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前段
34 毒
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主上が僕に期待していることはなんだろう。
僕に何か知って欲しかったのだろうか。気づいてほしかったのだろうか。分からない。主上は僕には何も言わなかった。言わなかった……。
慈蓉が僕の前に新しいお茶を置いてくれた。芳しい香りは今はなんの慰めにもならないようだった。
なんとはなしに目の前の茶碗に視線を落とす。茶の暗い色がこの場の雰囲気を表しているように見えた。
僕は乾いた口を潤すために一口それを飲んだ。少しの苦味が、ともすれば思考の奥底へ沈んでいきそうになる僕を引き止めてくれる気がした。もう一口。
彼女は続ける。
「お仕事の合間に後宮の中庭でお休みになっている主上の姿を偶然見かけたことがあったの。まさか私がいるとは思っていらっしゃらなかったのね。寛いだ様子で椅子に腰かけていらした。私は最初、ただのんびりお庭を眺めているのだと思ったの。侠舜さま一人を側に置いて、空白のような寸暇を過ごしているのだと。なんとなく目が離せなくてじっと隠れて見ていたの。お茶会や宮では見られない普段のご様子が見られるのではないかと思って。私は、はしたないことだとは思ったのだけれど、息を詰めてじっと見守った。主上はただじっとそこに座っていらっしゃるだけだった。いつまでもいつまでも。一言も言葉を発することなく。その姿は、私の知っている優しく笑う穏やかな主上とは全く違って見えた。疲れた様子が顔に、仕草に見えたわ。笑顔の仮面を取り去ったあとの無表情がそこにあった。思い詰めた顔をしてずっと。」
僕は思い浮かべる。ただ無為に庭を眺め時間を過ごす主上の姿を。一人で。
「私の後悔はますます大きくなって。でも私にできることは何もなくて。そんなことがあって、私はあの人を気をつけて見るようになったの。」
黄茉莉が思い出すような顔をする。
「私には理由はよくわからない。私がここに来た時からそうだったのかもしれない。気づいたのは随分後になってからだった。主上と四夫人の間には、いつもどこか白々しい空気があったの。お互いにお互いを無視しているわけでもないし、蔑ろにしているわけでもない。会話もあるし、楽しそうに笑いあっている。でもなぜだか、誰も主上との間に見かけ以上の親密さが見つけられない。私はこれが家族なのかしらと思った。どんな人でも一緒に過ごす時間が長くなれば、気持ちや考えや思い出を共有するものでしょう?それが会話の中で言葉の端々に表れて、そうやってみんなお互いが共有しているものを確認し合いながら親しくなっていくものではない?二人だけにわかる秘密の言い回しや二人だけの間で使われる仕草があって然るべきなのに、一緒にお茶を囲むとき、主上と誰の間にもそういったやり取りが全く見られないの。できの悪いお芝居を見ているようだった。まるで暗黙の了解があるように、それが当然というようにみんな自分勝手の方向を向きながら、共通のものを見ているかのように振る舞うの。そして、主上の方でもそれを当然のこととして受け入れている……。四夫人の視線の先には主上はいらっしゃらない。延徳妃さまも徐賢妃さまも子供たちにばかりかまけている。李淑妃さまはご自身の楽しみのことばかり。怜貴妃さまはいつも冷ややかに微笑んでいるだけ。」
宴の一場面が脳裏に映し出された。
呵々と笑う主上。いつもと違う笑い……。
「私がここに来てから数年が経っても、後宮の雰囲気はずっと変わらずだった。そんな時あなたが来たの。」
どきっと心臓が跳ねる。
「私は最初、何も変わらないと思っていた。それほど後宮は悪い意味で変わるような気配がなかったの。けれど、信じられないことにあなたが来てから主上の雰囲気が変わっていった。生き生きとして見えた。些細な表情や態度の違いだったけれど、はっきりと私たちにはわかった。それに何より、主上が後宮で過ごされるお時間が目に見えて増えたの。以前はお仕事を理由に、後宮にあるご自身の宮ではなくて、外にある宮殿の私室の方で夜を過ごすことが多かったのに。それが少しずつ後宮へ足を運ぶことが増えて、それに伴って後宮も変わっていったわ。信じられなかった。」
茉莉が僕に視線を戻した。
「最初に変化が起きたのは延徳妃さまだったと思う。彼女はとても子供想いで、何よりも皇子と公主のことを気にかけているわ。愛情深い方なのね。主上よりも、自分の子供たちのことを第一に考えた言動をされていたの。けれどいつの頃からか、主上のことも気にされるようになったわ。主上がお渡りの先触れがあるときは、そうと目に見えて分かるくらいご様子が違って。それから、徐賢妃さまもそう。延徳妃さまほどはっきりと態度に表しなさることはなかったけれど、纏う雰囲気が少し柔らかくなったように感じる。怜貴妃さまは相変わらずお考えの分からない方だけれど、なんだか最近頓に楽しそうな雰囲気を纏っていらっしゃる。ただ、良い変化だけではなかったのよ。李淑妃さまは目に見えて不機嫌になることが多くなられた。すごく主上のことを気にされて、気を引こうとしているのが誰の目にも明らかになってきた。私には理由は分からないけれど、頑なな必死さが見え隠れしている。それに女官たちが主上の気を引こうとしている様子が見受けられるし。けれど、そういった色々な変化のおかげで、後宮の中は今とても活気があるわ。こんな空気は私が来てからは初めてよ。」
僕はその話を聞かされて黙っているしかなかった。
主上が足繁く通うのは妻たちを愛しているからだと思っていた。僕のところにこないのは、後宮の妻や子供たちのほうが大切だからだと思っていた……。
「あの宴の場で、私は主上があんなに楽しそうに笑うのを初めてみたわ。もう何年も一緒にいたのに。」
言葉が小さくかすれて消える。
「あなたの前でだけは、主上はきっといつもあんな風なのでしょうね。」
ああ、と僕は思い出す。
先触れもなく突然やってくる主上を。
寝台の上で僕の話す他愛のない話にくつくつと笑う様を。
僕の言葉に憮然とした表情を見せた顔を。
僕の言葉に怒った主上を。
胸の奥で何かが……。
僕は思い浮かべる。一人で空を眺める主上を。たくさんの妃たちに囲まれて、一人で笑う主上を。
あんなに近くにいたのに、僕は何も知らなかった……。
僕の部屋に来る主上を見て、暇なのだろうかとあの時の僕は考えていた。
先触れをださないで突然やって来る主上を、あの時の僕は悪く思っていた。
主上は僕に会いたかったのではないだろうか……。
僕は急に泣きたくなった。小さな子供のように泣きたかった。
——帰りたくはないか?
あの一言を主上はどんな気持ちで言葉にしたのだろう。
僕はなんて……。
胸が痛い。手足の先が冷たくなるような感覚があった。
「あなたはきっとあの人が欲しがっているものを知っているのね。」
黄茉莉が続ける。
「僕は、何も……。」
何も知らなかったという事実が僕を苛む。耳をふさぎたい。
「あなたが来てから、後宮の雰囲気は変わったのは確かよ。」
そんなの知らない。僕は知らない。
今すぐ帰りたかった。
急に主上に会いたくなった。
会って話がしたかった。
「ごめんなさいね。こんな話を急にされても困るわよね。私はもうすぐここを出て行くから、その前にお話しておきたいと思ったの。」
もう聞きたくなくて、何を言っていいのかもわからなくて、僕はただ黙して座す以外できなかった。
「ああ、折角のお茶会を台無しにしてしまったわ。お茶も温くなっちゃった。ねえ、新しいのを淹れて頂戴。」
黄茉莉が僕を見て、あわてて話題を変えた。すると、雲嵐が僕の顔を覗き込む。雲嵐の口が大丈夫ですかと言葉に出さずに動く。僕はひどい顔をしていたようだ。
黄茉莉の言葉を聞いて侍女たちが動き出す。
慈蓉も僕に何か料理をといって僕の前に新しい皿を置く。
僕は出された料理に手を伸ばして一口だけ食べるけれど、味は全くしなかった。
僕には考えなければいけないことがたくさんあるような気がしていた。
考えがうまくまとまらない。色々な言葉が上滑りしていく。僕の知らない主上の様子が頭の中でちらつく。心がどんどん重くなっていく。意識が今いる場所を離れて落ちていくような感覚があった。
すると、突然隣で大きな音がした。はっとして振り向くと慈蓉が急須を取り落とし、運悪く茶碗にぶつけて割ってしまったみたいだった。新しく淹れ直そうとしてくれたらしい。珍しいと思った。
慈蓉が手が滑りましたと言い、僕と黄茉莉に向かって丁寧に謝罪した。手を貸そうとした雲嵐を制止して、再度謝罪の言葉を口にすると、手早く溢れたお茶を拭いて、割れた食器を処分するために部屋を出て行った。侍女が一人慈蓉について部屋を出ていく。
目の前の皿に慈蓉が用意してくれた点心がいくつか載っていたけれど、もう食べる気は起きなかった。頭の中で、このお茶会が早く終わることを願った。それから、どう言い訳を言ったら、失礼を働かずに席を立つことができるだろうかと考えていた。
滋養はまだ戻ってこない。雲嵐が新しい薄い色のお茶を淹れてくれた。
耐え切れずに暇乞いをしようと口を開いた時違和感があった。
あれ?
口が上手く動かない。不明瞭な言葉が口から溢れた。雲嵐が怪訝な顔をした。
僕は再度雲嵐に知らせようとしたけれど舌が麻痺したように上手く動かなかった。おかしいと思い手を口に持っていく。唇に痺れのような違和感があって、気づくと指先にも違和感があった。何だろう?
僕は何が起こっているのか分からなくて雲嵐をただじっと見る。
違和感に気づいた黄茉莉が声をかけてきた。僕は返事をしようと振り向き状況を説明しようとしたが、意味をなさない音を発しただけだった。
そして。
僕の視界が傾いた。すぐには何が起きたのか分からなかった。いつの間にか目の前に床がある。遅れて倒れたのだとわかったけれど、倒れる感覚はなかった。
誰かの悲鳴が聞こえた。雲嵐が駆け寄ってくる。
視界の端で黄茉莉が驚き立ちすくむ姿が見えた。
鈍い腹痛に上半身を折った。
雲嵐が僕を呼ぶ。
毒なのだとここに来て気づく。でもいつ?気付いた時にはもう手遅れだった。僕にはもうどうすることもできなかった。徐々に痛みと痺れで体の自由が失われていった。
視界が暗転する直前、主上の顔が見えた。
その顔はひどく寂しそうな子供のそれに似ていた。
僕に何か知って欲しかったのだろうか。気づいてほしかったのだろうか。分からない。主上は僕には何も言わなかった。言わなかった……。
慈蓉が僕の前に新しいお茶を置いてくれた。芳しい香りは今はなんの慰めにもならないようだった。
なんとはなしに目の前の茶碗に視線を落とす。茶の暗い色がこの場の雰囲気を表しているように見えた。
僕は乾いた口を潤すために一口それを飲んだ。少しの苦味が、ともすれば思考の奥底へ沈んでいきそうになる僕を引き止めてくれる気がした。もう一口。
彼女は続ける。
「お仕事の合間に後宮の中庭でお休みになっている主上の姿を偶然見かけたことがあったの。まさか私がいるとは思っていらっしゃらなかったのね。寛いだ様子で椅子に腰かけていらした。私は最初、ただのんびりお庭を眺めているのだと思ったの。侠舜さま一人を側に置いて、空白のような寸暇を過ごしているのだと。なんとなく目が離せなくてじっと隠れて見ていたの。お茶会や宮では見られない普段のご様子が見られるのではないかと思って。私は、はしたないことだとは思ったのだけれど、息を詰めてじっと見守った。主上はただじっとそこに座っていらっしゃるだけだった。いつまでもいつまでも。一言も言葉を発することなく。その姿は、私の知っている優しく笑う穏やかな主上とは全く違って見えた。疲れた様子が顔に、仕草に見えたわ。笑顔の仮面を取り去ったあとの無表情がそこにあった。思い詰めた顔をしてずっと。」
僕は思い浮かべる。ただ無為に庭を眺め時間を過ごす主上の姿を。一人で。
「私の後悔はますます大きくなって。でも私にできることは何もなくて。そんなことがあって、私はあの人を気をつけて見るようになったの。」
黄茉莉が思い出すような顔をする。
「私には理由はよくわからない。私がここに来た時からそうだったのかもしれない。気づいたのは随分後になってからだった。主上と四夫人の間には、いつもどこか白々しい空気があったの。お互いにお互いを無視しているわけでもないし、蔑ろにしているわけでもない。会話もあるし、楽しそうに笑いあっている。でもなぜだか、誰も主上との間に見かけ以上の親密さが見つけられない。私はこれが家族なのかしらと思った。どんな人でも一緒に過ごす時間が長くなれば、気持ちや考えや思い出を共有するものでしょう?それが会話の中で言葉の端々に表れて、そうやってみんなお互いが共有しているものを確認し合いながら親しくなっていくものではない?二人だけにわかる秘密の言い回しや二人だけの間で使われる仕草があって然るべきなのに、一緒にお茶を囲むとき、主上と誰の間にもそういったやり取りが全く見られないの。できの悪いお芝居を見ているようだった。まるで暗黙の了解があるように、それが当然というようにみんな自分勝手の方向を向きながら、共通のものを見ているかのように振る舞うの。そして、主上の方でもそれを当然のこととして受け入れている……。四夫人の視線の先には主上はいらっしゃらない。延徳妃さまも徐賢妃さまも子供たちにばかりかまけている。李淑妃さまはご自身の楽しみのことばかり。怜貴妃さまはいつも冷ややかに微笑んでいるだけ。」
宴の一場面が脳裏に映し出された。
呵々と笑う主上。いつもと違う笑い……。
「私がここに来てから数年が経っても、後宮の雰囲気はずっと変わらずだった。そんな時あなたが来たの。」
どきっと心臓が跳ねる。
「私は最初、何も変わらないと思っていた。それほど後宮は悪い意味で変わるような気配がなかったの。けれど、信じられないことにあなたが来てから主上の雰囲気が変わっていった。生き生きとして見えた。些細な表情や態度の違いだったけれど、はっきりと私たちにはわかった。それに何より、主上が後宮で過ごされるお時間が目に見えて増えたの。以前はお仕事を理由に、後宮にあるご自身の宮ではなくて、外にある宮殿の私室の方で夜を過ごすことが多かったのに。それが少しずつ後宮へ足を運ぶことが増えて、それに伴って後宮も変わっていったわ。信じられなかった。」
茉莉が僕に視線を戻した。
「最初に変化が起きたのは延徳妃さまだったと思う。彼女はとても子供想いで、何よりも皇子と公主のことを気にかけているわ。愛情深い方なのね。主上よりも、自分の子供たちのことを第一に考えた言動をされていたの。けれどいつの頃からか、主上のことも気にされるようになったわ。主上がお渡りの先触れがあるときは、そうと目に見えて分かるくらいご様子が違って。それから、徐賢妃さまもそう。延徳妃さまほどはっきりと態度に表しなさることはなかったけれど、纏う雰囲気が少し柔らかくなったように感じる。怜貴妃さまは相変わらずお考えの分からない方だけれど、なんだか最近頓に楽しそうな雰囲気を纏っていらっしゃる。ただ、良い変化だけではなかったのよ。李淑妃さまは目に見えて不機嫌になることが多くなられた。すごく主上のことを気にされて、気を引こうとしているのが誰の目にも明らかになってきた。私には理由は分からないけれど、頑なな必死さが見え隠れしている。それに女官たちが主上の気を引こうとしている様子が見受けられるし。けれど、そういった色々な変化のおかげで、後宮の中は今とても活気があるわ。こんな空気は私が来てからは初めてよ。」
僕はその話を聞かされて黙っているしかなかった。
主上が足繁く通うのは妻たちを愛しているからだと思っていた。僕のところにこないのは、後宮の妻や子供たちのほうが大切だからだと思っていた……。
「あの宴の場で、私は主上があんなに楽しそうに笑うのを初めてみたわ。もう何年も一緒にいたのに。」
言葉が小さくかすれて消える。
「あなたの前でだけは、主上はきっといつもあんな風なのでしょうね。」
ああ、と僕は思い出す。
先触れもなく突然やってくる主上を。
寝台の上で僕の話す他愛のない話にくつくつと笑う様を。
僕の言葉に憮然とした表情を見せた顔を。
僕の言葉に怒った主上を。
胸の奥で何かが……。
僕は思い浮かべる。一人で空を眺める主上を。たくさんの妃たちに囲まれて、一人で笑う主上を。
あんなに近くにいたのに、僕は何も知らなかった……。
僕の部屋に来る主上を見て、暇なのだろうかとあの時の僕は考えていた。
先触れをださないで突然やって来る主上を、あの時の僕は悪く思っていた。
主上は僕に会いたかったのではないだろうか……。
僕は急に泣きたくなった。小さな子供のように泣きたかった。
——帰りたくはないか?
あの一言を主上はどんな気持ちで言葉にしたのだろう。
僕はなんて……。
胸が痛い。手足の先が冷たくなるような感覚があった。
「あなたはきっとあの人が欲しがっているものを知っているのね。」
黄茉莉が続ける。
「僕は、何も……。」
何も知らなかったという事実が僕を苛む。耳をふさぎたい。
「あなたが来てから、後宮の雰囲気は変わったのは確かよ。」
そんなの知らない。僕は知らない。
今すぐ帰りたかった。
急に主上に会いたくなった。
会って話がしたかった。
「ごめんなさいね。こんな話を急にされても困るわよね。私はもうすぐここを出て行くから、その前にお話しておきたいと思ったの。」
もう聞きたくなくて、何を言っていいのかもわからなくて、僕はただ黙して座す以外できなかった。
「ああ、折角のお茶会を台無しにしてしまったわ。お茶も温くなっちゃった。ねえ、新しいのを淹れて頂戴。」
黄茉莉が僕を見て、あわてて話題を変えた。すると、雲嵐が僕の顔を覗き込む。雲嵐の口が大丈夫ですかと言葉に出さずに動く。僕はひどい顔をしていたようだ。
黄茉莉の言葉を聞いて侍女たちが動き出す。
慈蓉も僕に何か料理をといって僕の前に新しい皿を置く。
僕は出された料理に手を伸ばして一口だけ食べるけれど、味は全くしなかった。
僕には考えなければいけないことがたくさんあるような気がしていた。
考えがうまくまとまらない。色々な言葉が上滑りしていく。僕の知らない主上の様子が頭の中でちらつく。心がどんどん重くなっていく。意識が今いる場所を離れて落ちていくような感覚があった。
すると、突然隣で大きな音がした。はっとして振り向くと慈蓉が急須を取り落とし、運悪く茶碗にぶつけて割ってしまったみたいだった。新しく淹れ直そうとしてくれたらしい。珍しいと思った。
慈蓉が手が滑りましたと言い、僕と黄茉莉に向かって丁寧に謝罪した。手を貸そうとした雲嵐を制止して、再度謝罪の言葉を口にすると、手早く溢れたお茶を拭いて、割れた食器を処分するために部屋を出て行った。侍女が一人慈蓉について部屋を出ていく。
目の前の皿に慈蓉が用意してくれた点心がいくつか載っていたけれど、もう食べる気は起きなかった。頭の中で、このお茶会が早く終わることを願った。それから、どう言い訳を言ったら、失礼を働かずに席を立つことができるだろうかと考えていた。
滋養はまだ戻ってこない。雲嵐が新しい薄い色のお茶を淹れてくれた。
耐え切れずに暇乞いをしようと口を開いた時違和感があった。
あれ?
口が上手く動かない。不明瞭な言葉が口から溢れた。雲嵐が怪訝な顔をした。
僕は再度雲嵐に知らせようとしたけれど舌が麻痺したように上手く動かなかった。おかしいと思い手を口に持っていく。唇に痺れのような違和感があって、気づくと指先にも違和感があった。何だろう?
僕は何が起こっているのか分からなくて雲嵐をただじっと見る。
違和感に気づいた黄茉莉が声をかけてきた。僕は返事をしようと振り向き状況を説明しようとしたが、意味をなさない音を発しただけだった。
そして。
僕の視界が傾いた。すぐには何が起きたのか分からなかった。いつの間にか目の前に床がある。遅れて倒れたのだとわかったけれど、倒れる感覚はなかった。
誰かの悲鳴が聞こえた。雲嵐が駆け寄ってくる。
視界の端で黄茉莉が驚き立ちすくむ姿が見えた。
鈍い腹痛に上半身を折った。
雲嵐が僕を呼ぶ。
毒なのだとここに来て気づく。でもいつ?気付いた時にはもう手遅れだった。僕にはもうどうすることもできなかった。徐々に痛みと痺れで体の自由が失われていった。
視界が暗転する直前、主上の顔が見えた。
その顔はひどく寂しそうな子供のそれに似ていた。
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