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五章 ― 菫 ―

五章-6

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 鴆だ。

 餌に少しずつ毒を混ぜて、あれは作られた毒鳥。同じことを人間にしたならば。

「うっ、おえええっ……」

 とてつもなく、吐き気がした。ここ数日まともに食べていなかったから、吐けるものすらなかったけれど。

 逆だったのだ。鴆を作ったのは、毒小町のことを解明するためなどではない。そんなのはでたらめだ。人間で出来たのだから、鳥ですることなんて、簡単だったのだ。

 菫子の目の前にいる大叔母が、人の形をした化け物に見えてきた。おぞましいのはどちらの方か。

「お前の母も、そうやって作った。あれは成功作だった。毒は唇のみで、すぐに死にいたる猛毒。宮仕えをしながら、よく働いた。なのに、お前に同じことをさせたくないと、逃がそうとした」

 大叔母は忌々しげにそう言った。

 菫子は、息を呑んだ。母は、菫子のことを想って、高階から逃がそうとしてくれていた。母の記憶が少ない菫子にとって、母に想われていたと、知ることが出来て、こんな状況なのに、嬉しさが込み上げてきた。それは、大叔母の冷めた声でかき消されたけれど。

「だから、娘の毒で殺してやろうとしたのに、お前の毒は全身に弱く存在するものだった。母よりも強い毒人間を、と附子ぶしを飲ませたというのに。他にも色々な毒を混ぜたのがよくなかったのかね」

 附子、またの名を鳥兜とりかぶと。青紫色の美しい花を咲かせ、その形が烏帽子や兜に似ているため、こう呼ばれる。毒草の代表格で、花粉から根まで全てが毒である。

 鳥兜の花の蜜を含む蜂蜜を口にしただけで、中毒症状が出る。通常、嘔吐や手足の痺れ、痙攣など。成人であれば、葉一枚で死に至る。ただ、葉が蓬や二輪草などに似ていて、誤食が起こってしまうこともある。

 幼い頃、よく蜂蜜が食後に出されていて、喜んで食べていた覚えがある。それも、鳥兜の蜜が入ったものだったのだ。いや、出される食事の全てが、そうだったのだろう。菫子は、鳥籠に入れられた鴆と、大差ない。

「お前の父でさえも、お前を藤原家に戻すなどと言い出して、面倒だった。さすがに後ろ盾がなくなると、お前に何の使い道もなくなるからね、生かしておいたけれど。全く、夫婦揃って役立たずめ」

 そうだ。父は、亡くなった母にこう言ったのだった。「君だけに背負わせてごめん。僕が必ず」と。母が亡くなってから、父は高階家に全く来なくなったが、母を殺めた菫子に会いたくないからだと思っていた。それもあっただろうが、実際は大叔母たちに締め出されていたのだ。

「何ということを……! 常軌を逸している」

 俊元が、口を塞いでいた手拭いを振りほどいて、怒りを露わにして大叔母たちを非難した。怒りを含めた全ての感情が追い付かない菫子の代わりに、俊元が怒ってくれている。

 大叔父は、再び俊元に手拭いを噛ませようとしている。俊元は抵抗しているが、押さえつけられてしまう。大叔父は、低い声で菫子に語りかけてきた。

「この男も、母たちと同じにしたいか。毒小町の毒によって死んだ哀れな侍従とするか」
「なっ……」
「致死量以上の鳥兜の用意はある。刀でさっさとやってしまってもいいが」

 当たり前のことを話すように、そう言われた。脅されていることにすぐには気が付けないほど、普通に。

 菫子は、絶望を見た。大叔父の言うことが狂言でないことは分かる。母と侍女は、直接菫子の毒が原因で死んだわけではなかったが、結局は菫子のせいで死んでしまったのだ。菫子が、いたから。俊元まで、死なせたくない。菫子のせいで誰かが死ぬのは、見たくない。

「お願いします……。やめてください」
「では、この証文を書き写しなさい。そうすれば、あの男は助けてやってもいい」

 大叔母は、車の中に用意してあった簡易的な文机を押し付けてきた。机にある証文には、菫子が毒を使って帝の命を狙ったのだと自白する内容が書かれていた。命をもって償うという言葉で証文は結ばれていた。

 菫子は、まっさらな紙にそれを書き写していくために、筆を取った。これを書いて、菫子が死ねば、俊元は助かる。菫子の頭の中は、それだけだった。自分の手が別の生き物のように、筆を動かしていくのを見つめているような心地だ。

「藤小町!!」

 大叔父に抵抗し続けている俊元が、必死に叫んでいた。菫子の耳にもかろうじて聞こえたが、感情はそれに追い付かない。筆を動かす手は止まらなかった。

「藤小町! 俺は、手伝うと約束した。諦めるな!」

 刹那、菫子の前に光が一筋、差し込んだ。手を止めて、小窓を通じて俊元と目が合った。幸せになることを諦めるなと、死なないでくれと、そう言った俊元の声を、鮮明に思い出した。

 死にたくない。そう思う感情が追い付いた。

 もう一つ、ついこの間言われたばかりだったのに、忘れていた。頼れと言った二人の言葉を。きっとまた怒られてしまう。

 菫子は、大きく息を吸った。
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