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第三章 女の子の噂
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※28と29の2話投稿です。
午前の爽やかな日差しが部屋に入り込んでいる。
家具もベッドも粗末な部屋だったけれど、こどもの部屋であることが一目でわかる部屋だった。
あまり裕福でないだろう。けれど、使い古されたおもちゃが、おもちゃ箱にしまわれなかったものが、足の踏み場もないくらいに床に散らばっている。
縄跳びの縄に積み木、投げ輪と車輪。それから木剣に似せて誰かが不器用に削った木の棒にいくつかの綺麗な石。そういったものが散らばっている。
そして、おもちゃ箱の中にもおもちゃが入っている。箱の中身は、おままごとの家具や食器がある。ほかにも人形にあやとりの紐、お手玉などがきちんとしまわれている。
部屋の主の一人である男の子が、窓の外を眺めながらベッドに腰かけている。その側には優しそうな男が椅子に腰かけている。二人は向かい合って座っていた。男は優しく少年の手を握っている。安心させるように。
「ゲイル。君は知っているかな、自分が何者なのかということを」
「どういう意味?先生」
少年は窓の外の景色から視線をはずし、無邪気に答える。
「私は知っている。自分が何者なのかを」
男は、少年の問いには答えずに続ける。
「君は、星々の囁きを聞いたことがあるかな」
「星って囁くの?」
「もちろんだ。それは神の言葉」
「神様?」
「そう。私は、役割を与えられた。崇高な使命だ」
「どんな?」
「世界を悪魔から守ると言う使命だよ」
「すごい!先生は怪我を治すこともできて、その上、悪魔から世界を守っているなんて!」
「あの日、教会で祈りを捧げているとき、たしかに私は、私自身に光が降り注ぐのを見た。天上の光だ。悩める私に、神が与えたもうた。指し示してくださった。それは神の意志。私に世を守るようにという天啓」
「僕のことも怖い鬼から先生が守ってくれる?」
「救ってあげるよ」
男が慈愛に満ちた顔でほほ笑んだ。そして、再び言葉を続ける。
「けれど、それが具体的に何を指しているのか、その時の私にはまだわからなかった。愚かなことだ。だから私はことあるごとに教会へ赴き祈った。さらなる啓示を求めて。そして別のとある日に、とうとう私は聞いたのだ。夕日の中で、神のお告げを……。美しい夕日だった。残酷なほどに」
男の声が恍惚の表情を見せる。空中に、見えない何かを見ている。男はその時の光景を思い出していた。少年は男の変化に気づかない。
「神は言っていた。倒すべき魔が私の目の前にいると……」
男の目が怪しく光る。その視線の先には……。
「本当?」
「あぁ、本当だよ。私は人々を助けるために学院へ入り、医者になった。私に癒しの力があったからだ。しかし、神はもっと崇高な役割を私にくださった。私に人を救いなさいと言う、神の意志だ。私が学院で魔法を身に付けたのも、そういう運命だったのだ。だから、私には君を救う義務がある」
一息に男はここまで話すと、一段と優し気な声色へと変わった。自らの罪を懺悔する者に許しを与える司祭のように。
「だから、さぁ告白しなさい。君の罪を。何をしてしまったのかを」
「はい、先生。あのね、僕、この前怖い目にあったんだ」
「知っているよ」
「でもそれは僕が悪かったんだ」
「どうして?」
「約束を破ったの。お姉ちゃんが言ってた。やっちゃいけないって。でも、僕、どうしてもやりたくて、あの日、友達と鬼ごっこをしたんだ」
「それから?」
「それから、鬼定めをしたの」
「それは罪深いことだね」
「罪深い?あぁ、約束を破ったことだね。司祭様がお説教で言ってた。約束は守りなさい。自分を、えっと、律しなさいって」
「そうだよ、ゲイル。君は自分の欲望に打ち勝たなければいけなかった。司祭様もこの前のお説教で言っていたね。悪魔の誘惑に打ち勝たねばならないと」
「うん。僕、誘惑に負けちゃった。そのせいで、お姉ちゃんとの約束を破って、とても怖かった」
「だから、私が君を救済してあげよう」
先ほどまでの優しさや甘さを含んだ声とは全く違う、冷たい声だった。
少年はそれに尻込みする。
「どういうこと?」
「君には悪魔がついている」
「悪魔?」
男の声がさらに硬質なものになった。ゲイルと呼ばれた少年は、その言葉の鋭さに、何か違和感を覚える。
「そうだよ。君たちは悪魔を呼ぶ儀式をしたんだ。それはいけないことだったんだよ」
「……なんのこと?先生、よくわからないよ」
少年の表情に、声に困惑の色が混じりだす。それに引き換え、男は表情を失っていく。彼の瞳は冷たい輝きを放っている。
「鬼定めだよ。君たちは、鬼定めによって、その身に鬼を宿したんだ。それは許されざること。神のご意志に反する悪しき行い。人の道に背く行為。だから、私が君を、君たちを救済しなくてはならない。悪魔祓いを、司祭様に代わって実行しなければならない」
「あ、悪魔……?」
男は少年の手を握る自らの手に力を籠める。逃げられないように。
「私が、君を拷問しよう。悪魔をその身から追い出して、私が君をまっとうな人間にしなければいけない」
少年が拷問という言葉に叫び声をあげようとして、しかし恐怖にひきつる喉は、いっかな言葉をだすどころか呼吸さえも一瞬とめてしまった。
少年の手を握る男の手に力がこもる。
はっはっはっはっという短い息が、かろうじて少年の喉を通り抜けた。
荒い呼吸音に部屋が満たされていく。
男はふいに立ち上がると、窓に手を掛けた。そして、そっと雨戸を閉める。暗闇が部屋を支配する。
建付けの悪い雨戸の隙間から、わずかに光が零れ落ちているだけだった。ぼんやりとお互いの姿が見える程度に。
部屋の扉はしっかりと閉じられている。男は入室した際に、しっかりと閉じていることを確認していた。彼の両親が仕事で出かけていることも。姉にお使いを頼んで、一時家を留守にするよう仕向けてもいた。
準備は万端整った。
後は実行するだけだった。
この前の続きを。
男は拷問が必要だと知った。先日の礼拝で、司祭が話していた。悪魔を追い出す方法を。悪魔は普通には倒せない。しばらくすると復活してしまうと。だから、人の体に再び戻ってこないよう、拷問を与えてから追い出さないといけないと、司祭は言っていた。
だから、いきなり殺すのではなく、魔法で十分に責苦を与えた後で一思いに死なせてあげようと思っていた。先日は、その最中に邪魔されてしまった。不可思議な影に。
彼にはそれが悪魔の力に見えた。そして、彼は自己の正しさを確信するに至る。
自分が正しい。拷問は正しかった。悪魔はそれを恐れている。だから悪魔はその姿を現したのだ。今までは姿を見せることなど無かったのだから、と。彼を逃してはならない。彼は強くそう思った。
実は、それは正確な司祭の言葉ではなかった。司祭ははっきりそうと言いはしなかった。ただ男が勝手に、司祭の話す内容からそういうことなのだと汲み取ったにすぎない。思い込みにすぎなかった。
しかし、それはもはや彼の中で一つの真実だった。
そうせねばならないと、彼の中で決まってしまっていた。
少しずつ痛めつけて、最後に神の御許へ送るのだ。
男はこの話を聞いたとき、自分の失態を呪った。自分が今までなしてきた善行は無意味だったのだと思った。楽にしなせてあげることこそが優しさだと思っていた。なのに!彼の殺してきた悪魔はきっと蘇っていたのだと思った。だから、殺しても殺しても、悪魔は生まれてくるのだと、そう思った。
そして、今度こそは、この悪しき循環を断ち切るために、この子は、しっかりと、正しいやり方で成敗しなければならないと思い込んでいた。そうすれば、終わらせることができる。
この辛く苦しい使命を……。
男が手を伸ばした瞬間。ゲイルは恐怖に顔を引きつらせて、ベッドの上を後じさり、けれど、すぐに壁にぶつかりもう逃げることができなくなった。
ゲイルは自分の身に何が起きようとしているかはっきりと理解してはいなかったけれど、何か恐ろしいことが、自分の身に降りかかることだけは理解した。
彼は、自分の最期をなんとなく悟っていた。先日の出来事を思い出した。友達の死を思い出した。恐怖。ただ、思考が恐怖によって黒く塗りつぶされていく。
その時、一つだけ頭の中にひらめくものがあった。
「おねえちゃん……」
恐怖に引き連れた微かな、微かな声が、彼の口から零れ落ちた。
その刹那。
「だめ!」
少女の叫びが響くと同時に、ゲイルの体から影が現れて部屋全体を覆った。
窓から細く細く入り込んでいた日の光は、瞬く間に消え去り、完全な闇になった。
無音。
男はすぐさま警戒の構えをとる。何が起きたのかは理解できなくとも、良くないことが起きていると即座に察した。
目の前にいた少年が暗闇に呑まれ、彼はその姿を見失う。
焦った男は、呪文を唱えると男の子が先ほどまで居たと思われる自分の真正面に向けて魔法を放った。しかし、手ごたえはない。
たしかに魔法を放った感覚はある。けれど、その結果が伴わない。何が起きたのかを知ることができない。
男は焦った。何が起きているのか。
すぐさま、逃走を開始する。しかし、窓があった場所に手を伸ばしても、何も指先に触れるものがない。混乱する。
子ども部屋の扉があるはずの方へ一歩踏み出す。二歩、三歩。部屋はさほど広くはない。なのに、何にもぶつからない。壁にも、扉にも。
そして、さきほどまで部屋中に散乱していたはずのおもちゃの一つも、足裏に踏んだ感覚がない。
男はここにきてさらに狼狽える。
すると、一人の男が突然目の前に現れた。彼には見覚えが無かった。
男には、その人物が突然空間から湧き出てきたように思われた。
その男は、地味な茶色の髪に、高くも低くもない背をしていて、すらりと細く頼りなげで、きっと街中で見かけても他の大多数に埋没して、さほど印象に残らないだろう、そういう雰囲気をしている。
しかし。
暗闇の中、琥珀色の一対の瞳が、金色に輝いているのを男はみた。
空の星のようだと、男は思った。
その目をまともに見た瞬間、彼は蛇ににらまれた蛙のように体が硬直するのがわかった。
それはまさに、彼の想像する……。
恐慌状態に陥った男は、即座に魔法を展開する。その右手に魔力を込め、呪文を詠唱する。なんども繰り返した呪文だ。彼が最も得意とする風の魔法。
その風の刃はまっすぐに飛んでいき、目の前の男を切り裂いた。
額から、腕から、太腿から、血がゆっくりと流れ落ちた。
しかし、相手の男は動じなかった。
男は焦る。
再度魔法を放つ。
焦りに任せて唱えた魔法は、彼の感情の奔流と同じだった。一度発動したらもう止められなかった。彼自身にも、なぜこんなにも相手を恐れているのか分かっていない。ただ、なんとかしたい、この状況から逃げ出したという感情しかなかった。
彼は、めったやたらにありとあらゆる方向に魔法を放つ。体から魔力が失われていく。目眩がする。息も苦しい。それでも彼は魔法を打つのを止められない。当たっていないことなど、気にも留める余裕はなかった。
そうしなければいけないと思った。
そうしなければ、自分自身が否定されるような気がしたから。目の前の男によって。
彼の出鱈目に放った魔法は当然ながら、そのほとんどが関係のないほうへ向かって行った。けれど、いくつかは確かに眼前の男に命中した。したはずなのに、琥珀色の目の男はそれでも動じなかった。
傷口から血がとめどなく零れ落ちる。
「今ならまだ引き返せるはずだよ」
金色の目をした男が、優しげな声で語り掛けてきた。
「な、何を言っている」
「君の話だよ。まだ、今なら人の道へ戻れる。これ以上は、人の道を外れてしまう」
血を流しながら男が言う。
その言葉を聞いて、医者である男の体は、とうとうがくがくと震え始めた。寒さに震えるように。取り返しのつかない事実に怯えるように。
「君も気づいているんじゃないのかな。君がみたものは幻だということに?君に天啓は下っていない。君の為すべきことは、悪を退治することではなく、目の前にいる人を癒すことだった。違うかな?」
「違う。私は、私は選ばれた。神に愛されている。為すべき使命が与えられた」
「本当にそうなのかな……。神が君に命じたの?子供を殺せと……?」
「そ、そうだ!悪魔に憑りつかれた哀れな人を救うようにと、神はおっしゃった」
「それは君の見た幻ではないの?そうありたいと、特別でありたいと願う君自身の願望が、君に囁いただけだよ」
「違う違う違う違う!」
そう叫んだ男が手を組んで呪文の詠唱を始める。
魔力の高まりから、魔法の完成が知れる。医者の男は両手を前に突き出し、血だらけの男に向かって魔法を放ったのが見て取れる。
逆巻く風がまっすぐに目の前の男に向かって飛んでいく。音を追い越して飛んでいく。それは確実に、目の前の男を切り倒しなぎ倒す魔法だった。当たれば無事では済まない。
人を殺すための魔法は対象にぶつかる寸前、しかし、どこからか放たれた紫電に風の塊がぶつかり、諸共に消え去ってしまった。
午前の爽やかな日差しが部屋に入り込んでいる。
家具もベッドも粗末な部屋だったけれど、こどもの部屋であることが一目でわかる部屋だった。
あまり裕福でないだろう。けれど、使い古されたおもちゃが、おもちゃ箱にしまわれなかったものが、足の踏み場もないくらいに床に散らばっている。
縄跳びの縄に積み木、投げ輪と車輪。それから木剣に似せて誰かが不器用に削った木の棒にいくつかの綺麗な石。そういったものが散らばっている。
そして、おもちゃ箱の中にもおもちゃが入っている。箱の中身は、おままごとの家具や食器がある。ほかにも人形にあやとりの紐、お手玉などがきちんとしまわれている。
部屋の主の一人である男の子が、窓の外を眺めながらベッドに腰かけている。その側には優しそうな男が椅子に腰かけている。二人は向かい合って座っていた。男は優しく少年の手を握っている。安心させるように。
「ゲイル。君は知っているかな、自分が何者なのかということを」
「どういう意味?先生」
少年は窓の外の景色から視線をはずし、無邪気に答える。
「私は知っている。自分が何者なのかを」
男は、少年の問いには答えずに続ける。
「君は、星々の囁きを聞いたことがあるかな」
「星って囁くの?」
「もちろんだ。それは神の言葉」
「神様?」
「そう。私は、役割を与えられた。崇高な使命だ」
「どんな?」
「世界を悪魔から守ると言う使命だよ」
「すごい!先生は怪我を治すこともできて、その上、悪魔から世界を守っているなんて!」
「あの日、教会で祈りを捧げているとき、たしかに私は、私自身に光が降り注ぐのを見た。天上の光だ。悩める私に、神が与えたもうた。指し示してくださった。それは神の意志。私に世を守るようにという天啓」
「僕のことも怖い鬼から先生が守ってくれる?」
「救ってあげるよ」
男が慈愛に満ちた顔でほほ笑んだ。そして、再び言葉を続ける。
「けれど、それが具体的に何を指しているのか、その時の私にはまだわからなかった。愚かなことだ。だから私はことあるごとに教会へ赴き祈った。さらなる啓示を求めて。そして別のとある日に、とうとう私は聞いたのだ。夕日の中で、神のお告げを……。美しい夕日だった。残酷なほどに」
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「神は言っていた。倒すべき魔が私の目の前にいると……」
男の目が怪しく光る。その視線の先には……。
「本当?」
「あぁ、本当だよ。私は人々を助けるために学院へ入り、医者になった。私に癒しの力があったからだ。しかし、神はもっと崇高な役割を私にくださった。私に人を救いなさいと言う、神の意志だ。私が学院で魔法を身に付けたのも、そういう運命だったのだ。だから、私には君を救う義務がある」
一息に男はここまで話すと、一段と優し気な声色へと変わった。自らの罪を懺悔する者に許しを与える司祭のように。
「だから、さぁ告白しなさい。君の罪を。何をしてしまったのかを」
「はい、先生。あのね、僕、この前怖い目にあったんだ」
「知っているよ」
「でもそれは僕が悪かったんだ」
「どうして?」
「約束を破ったの。お姉ちゃんが言ってた。やっちゃいけないって。でも、僕、どうしてもやりたくて、あの日、友達と鬼ごっこをしたんだ」
「それから?」
「それから、鬼定めをしたの」
「それは罪深いことだね」
「罪深い?あぁ、約束を破ったことだね。司祭様がお説教で言ってた。約束は守りなさい。自分を、えっと、律しなさいって」
「そうだよ、ゲイル。君は自分の欲望に打ち勝たなければいけなかった。司祭様もこの前のお説教で言っていたね。悪魔の誘惑に打ち勝たねばならないと」
「うん。僕、誘惑に負けちゃった。そのせいで、お姉ちゃんとの約束を破って、とても怖かった」
「だから、私が君を救済してあげよう」
先ほどまでの優しさや甘さを含んだ声とは全く違う、冷たい声だった。
少年はそれに尻込みする。
「どういうこと?」
「君には悪魔がついている」
「悪魔?」
男の声がさらに硬質なものになった。ゲイルと呼ばれた少年は、その言葉の鋭さに、何か違和感を覚える。
「そうだよ。君たちは悪魔を呼ぶ儀式をしたんだ。それはいけないことだったんだよ」
「……なんのこと?先生、よくわからないよ」
少年の表情に、声に困惑の色が混じりだす。それに引き換え、男は表情を失っていく。彼の瞳は冷たい輝きを放っている。
「鬼定めだよ。君たちは、鬼定めによって、その身に鬼を宿したんだ。それは許されざること。神のご意志に反する悪しき行い。人の道に背く行為。だから、私が君を、君たちを救済しなくてはならない。悪魔祓いを、司祭様に代わって実行しなければならない」
「あ、悪魔……?」
男は少年の手を握る自らの手に力を籠める。逃げられないように。
「私が、君を拷問しよう。悪魔をその身から追い出して、私が君をまっとうな人間にしなければいけない」
少年が拷問という言葉に叫び声をあげようとして、しかし恐怖にひきつる喉は、いっかな言葉をだすどころか呼吸さえも一瞬とめてしまった。
少年の手を握る男の手に力がこもる。
はっはっはっはっという短い息が、かろうじて少年の喉を通り抜けた。
荒い呼吸音に部屋が満たされていく。
男はふいに立ち上がると、窓に手を掛けた。そして、そっと雨戸を閉める。暗闇が部屋を支配する。
建付けの悪い雨戸の隙間から、わずかに光が零れ落ちているだけだった。ぼんやりとお互いの姿が見える程度に。
部屋の扉はしっかりと閉じられている。男は入室した際に、しっかりと閉じていることを確認していた。彼の両親が仕事で出かけていることも。姉にお使いを頼んで、一時家を留守にするよう仕向けてもいた。
準備は万端整った。
後は実行するだけだった。
この前の続きを。
男は拷問が必要だと知った。先日の礼拝で、司祭が話していた。悪魔を追い出す方法を。悪魔は普通には倒せない。しばらくすると復活してしまうと。だから、人の体に再び戻ってこないよう、拷問を与えてから追い出さないといけないと、司祭は言っていた。
だから、いきなり殺すのではなく、魔法で十分に責苦を与えた後で一思いに死なせてあげようと思っていた。先日は、その最中に邪魔されてしまった。不可思議な影に。
彼にはそれが悪魔の力に見えた。そして、彼は自己の正しさを確信するに至る。
自分が正しい。拷問は正しかった。悪魔はそれを恐れている。だから悪魔はその姿を現したのだ。今までは姿を見せることなど無かったのだから、と。彼を逃してはならない。彼は強くそう思った。
実は、それは正確な司祭の言葉ではなかった。司祭ははっきりそうと言いはしなかった。ただ男が勝手に、司祭の話す内容からそういうことなのだと汲み取ったにすぎない。思い込みにすぎなかった。
しかし、それはもはや彼の中で一つの真実だった。
そうせねばならないと、彼の中で決まってしまっていた。
少しずつ痛めつけて、最後に神の御許へ送るのだ。
男はこの話を聞いたとき、自分の失態を呪った。自分が今までなしてきた善行は無意味だったのだと思った。楽にしなせてあげることこそが優しさだと思っていた。なのに!彼の殺してきた悪魔はきっと蘇っていたのだと思った。だから、殺しても殺しても、悪魔は生まれてくるのだと、そう思った。
そして、今度こそは、この悪しき循環を断ち切るために、この子は、しっかりと、正しいやり方で成敗しなければならないと思い込んでいた。そうすれば、終わらせることができる。
この辛く苦しい使命を……。
男が手を伸ばした瞬間。ゲイルは恐怖に顔を引きつらせて、ベッドの上を後じさり、けれど、すぐに壁にぶつかりもう逃げることができなくなった。
ゲイルは自分の身に何が起きようとしているかはっきりと理解してはいなかったけれど、何か恐ろしいことが、自分の身に降りかかることだけは理解した。
彼は、自分の最期をなんとなく悟っていた。先日の出来事を思い出した。友達の死を思い出した。恐怖。ただ、思考が恐怖によって黒く塗りつぶされていく。
その時、一つだけ頭の中にひらめくものがあった。
「おねえちゃん……」
恐怖に引き連れた微かな、微かな声が、彼の口から零れ落ちた。
その刹那。
「だめ!」
少女の叫びが響くと同時に、ゲイルの体から影が現れて部屋全体を覆った。
窓から細く細く入り込んでいた日の光は、瞬く間に消え去り、完全な闇になった。
無音。
男はすぐさま警戒の構えをとる。何が起きたのかは理解できなくとも、良くないことが起きていると即座に察した。
目の前にいた少年が暗闇に呑まれ、彼はその姿を見失う。
焦った男は、呪文を唱えると男の子が先ほどまで居たと思われる自分の真正面に向けて魔法を放った。しかし、手ごたえはない。
たしかに魔法を放った感覚はある。けれど、その結果が伴わない。何が起きたのかを知ることができない。
男は焦った。何が起きているのか。
すぐさま、逃走を開始する。しかし、窓があった場所に手を伸ばしても、何も指先に触れるものがない。混乱する。
子ども部屋の扉があるはずの方へ一歩踏み出す。二歩、三歩。部屋はさほど広くはない。なのに、何にもぶつからない。壁にも、扉にも。
そして、さきほどまで部屋中に散乱していたはずのおもちゃの一つも、足裏に踏んだ感覚がない。
男はここにきてさらに狼狽える。
すると、一人の男が突然目の前に現れた。彼には見覚えが無かった。
男には、その人物が突然空間から湧き出てきたように思われた。
その男は、地味な茶色の髪に、高くも低くもない背をしていて、すらりと細く頼りなげで、きっと街中で見かけても他の大多数に埋没して、さほど印象に残らないだろう、そういう雰囲気をしている。
しかし。
暗闇の中、琥珀色の一対の瞳が、金色に輝いているのを男はみた。
空の星のようだと、男は思った。
その目をまともに見た瞬間、彼は蛇ににらまれた蛙のように体が硬直するのがわかった。
それはまさに、彼の想像する……。
恐慌状態に陥った男は、即座に魔法を展開する。その右手に魔力を込め、呪文を詠唱する。なんども繰り返した呪文だ。彼が最も得意とする風の魔法。
その風の刃はまっすぐに飛んでいき、目の前の男を切り裂いた。
額から、腕から、太腿から、血がゆっくりと流れ落ちた。
しかし、相手の男は動じなかった。
男は焦る。
再度魔法を放つ。
焦りに任せて唱えた魔法は、彼の感情の奔流と同じだった。一度発動したらもう止められなかった。彼自身にも、なぜこんなにも相手を恐れているのか分かっていない。ただ、なんとかしたい、この状況から逃げ出したという感情しかなかった。
彼は、めったやたらにありとあらゆる方向に魔法を放つ。体から魔力が失われていく。目眩がする。息も苦しい。それでも彼は魔法を打つのを止められない。当たっていないことなど、気にも留める余裕はなかった。
そうしなければいけないと思った。
そうしなければ、自分自身が否定されるような気がしたから。目の前の男によって。
彼の出鱈目に放った魔法は当然ながら、そのほとんどが関係のないほうへ向かって行った。けれど、いくつかは確かに眼前の男に命中した。したはずなのに、琥珀色の目の男はそれでも動じなかった。
傷口から血がとめどなく零れ落ちる。
「今ならまだ引き返せるはずだよ」
金色の目をした男が、優しげな声で語り掛けてきた。
「な、何を言っている」
「君の話だよ。まだ、今なら人の道へ戻れる。これ以上は、人の道を外れてしまう」
血を流しながら男が言う。
その言葉を聞いて、医者である男の体は、とうとうがくがくと震え始めた。寒さに震えるように。取り返しのつかない事実に怯えるように。
「君も気づいているんじゃないのかな。君がみたものは幻だということに?君に天啓は下っていない。君の為すべきことは、悪を退治することではなく、目の前にいる人を癒すことだった。違うかな?」
「違う。私は、私は選ばれた。神に愛されている。為すべき使命が与えられた」
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