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二章 ― 香 ―
二章-14
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藤壺を出ると、俊元が待っていた。顔を合わせるのは、着物を試着した時以来。あの話をしてからは初めてだ。
「紫苑から聞いて、迎えに来た」
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「迷惑ではない」
食い気味に俊元がそう言ったので、菫子は驚いた。なんとなく顔を見づらくて、下げていた目線をぱっと俊元に向けた。
「まあ、あんな態度の後じゃ、説得力ないか。でも、避けていたわけじゃないよ」
「避けて、遠ざけて、当然です。わたしのことなど」
「藤小町、少し聞いてくれるか」
渡殿を越えて、菫子と俊元は念誦堂には戻らず、少し離れた梅の木の元にやってきた。少しずつ梅が花を咲かせているところだった。曲水の宴に人が集まっているため、この辺りには人の姿は見られなかった。
俊元は、意を決したように話し出した。
「俺は、幼い頃に人を殺めかけたことがある」
「……!」
「外で、小弓で遊んでいたんだ。枝や岩を的にして、どちらが多く命中させることができるかってね。勝負をしていた相手が、足を滑らせて大怪我をした。俺の手元が狂って、その相手の方に飛んでしまった矢を、避けようとしてのことだった」
俊元は、当時のことを思い出しているのか、苦しそうに奥歯を噛み締めていた。菫子は、何も言わずに話の続きを待った。こういう話を、聞く側が急かすものではない。
「その時は、頭が真っ白になって、本当に焦った……。助かったけれど、無事と分かるまで、気が気ではなかった。怖かったし、罪悪感に潰されそうだった」
俊元が、菫子をまっすぐに見つめて固い声で言った。
「場を取り繕うための、作り話ではないよ」
「はい。疑ってなどおりません」
故意でなく人を傷付けてしまった時、最初に感じるのは、焦りだ。恐怖や罪悪感はその後にやってくる。菫子はそれを知っているので、俊元の話が嘘ではないと、分かっていた。
「その後亡くなってしまったのと、助かったのでは、状況が違うのは、分かっている。でも、藤小町は、優しくて、強いと思う」
「何をおっしゃっているのですか。わたしは三人も――」
「人を殺めてしまったことを肯定しているわけではない。その罪悪感から逃げずに、その身に背負ったことが、強いと思ったんだ。喪服は、常とは違うもので、重く苦しい空気を纏う。それを十年もの間、背負い続ける、それは、強い意志あってのものだ」
俊元の視線が、菫子の鎖骨あたりに注がれた。今は桜重ねの着物を着ているのだから、痕が見えるはずはないのに、見透かされているように思えて、ぐっと体を内に丸めた。
「優しく、強い、藤小町だから、幸せになりたいという望みを、手伝いたいと思った」
「えっ」
「あ」
「あの時、聞いて、いらっしゃったのですね……」
聞こえていないふうに振る舞っていたのに、しっかり聞こえていたらしい。菫子は、恥ずかしさで、顔が赤くなるのを感じた。こんな、不相応な望みを聞かれていたとは。
「いいのです。主上をお救い出来たら、わたしは――」
「死なないでくれ」
「……っ」
俊元は、躊躇なく菫子の手を取った。菫子の両手が俊元の両手の中にすっぽりと収まってしまっている。目を逸らそうとしても、俊元が菫子の目線に合わせて屈んでいるから、逃げられない。
「藤小町が儚くなってしまったら、俺が悲しい。俺の独善的な思いだけど、幸せになることを諦めないでくれ。俺に、手伝わせて欲しい」
「どう、して……」
自分が死んでも、悲しむ者なんていない。だから、許されて償って、死のうと思った。なのに。それを駄目だという人がいる。幸せになることを、諦めるなと言う。
死のうとするのは、誰かを、悲しませたいわけじゃない。
生きていたいと、口にして、許される……?
「橘侍従様、わたしは……」
「うん」
「幸せに、なりたいです」
そう口にした瞬間、菫子の視界がぐにゃりと歪んで、俊元の手に雫が跳ねた。手は俊元に包まれているから、ぼろぼろと流れる涙を拭うことが出来ず、流れるままに委ねた。
俊元は、菫子がようやく泣き止むと、さっき力強く、死ぬなと言った時とは打って変わって、歯切れ悪く呟くように言った。
「藤小町、その、桜重ねの着物、似合っているよ。……可愛い、と思う」
「ありがとう、ございます」
どうやら紫苑に何か言われたらしい。だが、菫子自身、一瞬言葉に詰まるくらいには、嬉しかったので、紫苑に感謝しなくては。
「紫苑から聞いて、迎えに来た」
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「迷惑ではない」
食い気味に俊元がそう言ったので、菫子は驚いた。なんとなく顔を見づらくて、下げていた目線をぱっと俊元に向けた。
「まあ、あんな態度の後じゃ、説得力ないか。でも、避けていたわけじゃないよ」
「避けて、遠ざけて、当然です。わたしのことなど」
「藤小町、少し聞いてくれるか」
渡殿を越えて、菫子と俊元は念誦堂には戻らず、少し離れた梅の木の元にやってきた。少しずつ梅が花を咲かせているところだった。曲水の宴に人が集まっているため、この辺りには人の姿は見られなかった。
俊元は、意を決したように話し出した。
「俺は、幼い頃に人を殺めかけたことがある」
「……!」
「外で、小弓で遊んでいたんだ。枝や岩を的にして、どちらが多く命中させることができるかってね。勝負をしていた相手が、足を滑らせて大怪我をした。俺の手元が狂って、その相手の方に飛んでしまった矢を、避けようとしてのことだった」
俊元は、当時のことを思い出しているのか、苦しそうに奥歯を噛み締めていた。菫子は、何も言わずに話の続きを待った。こういう話を、聞く側が急かすものではない。
「その時は、頭が真っ白になって、本当に焦った……。助かったけれど、無事と分かるまで、気が気ではなかった。怖かったし、罪悪感に潰されそうだった」
俊元が、菫子をまっすぐに見つめて固い声で言った。
「場を取り繕うための、作り話ではないよ」
「はい。疑ってなどおりません」
故意でなく人を傷付けてしまった時、最初に感じるのは、焦りだ。恐怖や罪悪感はその後にやってくる。菫子はそれを知っているので、俊元の話が嘘ではないと、分かっていた。
「その後亡くなってしまったのと、助かったのでは、状況が違うのは、分かっている。でも、藤小町は、優しくて、強いと思う」
「何をおっしゃっているのですか。わたしは三人も――」
「人を殺めてしまったことを肯定しているわけではない。その罪悪感から逃げずに、その身に背負ったことが、強いと思ったんだ。喪服は、常とは違うもので、重く苦しい空気を纏う。それを十年もの間、背負い続ける、それは、強い意志あってのものだ」
俊元の視線が、菫子の鎖骨あたりに注がれた。今は桜重ねの着物を着ているのだから、痕が見えるはずはないのに、見透かされているように思えて、ぐっと体を内に丸めた。
「優しく、強い、藤小町だから、幸せになりたいという望みを、手伝いたいと思った」
「えっ」
「あ」
「あの時、聞いて、いらっしゃったのですね……」
聞こえていないふうに振る舞っていたのに、しっかり聞こえていたらしい。菫子は、恥ずかしさで、顔が赤くなるのを感じた。こんな、不相応な望みを聞かれていたとは。
「いいのです。主上をお救い出来たら、わたしは――」
「死なないでくれ」
「……っ」
俊元は、躊躇なく菫子の手を取った。菫子の両手が俊元の両手の中にすっぽりと収まってしまっている。目を逸らそうとしても、俊元が菫子の目線に合わせて屈んでいるから、逃げられない。
「藤小町が儚くなってしまったら、俺が悲しい。俺の独善的な思いだけど、幸せになることを諦めないでくれ。俺に、手伝わせて欲しい」
「どう、して……」
自分が死んでも、悲しむ者なんていない。だから、許されて償って、死のうと思った。なのに。それを駄目だという人がいる。幸せになることを、諦めるなと言う。
死のうとするのは、誰かを、悲しませたいわけじゃない。
生きていたいと、口にして、許される……?
「橘侍従様、わたしは……」
「うん」
「幸せに、なりたいです」
そう口にした瞬間、菫子の視界がぐにゃりと歪んで、俊元の手に雫が跳ねた。手は俊元に包まれているから、ぼろぼろと流れる涙を拭うことが出来ず、流れるままに委ねた。
俊元は、菫子がようやく泣き止むと、さっき力強く、死ぬなと言った時とは打って変わって、歯切れ悪く呟くように言った。
「藤小町、その、桜重ねの着物、似合っているよ。……可愛い、と思う」
「ありがとう、ございます」
どうやら紫苑に何か言われたらしい。だが、菫子自身、一瞬言葉に詰まるくらいには、嬉しかったので、紫苑に感謝しなくては。
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