皇帝の寵愛

たろう

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 夢からふと醒めて寝台に起き上がる。寒いと思っていると、目が暗闇に慣れ、窓の布簾がわずかに開いているのがうっすらと見えた。寒さはこのせいだろう。寝る前に外を見るために開けたのを閉じ忘れたらしい。無視しようとも思ったが、思い直して寝台から降りて窓に近づく。
 ひやりとした冷気が玻璃越しに室内に入り込んでいる。
 布簾に手をかけた瞬間、隙間から外が見えた。暗くはっきりとは見渡すことは叶わないが。
 夢の続きだろうか。
 暗闇を背にして白い雪が降っている。ざらざらと。ざらざらと。
 あれが雪ではなく塩だったならば良かったのにと言ったら、夢のないことを言うなんてと呆れられたのは、いつのことだっただろう。
 もうすぐ雪解けが来る。
 嫌な季節だ。あまりに冷たく寒々しい。
 顔を室内に戻す。暗闇に慣れた目が部屋の中を捉える。
 ひっそりと闇に溶ける家具のかすかな輪郭。
 陰影を失った彫刻の施された柱の息遣い。
 精彩を欠き模様を失った絨毯の感触。
 ただひたすらの暗闇。
 ぽつんと孤独に佇む寝台。
 思わず目を逸らしてしまった
 不意に寒気から身が震えた。暦の上で春と言っても、まだまだ寒さは厳しい。宮の中でも病で床に伏せっている官が多いと聞く。

 いるはずのない者のかすかな気配。聞こえるはずのないざらついた息遣い。
 何度も。何度も。途切れることなく。終わることなく。
 白い手が。
 そうして終わりはやってくる。
 静寂。
 頭を振って挑むように視線を持ち上げる。
 室内はいつものそれだった。何の変哲もないただの暗闇があるだけ。家具も絨毯も柱も寝台も、空気も、全ていつも通り。

 ああ、そうだ。賢英は大丈夫であろうか。意図的に思考を切り替えた。
 一度風邪を引いた者が同じ冬に二度は風邪に罹らないなど、信用ならない言葉だ。侠舜には体調に気を配るよう言い置いてある。問題はないはずだ。
 雪は好かない。
 私は布簾を閉じると、再び信じられないほど広い寝台で眠りについた。
 暗闇はかすかに息づいていた。


 翌日、三日前からの雪は未だ断続的に降り続いていた。
 暗い空が私を憂鬱な気持ちにさせる。
 後二月もしないうちに耕起が始まると言うのに。このまま雪が降り続いたら各所に弊害が出るだろう。会議や儀式や夜会を滞りなく、と言うわけにもいかなくなる可能性もある。そもそも客人が来れない。日取りの変更も検討しなければならないだろう。
 暦で決められている各種儀式や祭典の類は、人が欠けた状態で執り行うことも視野に入れて準備をしなくては。
 流行り病にも気をつけるよう通達を。体調が万全でない者の訪朝を禁止する必要があるかもしれない。
 今は一年で最も凍える月だ。毎年この時期は民に死者が多く出る。貧しい者は毎年今の時期になると食糧や燃料の備蓄を切らして凍死に至るという報告が上がっていた。この雪が続けば、被害が出始めるだろう。勝ったとはいえ、先の戦で多くの民が死んだ。これ以上民にとって酷なことにならないようにする必要がある。
 無論以前から皆と対策を立てて備えをして来た。皇都のみならず、国全体の民の状況を取り寄せ、起こり得る被害の規模の算出も済んだ。国庫から余裕を持って予算も計上した。大丈夫だ。全て私の杞憂に終わって欲しい。
 ああ、それに後宮の女子供の様子も気にかかる。子供らはすぐにどこからか病をもらってくる。特に目をかけてやらねばならない。一人も欠けることなく育っているのは喜ばしいことだ。そう思うからこそ、後宮へ行く回数を意図的に増やしている。子供らのためだけではないが。
 延紅花は最近実家への手紙が多い。病み上がりの瑠偉の様子を実家に報告していると言っていたが、全てを鵜呑みにすることはできない。勝手なことをされぬよう、気を配っておく必要がある。宴の件もある。
 それに対し、玲梨子は、紅花と同じく国外から嫁いできた妃でも必要以上に実家と連絡を取らない。わがままも言わない。
 巧く妃たちを陰から誘導していくことも私の仕事だ。上手く後宮内の権力の衝突を回避できなければ、悲しい結果になり得る。それは絶対に避けねばならない。
 そう言えば徐雪華の子供らがやっと快癒した。とは言えまだまだ病み上がりで体力も落ちている。もうしばらく通って様子を見るべきだろう。あれはあまり感情を表に出さないが故に難しい。しかし、それが逆に好ましい。ただ、その気丈さに甘えるのは良いことではないというのは理解している。
 李麗君が最近子を欲しがる。向こうで出される食事が最近精のつくものが多い。あからさまで分かりやすくはあるが少し面倒な事態だ。十中八九男児を欲しがってのことだ。あれには公主しかいない。徐と延に皇子がいて自分にいない事を気に病んでいるのだろうが、こればかりは天の思し召しとしか言いようがない。それにもう皇子が三人いる。まだ皇太子が誰になるか決まってはいないが、これ以上は不要なのだ。
 子が死にやすいのは確かではあるが、今のところ一人心配な皇子はいても、人数としては十分なのだ。多すぎる兄弟が諍いの元となることは歴史が証明している。私にはこれ以上増えないように祈ることしかできない。
 女の上昇志向も難しいものだと思う。李家は確かに四夫人の中では一段家格が落ちるとは言え、勢いのある家系だ。そこを誇るべきだ。そして足るということを弁えることが必要なのだが……。
 それから、長らく心配の種であった黄茉莉がようやく呂家へ降嫁する。長かった。あれには辛い思いをさせてしまったと思っている。もっと家格がしっかりしていたら全てが違っていただろうか……。茉莉の無邪気な顔が思い浮かぶ。宴では墨瑞芳が側にいたからだろう。すっかり普通に振る舞っていた。私がもっとしっかりしていたら守れただろうか。否。もともと後宮でやっていけるような性格ではなかったのだ。ここへ来た当初はまだ十六だったはずだ。なればこそ下賜されるほうがあれのためにも良かった。後宮をでてこそ幸せになれるはずだ。
 呂剛健は一途な男だ。茉莉を幸せにするだろう。そうだな。今までは後宮での生活を思うとあれの元へ通うこともできなかったが、もうしばらくして、後宮を出る日取りが決まったら、桃佳宮へ行っても良いだろう。
 墨瑞芳にも何か褒美と慰めを贈る必要がある。茉莉が居なくなれば後宮で孤立することになる。あやつはあまり気にしなかろうがやはり一人にすることには不安がある。もしかしたら案外四婦人と新しい関係を築きそうでもある。瑞芳は考えが読めない。割り切ったところがあるが、茉莉の世話を焼くところを見るに情に厚い面も持ち合わせているようだ。もう少し話をする機会を持った方が良いだろうな。
 それから……。

 私の目が再び窓へと向かう。
 真白の雪は際限なく降り積もる。いつか国を、私を押しつぶしてしまうだろうか。
 雪と氷に閉ざされて、ただじっと雪解けを待たねばならない季節。なにごともままならない季節。
 寒さは気づかぬ間に入り込む。

 わざとらしい咳が聞こえて、視線を室内に戻す。
 仕事に取り掛かるふりをして、机の上、書類の山の間に広げられた二通の手紙を見る。その内の一通はもう何度も目を通して、内容は覚えてしまっている。
 まだ幾ばくか大きさがそろっていないせいで乱れた印象を与える文字列を、それゆえに愛らしいと思っていることに気付くと、新鮮な驚きを感じる。
 金泰然が仕事をするように視線で促している。わかっている。
 私は紙を用意し返事を認めるために筆を持つ。
 手紙は、五日後の暁明の授業の終わりに、生まれたばかりの馬の名づけを一緒に、という内容だった。
 賢英からだ。
 多少無理を押してでも時間を空けよう。その分、明後日までで仕事をある程度片付けなくてはならないが、この雪が止んでくれれば問題ない。戦後処理で少しごたついているのが気がかりではあるが。
 手紙に再度視線を落としながらいつかの夜のことを思い出す。
 あれから賢英には努めて必要以上に触れないように自制している。そのせいで欲求不満が溜まっている。
 あの日以降共寝をする夜は拷問のようだ。
 少しずつ成長しているのは分かっていた。体が大人になったから大丈夫だと思った。けれど実際はそうではなかった。まだ、気持ちの方が追い付いていなかった。姿形だけを見ればもう立派な大人だというのに。
 人の成長とはかくもゆっくりであるのだろうか。自分はどうだっただろうと振り返ってみるが思い出せない。一度過ぎ去ってしまうと、もうそれ以前がどうであったか思い出すことは難しい。
 十四で大人の真似事を覚え、皇太子となるための教育を受け、皆から傅かれ、あのころ私は自分が立派な大人だと信じて疑わなかった。

 賢英はあの頃の私よりも優秀だ。人の話を聞く素直さがあるのだから。それに自分で考えて行動する賢明さももっている。
 賢英は自分が子供であることをひどく悩んでいるようだが、私と比してみれば随分と優秀だ。自分をよく見ている。大人になろうと行動している。人の話に耳を傾けることを厭わない。それらは賢英の得難い美点だ。
 もちろん、それと私が現状に満足しているかという話とは別だ。私はあれに早く大人になって欲しい。したいことが山ほどあるのだ。
 けれど、最近は少しだけ、ほんの小指の先ほどであるが、子供のままでいて欲しいとも思う。あの純粋さを羨ましく思うことがある。未だ子供でいられることを。悩みながら己の道を歩めることを。
 皇帝の私が、他者を、しかもただの平民の子供をうらやましいと思う日が来ようなどとは、想像だにしていなかった。
 私は最近変わってきたと、自分でも思う。それが良い方向なのかはわからないが、私は私の望む方へ変わってきているような気がする。
 或いは飼いならされたか。
 不意に笑いがこみあげる。
 父上がご存命であられたならなんと思われるだろうか。
 今の私を見たら私の変わりようにあれも目を丸くして驚くだろう。
 再度窓の向こうへ目を遣る。雪は勢いを失い始めているように見えた。このまま止めばいい。でなければ会いに行く時間が作れない。そうなったらきっと賢英は落胆する。何も言わないだろうが。
 ……賢英には寂しい思いをさせていないだろうか。

 今日の私はどうしたのだろう。仕事をしなければならないのに手につかない。思考に脈絡が無い。
 なぜ自分はこんなにも賢英のことを気に掛けるのだろうと思う。
 後宮の女たちとは違い、本人は隠しているつもりのようだが、素直な反応が心地よいからだろうか。
 そう、賢英は後宮の女たちとはあまりに違う。当たり前のことだ。それが新鮮に感じられることは認める。
 けれどだからと言って私自身が私の妻たちに不満があると言うつもりはない。あれらはみな地位ある家の出で、人の上に立つことを教え込まれてきている。幼い頃から弱みを見せぬよう教え込まれている。私と同じように。誇り高く堂々とした立ち居振る舞いはむしろ好ましい。そうでなければ皇帝の隣に立つことなどできるはずもないのだから。
 それに、言いたいことも言えないような者のほうがよほど悪い。それではこの後宮では暮らしていけないだろう。
 狭い世界だ。
 美しく着飾り、化粧をし、内心を隠し、私を褒めそやし、欲しいものをねだり、少しでも寵をと画策する。愛らしい声、他愛のない会話、鈴を転がすような笑い声。
 そういったこともまた、一つの美点であるし、好ましいことだと理解している。それぞれに美しさと魅力を持ち合わせ、私のために集められた女たちに、私は責任を持たなければならない。
 美しい服や貴重な玉や香しい香、季節ごとの花、季節ごとの服、季節ごとの流行。同じことの繰り返し。籠の中の美しい鳥たち。愛でられるべく集められた花々。
 小さな世界に甘んじて暮らしてくれていることに感謝こそすれ、不満になど思いはしない。
 けれど。
 私にとって賢英は違うのだと思う。声も低く、顔も女とは作りから異なり、柔らかな肢体も持たず、話の内容も好きなものも違い、私を立てるようなことも言わず、私が私のために閉じ込めた鳥。
 何故なのか。そこへ立ち返る。
 最初の夜……。
 賢英は知らない。覚えていないだろう。
 それでいいと思う。
 自然口角が持ち上がるのを感じる。声を押し殺して笑ったら再度泰然のわざとらしい咳が聞こえてきた。
 私は静かに息を吐き出すと、書き上げたばかりの短い手紙を侠舜に渡し、仕事を再開するために書類の山に手を伸ばした。

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