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六冊目 愛しい名前
愛しい名前―9
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一週間後。博物館には相変わらず、人もそうでない者も多い。解説を丹念に読んでいたせいで、団体からはぐれてしまった人や、館内マップをくるくる回して自分の場所を探している人、楽しげに談笑する者たち。
その中を、打掛の彼女に連れられて、柳と灯は茶器が置いてあるブースに向かった。そこは、ポールとロープで区切られており、関係者以外立ち入り禁止、というプレートがあった。
「さすがに、閉館後に部外者を入れるのは許可されなかったわ。なんとか、ここのブースを貸しきることで譲歩してもらったから、これで許してちょうだい」
「ああ、すまない。恩に着る」
「ありがとうございます」
笑顔で礼を受け取った打掛の彼女は、茶器からは離れたポールの近くに立った。邪魔にならないようここにいる、と言った。ちなみに、あとの二人はツアー客につかまることを警戒して、今回は来なかったらしい。
「柳、頼んだ」
「はい」
柳は万年筆を持ち、いつもの原稿用紙の代わりのノートを用意した。深呼吸をして、目の前の茶器に集中する。茶器のツボミは、青い瞳が特徴的な、青年の姿だった。
「初めまして、柳と言います。あなたの話を聞かせていただけませんか?」
彼はにこやかにぺこりと頭を下げたが、何も答えてはくれない。柳は控えめにもう一度訪ねてみる。
「迷惑でなければ、お話、聞かせてもらえませんか?」
「――」
やはり、答えは返って来なかった。しかし、口元をよく見ると彼は口を動かして何かを話しているようだった。
「え」
「どうした?」
柳の様子がおかしいと気づいた灯が声をかけてきた。茶器から目を離さないまま、柳は答える。
「聞こえ、ないです」
「何?」
「確かに、何か話してくれているようなんですが、聞こえてこないんです。いつもみたいに、声が聞こえないんです……!」
焦る柳とは対照的に、灯は顎に手を当てて、静かに考え込んだ。そして、ぽつりと問いを零した。
「柳、お前いつもどこで書いてたんだ?」
「物書き屋の、執筆室です。静かで、集中出来るので」
「外で書くのは初めてか?」
「はい」
柳の答えを聞くと、また考え込んでしまった。柳はどうしたらいいのか分からず、何度も万年筆を握りしめてツボミを見て、話しかけるが、結果は変わらなかった。
「もしかすると、その能力が使えるのは、物書き屋の中だけかもな」
「え?」
ようやく口を開いた灯から発せられた言葉を理解するまでに、柳は何度も瞬きをした。
「記憶が飛んだ要因は、付喪神である桜子が所有していたことかもしれん、と言っただろう。その特殊な能力も同じ要因だとしたら、使えるのは桜子の家だけ、ということになる」
「そう、ですか」
「仮説に仮説を重ねたものだから、なんとも言えないが」
灯はそう付け足したが、柳は自身の感覚で、それが正しいと分かっていた。もう一度茶器を見てから、万年筆を握る手をゆるめた。
「今、話が聞けないとなると……。すみません、お役に立てなくて」
「想定外のことだ、仕方ないさ。地道に情報を集めるか。すまない、時間がかかるかもしれん」
灯は切り替えるように、両手を叩いて言った。後半は体を後ろにひねって、打掛の彼女に向けて。
「構わないわ。こちらから頼んだことだもの」
「その必要はないのじゃ」
唐突に聞こえてきたその声に、そこにいた全員の視線が集中する。そんなことは気にも留めずに、桜子はロープをくぐってブースの中に入ろうとする。
「あ、ここ関係者以外は――」
「いや、そいつらは入れていい。ある意味関係者だ」
灯に言われ、打掛の彼女は一度ロープを外し、桜子と後ろにいた沙希を中に入れた。
「桜子、柳が外では書けないことを知っていたのか?」
「む? そもそも外で書くことはなかったからのう、知らなかったぞ。……そうかそうか」
桜子は何か、納得したように頷いたが、柳の方を見ようとはしない。その口元が嬉しそうに上がっているように見えるのは見間違いなのか。灯はわざとらしくため息をついた。
「おい、そっちの依頼と、こっちの相談はおそらく同じ内容だろう。何も出来ないのはお互いさまだ。情報共有をしないか」
「ふんっ、断る」
「なっ!」
小馬鹿にしたように顔をそむけた桜子に、灯は詰め寄った。
「焦るでない。もうすぐじゃ」
ふいに、あたりが朝日を受けたように眩しくなった。ような気がした。その場にいた全員が思わず目をつむる。少し離れたところで桜子と灯のやり取りを聞いていた沙希も同様に視界を閉ざした。そして、再び目を開けると、そこには、あのときと変わらない姿の碧があった。
「碧……」
思わず後ろによろめいた沙希を、打掛の彼女が慌てて受け止める。大丈夫かという問いかけも耳に届いていないようだ。
「おい、桜子。どういうことだ」
「見て分からぬか、たった今、百年が経過して開化したのじゃ」
「いや、それは、そうだが」
なおも納得しない灯に対して、桜子は説明を捕捉する。
「あいつ――依頼者に聞いた、茶器が元々あった場所に行って、そこにいた者に色々と聞いて、百年目が今日になると分かったのじゃ。まあ、おぬしらがいたのは予想外じゃったが」
それを聞いて、一度は納得して、そうか、と言ったが、新たな疑問が湧いてきたようで、灯は桜子の赤い袖をつかむ。
「あの人間は、なぜ開化した茶器の姿を知っている?」
「七歳未満の人の子どもが、まれにツボミを見る理由の、一番有力なのはなんじゃ?」
「七歳までは神の子、であるから」
その昔、子どもは七歳まで生きることが難しかった。そのため、七歳までは神の子として神に庇護してもらう、または神の所有物である、という考え方があった。その考え、意識は今でも息づいている。
「そうじゃ。神の子が、神社にいたら、その目はよく見えるだろうな」
「そ、そんなことありえな――」
「二百年くらい前に、前例があるぞ?」
二百年前、というと灯はすでに開化していた時期だ。探せば本部に過去の資料はある。勉強不足、という単語が灯の頭に浮かび、両手を上げて降参のポーズをとった。
「多くの偶然が重なった奇跡、ってとこか」
「必然かもしれぬがのう」
「ところで、あの人間、思ったほど驚いていないな」
桜子は隣の灯から視線を外し、前を、沙希を見つめながら呟いた。
「教えたからのう」
博物館に来る前、沙希は桜子から『付喪神』という存在について教えられた。そして、幼い頃に出会った碧は、そういうものだと。もちろん驚きはしたのだが、沙希は、ようやく腑に落ちた、と零した。レポート作成のために例の神社やその周辺について調べた際、碧のような人間は存在しないということが分かったのだ。
碧は人ではないものだと、知ってもなお、沙希は碧に会うことを望んだ。
「沙希ちゃん……?」
初めて聞く碧の声は、想像よりも少し低く、それでもよく通る心地のいいものだった。沙希は支えてくれた彼女に礼を言うと、碧へと歩み寄った。
「碧。やっと会えた」
「僕は、その……」
「茶器の付喪神、なんでしょう」
沙希の言葉に、碧は驚きのあまり固まってしまった。そんな碧の様子を見て、安心させるように微笑んだ。そっと目線を茶器へと向ける。
「やっぱり、綺麗なお茶碗だね」
ここでやっと、碧は体の力が抜けて、柔らかく笑った。あの頃のままの言葉で、二人で過ごした神社の景色が目の前によみがえった。
「ありがとう。今も、ずっと前から、綺麗だと褒めてくれて、ありがとう」
碧が笑ってくれたことが、沙希にとってあまりにも嬉しく、視界がぐにゃりと歪む気配がした。だが、感情に任せる前に、聞かなければならないことがある。
「私ね、勉強して文化財とかを扱えるようになったの。だから、茶器をまたあの神社に置くことも出来る。……碧は今、幸せ?」
様々なことを問う質問に、碧は少しの間、答えを悩んだ。永遠にも思える一瞬のあと、碧はまっすぐに沙希に向き合った。
「ここにはたくさんの人がくるんだ。綺麗だ、よく分からない、高そう、とか何でもいい。人が思ってくれることが、僕たちが存在出来る理由なんだと思う。それに、ここには僕のことを気にかけてくれる先輩たちがいるからね」
「うん」
誇らしく言う碧には、博物館という場所が必要なのだろう。少し寂しいが、それでも、姿のない煙のような存在を追いかけていた今までに比べれば、なんてことはない。
「それじゃあ、今度は博物館に、会いに来るね」
「沙希ちゃん……」
今度は、碧に涙の波紋が広がっていく番だった。沙希は、その青い瞳に自分が映っているのを見て、問いかけた。
「ねえ、もう一つ聞きたいことがあるの。貴方の本当の名前は何?」
碧、という名前は幼い沙希が付けたニックネーム。彼が話せなかったために、いや、沙希が彼の声を聞けなかったために、作られた仮の名前。でも今は、本人の口から名前を聞ける。もう、必要のない、名。
彼は沙希との距離を少し縮めて、彼女が幼かった頃そうしたように、体をかがめて目線を合わせた。そして、見惚れるほどの優しい笑顔とともに答えた。
「貴女が、碧と呼んでくれたから、僕の名前は『碧』だよ」
「……っ」
沙希は思わず両手を口に当て、こぼれ落ちそうになった息を吸い込む。瞬きを忘れてしまったかのように、見開かれた目をそっと伏せる。
自分の言葉は、碧にとって特別なものになっていた。その事実が沙希の心を満たしていく。気を抜くと、本当に泣いてしまいそうだった。その目の奥が熱くなる感覚に引っ張られて、あることに思い至る。
「ねえ、約束したの覚えてる?」
顔の横に、小指を立てた手を置いて、尋ねてみる。碧も同じようにして、もちろん、と答えた。
「また遊ぼう、だったよね」
「もう一つ。私が大きくなったらお嫁さんにしてっていうのは?」
「!」
碧の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。さっきまで小指を立てていた手で、口元を隠している。
それまで黙って様子を見ていた桜子が、沙希に届くように声を張った。
「付喪神にそんなことを言うとは、おぬし悪い子じゃのう」
「うん、そうみたい!」
桜子の言葉に、沙希は心底嬉しそうに、無邪気な笑顔で応えた。満足そうに頷くと、桜子はまた口を閉じた。
「……沙希ちゃん」
碧は、壊れ物を扱うかのように、以前とは高さの変わった沙希の頭を撫でた。そのまま手を頭の後ろに移動させ、沙希の体を引き寄せた。そして、沙希の前髪にそっとキスをした。
「僕で、いいの?」
「碧がいいの」
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