30 / 74
二章 ― 香 ―
二章-6
しおりを挟む
「紫苑、驚かせてごめんなさい。気にしないで」
「でも、これは」
「橘侍従様も、紫苑が失礼いたしました。お気になさらないでください」
「……」
戸の向こう側から返事はない。醜いものを見せてしまったことは、申し訳なく思っている。三つの扇形の焼け爛れた傷は、今はもう塞がって痛みはないが、見て気分のいいものではない。紫苑にも悪いことをした。
「一人で着替えるわ。ごめんなさい、紫苑」
「ちょっと驚いただけ。あたしこそ、騒いでごめん。痛くない?」
「痛くないわ。大丈夫よ」
紫苑は、少し落ち込んでいる様子だったが、引き続き手伝ってくれるようだ。紅の単衣を着て、白の着物を重ねていく。
「……藤小町」
「はい」
戸の向こうから、控えめな声で俊元に呼びかけられた。
「その焼印は、高階の者にされたのか」
そう聞かれて、誤解されていることを理解した。俊元は優しい。だから、菫子にそれを聞くことも随分と躊躇ったことが、声音から分かる。
「いいえ、違います」
菫子は俊元に話すことを決めた、菫子がどういう人間なのか。こんな風に雅やかな着物を贈られていい人間ではないことを、楽しく日々を過ごしていい人間ではないことを。それを自分で再認識するためにも。
「この焼印は、自分で付けたものです」
「自分で!? 何故、そんな」
「香道具に、灰を整える灰押という物がございます。熱したそれを、自ら押し当てました。高階の大叔父上、大叔母上はご存じないと思います」
「何故!」
どんっと外側から戸を打つ音が聞こえた。戸が僅かに振動していて、俊元が拳を打ち付けた様子が想像出来た。顔が見えない状況で良かったと、菫子は思った。
「……わたしは、三人の人間を殺めています」
「!」
紫苑の手が一瞬止まったが、何も言わずに着付けを続ける。
「十年前、わたしが六歳の頃、母が亡くなったとお話ししましたが、母を死に至らしめたのは、わたしの毒です。大叔母上に本邸に呼ばれた時、母と侍女が誤ってわたしの髪に触れてしまったのです。その後、母と侍女は床に臥せって、亡くなりました」
菫子の髪に触れた母と侍女の手には、黒い花の痣があった。どんどん弱っていく二人の様子が、菫子の毒によるものだとまざまざと見せつけられた。なのに、母は、菫子に幸せになりなさい、と言ったのだ。
「母と侍女を弔うため、念誦堂に籠り、泣き暮れる日々でした。そんな時に、桜衣の君がやってきました」
「……!」
「桜衣の君は、わたしに触れてしまっていました。堂を出た後に亡くなったと思われます」
菫子は、五衣を重ねて、さらに紅梅の表着を着て、見えなくなった傷痕に着物の上から手を当てた。
「自分の毒で、三人の命を奪ってしまった。これは、せめてもの罰です。決して忘れないために」
紫苑から蘇芳の袿を手渡され、手を借りながらそれに腕を通す。最後に桜重ねの唐衣を羽織った。春をそのまま身に纏ったかのような、可憐な装い。菫子は自分には不釣り合いだと、感じて、ゆるく袖を振った。
ただ、見せないわけにもいかないから、紫苑に頼んで戸を開けてもらった。
「お待たせいたしました。足りないものはないように思います」
「そう、か」
俊元の表情は、なんと言葉をかけたらよいのか、戸惑っているのがありありと見えた。これまで普通の人と扱ってくれていたのが、ありがたいことなのだ。こんな、人を殺めた者にそんな価値はない。距離を取るのが当たり前だ。それでいい。
「では、失礼いたします」
菫子は念誦堂の戸を閉めて再び閉じ籠った。
「でも、これは」
「橘侍従様も、紫苑が失礼いたしました。お気になさらないでください」
「……」
戸の向こう側から返事はない。醜いものを見せてしまったことは、申し訳なく思っている。三つの扇形の焼け爛れた傷は、今はもう塞がって痛みはないが、見て気分のいいものではない。紫苑にも悪いことをした。
「一人で着替えるわ。ごめんなさい、紫苑」
「ちょっと驚いただけ。あたしこそ、騒いでごめん。痛くない?」
「痛くないわ。大丈夫よ」
紫苑は、少し落ち込んでいる様子だったが、引き続き手伝ってくれるようだ。紅の単衣を着て、白の着物を重ねていく。
「……藤小町」
「はい」
戸の向こうから、控えめな声で俊元に呼びかけられた。
「その焼印は、高階の者にされたのか」
そう聞かれて、誤解されていることを理解した。俊元は優しい。だから、菫子にそれを聞くことも随分と躊躇ったことが、声音から分かる。
「いいえ、違います」
菫子は俊元に話すことを決めた、菫子がどういう人間なのか。こんな風に雅やかな着物を贈られていい人間ではないことを、楽しく日々を過ごしていい人間ではないことを。それを自分で再認識するためにも。
「この焼印は、自分で付けたものです」
「自分で!? 何故、そんな」
「香道具に、灰を整える灰押という物がございます。熱したそれを、自ら押し当てました。高階の大叔父上、大叔母上はご存じないと思います」
「何故!」
どんっと外側から戸を打つ音が聞こえた。戸が僅かに振動していて、俊元が拳を打ち付けた様子が想像出来た。顔が見えない状況で良かったと、菫子は思った。
「……わたしは、三人の人間を殺めています」
「!」
紫苑の手が一瞬止まったが、何も言わずに着付けを続ける。
「十年前、わたしが六歳の頃、母が亡くなったとお話ししましたが、母を死に至らしめたのは、わたしの毒です。大叔母上に本邸に呼ばれた時、母と侍女が誤ってわたしの髪に触れてしまったのです。その後、母と侍女は床に臥せって、亡くなりました」
菫子の髪に触れた母と侍女の手には、黒い花の痣があった。どんどん弱っていく二人の様子が、菫子の毒によるものだとまざまざと見せつけられた。なのに、母は、菫子に幸せになりなさい、と言ったのだ。
「母と侍女を弔うため、念誦堂に籠り、泣き暮れる日々でした。そんな時に、桜衣の君がやってきました」
「……!」
「桜衣の君は、わたしに触れてしまっていました。堂を出た後に亡くなったと思われます」
菫子は、五衣を重ねて、さらに紅梅の表着を着て、見えなくなった傷痕に着物の上から手を当てた。
「自分の毒で、三人の命を奪ってしまった。これは、せめてもの罰です。決して忘れないために」
紫苑から蘇芳の袿を手渡され、手を借りながらそれに腕を通す。最後に桜重ねの唐衣を羽織った。春をそのまま身に纏ったかのような、可憐な装い。菫子は自分には不釣り合いだと、感じて、ゆるく袖を振った。
ただ、見せないわけにもいかないから、紫苑に頼んで戸を開けてもらった。
「お待たせいたしました。足りないものはないように思います」
「そう、か」
俊元の表情は、なんと言葉をかけたらよいのか、戸惑っているのがありありと見えた。これまで普通の人と扱ってくれていたのが、ありがたいことなのだ。こんな、人を殺めた者にそんな価値はない。距離を取るのが当たり前だ。それでいい。
「では、失礼いたします」
菫子は念誦堂の戸を閉めて再び閉じ籠った。
1
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち
鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。
心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。
悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。
辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。
それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。
社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ!
食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて……
神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
なり代わり貴妃は皇弟の溺愛から逃げられません
めがねあざらし
BL
貴妃・蘇璃月が後宮から忽然と姿を消した。
家門の名誉を守るため、璃月の双子の弟・煌星は、彼女の身代わりとして後宮へ送り込まれる。
しかし、偽りの貴妃として過ごすにはあまりにも危険が多すぎた。
調香師としての鋭い嗅覚を武器に、後宮に渦巻く陰謀を暴き、皇帝・景耀を狙う者を探り出せ――。
だが、皇帝の影に潜む男・景翊の真意は未だ知れず。
煌星は龍の寝所で生き延びることができるのか、それとも――!?
///////////////////////////////
※以前に掲載していた「成り代わり貴妃は龍を守る香」を加筆修正したものです。
///////////////////////////////
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
姫騎士様と二人旅、何も起きないはずもなく……
踊りまんぼう
ファンタジー
主人公であるセイは異世界転生者であるが、地味な生活を送っていた。 そんな中、昔パーティを組んだことのある仲間に誘われてとある依頼に参加したのだが……。 *表題の二人旅は第09話からです
(カクヨム、小説家になろうでも公開中です)
炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~
悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。
強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。
お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。
表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。
第6回キャラ文芸大賞応募作品です。
『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる