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二章 ― 香 ―
二章-9
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清涼殿に春の風が抜ける。俊元は、帝から書物の整理を頼まれていた。清涼殿には、帝と俊元の二人だけ。
「俊元」
「……」
「おーい、俊元」
「はっ、はい。いかがなさいましたか」
俊元が返事をすると、帝がじとーっとした目でこちらを見ていた。集中出来ていなかったことは、申し開きもない。
「申し訳ございません」
「尚薬のことを考えていたのであろう」
「そ、それは」
図星だった。帝に心を読まれてしまい、俊元は項垂れる。
藤小町の鎖骨に連なる焼印が、あまりにも痛々しくて、目に焼き付いて離れない。自分は人を殺めたと口にした後の表情が、自分を全て否定して苦しそうで、こちらが泣きそうになってしまった。それを堪えるだけで精一杯で、藤小町に何も言うことが出来なかった。情けない。
「俺は、無力ですね」
「よりよい世を作るのであろう。そんなことでどうする。おぬしの祖父の理想は、私とて賛同するものであるからのう」
俊元の祖父は、事あるごとに『幼子が泣き暮れることのない世にしたい』と言っていた。俊元と共に育った今上帝も、幼い頃からそれをよく耳にしていた。
ただ、橘氏は祖父の何代か前に臣下にくだった天皇家系、少し違えば帝になれたかもしれないと、祖父は残念がっていた。自分が世を変えたいという欲からその理想が来ていることを知っていた俊元は、初めは素直に頷けなかった。
俊元にとっては、帝位など遠いものであり、どうでもよかった。それよりも、幼い頃からこの帝についていくつもりでいた。
「いや、幼い頃おぬしは祖父に反発していたのう。それがいつからか、同じように理想を叶えんとするようになった」
「そうでございましたね」
「十年ほど前か、世を変えると動き出したのは。そう、桜衣の羽織をどこかでなくしてきた頃ではなかったか」
「……!」
帝の視線が、俊元を試すように刺さる。俊元は、ぐっと唾を呑んだ。
「おぬしが、それ以降に時々口にしていた幼子がいたな。名は知らぬから、近くにあった藤から、小藤
と称してしたか。あのような子が泣かぬ世にしたいと」
「よく覚えておいでで。感服いたします」
「誤魔化すでない。尚薬は、その小藤なのではないか。おぬしは、あの娘一人のために世を変えると申したのではないのか」
帝は、静かに問いただしている。帝に仕えていながら、その侍従という立場を使って一人の娘を引き抜いた。責められても仕方がない。俊元の帝への忠誠は変わらないつもりだ。
だが、したことを否定出来ない以上、弁解のしようがない。
あの日、父に連れられていった宴に飽きて、庭を歩いていたら、藤の咲く念誦堂を見つけ、足を踏み入れた。自分を否定しながら泣く幼子を見て、祖父の言葉を初めて理解した気分だった。
彼女を護るため、笑顔に過ごすことが出来るようにするため。それに生涯をかける価値があると、そう思った。
「何も、申し上げることはございません」
「それは肯定と取るが、よいな」
俊元は、膝を付き、帝に頭を垂れた。この御方に対して隠し通せると思っていたことが、間違いだった。
「うむ。では、この程度で弱音を吐くでない。一度やると決めたのなら、最後までやり通せ」
「は……、責めないのでございますか」
「別に私を裏切ったわけではなかろう。おぬしが誰かを想うことを、責めたりなどせぬ。中途半端に投げ出せば、それこそ責め立てるがな」
帝は、口端を上げてにやりと笑った。どうやら怒っている『ふり』をしていたらしい。からかわれていたと、一拍遅れて理解した。力が抜けて、その場に寝転がりたい気分だった。さすがに帝の御前でそうはしなかったが。
「仕事中に呆けておるから、少し灸を据えてやろうと思ったのだが、想像以上に効いてこちらが驚いたぞ」
帝は、くすくすと笑い声を堪え切れずにいる。俊元は内側からじわじわと上がってくる恥ずかしさを隠すため、もう一度頭を垂れた。
「面目次第もありません」
「うむ。先ほども言うたが、決して投げ出すな。毒の調査も完遂せよ。よいな」
「かしこまりました」
帝の言う通りだ。弱音を吐いて、投げ出している暇などない。藤小町を助け出すと、護ると決めて、始めたことなのだから。
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