寂しい気もする。
 ぐっすり眠る主上の寝顔を見ながらそんなことを思う。
 眠りが深い。きっとすごく疲れているのだろう。
 そっと頬に触れる。髭が伸び始めている。こうしていると、すごく心が満たされる気がするのはなんでだろう。

 主上は今どんな夢を見ているだろう。幸せな夢だったら良いと思う。
 僕は、主上には幸せな気持ちでいて欲しい。

 知らないうちに布簾の隙間から一筋の明るい陽光が薄暗い室内に入り込み、その暖かな指先が僕のつま先を撫でている。今、布簾の向こうはきっと素晴らしく良い天気だろう。外では海風が気持ち良く吹いて、白い雲はとても大きくて、青い空が広がって。そういうことは想像できる。

 想像する。色々なことを。
 主上と一緒に暮らす様になって僕は色んなことを考えるようになった。
 雪を降らせる雲の生まれる場所。遠い歴史。人の気持ち。未来。
 それから、この街へ来て、僕はあの海の向こうの世界や良く知っていると思っていた遥河の先に広がる土地について初めて考えを巡らせてみるということをしてみた。そうしてみて初めて僕はまだまだ多くのことを知らないのだと気づいた。
 自分の世界が広がっていくのが分かる。

 もう一度下を向くと、穏やかに眠る顔がある。とても疲れていただろうに、僕の子供っぽい態度や至らない点を我慢強く許してくれる主上。そうして気付く。

「あなたは、いつも、僕が大人になるのを待っていてくれるんですね……」

 なのに、僕が主上にしてあげられることはほとんどない。本当は、何かできたらいいのだけれど。雲嵐のように主上のお仕事の手伝いなんかを。
 けれど、それは僕には望まれていないし、きっと許されないと思う。
 そんなことをすれば、僕が主上に必要以上に取り入ろうとしているように他の誰かから見えるかもしれない。権力を狙っているように見られるかもしれない。
 だから、僕はなにもできない馬鹿な子供のままでいなくてはならない。主上の側にいるためには。
 だから、想像してみる。
 今日はどんな一日になるだろうか。いや、今日をどんな一日にしたいだろうか。できるなら、主上にとって楽しい一日であって欲しい。そうしてあげたい。

 かすかな寝息に耳を傾けていると、廊下を人が歩き回る音がかすかに聞こえ始めた。一日の始まりの合図だった。それからしばらくの後、扉が控えめに叩かれ、僕が返事をすると、侠舜が扉の隙間から顔を覗かせた。
 起こすよう主上から頼まれていたのだと思う。
 僕は人差し指を口に当てる。そして、そっと近づいてきた侠舜に好きなだけ寝かせてあげたいと耳打ちする。
 侠舜はですが、とわずかに逡巡を見せたけれど、休ませてあげたいという気持ちは同じ。最後には頷いてくれた。これでしばらくは誰もこの部屋には来ないだろう。
 僕はまたぼんやり主上を眺める態勢に戻った。まだ一日は始まったばかりだった。

 それから二度ほど侠舜が様子を窺いにきて、主上の寝ている間に朝食を摂るように勧められたけれど、僕は主上が目覚めるまで待つと断った。朝食は一緒に摂りたかった。
 退屈から何度かうつらうつらしているうちに日が昇り、僕らの頭の上に達するころに、寝坊助があくびを一つ。
「お目覚めですか」
 主上がゆっくりと声の聞こえたほうに寝返りを打って、いつものように僕に両腕を絡めると布団の中に引き込んだ。
 昨夜は珍しくお互い夜着を着たまま眠ったので、着物を着ている。主上の手がそのことに気付いて僕の着物の中に入り込むのを阻止していると、主上がやっと目を開く。
「賢英、早いな。侠舜が起こしに来るまでは寝ていろ」
「侠舜ならすでに来ましたよ」
「む、なぜ起こさない?出かけるから起こす様に言い置いてあったはずなんだが……」
 主上が勢いよく上体を起こした。
「僕が断りました。あんまり奏凱さまがぐっすり眠っていらっしゃるので、ついじっくり寝顔を観察しようと思って。だから侠舜を叱らないでください」
 怪訝そうに僕を見る。
「もしかしてもう昼に近いのではないか?時間を随分失ってしまった。良かったのか?」
「はい。早く出ても、丸一日はさすがに僕の体力が持ちません。それにこんな天気のいい日です。暑さもひとしおでしょう。きっと町を歩き回ったら途中でばててしまいますよ。そうなったらおんなじです。だから良いのです。それよりも奏凱さまはお仕事が忙しくてだいぶお疲れでした。いっぱい休んで、疲れを取ってからのほうがきっと街の散策も楽しめますよ」
 何か言いたそうな主上の手をとって、僕は主上を寝台から連れ出すと隣室へ向かった。侠舜が準備はできていますと言いたげに僕らを待っていてくれた。外出用に用意してくれたであろう服に二人で着替えた。用意されたものは、一般的な庶民の服、と呼ぶには些か立派な仕立てではあったけれど、街中で見かけるような意匠の服だった。着丈や胴回りにゆとりがあるのは既製品だからだと思う。
 それでも主上が着ると、商家のような少しいいところの家の若旦那といった感じだった。立ち居振る舞いが堂々としすぎるきらいはあったけれど、変装としてはまずまずなのではないだろうか。
 着替えた主上がどうだと言わんばかりに両腕を広げて僕に披露してくれた。可愛いと思ってしまったのは、僕がおかしいからだろうか。
 主上のいつもと違う装いになんだか胸がどきどきする。
 食事をどうするか訊かれ、主上が昼は出先で軽く済ませると言った。侠舜は僕らにそれぞれ硬貨の詰まった財布を渡してくれた。駄賃ということらしい。それにしては額が……。使い切れないと思う。
 侠舜から外出時の注意や心得を滾々と諭すように聞かされた。主上が分かったと返事をしたのに合わせて、僕もわかりましたと答えた。
 ついで侠舜が潤の息子とその部下が距離を取って警護にあたると言った。どうも、悠午の兄と弟がついてくるらしい。悠午本人はこういうこそこそした仕事には向かないらしく、離宮に居残りだとか。なんとなく納得してしまう。
 潤の息子たちは決して邪魔にならないよう離れたところで見守るので、気兼ねせず楽しんできてほしいが、距離を取りながらの警護となるので、あまり動き回らないように、人ごみに紛れないように、人通りの少ない路地には入らないようにと事細かに注意を受けた。主上は分かったと気にした様子もなく返事をしていたが、僕はずっと見られているのかと思うと気恥ずかしかった。
 最後に、侠舜からこっそり主上を宜しくお願いしますと耳打ちされた。どういうことだろう。


 その答えはすぐにわかった。
 町へ降りた主上の様子はすっかり田舎から出てきた人のそれだった。お上りさんよろしくきょろきょろと興味深そうに視線を巡らせている。背の高さと整った容貌のせいで異常に目立つのに、見られることに慣れている立場の人特有の無頓着さを如何なく発揮して、周囲の人間など眼中にないという風にふるまう。
 道行く女性たちの熱い視線が主上へ注がれているのに、本人は気づいているのかいないのか、僕のほうしか見ない。
 さらに何か発見する度毎に、じっと立ち止まり僕の名を呼ぶせいで、騒いだり暴れたりしているわけでもないのに衆目を集めた。自然僕も人目を集めることになった。
 本当に主上は町へ降りたことがない様子だった。この様子ではもしかしたら皇都ですらも歩いたことはないのではないかと疑ってしまう。
 けれど、皇帝ならそういうものなのかもしれない。当たり前のことを当たり前にできないものなのかもしれない。
 ただ、僕が今思うのは、主上が本当に楽しそうで良かったというそれだけだった。

※まさかの次回に続く
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