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第二章 桐壺と澪標

桐壺と澪標 -10

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「終わったよ」
「えっ、もう交渉が済んだのでございますか」
「姉上に養女を迎えることを了承していただき、中納言に手を引かせてきたよ」

 彰胤が桐壺にやってきたのは、まだ日が頂上から傾き始めた頃だった。空が赤く染まるよりも早く、彰胤は全て終わらせてきたという。

「こんなに、早く……。ありがとうございます、東宮様」
「こういうのは早い方がいいからね。それと、今日は吉日らしいから、婚姻の儀も行なうことになったんだ。急いで準備に取り掛かるよ」

「え、ええ!」

 彰胤は、一緒に来ていた東宮付き女房たちを桐壺に呼び、目まぐるしく婚姻の儀の準備が行なわれていく。宵子も、一度衣装合わせをした紅の匂の襲を着せてもらう。日が悪かったり、例の騒動などで、延期に延期を重ねていたからか、とても慌ただしい。

 言われるがまま、されるがままになっている間に、あっという間に婚姻の儀が終わった。

「今後は、東宮とうぐう女御にょうご様とお呼びするように」
 女官が厳かにそう告げた。

 妃は、実質的な正妻を示す中宮ちゅうぐう、それに次ぐ女御にょうご更衣こうい、と出自や身分によって定められている。時には上位の女官が妃の扱いを受けることもある。

 女御や更衣は複数人いることが多いため、通常、妃の呼び名は、弘徽殿こきでんの女御、梅壺うめつぼの更衣、といった具合に、与えられた殿舎と位を組み合わせたものとなる。

 ただ、今は東宮の妃は宵子一人だけ。呼び分ける必要もなく、何よりあの東宮が追い返さなかった妃、という印象が強いようで、東宮女御と称された。




 その日の夜、慌ただしかった日中とは対照的に、桐壺にはゆったりとした穏やかな時間が流れていた。宵子と彰胤の二人だけでの、星見酒。

「じゃあ、改めて女御、これからよろしく」

 彰胤から『女御』と呼ばれることに、照れてしまう。この人の妻になったのだと、実感させられる。それが、取引の結果だとしても。

「よろしくお願いいたします。あの、藤原の家から助けていただいて、本当にありがとうございます」
「妻になって欲しいと言ったのは俺の方だからね。当然だよ」
「東宮様のお役に立てるよう、励みます」

 お互いに持った盃を傾けて、静かに乾杯をする。ゆらゆらと揺れる酒の表面には、空の星が映り込んで、酒そのものが輝いているように見える。

 共に用意された菓子は、亥の子餅いのこもち。亥の月、亥の日、亥の刻に食べることで、万病を除くことが出来るという縁起物だ。大豆や小豆、胡麻、栗などの粉を混ぜて、猪の子であるうり坊の形に似せて作られる。今、出されているものには、きな粉がまぶしてある。

「今日は亥の日ではないけれど、お祝いには違いないからね。用意してもらったんだ」
「とても美味しそうです。これも、源氏物語に登場いたしますね」

 源氏物語の主人公、光源氏ひかるげんじ紫の上むらさきのうえの婚姻の際に亥の子餅を持ってくる場面がある。最近は源氏物語を連想することが多く、ついそう口にしたが、これでは光源氏と、その生涯において最愛の人と言ってもいい紫の上、それぞれに彰胤と宵子を重ね合わせたように聞こえてしまう。宵子は慌てて言い足した。

「あの、えっと、物語に出てくるような、立派な亥の子餅だと、言いたかったのでございます」
「うん、そうだね」

 言葉少なに微笑む彰胤に、宵子の胸の鼓動がいやにうるさくなる。

「これも、と言っていたけど、他にも源氏物語に似たものを食べたのかい?」

 別の意味で、鼓動が早鐘を打った。桐壺の更衣になぞらえた嫌がらせのことは、彰胤には話していない、話すつもりはない。なのに、無意識に『これも』なんて言ってしまっていた。

「いえ、命婦と源氏物語の話をしたので、つい、そのように」
「そうか、命婦と上手くやっているようで、何よりだ」

 彰胤はそれ以上の追求はせず、亥の子餅を頬張った。宵子も口にして、ほのかに広がる甘さに顔をほころばせた。

「女御、少し長くなるが、今の宮中の状況を話しておこうと思うんだ」
「状況……、東宮に推されているという、若宮様のことでございますか」

 彰胤が以前言っていた、自身が冬の宮と呼ばれている理由、そのことかと思い、宵子は小首を傾げた。

「ああ。それから、兄上――主上おかみのことも。三年前に起こったことは知っているかい?」
「いえ。たまに宮中のことを話して聞かせてくれた老師が、その頃に亡くなり、知るすべがありませんでした」
「そうか。じゃあ、そこから話そう」

 取引とはいえ、東宮妃の立場になる宵子には、知っておかなくてはならないこと。宵子は、聞く姿勢を取った。
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