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六冊目 愛しい名前

愛しい名前―10

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「うむ。依頼は完了じゃな」
 桜子は、達成感とともにそう言って腰に手を当てた。ふいに柳と目が合って、思わず逸らしてしまう。それを見た沙希が桜子の隣に来た。

「桜子さん」
「むぅ……分かっておる」
 何度でも伝えよう、という沙希の言葉が頭の中でよみがえってきた。ほんの少し足踏みしただけで、そのつもりだった。桜子は短く吐いた息と共に入り過ぎた肩の力を抜いた。

「助けはいらぬぞ」
「うん」
 沙希をその場に留めて、桜子は柳の元へ歩き出した。博物館の白い床を打つ足音が大きく響く。

「……柳」
 おずおずと、桜子が柳の名前を呼んだ。手のひらをぎゅっと握りしめて、顔を上げ、柳を見た。

「えっと、なんじゃ、その……」
「怒鳴ってすみませんでした」
 桜子が言う前に、柳が謝罪を口にした。眉を下げた笑顔のまま、続ける。

「人に捨てられたってことも確かにショックでした。でもそれ以上に、桜子さんがそれを私に言ってくれなかったことが悲しかったんです。私は桜子さんに信用されていないのかと、思ってしまって」
「違う! それは違うのじゃ」
 桜子は大声を上げて、否定したが、その後俯いたまま動かなくなってしまった。柳が遠慮がちに覗き込む。

「桜子さん?」
「――ったのじゃ」
「?」
「怖かったのじゃ……!」


 その言葉とともに顔をあげた桜子の瞳には、涙が満ちていて、まばたきをすれば、大粒の涙がこぼれ落ちる。初めて目にする桜子の涙に、柳はどうすればいいのか分からず、ただただ立ち尽くすしかなかった。

「おぬしに拒絶されることも、おぬしが離れていくことも、怖かったのじゃ。わたしはずっとおぬしを見ていたんじゃ。人の手にあるときから、美しい万年筆だと。……じゃが、あるとき、その人間の元からおぬしの姿が消えた」
 次から次へとこぼれる涙と一緒に、桜子の中から、今まで決して言うことのなかった想いが溢れだした。それは柳からこぼれ落ちた記憶でもあった。

「必死で探して、やっと見つけて、嬉しくて、そのままわたしの物にしてしまった。開化するときをずっと楽しみにしておった。隣で過ごせる日を待ちわびていた。……まさか、記憶を飛ばしてしまうとは思ってもみなかったのじゃ。本当じゃ。すまぬ、すまぬ」

 手の甲で涙をぬぐいながら、何度も謝る桜子は、何百年も在る者ではなく、大切な一人に嫌われることを恐れる、ただの少女のようだった。赤い着物の少女の前で、柳は片膝をつき、目線を合わせた。

「呼んでください」
「?」
「桜子さんが付けてくれた、私の名前を」

 桜子は潤んだ瞳を大きく見開いて、目の前の付喪神をその瞳に映した。焦がれ、手にした唯一の存在の名を、恐る恐る口にする。
「……柳」
「はい」

 今度はしっかりと目を見て、呼びかける。
「柳」
「はい」

 力と想いを込めて、引き寄せるように声を張る。
「柳!」
「はい、桜子さん」

 柳は穏やかに微笑んで、涙で濡れた桜子の小さな手を両手で包み込んだ。桜子は、新たに溢れだした涙を隠すように、または見た目通り幼い少女のように、柳に抱きついて、その首に回した手に力を込めた。

「……もう勝手に出て行くな」
「はい、すみません」
「帰るのじゃ」
「はい。……あ、でも」

 柳は控えめに灯の方を見る。管理課のことを知りたいと、手伝いをしたいと言ったのは、本心だった。言ったことをすぐにやめてしまうというのは、灯に失礼だ。
「あの、灯さ――」
「必要ない」
 腕組みをした灯は、短い言葉で言い放った。

「桜子の元でしか能力が使えないのなら、本部にはいらん。相談事は解決したな? 俺は本部に戻る。他にも仕事はあるからな」
 柳の思いを汲んだ上で、灯はわざと突き放した言い方をした。ということは柳にも察しがついた。何も言わずに見送るのが正解だと理解しつつ、柳は届くように言った。

「ありがとうございます」
 肩をすくめた灯が、眉を柔らかく下げて振り返った。

「まあ、協力くらいしてもらえると、助かる」
「はい。いつでもお待ちしてます。物書き屋で」







 今度こそ、その場をあとにした灯を、打掛の彼女が送っていく、と言ってついていった。他の者には聞こえないように、小声で灯に話しかけた。
「灯さん、かっこいいわね。小さいのに」
「小さいは余計だ」
 むくれてすたすたと前に行ってしまった灯を追いかけ、彼女はにっこりと笑った。

「解決してくれて、ありがとね」
「まあ、ほとんど桜子にもっていかれたがな」
「あら、解決出来たのは灯さんのおかげよ。お礼に今度何か奢るわよ、メガネがね」
 そう言って彼女は軽やかにウインクを飛ばした。







 柳は、沙希と碧に歩み寄り、頭を下げた。
「お役に立てず、またお騒がせして、申し訳ありません。ここは、もうしばらく貸し切りのままですので、ゆっくりとお過ごしください」
「いえ、そんな。ありがとうございます」
「十八年ぶりじゃ、積もる話もあるじゃろう」
「本当にありがとう、桜子さん」
 沙希と碧は、それぞれに礼を示してから、顔を見合わせてそっと微笑み合った。
 二人へもう一度軽く頭を下げてから、柳は桜子の手をとった。いつもなら子ども扱いをするなと怒られるのだが、今日は強く握り返された。
「では、帰りましょう。桜子さん」
「うむ」
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